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四章 英雄の花嫁

51:毒の女②:Sideアークトゥルス

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 温室の空気が冷たくなっていくような、不気味な感覚に襲われる。アークトゥルスは茂みに身を隠しながら不穏の影をひしひしと感じていた。

(あの女、何者だ?)

 叔父――北の地にとって重要な立場にあるオリオン=ホワイトディアの妻になる人物の家族だ。ローズハート男爵家の人間と、アメリアの産みの母の実家である子爵家の人間――ついでに両家と協力関係にある近隣の二家については、あらかじめ素行調査を行っている。

 その中でマーガレット=ローズハートは、特段注意すべき点はなかった。領地を持たない宮廷貴族の三女で、男爵家の後妻に入ってもおかしくない人物。レオル=ローズハート男爵との関係は、彼が妻帯者だった時からのもの――マーガレットの背後に利権を狙う怪しい影などなく、本人が犯罪に手を染めているでもなく、ただただ、その人間性に問題があるだけ、というものだった。

(何が『注意すべき点はなし』だ)

 アークトゥルスは内心で舌を打つ。

 じわじわと相手を蝕む毒を内包している女だ。正義を胸に抱いて真っ直ぐ正道を進み、大いなる愛に包まれて光の中を生きてきたテリーザとは相性が悪い。コツン、と女がテーブルを打つ度に、毒が撒き散らされていく。

「夫人は家族が大切なのですね」
「ええ。きっと恵まれているのでしょうね。一族同士で醜く争い、血を流す貴族が珍しくない中で、わたくしは胸を張って家族が大事だと言えるわ」
「私も家族が大切です。けれどあの子は、書類の上で義理の子となっただけで、私の家族ではありませんでした。ただそれだけのことなのです」
「情は微塵も湧かなかったの? 出会った時はまだ、アメリアは幼い少女だったのでしょう? 血を分けた娘と変わらない年頃の子へ、愛ではなくとも、庇護欲や責任感はなかったと言うの?」
「目の前にいたのがただの子供であったのなら、もしかすると庇護欲くらいは湧いたのかもしれません。けれどその子供がいることで、愛する我が子が不利益を被るのなら、綺麗事は言えませんわ」
「違うでしょう?」

 テリーザ=ホワイトディアがわずかに目を細めた。

「不利益を被るのではなく、利益を得られない、の間違いでしょう? もともと男爵家の後継者の座はアメリアのものだった。それが本来の在るべき形。不当に略奪したにも関わらず、そうしなければ不利益を被っていただなんて、まるで被害を受けたかのように語る……恥を知りなさい」

 男爵家の爵位はアメリアに奪われたのではない。もともとマーガレットやプリシアの手元にはなかったものだ。それを得られないことは被害なのではなく、当然のことなのに、さも、虐げる正当な理由のように述べるの目の前の女に、テリーザは不快感を露わにしていた。

 珍しい、と――アークトゥルスは妻を見つめる。テリーザが他人に対して敵愾心を表に出すことはめったにないからだ。それはこれまで彼女に敵がいない――テリーザを敵視できるほどの相手が存在していなかったから、でもある。

 学生時代、同じ学年に第三王女がいたが、翳りの見えていた王家の三番目の姫と、裕福な南の辺境領のテリーザとでは、圧倒的な力の差があった。それこそ、敵視することを許さないほどに――

「恥……私が何を恥じる必要があるのでしょう? 言ったはずですわ。私は我が子が何よりも大事なのだと。我が子のためならなんでもする。母親とはそういうものではありませんか? 夫人も、そうでしょう?」
「……わたくしが、我が子のためであれば、他の子供を排除するような女だと言っているの?」
「その問いの答えを出す方法はありますわよ」
「なんですって?」

 艶やかな唇が弧を描く。

「辺境伯様に愛妾を薦め、子を作らせてみればいいのです。そして、その子供を次代の領主にすると記した書面を製作なさってください」
「っ、何を……!」
「そうすれば自身の素直なお気持ちが見えてまいりますわ。その赤子を排除したい、我が子の立場を奪うのを阻止したいと思われるでしょう」

 コツン、とマーガレットの毒が撒かれる。その冷たい毒は血液を介して全身へと回り、心の臓を凍らせていく。

「夫人がその赤子を排除したいと思う理由は、正当な後継者ではないからだとか、そんな建て前のようなものではないはず。他人の子供より実子が可愛い。何よりも我が子が愛しい――愛ゆえに、でしょう?」

