★【完結】アネモネ(作品230605)

菊池昭仁

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第7話 妻として

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 「奥様、お食事の用意が出来ました」
 「食べたくないの、代わりにお紅茶を淹れて頂戴」
 「もう2日も何も召し上がっていないじゃありませんか! お茶とクッキーだけではダメです!
 奥様が倒れてしまったら、旦那様をお迎えに行けないじゃありませんか!」
 「心配してくれて、ありがとう」
 「うどんをやわらかく煮込みましたから、少しでも召し上がって下さい」

 千代は溜息を吐き、うどんに箸をつけた。

 「久子はこの家に来て、何年になるかしら?」
 「奥様がここに嫁がれてからですから、もう30年以上になります。
 時の流れとは早いものです」
 「久子はどう思う? あの人のこと。何かいつもと変わったことは感じなかった?」
 「いつもと同じでしたけど、ただ・・・」
 「ただ何?」
 「少し、笑顔が増えたような気がいたします」
 「私もそう感じていたわ」
 「何かホッとされているようなお顔でした」

 
 あの冷徹なまでに毅然とした夫が笑っていた。
 愛理を産んでからは寝室も別々になり、夫婦のスキンシップも消えた。
 そして夫は深夜に帰宅すると、微かに残り香がするようになり、下着に女の長い毛髪が付いているのを時々見つけるようになった。
 それはおそらく、女がわざとつけた物だ。
 妻の私に対する宣戦布告だった。
 それはまるで、「あなたの愛はどの程度の物かしら?」と、挑まれている気がした。

      夫に愛人がいる。

 だが私にはそれを夫に問い詰める勇気はなかった。
 「それで?」と、言われることが怖かったのだ。
 それを実家の母に相談した時、母は言った。

 「千代、大きな責任のあるお仕事をしている殿方はね? 妻だけでは満足出来ないものよ。
 自分の抱える重圧に耐えるために浮気をする動物なの、男は。
 あなたのお父様も、お爺様たちも同じ。お妾さんなんて大勢いたわ。
 でもね、お妾さんは妻には勝てやしないの。
 どんなに寵愛されようと、妻という称号には敵わないのよ。
 妃とはそういう者よ。
 女にとって、妻とは役職なの。
 子供を産み育て、家督を支える義務がある。
 恋愛ドラマのようにはいかないわ。
 相思相愛なんて幻想、分かるわよね?」
 
 私たちの結婚は、私が高校生の時にすでに親同士によって決められていた。
 夫のことは嫌いではなかったが、私は恋愛に憧れていた。


 高校二年生の時、私は男子校の向井茂之と密かに付き合っていた。
 私は恋がしてみたかった。

 夏祭りに浴衣を着て、一緒に花火大会に出掛けた時、私が許嫁と結婚することを彼に告げた。


 「お前の家は政治家の家だからな? 昭和でもそんな話ってあるんだな?」
 「まだ会ったこともないんだよ? その人に。 信じらんない」
 「それでも俺は千代が好きだ」

 夏空の花火に私たちは照らされ、はじめてキスをした。

 私はふと、親に反抗してみたくなった。
 たとえ好きな人との結婚は無理でも、自分の純潔は好きな人に捧げたいと。


 数日後、両親の不在だった彼の家で、私たちは結ばれた。
 そして世間知らずの箱入り娘として、相沢家に嫁いでもう30年を超えようとしている。

 長男の裕也は世界的な外科医として、愛理は憲法学者になり、私の子育ては一応、成功したと言える。
 相沢家の嫁として、その名に恥じぬ生き方をして来たつもりだった。
 その今まで必死に積み上げて来た物が、音を立てて崩れようとしている。
 私は妻として、夫を支えて来ることが出来たのだろうか?
 雨上がりの庭に日が差し始め、木々の葉や芝がキラキラと輝いていた。


 (あなたはどこへ消えてしまったの?)


 千代は怒りがこみ上げて来た。
 それは黙って蒸発してしまった夫に対してではなく、夫の苦悩を理解し、支えられなかった自分へのいきどおりだった。

 千代は温くなったうどんに再び箸をつけた。

 絶対に夫を連れて帰ると誓いを込めて。
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