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第三楽章
第3話 天国への階段
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シャルル・ド・ゴール空港には細雪が降っていた。
空港には悟がクルマで迎えに来てくれていた。
「お帰り、久子」
「ただいま、悟」
私たちは強く抱き合い、笑いながらキスを交わした。
「流石にパリは寒いわね?」
「まだ2月だからね? 早く僕たちの暖かいパリの新居に帰ろう」
「私もたっぷり温めてね?」
「もちろん!」
私は悟と腕を組み、駐車場へと向かった。
クルマに乗り込むと待ちきれず、私たちはフランス人のように熱い抱擁をした。
「久子、凄く寂しかったよ。寂しくて死にそうだった」
「私もよ。早く悟に会いたかった」
「じゃあ、帰ろうか? 久子」
「うん、早く帰ってこの続きをしなくちゃね?」
路面はかなり凍結していて、アイスバーンになっていた。
悟はシフトレバーを巧みに操作し、慎重にクルマを運転していた。
「良かったね? 琴子ちゃんが元気になって」
「ホント、一時はどうなるかと思ったわ。でも本当に良かっ・・・」
その時だった、対向車線を走る大型トレーラーが大きくスリップして、私たちの乗ったクルマにスローモーションで直進して来るのが見えた。
クルマは大破し、ふたりは苦しむこともなく絶命した。
即死だった。
お気に入りの夫婦茶碗を洗っていると、突然茶碗が砕け散った。
私は嫌な胸騒ぎを覚えた。
私の携帯に母から着信があった。
「ママ? 無事、パリに着いたの? さっきお茶碗を洗っていたら・・・」
だが電話の相手は母ではなく、知らない女性からだった。
「海音寺琴子さんの携帯でよろしいでしょうか? ご本人様でいらっしゃいますか?」
「はい・・・」
「私、パリ市警で日本語の通訳をしております、マルソーと申します。お母様の島津久子さんが先ほど、交通事故でお亡くなりになりました」
私は頭の中が真っ白になった。
「お母様の島津久子さんと大田原悟さんが交通事故でお亡くなりになりましたので、すぐにこちらにおいでいただくことは可能でしょうか? ・・・もしもし? 海音寺さん? もしもし・・・」
私は気を失い、それから先の記憶が無かった。
私はすぐにパリに向かうため、成田へ急いだ。
空港までは錬三郎がタクシーで送ってくれた。
「琴子と一緒にお義母さんを迎えに行けなくてごめんね? 今、大きな訴訟を抱えているからどうしても日本を離れるわけにはいかないんだ。パリの知り合いの弁護士に手続きを依頼しておいたから、焦らないで気を付けて行くんだよ」
「ありがとう錬三郎。母と悟さんを迎えに行って来る」
「何か不安なことがあれば、いつでも電話するんだよ」
「うん」
ロンドン経由、パリ行きの最終便。私は暗澹たる気持ちで飛行機に搭乗した。
母と悟さんが亡くなったことが、未だに信じられなかった。
夢なら早く覚めて欲しいと思った。
(ママと悟さんが死んだ? あんなに幸福そうだった、あのふたりが?)
3カ月も経たないうちに、私は銀河と母、そして悟さんの3人を失った。
(私は今まで敬虔なクリスチャンとして戒律を守り、聖書に従い誠実に生きて来たつもりだった。それなのにどうして、どうしてこんな惨い事が私に立て続けに起きるの?