 毒を撒く女が語るのは、慈愛だ。我が子を慈しみ、何よりも大切にし、誰よりも愛しているのだと――美しい母親としての愛情。それゆえに義理の娘を排除し、なんら恥ずべき行為ではないと信念を口にしている。

 ある側面から見れば、マーガレットの信念は美しいものなのだろう。どんな愛よりも強いと云われることのある、母の愛――胸を張って語る、母である女性を前に、同じく母である女性は――妻は言葉を失っていた。

 テリーザも、それは決して比較するものではないとわかっているはずだ。だがそうなのだとしても、マーガレットが義理の娘を排する理由が、確固たる信念と母性なのだと聞かされ、言葉に詰まっていた。

 否定することは、なんでも犠牲にできる母親としての覚悟がないと暴露するかのようで、肯定することは、新たな家族となる女性――アメリアのこれまでの不遇を容認すること。どちらも選べない。それゆえの、わずかな沈黙――

 アークトゥルスは美麗な顔を歪めた。

 女同士の会話の応酬に男が横から口を挟み、庇うのは、基本的にご法度である。何故ならそれは、敗北を認めるのと同義だからだ。自分だけの力では解決できないから夫が、父が、婚約者が、異性の友人が、唐突に出てきた。その時点で戦いの権利は失われる。女同士の先頭から、身を引かなければならない。

 彼はそれをわかっていた。

 わかっていて――

「その辺にしとけ」

 テリーザとマーガレットのティーパーティーに乱入した。

 男爵夫人が撒き散らす毒に、妻を晒しておく理由はない。ひと目見た瞬間から人生を共にしたいと感じた相手だ。心に傷も毒も残すつもりはない。

(オジキ、わりぃな)

 大事な叔父だ。恩ある叔父だ。オリオンのためならば、大げさではなく、命だって懸けられる。だが――叔父の婚約者と愛する妻なら、アークトゥルスは後者を選ぶ。それは誰に告白することもできない選択で、尊敬する叔父の顔が脳裏をよぎる後悔を孕んでいた。

 アークトゥルスは妻の隣に立ち、マーガレット=ローズハートを見下ろす。突然の辺境伯の登場に目を丸くして驚いているようだったが、それは一瞬で、次の瞬間には笑みを張り付けていた。

「これはこれは、辺境伯様――」
「おい、それ以上オレの女に礼を欠いたマネすると容赦しねえぞ。オレァ、無礼講を約束しちゃいねえ」
「失礼いたしました。あまりにも夫人のお茶会が楽しくて、盛り上がりすぎてしまっていたようですわ」

 圧倒的な権力を持つアークトゥルスを前に、緊張した様子も怖がっている様子もない。これまでのテリーザとのやり取りを知られているとわかっているであろうに、マーガレットは平然とした様子だった。

 フン、とアークトゥルスは鼻を鳴らす。

「大したタマだぜ。いいだろう。計画書には目を通してやる」
「あなた!!」

 テリーザが咎めるように声を上げた。

 提出された計画書にはすでに目を通している。だがそれを知るのは、同じ執務室で仕事をするカイル=クラウチだけだ。妻のテリーザも、男爵夫人のマーガレットも、アークトゥルスが捨て置いていると考えているだろう。

 こんな言葉ひとつで退くなら、容易い。

「だが、よく覚えとけ。テメェがオレたちホワイトディアに何かを求めることができるのは、テメェが家族でないと排除した、あの子のおかげだってことをな」
「ええ。もちろん心得ております」

 思ってもいないことを、笑顔で言ってのけるのだから、肝が据わっている。やはりもう一度、マーガレット=ローズハートについて素行調査をすべきだろう。特に影響力があるわけでもない宮廷貴族の三女で、小さな男爵家の後妻――そのくくりで片付けていい人間ではないと、アークトゥルスの中で警鐘が鳴っていた。

「あとなぁ――テメェらが家族でないってんなら、これからはオレたちがあの子の家族だ。紙の上でだけのことじゃねえぞ。今後、ほんのわずかでも害そうとしたり、ほんのひと言でも貶める言葉を吐いたりしやがったら……ただじゃおかねえ」
「はい。そうでしょうとも。平民、貴族の身分に関わらず、嫁入りとはそういうことですから」
「――いけ好かねえ女だぜ。オラ、茶会は終わりだ。さっさと行け」
「では、御前を失礼いたします」

