★【完結】雨の夜 君とノクターンを(作品230319b)

菊池昭仁

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最終話 銀の架け橋

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 私の一番好きだったショパンの『ノクターン 第1番 変ロ短調』
 悲しみに傷ついた心に突き刺さる、高音域の鍵盤の音に涙が溢れた。

 「くらら・・・」

 私はくららを愛し過ぎた。



 律子とホテルのスカイレストランで食事をした。
 律子はいつもよりドレスアップをし、優雅に食事とワインを楽しんでいた。

 「ずっと憧れだったんです。課長を下の名前で呼ぶの」
 「・・・」

 大きなガラスウォールには、銀河宇宙のような明かりがパノラマに広がっていた。
 ガラスに映る私と律子。
 律子は私のグラスにワインを注いでくれた。
 
 「私、入社してからずっと輝明さんが好きでした。
 会社に来るのが楽しくて、うれしくて。
 あなたに会える、あなたと一緒に働ける、それだけで私はしあわせでした。
 だってあなたには奥さんがいたから。
 私には不倫する勇気はありませんでした。
 奥様に悪い気がして。
 同じ立場だったら絶対に嫌だろうと思うから。
 奥様がお亡くなりになって、輝明さんも会社を辞めてしまった時は絶望しました。
 でも、諦め切れなかったんです、私。
 そして輝明さんが会社に復帰すると聞いた時、私は天にも昇るような気持ちでした。
 私の輝明さんへの想いは恋を越え、愛に進化したんです。
 私は奥様を亡くされたあなたを癒してあげたい・・・」

 律子の手が止まり、彼女はナプキンで涙を拭った。


 「ありがとう、そこまで私を思ってくれて。
 君は魅力的な女性だ、男なら誰もが君と付き合うことを望むだろう。
 でもね、私にとって妻は特別な存在なんだ。
 妻が死んだ時から僕も死んだんだ。
 僕はもう、誰も愛することが出来ない。
 自信がないんだ、人をしあわせにする自信が。
 人は誰もが死を迎える、頭では理解している。
 ここで食事をしている人たちも、このメガロポリスの灯りの中で生きている人すべてが死ぬということも。
 そしてもし、今度は律子が僕より先に死んだらと思うと、僕は二度と立ち上ることは出来ない。
 僕は律子を笑顔にする自信がないんだ」

 すると律子は言った。

 「笑顔は人にしてもらうものではないわ。自分でなるものよ。
 楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しくなるの。
 だから輝明さんにはそれを求めはしない、私が輝明さんを笑顔にしてあげる。
 だからお願い、これからもずっと私と一緒にいて欲しいの」



 私は無意識のまま、茫然とホテルの部屋にいた。
 ソファで私に寄り添う律子。
 雨が降って来た。

 目の前にくららが立っていた。
 だが律子にはくららの姿は見えないし、声も聞こえない。


 「いいのよあなた、この子は本気であなたを愛してくれているわ。
 彼女ならあなたをしあわせにしてくれると思う。
 私があなたにしてあげられなかった分まで。
 だからお願い、彼女の愛を受け止めてあげて」

 私はくららを見詰め、泣いた。

 「それじゃああなた、天国で待っているわね?
 焦らないでゆっくり来てね?」


 私はくららを抱くように、律子を強く抱き締めた。

 「輝明さん・・・」

 律子の香水はくららと同じ、シャネルのアリュールだった。

 その夜、私は何もせず、律子と朝を迎えた。
 律子は私に抱かれたまま、静かに眠っていた。




 ここ2週間、雨は全く降らなかった。
 私はくららに会えない寂しさから、日増しに酒の量が増え、また以前のように多くの酒瓶が部屋に転がっていた。
 私は忌々しい太陽を避けるため、遮光カーテンは閉じたままにしていた。
 テレビでお天気お姉さんが天気予報を告げている。

 「本日も絶好のお洗濯日和になるでしょう!
 それでは今日の占いです! 今日、最も良い星座は・・・」

 私はテレビを消し、鋏を持ってベランダへ出た。

 「テルテル坊主 テル坊主 今夜は雨にしておくれ しないと首をちょんぎるぞ・・・ テルテル坊主 テル坊主」

 私はそう歌うと、テルテル坊主の首に鋏を入れ、首を刎ねた。

 ベランダの床に、ポトリとテルテル坊主の首が落ちた。
 


 その夜、テルテル坊主の祟りなのか、予報に反して稲妻が夜空を走り、雷鳴が轟く激しい雷雨になった。

 くららが隣に立っていた。

 「どうしてテルテル坊主さんの首なんか切っちゃったの? かわいそうでしょう? 雨は必ず降るものよ」
 「くららに会いたくて、死にそうだったんだ」
 「馬鹿なひと。言ったでしょ? いつもあなたの傍にいるからねって」
 「会えなきゃ嫌だよ、くららの顔が見たいんだ。
 くららと話しがしたい、声が聞きたいんだ」

 私は泣いた。

 「そんな子供みたいなこと言わないの。
 どうして律子ちゃんを抱いてあげなかったの?
 そうすれば寂しくないのに。
 いいのよ、もう私のことは忘れても・・・。
 私は輝明の笑顔が好き、そんな悲しい顔は見たくないわ」
 「君を忘れることなんか出来ないよ! 増してや他の女を抱くなんてもう無理だよ!
 愛した女はくららだけだ!」

 くららは悲しそうな顔をした。

 「じゃあもし、あなたが私よりも先に死んで、私があなたみたいに毎日浴びるほどお酒を飲んで泣いてばかりいたら、輝明はうれしいの?」
 「今は君の話をしているんだ! そんな例え話なんか聞きたくもない!
 僕は益々、君を失った悲しみから抜け出せない!」

 くららは困ったように言った。

 「ごめんなさいね、私があなたの前に現れたばかりにかえって輝明を苦しめてしまったようね?
 私もあなたに会いたかったの。そしてあなたに立ち直って欲しかった・・・」
 「くららあーっ!」

 私は思わずくららを抱き締め、激しくキスをした。
 そのカラダと唇は、まるで氷のように冷たかった。
 
 私は遂にくららとの約束を破ってしまった。

 「どうして、どうしてこんなバカなことを・・・。
 あんなにダメだって言ったのに・・・」

 くららの身体がどんどん透けていった。

 「サヨナラ、あなた・・・」
 「くららーっつ!」


 私は再びくららを失ってしまった。


 私はボトルに残ったラフロイグをラッパ飲みし、ショパンの『別れの曲』を掛け始めた。

 カーテンを開けると雨は止み、大きな満月が浮かんでいた。
 夜空には「銀の虹」が掛かっていた。

 私はマンションの窓を開けるとベランダへ出た。
 すべての音が止んだ。
 私はそのままマンションの9階のベランダから飛び降りようと、発作的に手摺に手を掛けた。

 その瞬間、くららが私にしがみ付き、泣き叫んだ。

 「死んじゃダメーーーッ!」
 「くらら・・・」

 私の体から力が抜け落ちた。

 「あなたを死なせない! 絶対に!
 私があなたを守るから!」

 そしてくららは消え、『別れの曲』が聴こえていた。

 カーテンが静かに揺れていた。
 まるでくららが私に手を振っているかのように。 
              

         『雨の夜 君とノクターンを』完
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