一体私が何をしたというの! 結婚に失敗し、せっかく出会った恋人も失い、そして今度はママと悟さんまで・・・)
私は急に不安になった。
これでもし、錬三郎とも別れてしまうようなことになったら私はもう、生きる自信を失うだろう。
病院の遺体安置室の前に到着すると、暗い廊下のベンチに悟さんの妹さんらしき人が放心して座っていた。
既に悟さんの身元確認を終えたらしく、目の前の壁と虚な眼差しで向き合っていた。
やさしい目元が悟さんにそっくりだった。
悟さんの両親はすでに他界しており、妹さんが遺体の引き取りにやって来たのだろう。彼女は私に気付くと軽く会釈をした。
「島津さんの娘さんですね? 大田原悟の妹の、寺島洋子と申します。この度は・・・」
彼女は言葉を涙で詰まらせた。
「海音寺琴子です」
突然の訃報に私たち肉親は、大好きだったふたりが死んだということが、どうしても受け入れることが出来なかった。
そして私も母の遺体と無言の対面をした。
遺体袋のファスナーが開けられ、血の気のない母の顔を見た時、私は亡骸にすがり付き、号泣した。
「ママ・・・。パリの音楽院に入ってピアニストになるんじゃなかったの? 悟さんと結婚してしあわせになるんじゃなかったの? 私の『椿姫』を悟さんと一緒に観に来てくれるって言ったじゃない! お婆ちゃまにパリを案内してあげるんでしょ! それなのにどうして寝ているの? ママ、起きて、目を覚まして! 一緒に日本に帰ろう・・・。悟さんと一緒に」
私と洋子さんは同じ飛行機で、ふたりの遺体と共に日本へ帰国することにした。
洋子さんは私に言った。
「まるで悪夢を見ているようですよね? 夢なら早く醒めて欲しい」
「こんな形で帰国するなんて、まだ実感がありません」
「兄は久子さんと結婚することをとても楽しみにしていました。「三月になったらパリで久子と結婚式を挙げるから、洋子も家族で来てくれよな? 哲也君と茜ちゃんも一緒に。もちろん旅費は俺が出すから」と言って笑っていました」
「母も同じです。まるで高校生のように、悟さんから頂いた婚約指輪を見てはうれしそうにしていました。そんな自分の母親が死ぬなんて、考えたこともありませんでした」
「本当にやさしい兄でした。そんな兄が・・・」
私たちは手を取り合って泣いた。まるで姉妹のように。
CAさんはそんな私たちを気遣いながら、
「この度はご愁傷様でございました。お食事のご用意をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「お食事は結構です」
「私も・・・」
「では温かいお紅茶とブランケットをお持ちしましょうか? 少しでもお休みになれるように」
「お願いします」
「お気遣い、ありがとうございます」
鎌倉の屋敷の和室の布団に寝かされた、母の亡骸と対面した祖母は白布を取ると、母の冷たくなった顔を撫でた。
「こんなに冷たくなってしまって・・・。私よりも先に死ぬなんて、かわいそうな久子・・・」
祖母は小さな背中を丸め、ポロポロと涙を零した。
いつもやさしく穏やかに微笑んでいる祖母が泣いている姿を、私はその時初めて見た。
通夜には紀美加さんと、娘の夢香ちゃんも真っ先に来てくれた。
「久子おおおおおーっ、パリを案内してくれるって言ったじゃない!」
「久子おばさま・・・」
母の人柄を偲んで、大勢の人たちが弔問に訪れ、母の死を悼んでくれた。
錬三郎と葵さん、そしてレイも一生懸命に母の葬儀をお手伝いしてくれていた。
「ごめんね錬三郎、葵さん、レイさんも忙しいのに、本当にありがとうございます」
「琴子も少し休みなさい。ずっと寝てないんでしょう?」
葵さんはまるで姉のように私を気遣ってくれた。
父に母が亡くなったことは連絡したが、通夜に父は来なかった。おそらく母や、親戚に合わせる顔がなかったからだろう。
父はすでに再婚していた。
聡子も弔問に来てくれた。
「琴子、どうしてこんなことに・・・」
「ごめんね聡子、この間はあんな酷いことを言って」
「ううん、本当のことだもん、気にしてないよ。私の方こそごめんね? 琴子の気持ちも考えないで、あんな無神経な事を言って。琴子のママ、かわいそうだよ。まだ若いのに、あんなにやさしい人だったのにいいいいーっつ!」
