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四章 英雄の花嫁
54:ムンッキ:Sideオリオン
しおりを挟むメルクロニアの黄金城を見ることができるのは、朝陽が昇る間の、ほんのわずかな時間だけだ。アメリアはその奇跡のような時間を無駄にしないため、その瞬間は全身全霊を懸けて、眼下の黄金城に臨んでいる。
そんな彼女の様子を後ろから見守るのが、オリオンの日課となっていた。彼にはわからないが、日によって光の具合や反射が違うらしい。おそらく空気の湿り気や前後の天気によって変わるのだろう、ということは察することができる。けれど彼の深紅の目は、そのささやかな違いを映してはくれなかった。
アメリアが筆を動かす間、オリオンは朝食の支度をする――といっても、彼が一から作るわけではない。古い付き合いの料理人が用意してくれた食事を、焚き火で温める程度だ。
若い時分、戦場を駆け回っていた頃からの付き合いのため、その料理人は『先代辺境伯』や『英雄』の肩書きを前にしても遠慮がない。自身の料理へのこだわりを、オリオンは懇切丁寧に説明された。温める時の火加減や時間はもちろん、皿への盛り付け方まで、事細かに指示されている。
今日の朝食はニンジンを漉したスープとムンッキだ。
ニンジンのスープは温めるだけでいいが、問題はムンッキのほうだった。最初の頃は料理人も気を遣って、サンドイッチなど、そのまま食べられるものを持たせてくれていた。しかしだんだん工程が増えてきている。そして、ついに今日、小鍋と油を持たされた。
「やれやれ……」
溜め息混じりに呟きながら、オリオンは持たされた食材とレシピに目を通す。
ムンッキはホワイトディア領で春によく食べる、油で揚げたボール型のドーナッツのことだ。牛乳、砂糖、粗挽きのカルダモン、塩、卵などをよく混ぜておき、そこへ小麦粉を入れてさらに混ぜ合わせる。生地がまとまってきたらバターを加え、今度は手でしっかり捏ねていく。
そうしてまとめた生地が二倍ほどの大きさに膨らむまで発酵させたら、台にくっつかないように打ち粉をして、棒状に伸ばし等間隔で切り分ける。切り分けた生地を丸め、再び時間を置いて休ませる――と、オリオンが料理人に持たされたのは、そこまでの工程が終了した生地だった。
小鍋に油を注ぎ、火にかけて温度を上げていく。温度の目安はきつく言いつけられていた。油が揺れはじめるのは百度前後、菜箸を入れて小さな泡が上がりはじめるのが百五十度前後の低温、そして今回の温度は中温の百七十度から百八十度。菜箸を入れた時、全体から少し大きめの泡が絶え間なく上がるくらい、だそうだ。
(このくらいか)
丸形の生地を投入する。料理人は『油の温度が高ければぁ、中心に火が入りませんしぃ、低ければぁ、油っぽい仕上がりになってしまいますぅ。決して、決して! ハイハイをはじめたばかりの子供くらいぃ、目を離さないでくださいねぇ?』と、言っていた。
じっと小鍋を見つめながらも、意識はアメリアへと向ける。もうしばらくはこちらへは戻ってこないだろう。纏っている空気が違う。普段言葉を交わす彼女と、芸術の神の掌中にいるかのごとき彼女。ひとりの人間を、別の位置から見た違いで、ただの側面と言うには余りある違いだ。
少し離れた場所で、地面に伏せていた白竜のクィーンが頭を上げた。
「ん?」
見えてはいないが、音が聞こえる。クィーンが動いた音に次いで、翼が風を切る羽音だ。鳥ではない。もっと大きい。オリオンが聞き慣れたソレは、竜の翼が悠々と風を切る音だ――
背後の森を掻き分けるかのような羽音は、やがてオリオンたちの傍で止まった。人の足音が近付いて来る。
「御先代――」
「うむ、しばし待たれよ。目を離すと焦げてしまう」
「……それは?」
「ムンッキだ。もうすぐ揚がる。ひとつ持ってお行きなさい」
「はい。ありがとうございます」
泡立つ油の中で、ムンッキの表面が美味しそうな茶色に変わっていた。小鍋を火から下ろし、香ばしい匂いのムンッキを油を切りながら皿へ移していく。焚き火の傍から立ち上がり、くれぐれも熱い内に、と念押しされていた砂糖を表面にまんべんなくまぶし、別の皿に盛りつけて切り株に置いた。
