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三章 贋作者騒動
27:新年と、一歩
しおりを挟む新年を迎えたバラリオス城は、いつにも増して賑やかだ。城内全体の空気が浮ついているというのもあるが、ここ数日は外部の人間の出入りが多い。早朝から近隣の貴族や有力な商人たちが入れ代わり立ち代わり現れ、オリオン=ホワイトディアに謁見し、新年の挨拶をしていた。
アメリアは婚約者として数人の貴族と会ったが、初対面の相手との畏まったやり取りは精神的に負担が大きく、早々にギブアップしてしまった。静かな場所を探して辿り着いたのは、ガラス張りの温室だ。この場所は暖かいため、戸外で描く時ほど厚着をしなくていい。持ち込んだキャンバスを立て、温室の花々を描いていく。
赤、黄、薄紅、緑……さまざまな色の絵の具を使う。これほど鮮やかな色を使うのは久し振りのことだ。目に映る景色の表情や輝きを、キャンバスの上に乗せていく。葉の緑ひとつ取っても千差万別だ。
着膨れていない分、筆をスムーズに動かすことができる。意識は深い場所へと潜っていき――
――キャンバスの上には美しい温室が生まれた。活き活きと咲き乱れる花と、生命力に溢れた緑。見る者が思わず感嘆の息を漏らす出来栄えだ。実際、いつの間にか彼女の後ろに来ていたオリオンが「ほう」と、声を漏らした。
「眩しいな」
「オリオン様……?」
一歩下がれば背中が彼に当たる。身体を反転させようとすれば、そのままとでも言うように大きな手が肩に添えられた。アメリアは首だけで振り返る。オリオンは肩越しにキャンバスを覗いていて、思ったよりも顔の距離が近かった。
「いついらしたのですか?」
「少し前だ」
「謁見はもう?」
「うむ、今日はもう仕舞いだ。時間を区切っておるからのう。そうでなければ、一日中終わらぬ」
「お疲れさまでした」
「そなたも、今日は無理をさせたようですまなかった。明日以降来る連中の相手はせずともよい」
「いえ……むしろ、まともな対応もできず、オリオン様にご迷惑をおかけしまったのでは、と……」
貴族としてのマナーは最低限しか分からない。それも教師に習ったのではなく、本を読んで身につけた知識によるもので、オリオンをはじめとする由緒正しい家の貴族にしてみれば、さぞお粗末なものだろう。
先日出会ったミモザ=ホワイトディアを思い出す。天真爛漫で明るく、いささか淑女らしからぬ行動を取っていたが、それでも動きの端々には気品を感じた。幼い頃からの教育の賜物だ。根幹にしっかりした礼儀作法があるからこそ、少し常識から外れた行動を取っても下品には見えないのかもしれない。
「気にせずとも構わぬ。アメリア嬢が何をしたとて、無礼だのなんだのと言える人間は、この地にそうはいない。私の婚約者として披露目をした今、そなたは礼を尽くされる立場であって、礼を尽くすべき立場ではないのだ」
「……はい……」
「ただ……そなた自身が気になると言うのならば、私のほうで家庭教師の手配はできる。歳の近い令嬢でも、歳の離れた夫人でも、そなたが望む条件で声をかけることは可能だ」
「家庭教師、ですか……」
礼儀作法も、教養も、身につけたほうがいいのは間違いない。アメリアのこれまでの最低限というラインは、取り留めもない男爵家の令嬢としてのものだ。先代辺境伯の婚約者――いずれは妻となる身には、最低限にも達していないだろう。
(わたしは、変わらなければいけないのかしら)
オリオンは、アメリアの負担になることをさせようとはしない。絵を描く環境を与えてくれて、絵を描くことしかしなくても生きていけるように、道筋を立ててくれている。アメリア自身の存在も、彼女の描く絵も認めてくれて、煩わしいことの全てから遠ざけてくれた。
大きな恩だ。
その恩に報いる方法をずっと考えている。そのために自分を変えなければいけないのなら、あちらの世界に、足を踏み出す時がきているのかもしれない。
「穏やかな、方がいいです」
「わかった。手紙を出しておこう」
自分で言っておきながら、声は微かに震えていた。妙に喉が渇いている。そこでようやく、アメリアは自分が緊張していることに気付いた。
(変わろうと……たった一歩、たった一歩踏み出しただけなのに、こんなにも不安になるなんて……)
彼女の――アメリア=ローズハートの世界は安全だ。そうなるように、幼い頃の彼女が作り上げた。人間は誰もいない。その世界にいさえすれば傷付かない。絵を描いてさえいえば、空腹も乾きも覚えなかった。自分の全てを懸けられるものがある、こちらの世界は美しい。人間が跋扈する、あちらの世界は、酷く醜悪だ。
そんな世界への、一歩。
つくづく実感した。
(わたし、生きる才能がないのね)
アメリアは苦々しい気持ちを飲み込んだ。こんな風に考えていることを、自分を大切にしてくれている人に知られたくなかった。
「アメリア嬢」
「……はい」
「少し喉が渇いてしまった。ティータイムに付き合ってはもらえぬか?」
「わたしで良ければ、ご一緒させてください」