私と聡子は抱き合い、いつまでも泣いた。
私は良き人生の師匠でもある母と、大切な悟さんを同時に失ってしまった。
だが人は、いつかは必ず愛する人との別れをしなければならない時がやって来る。それが予め予想されたものなのか、突然なのかはわからない。母と悟さんのように、一緒に天国へ召されることは、一概に不幸であったとは言えないかもしれない。
母と悟さんは、少なくともしあわせの絶頂の中で人生を終えることが出来たのだから。
それはある意味、幸福な人生であったとも言えるのかも知れなかった。
四十九日の法要も終わり、いつもの日常を取り戻しつつあった頃、洋子さんがマンションに訪ねて来てくれて、母の仏壇に手を合わせてくれた。
「わざわざありがとうございます。洋子さんに来ていただいて、母もきっと喜んでいると思います。今度、私も悟さんに御線香をあげに伺ってもいいですか?」
「いつでも来て下さい。狭い家ですけど兄もきっと喜ぶと思います。今日は琴子さんにこれをお届けに上がりました、兄が最後に描いた久子さんの肖像画です。
お家に飾ってあげて下さい」
その絵は、母のセミヌードの肖像画だった。
暖炉の前でハイバックの椅子に浅く掛け、白い乳房を手で隠した、朝日を浴びた母のしあわせそうな横顔。
私はその絵を抱き締めて泣いた。
「ありがとう、ございます・・・」
「これからも仲良くして下さいね? 琴子さん」
「もちろんです!」
その肖像画には悟さんの母への愛情が満ち溢れていた。
少し恥ずかしそうに微笑む母。
私はその絵をマンションの私の部屋に飾った。
錬三郎が仕事から帰って来たので、母の絵を自慢して見せた。
「画家の悟さんが描いた母のポートレイトなの。洋子さんが今日、わざわざ届けてくれたの、素敵な絵でしょう?」
「いい肖像画だね? リビングに飾ったらどう? 海も見えるし、いつも一緒にいられるから寂しくないしね?」
錬三郎は明るいリビングに、悟さんの描いた母の肖像画を飾ってくれた。
母の絵が笑っている気がした。
「ありがとう。錬三郎」
日曜日の夜、葵さんとレイさんが私を励ましに来てくれた。
「今夜は琴子のママを偲んでみんなで飲みましょう! お酒を飲んで琴子のママのお話を、たくさん聞かせて頂戴。さあ、お酒とおつまみはどっさり持って来たわよ!」
そう言って葵さんは私をハグしてくれた。
「メソメソしちゃ駄目。おふたりの天国でのご冥福をみんなでお祈りしましょう! さあグラス、グラス!」
「グラスなんていらないんじゃない? みんなで回し飲みすれば?」
「イヤイヤ、ひとり一本でしょう? そのままラッパ飲みしよう!」
「そうかそうか! あはははは」
母と悟さんは死んでしまったが、私はもう独りぼっちではなかった。
錬三郎と、こんなに素敵な仲間がいる。
とても楽しい宴だった。
(ここにママと悟さんがいたら、もっと陽気に笑っていれたのに・・・)
そう思うと涙が零れた。
すると錬三郎はピアノの置いてある部屋に入り、私たちも彼の後について行った。
錬三郎がピアノを弾き始めると、葵さんとレイさんが歌い始めた。
それはLed Zeppelin『Stairway to Heaven(天国への階段)』だった。
私も、そして錬三郎も一緒に歌った。
母と悟さん、そして銀河のために。
酒宴は朝まで続いた。錬三郎とレイさんは寝入ってしまい、私はふたりに毛布を掛けて、少しエアコンの温度を上げた。
葵さんと私だけが起きていた。
「琴子、人が亡くなるのってイヤよね?」
「たった3カ月の間に大切な人を3人も失いました」
「銀河とは私も錬三郎と一緒に、よく3人で呑み明かしたものよ。彼は人間としてもとても優れていたわ。「優れる」という字は「優しさ」とも言える。彼は詩人として、人間として、自分に正直に生きようとした。でも彼は優し過ぎたのよ。大人になれなかったのね? 狡賢い大人に。
あざとく、狡猾に生きればいいものを。世の中の普通の人間みたいに。ね、そう思うでしょ? 私はただの官僚だけど、あなたなら分かるはず、同じ芸術家としての銀河の気持ちが」