上出来だろう。オリオンはひと息くと――正面で姿勢よく立ったままでいた青年へと顔を向けた。
背が高く、均整の取れた体躯の青年は、短い黒髪と相まって、精悍な騎士然りとした風貌をしている。王家の特徴である黒髪と明るい琥珀色の目を持つ彼こそ、現国王の四番目の子――名をデンホルムという。
「久しいのう、デンホルム殿」
「ご無沙汰しております」
「何故ここへ?」
「煙とクィーンの姿が見えたもので」
「そうか。だが到着は昼前聞いていたぞ。随分と急いで来たようだな」
「申しわけありません」
「しかも護衛もなく単騎とは。何とぞあったのか?」
オリオンが尋ねると、デンホルムは目を泳がせた。
大人びた顔つきで、表情の変化が乏しいことから、第四王子は年齢よりも上に見られることが多い。婚約者のミモザが天真爛漫で明るい少女であるため、ふたりが並ぶと余計に、同じ十六歳には見えなかった。
そんな若者が目を泳がせている。口数が少なく、表情から感情を読み取りにくいデンホルムが、わかりやすく動揺していた。珍しいことがあるものだ。オリオンは内心意外に思った。
「本当は夜明けと共に発つ予定でした」
「予定が変わった理由は?」
「ベティが早く飛びたそうにしていたので」
ベティはデンホルムの相棒の飛竜だ。
王家に男児が生まれた時、ホワイトディア辺境伯家からは飛竜の雛を贈るのが習わしとなっている。贈るのは王族の色を持つ黒い鱗の竜と決まっており、十六年前、デンホルムにもベティが贈られた。名付けたのは当時、辺境伯だったオリオンである。彼にとって辺境伯として王家への最後の贈り物だった。
黒竜のベティは少し離れた場所にいる。どうやら彼女はクィーンが苦手なようで、いつもあまり近付いて来ない。
「鱗の艶がいい。ベティも健やかそうだな」
「はい。今日は長い距離を飛べたので機嫌もいいです」
「王都では気軽に飛べぬからのう」
「学園が休みの日は郊外へ出るようにしています」
「そうか。王家へ贈った竜の中で、ベティはもっとも幸せな子のようだ」
「そうだといいのですが」
王族へ贈られた竜は、専門の知識を持った者に飼育される場合がほとんどだ。しかし竜に魅入られた第四王子は、幼少の頃から王家の竜舎へ通いつめていた。そして専門家たちの知識と力を借りながら自らベティの世話をし、成長した今では、北の辺境領の新米騎士と同程度には竜を扱うことができている。
竜と、竜騎士に憧れる青年は、婚約者との交流を名目によくホワイトディア辺境伯領へ足を運んだ。表情が乏しい若者がこの辺境領を好ましく思っているらしい、というのが、北の人間の共通認識だった。それこそミモザひと目惚れを発端に婚約話が持ち上がった時、デンホルムが是と即答したという話は有名だ。
つまるところ、北の誰もが愛してやまない姫が恋焦がれている相手――という理由を抜きにしても、オリオンはわりかしとデンホルムを気に入っていた。
「今後のためにも、もっと飛竜の知識を得たいと思っています」
「良い心掛けだ。何かわからぬことがあれば、遠慮なく手紙を書きなさい」
「ありがとうございます」
礼が言える。ただそれだけのことだが、爵位が上の貴族であったり、それこそ王族になると、感謝や謝罪など、その手の言葉はなかなか紡げないものだ。しかし第四王子にも関わらず、迷わずに謝辞を口にできる素直さと、教えを乞うのに躊躇がない勤勉さが、デンホルムにはあった。
――と、彼を見ていれば、感謝の言葉を口にしたあと、デンホルムは再び目を泳がせている。
「どうかしたのか?」
「あの、えっと……」
口ごもっている。珍しいことがあるものだ。淡々と喋るデンホルムが、言いよどむのはめったにない。急かすべきではないだろう。オリオンは言葉を待つ。
「……この時間に到着してしまったのは、ベティが飛びたそうにしていたから、という理由だけではなく――」
お、とオリオンの声が漏れた。
「私も早く、ミモザ殿にお会いしたくて――」
