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第7話 妻として
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「奥様、お食事の用意が出来ました」
「食べたくないの、代わりにお紅茶を淹れて頂戴」
「もう2日も何も召し上がっていないじゃありませんか! お茶とクッキーだけではダメです!
奥様が倒れてしまったら、旦那様をお迎えに行けないじゃありませんか!」
「心配してくれて、ありがとう」
「うどんをやわらかく煮込みましたから、少しでも召し上がって下さい」
千代は溜息を吐き、うどんに箸をつけた。
「久子はこの家に来て、何年になるかしら?」
「奥様がここに嫁がれてからですから、もう30年以上になります。
時の流れとは早いものです」
「久子はどう思う? あの人のこと。何かいつもと変わったことは感じなかった?」
「いつもと同じでしたけど、ただ・・・」
「ただ何?」
「少し、笑顔が増えたような気がいたします」
「私もそう感じていたわ」
「何かホッとされているようなお顔でした」
あの冷徹なまでに毅然とした夫が笑っていた。
愛理を産んでからは寝室も別々になり、夫婦のスキンシップも消えた。
そして夫は深夜に帰宅すると、微かに残り香がするようになり、下着に女の長い毛髪が付いているのを時々見つけるようになった。
それはおそらく、女がわざとつけた物だ。
妻の私に対する宣戦布告だった。
それはまるで、「あなたの愛はどの程度の物かしら?」と、挑まれている気がした。
夫に愛人がいる。
だが私にはそれを夫に問い詰める勇気はなかった。
「それで?」と、言われることが怖かったのだ。
それを実家の母に相談した時、母は言った。
「千代、大きな責任のあるお仕事をしている殿方はね? 妻だけでは満足出来ないものよ。
自分の抱える重圧に耐えるために浮気をする動物なの、男は。
あなたのお父様も、お爺様たちも同じ。お妾さんなんて大勢いたわ。
でもね、お妾さんは妻には勝てやしないの。
どんなに寵愛されようと、妻という称号には敵わないのよ。
妃とはそういう者よ。
女にとって、妻とは役職なの。
子供を産み育て、家督を支える義務がある。
恋愛ドラマのようにはいかないわ。
相思相愛なんて幻想、分かるわよね?」
私たちの結婚は、私が高校生の時にすでに親同士によって決められていた。
夫のことは嫌いではなかったが、私は恋愛に憧れていた。
高校二年生の時、私は男子校の向井茂之と密かに付き合っていた。
私は恋がしてみたかった。
夏祭りに浴衣を着て、一緒に花火大会に出掛けた時、私が許嫁と結婚することを彼に告げた。
「お前の家は政治家の家だからな? 昭和でもそんな話ってあるんだな?」
「まだ会ったこともないんだよ? その人に。 信じらんない」
「それでも俺は千代が好きだ」
夏空の花火に私たちは照らされ、はじめてキスをした。
私はふと、親に反抗してみたくなった。
たとえ好きな人との結婚は無理でも、自分の純潔は好きな人に捧げたいと。
数日後、両親の不在だった彼の家で、私たちは結ばれた。
そして世間知らずの箱入り娘として、相沢家に嫁いでもう30年を超えようとしている。
長男の裕也は世界的な外科医として、愛理は憲法学者になり、私の子育ては一応、成功したと言える。
相沢家の嫁として、その名に恥じぬ生き方をして来たつもりだった。
その今まで必死に積み上げて来た物が、音を立てて崩れようとしている。
私は妻として、夫を支えて来ることが出来たのだろうか?
雨上がりの庭に日が差し始め、木々の葉や芝がキラキラと輝いていた。
(あなたはどこへ消えてしまったの?)