「彼は私といる時は詩人ではありませんでした。でも凄く愛していました。たった2週間の恋でしたけど」
「恋愛なんて付き合った時間の長さじゃないわ。深さであり、重さなのよ。どれだけその人を愛したかだと私は思うわ。
私は女が好き。それは美しくて繊細で、傷付きやすいから。だから守ってあげたくなっちゃう。それってヘン? いやらしいことだと思う? 同性の女性が好きだなんて?」
「そんな偏見はありません。人を愛する気持ちに異性も同性もありませんから」
「琴子・・・」
突然、葵さんにキスをされた。
それは中学生の時にした、ファースト・キスのようだった。
とてもやさしいキスだった。
「琴子、あなたには錬三郎というすばらしい人がいつも傍にいる。だから大丈夫、いつも彼があなたを守ってくれるわ。彼はとても頼りになる男よ。錬三郎に甘えなさい。そして私もレイもあなたをいつも応援している。
辛いことがあれば、いつでも私たちを頼りなさい。
これからは私が琴子の「お姉ちゃん」になってあげるから」
「葵さん・・・」
私は葵さんの胸に抱かれて泣いた。
葵さんはそんな私の頭を、労るように撫でてくれた。
「大丈夫、琴子はひとりじゃないわ」
私の心の傷は、その葵さんの言葉で縫合されていくように感じた。
私は大切なものを次々と失ったが、それ以上に希望とやさしさに包まれていることを知った。
空港には悟がクルマで迎えに来てくれていた。
「お帰り、久子」
「ただいま、悟」
私たちは強く抱き合い、笑いながらキスを交わした。
「流石にパリは寒いわね?」
「まだ2月だからね? 早く僕たちの暖かいパリの新居に帰ろう」
「私もたっぷり温めてね?」
「もちろん!」
私は悟と腕を組み、駐車場へと向かった。
クルマに乗り込むと待ちきれず、私たちはフランス人のように熱い抱擁をした。
「久子、凄く寂しかったよ。寂しくて死にそうだった」
「私もよ。早く悟に会いたかった」
「じゃあ、帰ろうか? 久子」
「うん、早く帰ってこの続きをしなくちゃね?」
路面はかなり凍結していて、アイスバーンになっていた。
悟はシフトレバーを巧みに操作し、慎重にクルマを運転していた。
「良かったね? 琴子ちゃんが元気になって」
「ホント、一時はどうなるかと思ったわ。でも本当に良かっ・・・」
その時だった、対向車線を走る大型トレーラーが大きくスリップして、私たちの乗ったクルマにスローモーションで直進して来るのが見えた。
クルマは大破し、ふたりは苦しむこともなく絶命した。
即死だった。
お気に入りの夫婦茶碗を洗っていると、突然茶碗が砕け散った。
私は嫌な胸騒ぎを覚えた。
私の携帯に母から着信があった。
「ママ? 無事、パリに着いたの? さっきお茶碗を洗っていたら・・・」
だが電話の相手は母ではなく、知らない女性からだった。
「海音寺琴子さんの携帯でよろしいでしょうか? ご本人様でいらっしゃいますか?」
「はい・・・」
「私、パリ市警で日本語の通訳をしております、マルソーと申します。お母様の島津久子さんが先ほど、交通事故でお亡くなりになりました」
私は頭の中が真っ白になった。
「お母様の島津久子さんと大田原悟さんが交通事故でお亡くなりになりましたので、すぐにこちらにおいでいただくことは可能でしょうか? ・・・もしもし? 海音寺さん? もしもし・・・」
私は気を失い、それから先の記憶が無かった。
私はすぐにパリに向かうため、成田へ急いだ。
空港までは錬三郎がタクシーで送ってくれた。
「琴子と一緒にお義母さんを迎えに行けなくてごめんね? 今、大きな訴訟を抱えているからどうしても日本を離れるわけにはいかないんだ。パリの知り合いの弁護士に手続きを依頼しておいたから、焦らないで気を付けて行くんだよ」
「ありがとう錬三郎。母と悟さんを迎えに行って来る」
「何か不安なことがあれば、いつでも電話するんだよ」
「うん」
ロンドン経由、パリ行きの最終便。私は暗澹たる気持ちで飛行機に搭乗した。
母と悟さんが亡くなったことが、未だに信じられなかった。
夢なら早く覚めて欲しいと思った。
(ママと悟さんが死んだ? あんなに幸福そうだった、あのふたりが?)
