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第24話
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なぜこの私の人生備忘録のタイトルが『未完成交響曲』なのかというと、それは人生が「未完成のまま終わる」という理由からである。
死は人生の中断である。どこまで書けるかわからないが、自分の歩んで来た人生の記録を残したいと思ったからだ。
それは私の別れた家族や女たちに、自分の生きざまを知って欲しいと思ったからだ。
出来れば私が死んでから読んで欲しいものである。
4年生になると、寮生活はパラダイスになった。
平民から貴族への昇格で、ようやく外敵からも開放され、気を遣う人間がいなくなったからである。
まるで毎日がリゾートホテルで暮らしているようだった。
私はさらにバイトに勤しんだ。
学校以外の人との会話が楽しく新鮮だった。
大体講義が16時には終わるので、4年生、5年生用の大浴場はほぼ独占状態である。
風呂から上がり、バイトに行くためにバス停に向かって歩いていると、富山市内に帰る助教授から声を掛けられることもあった。
「菊池、これからバイトか?」
「はい」
「乗って行け。送って行ってやるから」
「ラッキー!」
3年生、4年生になって来ると、教官や事務職員とも仲良くなった。
よく可愛がってもらった。
食堂のおばちゃんたちからは、「菊池君、今日は鰻だからお替りしなよ」と言われ、お替りをした。
「菊池、この前の試験、結構良かったぞ」
「ありがとうございます。大森教官の応用数学だけは好きなんですよ」
「わからないところがあれば、当直の時にいつでも訊きに来い、俺も退屈だからな。あはははは」
そんな教官たちが多かった。
専門教科の教官は高専に残って教授になって退官することが多いが、殆どの先生は大学や大学院に戻って、教授や学長になったりしていた。
痺れるくらい凄い頭脳の先生たちだが、決してそんなことを鼻にかけることはない。
学生を親切に応援してくれた。
4年生になると授業カリキュラムは格段に難しくなった。
国語、経済学、保健体育、武道、解析Ⅰ、解析Ⅱ、フランス語、応用数学、情報処理、電気工学、電子工学、自動制御、船舶安全工学、海事法規、船舶工学、運用学、航海学、海洋気象学Ⅰ、海運論、船舶衛生学、船舶整備論、商学通論、電子電気工学Ⅰ、機械力学など、実験やレポートも多くなった。
なぜ私がこんなことまでだらだらと書くのかというと、あまりにも船乗りに対するイメージが低すぎるからである。
マドロス帽を被ってボーダーのシャツを着て、首にネッカチーフを巻いてビットに足を掛けてギターを背負っているようにイメージされる船乗りだが、専門知識と技術、精神力、判断力、統率力が要求される仕事だ。
パイロットに憧れる子供は多いが、船乗りに憧れる者は少ない。
家族と離れて嵐の海を越え、日本の世界貿易を支えているのにだ。
その苦労を少しは分かって欲しい。
船乗りがいないと、石油も小麦も鉄も何も入っては来ないし、優れた日本製品を海外に輸出することも出来ないのである。
命がけで日本の物流を支えている船乗りたちにエールをお願いしたい。
商船高専は5年生になると、運輸省航海訓練所で1年間の実習過程に移るので、卒業式はアメリカのように秋口になる。
つまり夏が終わると我々4年生は遂に貴族から「神様」になれるのだ。
同じ釜のメシを食って苦楽を共にした私たちの団結力はすこぶる強い。
そういえば同級生を渾名で呼ぶことはなかった。みんな苗字を呼び捨てにしていた。
夏休み前、私はスワヒリ語の日本の権威でもある、英文法の金川欣二先生からアフリカへ誘われた。
先生は岩波新書でも執筆している学者である。
「菊池、夏休みにアフリカのケニアのナイロビに行くんだけど、お前も一緒について来いよ。
費用は10万円だが、なければ俺が貸してやるから。
もちろん現地では野宿だから来週から神通川でキャンプの練習をするから参加しろ」
うれしかった。
尊敬している金川先生にアフリカに誘われたことが。
おそらく先生は思ったはずだ。
「コイツにはアフリカを体験させた方がいい」
のだと。この先生はまさに私にとっての金八先生だった。
だが、折角のお誘いであったが私は辞退した。
当然そんな余裕はなく、先生に負担していただくのも申し訳ないと思ったからだ。
夏休み明けのある日の夜、航海学科のA組全員で、学校と道路を一本隔てた砂浜で流木を拾い集め、焚き火をし、酒を飲んだ。
一人ずつ、みんなで自分のお国自慢の歌を歌った。その度にみんなが手拍子をして一緒に歌った。
かなり盛り上がった。
そして最後はみんなすっ裸になり、海に飛び込んだ。