 マーガレットが席を立ち、カーテシーをして立ち去ろうとする――だが、ふと彼女は足を止めて振り返った。

「僭越ながら――名目上とはいえ、家族だった私からひとつ忠告を」
「ああ?」
「事実、後妻となった私は、あの子と関係を築こうとはいたしませんでした。しかし血の繋がった実の父親すらあの子と親子としての情を育むことをせず、まるで空気のように接しておりました」
「男爵の責任だとでも言いたいのか? だからオレらがテメェに話をするのは見当違いだとでも?」
「いいえ、そのようなことはございません」

 ふふ、と男爵夫人が軽い調子で笑う。

「ただ、関係を築くことを放棄していたのが、私たちだけでなかったことを頭の片隅に入れておいていただきたいのです。関係構築の放棄を助長させていたのは、あの子の性質が要因のひとつです」
「何を言っているの? ある程度の年齢を重ねているならまだしも、片手で数えられる年頃の子供に歩み寄りを求めるものではないわ。家族としての土台を作るのも、そこに関係を構築していくのも、大人の責任よ」
「普通であればそうなのかもしれません。ですが、そうでないからこそ、私は忠告だと申したのです。あの子は――家族になることなんで望んではいませんでした。人間関係だなんて、そんなもの、あの子は求めておりませんよ」

 そう言うと、マーガレット=ローズハートは再び優雅に腰を折り、今度こそその場から立ち去って行った。鳥籠の形を模したガゼボに残った辺境伯夫妻は、険しい表情のまま、男爵夫人の背中が見えなくなるのを待つ。

(最後の最後まで毒を撒き散らして行きやがった)

 アークトゥルスは内心で忌々しく思う気持ちを吐き出すと、ピクリとも動かない妻の肩に手を置いた。やっと成人を迎えた年齢の頃から、南部とはまったく勝手の違う北部へ移り住んでくれた、唯一の伴侶だ。

 辺境伯の後継者の妻として、のちに辺境伯の妻として、隣に立ってくれている。天真爛漫で明るく、慈愛に溢れた彼女の心に、影が落ちていないことを切に祈った。浸潤した毒があるのなら、消し去ってしまいたい。

(――消すか)

 彼の頭の中にそんな考えがよぎった時――肩に置いていた手に、テリーザの白く柔らかな手が重ねられた。いつもは温かい手が冷たくなっている。原因がわかるからこそ、アークトゥルスの怒りの矛先は、ここにはいない男爵夫人へ向く。

「ダメよ」

 苛立つアークトゥルスの耳に、世界で一番耳心地のいい声が届いた。手が冷たくなるほど感情が揺さぶられているはずなのに、テリーザの声は凛としている。

「物騒な真似はしないでちょうだい」
「けどよ――」
「オリオン様とアメリア様の関係に、ひずみを生むようなことになりかねないわ」
「そんなもん生まれねえだろ。あの女の言葉を借りるってんじゃねえが、家族としての関係はまったくできてないんだ。男爵家がどうなろうと、あの子は気にしない。本人がそうならオジキだってなんとも思わねえさ」
「アークトゥルス、わからないの?」

 テリーザを見れば、彼女はアークトゥルスを真っ直ぐに見つめていた。咎める言葉に反して表情に苛立ちも怒りもない。彼を映す碧の瞳に浮かんでいた感情は……悲哀だった。

「実父や義母、異母妹がどうなろうとかまわない。なんとも思わない人たちだから、どうでもいいんだ、って――そう口にするのも、そう思うこと自体も、とても悲しいことなのよ」

 ああ、と――アークトゥルスは安堵する。敵対した女に毒を撒かれ、その毒に侵されてもなお、テリーザの優しさは翳りを見せていない。なんと言われようとも、ホワイトディアに名を連ねることになる女性への愛が減ることはなく、他者を慈しむ心に毒が浸潤してはいなかった。

 アークトゥルスは膝をついて、椅子に座るテリーザを抱き締める。ささくれだっていた気持ちが落ちつく、甘い香りがした。それは温室の花の匂いでも、テーブルの上の菓子の匂いでもない。

 何よりも心安らぐ香りに包まれながら、アークトゥルスは聞こえるか聞こえないかの小さな声で「ああ、そうだな、悲しいな」とこぼし、愛しい家族の身体をきつく抱きしめたのだった――。



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