3カ月も経たないうちに、私は銀河と母、そして悟さんの3人を失った。
(私は今まで敬虔なクリスチャンとして戒律を守り、聖書に従い誠実に生きて来たつもりだった。それなのにどうして、どうしてこんな惨い事が私に立て続けに起きるの?
一体私が何をしたというの! 結婚に失敗し、せっかく出会った恋人も失い、そして今度はママと悟さんまで・・・)
私は急に不安になった。
これでもし、錬三郎とも別れてしまうようなことになったら私はもう、生きる自信を失うだろう。
病院の遺体安置室の前に到着すると、暗い廊下のベンチに悟さんの妹さんらしき人が放心して座っていた。
既に悟さんの身元確認を終えたらしく、目の前の壁と虚な眼差しで向き合っていた。
やさしい目元が悟さんにそっくりだった。
悟さんの両親はすでに他界しており、妹さんが遺体の引き取りにやって来たのだろう。彼女は私に気付くと軽く会釈をした。
「島津さんの娘さんですね? 大田原悟の妹の、寺島洋子と申します。この度は・・・」
彼女は言葉を涙で詰まらせた。
「海音寺琴子です」
突然の訃報に私たち肉親は、大好きだったふたりが死んだということが、どうしても受け入れることが出来なかった。
そして私も母の遺体と無言の対面をした。
遺体袋のファスナーが開けられ、血の気のない母の顔を見た時、私は亡骸にすがり付き、号泣した。
「ママ・・・。パリの音楽院に入ってピアニストになるんじゃなかったの? 悟さんと結婚してしあわせになるんじゃなかったの? 私の『椿姫』を悟さんと一緒に観に来てくれるって言ったじゃない! お婆ちゃまにパリを案内してあげるんでしょ! それなのにどうして寝ているの? ママ、起きて、目を覚まして! 一緒に日本に帰ろう・・・。悟さんと一緒に」
私と洋子さんは同じ飛行機で、ふたりの遺体と共に日本へ帰国することにした。
洋子さんは私に言った。
「まるで悪夢を見ているようですよね? 夢なら早く醒めて欲しい」
「こんな形で帰国するなんて、まだ実感がありません」
「兄は久子さんと結婚することをとても楽しみにしていました。「三月になったらパリで久子と結婚式を挙げるから、洋子も家族で来てくれよな? 哲也君と茜ちゃんも一緒に。もちろん旅費は俺が出すから」と言って笑っていました」
「母も同じです。まるで高校生のように、悟さんから頂いた婚約指輪を見てはうれしそうにしていました。そんな自分の母親が死ぬなんて、考えたこともありませんでした」
「本当にやさしい兄でした。そんな兄が・・・」
私たちは手を取り合って泣いた。まるで姉妹のように。
CAさんはそんな私たちを気遣いながら、
「この度はご愁傷様でございました。お食事のご用意をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「お食事は結構です」
「私も・・・」
「では温かいお紅茶とブランケットをお持ちしましょうか? 少しでもお休みになれるように」
「お願いします」
「お気遣い、ありがとうございます」
鎌倉の屋敷の和室の布団に寝かされた、母の亡骸と対面した祖母は白布を取ると、母の冷たくなった顔を撫でた。
「こんなに冷たくなってしまって・・・。私よりも先に死ぬなんて、かわいそうな久子・・・」
祖母は小さな背中を丸め、ポロポロと涙を零した。