びしょびしょになって歩いて寮に帰り、みんなで風呂に入った。
青春だった。
私たちは富山商船高専に集う、家族だったのである。
死は人生の中断である。どこまで書けるかわからないが、自分の歩んで来た人生の記録を残したいと思ったからだ。
それは私の別れた家族や女たちに、自分の生きざまを知って欲しいと思ったからだ。
出来れば私が死んでから読んで欲しいものである。
4年生になると、寮生活はパラダイスになった。
平民から貴族への昇格で、ようやく外敵からも開放され、気を遣う人間がいなくなったからである。
まるで毎日がリゾートホテルで暮らしているようだった。
私はさらにバイトに勤しんだ。
学校以外の人との会話が楽しく新鮮だった。
大体講義が16時には終わるので、4年生、5年生用の大浴場はほぼ独占状態である。
風呂から上がり、バイトに行くためにバス停に向かって歩いていると、富山市内に帰る助教授から声を掛けられることもあった。
「菊池、これからバイトか?」
「はい」
「乗って行け。送って行ってやるから」
「ラッキー!」
3年生、4年生になって来ると、教官や事務職員とも仲良くなった。
よく可愛がってもらった。
食堂のおばちゃんたちからは、「菊池君、今日は鰻だからお替りしなよ」と言われ、お替りをした。
「菊池、この前の試験、結構良かったぞ」
「ありがとうございます。大森教官の応用数学だけは好きなんですよ」
「わからないところがあれば、当直の時にいつでも訊きに来い、俺も退屈だからな。あはははは」
そんな教官たちが多かった。
専門教科の教官は高専に残って教授になって退官することが多いが、殆どの先生は大学や大学院に戻って、教授や学長になったりしていた。
痺れるくらい凄い頭脳の先生たちだが、決してそんなことを鼻にかけることはない。
学生を親切に応援してくれた。
4年生になると授業カリキュラムは格段に難しくなった。
国語、経済学、保健体育、武道、解析Ⅰ、解析Ⅱ、フランス語、応用数学、情報処理、電気工学、電子工学、自動制御、船舶安全工学、海事法規、船舶工学、運用学、航海学、海洋気象学Ⅰ、海運論、船舶衛生学、船舶整備論、商学通論、電子電気工学Ⅰ、機械力学など、実験やレポートも多くなった。
なぜ私がこんなことまでだらだらと書くのかというと、あまりにも船乗りに対するイメージが低すぎるからである。
マドロス帽を被ってボーダーのシャツを着て、首にネッカチーフを巻いてビットに足を掛けてギターを背負っているようにイメージされる船乗りだが、専門知識と技術、精神力、判断力、統率力が要求される仕事だ。
パイロットに憧れる子供は多いが、船乗りに憧れる者は少ない。
家族と離れて嵐の海を越え、日本の世界貿易を支えているのにだ。
その苦労を少しは分かって欲しい。
船乗りがいないと、石油も小麦も鉄も何も入っては来ないし、優れた日本製品を海外に輸出することも出来ないのである。
命がけで日本の物流を支えている船乗りたちにエールをお願いしたい。
商船高専は5年生になると、運輸省航海訓練所で1年間の実習過程に移るので、卒業式はアメリカのように秋口になる。
つまり夏が終わると我々4年生は遂に貴族から「神様」になれるのだ。
同じ釜のメシを食って苦楽を共にした私たちの団結力はすこぶる強い。
そういえば同級生を渾名で呼ぶことはなかった。みんな苗字を呼び捨てにしていた。
夏休み前、私はスワヒリ語の日本の権威でもある、英文法の金川欣二先生からアフリカへ誘われた。
先生は岩波新書でも執筆している学者である。
「菊池、夏休みにアフリカのケニアのナイロビに行くんだけど、お前も一緒について来いよ。
費用は10万円だが、なければ俺が貸してやるから。
もちろん現地では野宿だから来週から神通川でキャンプの練習をするから参加しろ」
うれしかった。
尊敬している金川先生にアフリカに誘われたことが。
おそらく先生は思ったはずだ。
「コイツにはアフリカを体験させた方がいい」
のだと。この先生はまさに私にとっての金八先生だった。
だが、折角のお誘いであったが私は辞退した。
当然そんな余裕はなく、先生に負担していただくのも申し訳ないと思ったからだ。
夏休み明けのある日の夜、航海学科のA組全員で、学校と道路を一本隔てた砂浜で流木を拾い集め、焚き火をし、酒を飲んだ。
一人ずつ、みんなで自分のお国自慢の歌を歌った。その度にみんなが手拍子をして一緒に歌った。
かなり盛り上がった。
そして最後はみんなすっ裸になり、海に飛び込んだ。
びしょびしょになって歩いて寮に帰り、みんなで風呂に入った。
青春だった。
私たちは富山商船高専に集う、家族だったのである。
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