短い髪の隙間から見える耳は赤くなっている。表情こそ変わっていないが、心なしか目元も薄紅に染まっていた。デンホルムは大人びた顔つきの青年に見えるが、今オリオンの目の前にいるのは純朴な十六歳の少年だった。
甥の娘のひと目惚れから始まった婚約だが、これまでの時間の中で、一方通行の気持ちではなくなっているようだ。確かな愛情を育んでいるふたりの微笑ましさに、オリオンは口元を緩めた。
「若いのう」
「っ、ですが、やはり一度戻ろうかと思います」
「ん? 今から引き返すつもりか?」
「書置きは残しましたが、今頃、私の不在に気付き、皆慌てていることでしょう」
「であろうな」
「荷物もあります。飛行の道筋はあらかじめ決めているので、私が戻っても入れ違いにはならないはずです」
衝動のまま竜を飛ばしたが、目的地のメルクロニアに到着し、オリオンと会話している内に頭が冷えてきた……といったところだろう。
真面目な少年だ。残した護衛たちの立場を考えたのか、照れて赤くなっていた顔が元の色に戻っている。しかしそれ以外の動揺を見せまいとするところは、さすが王族と言うべきか。
「ミモザに会わずとも良いのか?」
「まだ眠っている時間でしょう」
「そなたがいると知れば飛び起きるであろう」
「……起こしてしまいたくはありません」
「そうか。ならばいたしかたない」
若干十六歳にして己の欲を律し、下の者のことを考える思慮分別も弁えている。今回のように思い立ったら動いてしまう青ささえ克服すれば、臣籍降下し公爵になったあと、過度な心配も干渉も不要だろう。
オリオンはまだ熱いムンッキをいくつかハンカチで包んでやると、デンホルムに渡した。王子はやはり「ありがたく頂戴します」と礼の言葉を口にする。
「道中で食べなさい」
「いい香りがします。美味しそうです」
「腹の足しにはなろう」
飛竜で空を駆ける時、高所の冷たい風で体温は奪われていく。携帯食は持っているだろうが、温かい食べ物を口に入れられるなら、そちらのほうがいい。デンホルムもそれをよくわかっているからか、心なしか嬉しそうだ。
「お気遣い感謝します。では、私はこれで。またあとでお会いしましょう」
「うむ。気をつけて戻りなさい」
はい、と頷いたデンホルムは、ベティの待つ場所へ行こうとし――ふと、足を止めてオリオンを見た。
「ん? どうかした?」
「ところで、そちらの女性が婚約者殿ですか?」
「ああ、そうだとも。のちほど紹介いたそう。今は――彼女は忙しい」
オリオンとデンホルムが目を向けた先では、アメリアが筆を動かし続けている。彼らの声はまったく耳に届いていないようで、こちらを振り返る素振りも、手を止める様子もない。
「そのようですね。あの女性はまるで――」
「まるで?」
「あ……いえ、なんでもありません。では、失礼します」
黒髪の王子が立ち去って行く。オリオンは彼の背中が見えなくなり、やがて黒い飛竜が空へ羽ばたくのを見送った。
(うむ、なかなか鋭い子だ)
音にはならなかったが、デンホルムが何を言ったのか、唇の動きを見ていたオリオンにはわかった。
『そのようですね。あの女性はまるで、ここにはいないかのようだ』
その時のデンホルムは、はっきりと姿が見えている人間を前にして、ここにはいないかのようだ、と核心を突いた言葉を紡ごうとしていた。以前アメリアには、真面目で朴訥な人物だと話したが、機微に敏いところもあるようだ。たった数年顔を合わせなくなっただけで印象が変わった。
「子供の成長は早いものだな」
オリオンはしみじみ呟くと、焚き火の傍へ腰を下ろす。そして王族の少年へ向けていた目とは、また違うぬくもりで満ちた目で、線の細い背を見つめる。彼女の空気が一瞬、揺れたのがわかった。そろそろ神の掌中に居るアメリアが、こちらの世界へ戻って来る頃だ。
オリオンはムンッキを揚げたのとは別の小鍋を用意すると、鮮やかな色合いのニンジンのスープを温めるのだった――。
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