★【完結】恋ほど切ない恋はない(作品241118)

菊池昭仁

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第10話

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 東京に戻ってからも祥子のことが頭から離れなかった。

 (祥子に会いたい、声が聴きたい)

 
 「部長、珍しいですね? 何か考え事ですか?」
 「今年も後二ヶ月で終わりなのかと思ってね? 一年は早いな?」
 「私は一日がとても長く感じます。まだ若いから」
 「歳を取ると時間が早くなるというだろう? あれはね、早くなるんじゃなくて記憶がなくるからだと思うんだ。  
 朝起きて朝食を食べて会社へ出勤する、昼飯を食べて午後の仕事をこなして会社を退勤して夕食を食べる。食べたという記憶しか覚えていない。そしていつの間にか何を食べたのかすら忘れてしまうようになる。定年退職になるとやるべき仕事がなくなり、一週間から火、水、木、金の記憶がなくなり、一週間が月、土、日の三日間だけに感じてしまう。だから人生はあっと言う間だというわけさ」
 「唐沢部長はそうはなりませんから大丈夫です、ボケたりなんかしませんから。でもイヤですよ、早く歳を取るなんて」

 そう言って笑う吉田恵が微笑ましかった。しかし歳を重ねることは悪いことばかりではない。歳を取るからこそ分かることもあり、経済的なゆとりも出てくる。物事に対する執着も薄らぎ、生きることに余裕が出てくるのだ。
 この娘の人生はこれから今の3倍、4倍の人生を歩むことになるだろう。結婚して出産、子供の成長と反比例するように自分の人生が次第に衰えてゆく。
 その時、吉田は思うはずだ。私の言った言葉の本当の意味が。



 私は敢えて自分から祥子に連絡をすることはしなかった。それは一種の「賭け」だった。
 もし本当に祥子が今の暮らしを捨て、私と今後も付き合いたいと思うのであれば、彼女の方からコンタクトをして来るはずだと思っていたからだ。仮に懐かしさゆえの火遊びだったのであれば、それはそれでいい思い出にすればいいだけの話である。
 

 一週間が過ぎ、私がバランタイン17年のウイスキーを飲みながら、サマセット・モームの『南太平洋』を読んでいると、突然スマホに着信があった。
 ディスプレイを見ると祥子からだった。私はすぐに電話に出た。

 「もしもし、祥子か?」
 「どうして電話してくれなかったのよー、ずっと待ってたんだからあ」
 「俺も君からの連絡をずっと待っていた。この賭けは俺の勝ちだな?」
 「賭けって何よ?」
 「祥子が本気で俺と付き合う気があるのなら、君の方から電話して来るだろし、もしあの時は酔った勢いでの単なる気まぐれだったとしたら、諦めようと思っていたんだ」
 「馬鹿な人。そんな軽い気持ちであなたに抱かれたわけじゃないわ」
 「それなら良かった。祥子の声が聴きたかった」
 「今、ひとり?」
 「ずっと一人だよ、言っただろう? 離婚したって」
 「男はズルいからわからないわよ。奥さんはいなくてもセフレはいるかもしれないじゃない?」
 「愛人がいれば電話にも出ないし君を口説いたりはしない。俺はそんなに器用な男じゃないからな」
 「お酒、飲んでるの?」
 「ああ、飲み始めたところだ」
 「それじゃあ私も飲もうかな? ちょっと待ってて、今、用意して来るから」

 スリッパの足音が遠ざかる音が聴こえ、冷蔵庫の開く音がした。
 どうやら缶の飲物を持って来たようだった。

 「お待たせ。缶チューハイを持ってきちゃった」

 プシュっとプルが開く音が聴こえた。

 「それじゃ乾杯」
 「乾杯」
 「あー、美味しいー。ずっと電話が来なかったから不安だったの。私から電話するのもなんだか物欲しげな女みたいでさあ、ちょっと抵抗があったから」
 「そうか? お互いに待っていたんだな? 電話を」
 「でも電話して良かった。だって電話しなかったら一生あなたと会えなかったかもしれないし」

 祥子がゴクリと缶チューハイを飲んだ気配がした。

 「たぶん明日には俺の方が耐えられなくなって君に電話していたかも知れないけどな?」
 「私も同じ。こうして電話しちゃったもん」
 「また会ってくれるか?」
 「もちろんよ。来週、そっちに行ってもいい? もちろんあなたの手料理付きのお泊りで」
 「それだけか?」
 「するわよ、大人のスキンシップも」
 「東京駅に迎えに行くから乗る新幹線が分かったら教えてくれ」
 「うんわかった。久しぶりだなあ、東京」
 「案内するよ、どこに行きたい?」
 「上野がいいかな?」
 「上野?」
 「そう、西洋美術館とかアメ横とか」
 「いいよ、案内してやるよ」
 「ありがとう、楽しみにしているね?」


 それから私たちはどうでもいい話を一時間ほどした。長電話をしたのは妻と結婚する前以来だった。
 時計はすでに午前零時を回っていた。

 「それじゃあそろそろ寝るか? 今度は俺から電話してもいいか?」 
 
 少し返答に間があった。

 「また私の方から連絡するわ、夜はお店に出てることが多いから」
 「夜の8時以降なら家に帰っているから何時でもいいよ」
 「わかった、それじゃまたね? おやすみなさい、清彦さん」
 「おやすみ祥子」

 電話を切った後、私は現実に引き戻された気がした。祥子には男がいることを忘れていた。
 私は新たにウイスキーをグラスに注いだ。


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