千代は怒りがこみ上げて来た。
それは黙って蒸発してしまった夫に対してではなく、夫の苦悩を理解し、支えられなかった自分への憤りだった。
千代は温くなったうどんに再び箸をつけた。
絶対に夫を連れて帰ると誓いを込めて。
「食べたくないの、代わりにお紅茶を淹れて頂戴」
「もう2日も何も召し上がっていないじゃありませんか! お茶とクッキーだけではダメです!
奥様が倒れてしまったら、旦那様をお迎えに行けないじゃありませんか!」
「心配してくれて、ありがとう」
「うどんをやわらかく煮込みましたから、少しでも召し上がって下さい」
千代は溜息を吐き、うどんに箸をつけた。
「久子はこの家に来て、何年になるかしら?」
「奥様がここに嫁がれてからですから、もう30年以上になります。
時の流れとは早いものです」
「久子はどう思う? あの人のこと。何かいつもと変わったことは感じなかった?」
「いつもと同じでしたけど、ただ・・・」
「ただ何?」
「少し、笑顔が増えたような気がいたします」
「私もそう感じていたわ」
「何かホッとされているようなお顔でした」
あの冷徹なまでに毅然とした夫が笑っていた。
愛理を産んでからは寝室も別々になり、夫婦のスキンシップも消えた。
そして夫は深夜に帰宅すると、微かに残り香がするようになり、下着に女の長い毛髪が付いているのを時々見つけるようになった。
それはおそらく、女がわざとつけた物だ。
妻の私に対する宣戦布告だった。
それはまるで、「あなたの愛はどの程度の物かしら?」と、挑まれている気がした。
夫に愛人がいる。
だが私にはそれを夫に問い詰める勇気はなかった。
「それで?」と、言われることが怖かったのだ。
それを実家の母に相談した時、母は言った。
「千代、大きな責任のあるお仕事をしている殿方はね? 妻だけでは満足出来ないものよ。
自分の抱える重圧に耐えるために浮気をする動物なの、男は。
あなたのお父様も、お爺様たちも同じ。お妾さんなんて大勢いたわ。
でもね、お妾さんは妻には勝てやしないの。
どんなに寵愛されようと、妻という称号には敵わないのよ。
妃とはそういう者よ。
女にとって、妻とは役職なの。
子供を産み育て、家督を支える義務がある。
恋愛ドラマのようにはいかないわ。
相思相愛なんて幻想、分かるわよね?」
私たちの結婚は、私が高校生の時にすでに親同士によって決められていた。
夫のことは嫌いではなかったが、私は恋愛に憧れていた。
高校二年生の時、私は男子校の向井茂之と密かに付き合っていた。
私は恋がしてみたかった。
夏祭りに浴衣を着て、一緒に花火大会に出掛けた時、私が許嫁と結婚することを彼に告げた。
「お前の家は政治家の家だからな? 昭和でもそんな話ってあるんだな?」
「まだ会ったこともないんだよ? その人に。 信じらんない」
「それでも俺は千代が好きだ」
夏空の花火に私たちは照らされ、はじめてキスをした。
私はふと、親に反抗してみたくなった。
たとえ好きな人との結婚は無理でも、自分の純潔は好きな人に捧げたいと。
数日後、両親の不在だった彼の家で、私たちは結ばれた。
そして世間知らずの箱入り娘として、相沢家に嫁いでもう30年を超えようとしている。
長男の裕也は世界的な外科医として、愛理は憲法学者になり、私の子育ては一応、成功したと言える。
相沢家の嫁として、その名に恥じぬ生き方をして来たつもりだった。
その今まで必死に積み上げて来た物が、音を立てて崩れようとしている。
私は妻として、夫を支えて来ることが出来たのだろうか?
雨上がりの庭に日が差し始め、木々の葉や芝がキラキラと輝いていた。
(あなたはどこへ消えてしまったの?)
千代は怒りがこみ上げて来た。
それは黙って蒸発してしまった夫に対してではなく、夫の苦悩を理解し、支えられなかった自分への憤りだった。
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絶対に夫を連れて帰ると誓いを込めて。
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