いつもやさしく穏やかに微笑んでいる祖母が泣いている姿を、私はその時初めて見た。
通夜には紀美加さんと、娘の夢香ちゃんも真っ先に来てくれた。
「久子おおおおおーっ、パリを案内してくれるって言ったじゃない!」
「久子おばさま・・・」
母の人柄を偲んで、大勢の人たちが弔問に訪れ、母の死を悼んでくれた。
錬三郎と葵さん、そしてレイも一生懸命に母の葬儀をお手伝いしてくれていた。
「ごめんね錬三郎、葵さん、レイさんも忙しいのに、本当にありがとうございます」
「琴子も少し休みなさい。ずっと寝てないんでしょう?」
葵さんはまるで姉のように私を気遣ってくれた。
父に母が亡くなったことは連絡したが、通夜に父は来なかった。おそらく母や、親戚に合わせる顔がなかったからだろう。
父はすでに再婚していた。
聡子も弔問に来てくれた。
「琴子、どうしてこんなことに・・・」
「ごめんね聡子、この間はあんな酷いことを言って」
「ううん、本当のことだもん、気にしてないよ。私の方こそごめんね? 琴子の気持ちも考えないで、あんな無神経な事を言って。琴子のママ、かわいそうだよ。まだ若いのに、あんなにやさしい人だったのにいいいいーっつ!」
私と聡子は抱き合い、いつまでも泣いた。
私は良き人生の師匠でもある母と、大切な悟さんを同時に失ってしまった。
だが人は、いつかは必ず愛する人との別れをしなければならない時がやって来る。それが予め予想されたものなのか、突然なのかはわからない。母と悟さんのように、一緒に天国へ召されることは、一概に不幸であったとは言えないかもしれない。
母と悟さんは、少なくともしあわせの絶頂の中で人生を終えることが出来たのだから。
それはある意味、幸福な人生であったとも言えるのかも知れなかった。
四十九日の法要も終わり、いつもの日常を取り戻しつつあった頃、洋子さんがマンションに訪ねて来てくれて、母の仏壇に手を合わせてくれた。
「わざわざありがとうございます。洋子さんに来ていただいて、母もきっと喜んでいると思います。今度、私も悟さんに御線香をあげに伺ってもいいですか?」
「いつでも来て下さい。狭い家ですけど兄もきっと喜ぶと思います。今日は琴子さんにこれをお届けに上がりました、兄が最後に描いた久子さんの肖像画です。
お家に飾ってあげて下さい」
その絵は、母のセミヌードの肖像画だった。
暖炉の前でハイバックの椅子に浅く掛け、白い乳房を手で隠した、朝日を浴びた母のしあわせそうな横顔。
私はその絵を抱き締めて泣いた。
「ありがとう、ございます・・・」
「これからも仲良くして下さいね? 琴子さん」
「もちろんです!」
その肖像画には悟さんの母への愛情が満ち溢れていた。
少し恥ずかしそうに微笑む母。
私はその絵をマンションの私の部屋に飾った。
錬三郎が仕事から帰って来たので、母の絵を自慢して見せた。
「画家の悟さんが描いた母のポートレイトなの。洋子さんが今日、わざわざ届けてくれたの、素敵な絵でしょう?」
「いい肖像画だね? リビングに飾ったらどう? 海も見えるし、いつも一緒にいられるから寂しくないしね?」
錬三郎は明るいリビングに、悟さんの描いた母の肖像画を飾ってくれた。
母の絵が笑っている気がした。
「ありがとう。錬三郎」
日曜日の夜、葵さんとレイさんが私を励ましに来てくれた。
