未完成交響曲

菊池昭仁

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第14話

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 柔道はかなり強くなった。三年生の先輩にも勝つようになった。
 だが新人戦に出ると一回戦でボロ負けした。
 無謀にも小柄な私は無差別級を選び、試合の前日、部活の顧問の先生に「大外刈り」の特訓を受けた。

 対戦相手は130kgの巨体。私の前の対戦相手は鎖骨を折られて病院送りにされた。
 私は48kg。まともに戦っても勝ち目はない。

 こんな巨人に大外刈りなどでは倒せないと判断した私は、隙を突いて「巴投げ」を掛けた。
 掛かった。だがすぐに潰されてしまった。
 肋骨が折れるかと思ったほどだ。
 顧問の先生から酷く怒られた。


 そんなある日の事、市民会館で行われた会津女子高校の定期演奏会に誘われた。
 合唱とブラスバンドの演奏。

 素晴らしい歌声だった。合唱曲は今でも覚えている。
 合唱コンクールの課題曲、『レモン色の霧よ』と『エルベ川』
 まさか10年後、ドイツのエルベ川を訪れることになるとはその時思いもしなかった。
 だがそれ以上に驚いたのはブラスバンドのキラキラと輝く音楽だった。

 音楽「2」の私は翌日すぐにブラスバンド部に行き、入部を願い出た。

 ところが楽器はトライアングルをさせられた。
 私は言われるままにトライアングルを叩いて大笑いされた。

 翌日、私は顧問の先生にブラバンを辞めることを伝えた。

 「それならチューバはどうかしら?」

 そして大きなチューバを吹いてはみたが唇がすぐに腫れ上がってしまった。
 ベース楽器の難しさにすぐに挫折した。
 また翌日辞めると駄々を捏ねた。

 すると今度はユーフォニュームを勧められた。
 主旋律ではなく伴奏楽器に私は落胆し、顧問の40代の女性教諭に対し、

 「トランペットがやりたいです」

 と言うと、

 「トランペットは学校に楽器がないのよ。
 みんな自前の楽器なの」

 私はブラバンへの入部を断念した。
 とても親にトランペットを買って欲しいとは言えなかったからだ。
 

 すると1週間後、その先生はトランペットを持って来てくれた。

 「これ、息子のだけど吹いてみる?」

 私はそれを辞退した。
 先生の息子さんのトランペットを借りてまで吹くのは屈辱だったからだ。
 そのまま私は柔道に専念した。


 相変わらず成績は悪かったが野球、水泳、柔道、サッカーなど、スポーツが得意な私は意外に女子には人気があった。バカで性格も最悪だった、中身のないカスカスの私なのに。

 いつもカッコばかりつけていた。
 私と噂になる女子を片想いする男子たちからはいきなり襲われることもあったが、皆、返り討ちにしてやった。
 
 当時ハムクラブ(アマチュア無線)に入っていた私は、机に座って3年生の部長の話を聞いていると、いきなり後ろからヘッドロックされ、そのまま私はその男子を投げ飛ばした。

 「おいおい、ケンカは辞めろよ」

 と、余裕で笑っていた部長は前妻の兄、つまり、後に義理の兄になる、豊川悦司似の先輩だった。
 彼は大学生の時、紅白歌合戦の西城秀樹のバックダンサーをバイトでしていたほどのイケメンだった。

 自分が気に食わない奴にケンカを売るのも日常だった。
 
 ある日、私に絡んで来た奴を殴り付けたら親が学校に怒鳴り込んで来て、私は担任のブルドッグのような顔をしたオバタリアン先生に翌日、いきなり太い角材の角で頭を殴られた。

 「菊池、お前昨日〇〇を殴ったそうだな?」

 その教師はなぜそうなったのかの経緯も訊かず、私に制裁を加えた。
 私はただ黙っていた。何を言ってもどうせ無駄だと思ったからだ。
 私はいつの間にか勉強が出来ない暴力生徒のレッテルを貼られてしまった。


 そんなある日の夜、母親と妹と三人で懐中電灯で足元を照らしながら母の実家に向かって歩いていると、突然、ひらめいた。


    (数学って何がむずかしいんだろう?)