もしかすると、知られたくないことは、とっくに知られているのかもしれない。肩に触れていた大きな手は、アメリアの震えも、緊張も、すべて察してしまったのだろう。しかし彼は、それを口にしたりしない。自分が飲みたいからと言って、お茶に誘ってくれるのだ。
今のアメリアには、その優しさを受け入れることしかできない。何も返せるものがないのだ。
一歩を踏み出した。このまま進んでみれば、いつか、何かを返せる日がくるのだろうか。オリオンが手ずから紅茶を淹れてくれるのを、アメリアは静かに眺めていた――。
それから数日が経った――。
相変わらずバラリオス城の人の出入りは多いままだ。オリオンは来客の対応に忙しい時もあれば、相棒のクィーンに乗って、空を駆けている時もある。アメリアは家庭教師が手配される前に、好きなだけ絵を描いておこうと、休憩を挟みつつも、朝から晩まで筆を握っていた。
その日の夜、アメリアはハンマーを持って食卓の前に立つ。広いテーブルの上には中身の入った麻の袋が置かれていた。椅子に座ったオリオンは緩く細めた目でアメリアを見守りながら、ワインのグラスに口をつけている。
「本当に、やるのですか?」
「ああ。ガツンとやればよい」
「がつん……わかりました」
アメリアは意を決すると、ハンマを振り上げて……麻の袋を叩いた。ごしゃ、という音と共に、中身が砕ける感触が手に伝わってくる。彼女がおそるおそるオリオンを見れば、彼はフッと笑って「もう一度だ」と言った。
「もう一度……」
再び、ハンマーを振り上げて、降ろす。ごしゃ、と中身が砕ける音がして、アメリアはハンマーをテーブルに置いた。そして袋の口を縛っていた紐をほどき、広げて中を見る。
「なんて無残な……」
「仕方あるまい。ジンジャークッキーの家は年明けに砕くものだ」
「料理長の力作だったのではありませんか?」
もともとはバラリオス城を小さくしたかのような、精巧な造りのジンジャークッキーだった。それが今では完全に崩壊し、食べ頃の大きさになっている。アメリアは自分の分とオリオンの分を皿に取り分けて、残りのジンジャークッキーは、見えないように袋の口を縛り直した。
オリオンの分の皿を差し出せば、彼は「ありがとう」と言い、クッキーを指でつまむ。
「これはバルコニーの手摺りだな」
「細かいところまでよくできています」
「料理長は優秀な男だ」
アメリアも自分の席に座り、ジンジャークッキーを口に運んだ。見た目だけでなく味もこだわっているらしく、食後でも胃が受け付けてくれる。甘めのミルクティーとよく合う風味だった。
「ジンジャークッキーが絶品だったと、あやつには言うておこう」
「はい」
「夕食に出ていたポテトサラダ。あれも美味かった」
「ポテトサラダ……刻んだリンゴが入っていました」
「うむ、サワークリームやレモンの果汁、ケルマヴィーリが入っているゆえ、あっさりと食べられるサラダだ。そなたの食も進んでいるようであった」
ケルマヴィーリはヨーグルトに似た乳製品だ。脂濃かったり、味が濃かったりと、胃の負担になるような重い料理が苦手なアメリアのために、あっさりしたサラダに仕上がるよう、料理長が工夫してくれたのだろう。そのおかげもあってか、食後の紅茶とジンジャークッキーを食べることができている。
ホワイトディア辺境領に来て三か月以上が経ち、食事量は順調に増えていた。細い枝のようだった腕や足に肉がついている自覚がある。それでもまだ細いようで、オリオンやリサたちは、彼女にいろんなものを食べさせようとした。リサは、貴族の令嬢が教会に預けられた孤児たちのように痩せていることが衝撃らしく、せっせとアメリアを太らせようとしている。しかもその計画が本人はバレていないと思っているのだから、かわいいところだ。
ゆったりとジンジャークッキーとミルクティーを味わいながら、冬の長い夜は更けていく――。
それからも、バラリオス城の新年の慌ただしさはしばらく続いたが、アメリアはのんびりとした、いつも通りの日常を送っていた。家庭教師はもう少し城内が落ちついてから来てくれるらしい。オリオンは話をしてすぐ、手紙を書いてくれた。十年前に夫を亡くした子爵夫人で、マナー講師として引く手あまたの人材とのこと。オリオンの人選なら間違いはないだろう。
アメリアの平穏な日常が崩れたのは、ある日の早朝のことだ。竜舎でクィーンの絵を描いていると、白の彼女が空を見上げた。アメリアもそちらを見るのと時を同じくして、力強い羽ばたきと共に、一匹の竜が地上に降りてくる。
その背中にいたのは――
(エリックさん?)
王都に行ったはずのエリック=ハルドだった。彼の姿を視界にとらえて、アメリアは首を傾げる。エリックはひとりだ。一緒にいるはずのラファエルの姿はない。
飛竜の背から飛び降りたエリックは、普段とは違い、身なりが乱れていた。そして、よほど急いでいたのだろう。アメリアに頭を下げながら「失礼します!」と珍しく大きな声を上げて、城内へ駆けていく。
(なんだろう?)
アメリアはますます首を傾げた。しかし彼の背中が見えなくなると、まあいいか、とばかりに白の女王へ向き直り、絵を描き出すのだった――。
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