「今夜は琴子のママを偲んでみんなで飲みましょう! お酒を飲んで琴子のママのお話を、たくさん聞かせて頂戴。さあ、お酒とおつまみはどっさり持って来たわよ!」
そう言って葵さんは私をハグしてくれた。
「メソメソしちゃ駄目。おふたりの天国でのご冥福をみんなでお祈りしましょう! さあグラス、グラス!」
「グラスなんていらないんじゃない? みんなで回し飲みすれば?」
「イヤイヤ、ひとり一本でしょう? そのままラッパ飲みしよう!」
「そうかそうか! あはははは」
母と悟さんは死んでしまったが、私はもう独りぼっちではなかった。
錬三郎と、こんなに素敵な仲間がいる。
とても楽しい宴だった。
(ここにママと悟さんがいたら、もっと陽気に笑っていれたのに・・・)
そう思うと涙が零れた。
すると錬三郎はピアノの置いてある部屋に入り、私たちも彼の後について行った。
錬三郎がピアノを弾き始めると、葵さんとレイさんが歌い始めた。
それはLed Zeppelin『Stairway to Heaven(天国への階段)』だった。
私も、そして錬三郎も一緒に歌った。
母と悟さん、そして銀河のために。
酒宴は朝まで続いた。錬三郎とレイさんは寝入ってしまい、私はふたりに毛布を掛けて、少しエアコンの温度を上げた。
葵さんと私だけが起きていた。
「琴子、人が亡くなるのってイヤよね?」
「たった3カ月の間に大切な人を3人も失いました」
「銀河とは私も錬三郎と一緒に、よく3人で呑み明かしたものよ。彼は人間としてもとても優れていたわ。「優れる」という字は「優しさ」とも言える。彼は詩人として、人間として、自分に正直に生きようとした。でも彼は優し過ぎたのよ。大人になれなかったのね? 狡賢い大人に。
あざとく、狡猾に生きればいいものを。世の中の普通の人間みたいに。ね、そう思うでしょ? 私はただの官僚だけど、あなたなら分かるはず、同じ芸術家としての銀河の気持ちが」
「彼は私といる時は詩人ではありませんでした。でも凄く愛していました。たった2週間の恋でしたけど」
「恋愛なんて付き合った時間の長さじゃないわ。深さであり、重さなのよ。どれだけその人を愛したかだと私は思うわ。
私は女が好き。それは美しくて繊細で、傷付きやすいから。だから守ってあげたくなっちゃう。それってヘン? いやらしいことだと思う? 同性の女性が好きだなんて?」
「そんな偏見はありません。人を愛する気持ちに異性も同性もありませんから」
「琴子・・・」
突然、葵さんにキスをされた。
それは中学生の時にした、ファースト・キスのようだった。
とてもやさしいキスだった。
「琴子、あなたには錬三郎というすばらしい人がいつも傍にいる。だから大丈夫、いつも彼があなたを守ってくれるわ。彼はとても頼りになる男よ。錬三郎に甘えなさい。そして私もレイもあなたをいつも応援している。
辛いことがあれば、いつでも私たちを頼りなさい。
これからは私が琴子の「お姉ちゃん」になってあげるから」
「葵さん・・・」
私は葵さんの胸に抱かれて泣いた。
葵さんはそんな私の頭を、労るように撫でてくれた。
「大丈夫、琴子はひとりじゃないわ」
私の心の傷は、その葵さんの言葉で縫合されていくように感じた。
私は大切なものを次々と失ったが、それ以上に希望とやさしさに包まれていることを知った。
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