 私は数学が苦手だった。
 だがそのひらめきで私は変わった。
 冷静に考えれば中学の数学はただの暗記だったからだ。
 その日、家に帰った私は狂ったように数学の勉強を始めた。


     (この問題の何がわからないのだろう?)


 ひとつひとつ分からないことを調べていくと、簡単に理解出来た。
 みるみる数学の成績が上がり始めた。

 数学が分かるようになると勉強が楽しくなって来た。
 英語、理科、社会など、全てが楽しくなって、成績が良くなるとみんなから称賛されるようになり、更に成績が良くなった。

 そしてあの障子紙にも名前が乗るようになり、ビリから数えた方が早かった私の成績は1年生の終わりには急激に30位までになっていた。
 どんどん成績は上がり続け、最終的には学年で1,2位を争うまでになった。

 塾に行くことも出来ず、私はひたすら安い参考書や問題集を探し、すべての科目を同じノートにびっしりと書き連ねた。
 そのノートが教師たちの目に留まるようになり、評判にもなった。
 
 テスト問題が配布されると手が震えた。

    (また100点だ!)

 私のクラスはいいところの坊っちゃん嬢ちゃんが多かった。
 採点を終えた答案用紙が戻ってくる時、担任の教師は嫌そうに私と、後に医学部教授になったヤツの名前を呼ぶ。

 「100点だった者、菊池と〇〇」

 すると勉強熱心な男子とソイツが俺の答案用紙を目を皿のようにして採点ミスを探した。
 そしてちょっとした記入ミスでもあろうものなら、

 「ハイ! ここミス採点!
 先生、菊池君の採点、間違ってまーす!」

 と喜ぶ始末。
 ソイツ等は今、大手企業や役所、銀行員や大学教授になっている。

 みんな柔道の体育の時間で投げ飛ばし、復讐した。


 私は担任には恵まれなかっったが、他の教科の先生には恵まれ、目に掛けてもらった。
 武蔵野美大出身の美術の長嶺先生、英語の湯田先生、数学の三留先生にブラバンの新しい顧問になった音楽の大滝先生、社会の湯田先生。
 そして国語の和田先生。みんなが私に学問の面白さを教えてくれた。
 特に私に読書の楽しさを教えてくれたのが国語の和田先生だった。

 「菊池、何でもいいから一冊本を読んで感想文を書いてみろ」

 私は初めて本屋に行って自分で本を買った。
 一番薄くて安い本を買った。

 ディケンズの『クリスマスキャロル』

 夏休みの読書感想文の課題図書など買って貰えなかった私は、いつも夏休みの宿題は『夏休みの友』しかやっていかなかった。
 私は今まで本を読んだことがなかった。
 この本を読んだ時、面白くて一気に読んだ。

 感想文を書いて和田先生に提出すると、凄く褒めてくれた。
 和田先生はその読書感想文に花丸とコメントをもらった。
 
 私はそれが大変うれしくて図書委員になり、委員長に抜擢された。
 高校を出たばかりの新人の図書司書のお姉さんにも可愛がられ、彼女に横恋慕していた担任に、マジにブチ切れられたこともあった。
 卒業式当日、その図書の先生からボールペンとシャーペンのセットと、手紙を貰った。


 私は図書館に入り浸るようになり、たくさん本を読んだ。
 休み時間もみんなとバレーボールやサッカーもせず、ひとり教室の隅で本を読んでいた。

 ゲーテの『ファウスト』を読んだ時、自分も戯曲を書いてみようと思い立ち、原稿用紙70枚程度の戯曲を書き上げ、和田先生に持って行くと驚いてくれた。

 「これを菊池が書いたのか? 凄いなお前。
 これに歌を付けるといいと思うぞ」

 私がそれから小説や作詞、俳句に短歌などを書くようになり、コンクールで賞も受賞するようになった。

 私が物書きになれたのは和田先生のおかげである。
 中学1年の時、和田先生に出会えなければ私の楽しみはなかったはずだ。

 私が教職に携わる人に厳しいのは、その時の経験があるからだ。
 先生はその子供の将来を変える「聖職者」であることを忘れて欲しくない。

 「教師だって労働者だ。労働者に正当な権利を!」

 そんな人には教師になって欲しくはない。
 本来教師は凄く大変な仕事で、神聖な仕事だから。

 
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