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第8話

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 私の家にはあまり物がない。
 自分が描いた絵が数点と、観葉植物のアレカヤシとパギラ、そしていくつかのサボテン。
 床にはチーク材を使い、壁は漆喰にした。
 黒革のソファーに大きなオークのダイニングテーブルと、壁掛けの大型テレビ。
 それと趣味のオーディオセット。
 あとはグランドピアノが一台、あるだけの家だった。

 それは作曲家が家であまり音楽を聴かないのと似ているかもしれない。
 坂本龍一はオフィスで音楽を聴かないらしい。
 自分以外の音楽は、創造の妨げにしかならないからだ。
 私は自分のいる空間は、なるべく白いカンバスのままにして置きたかった。

 ストイックに生活することが、自分の作品のクオリティを高めることになると信じていた。
 つまり、自分の欲望を創作へのエネルギーに変換して来たつもりだった。
 だが、それも危うくなった。

 涼子はレタスの葉を指で千切り、サラダの準備をし、私はベーコンエッグを焼いていた。
 女と並んでキッチンに立つことなど、今まで一度もなかった。
 今まで付き合った女はいたが、私が作るか、女が作るかだった。

 「ねえ、トマトはどうする? 私はキューブにざく切りするのが好きなんだけど?」
 「俺もそれが好きだ。あと玉ねぎを多めで頼む」
 「私も玉ねぎ大好き。みじん切りでいいよね?」
 「ああ、それでいい。ベーコンはどうする? 俺はカリカリに焼いた方が好きだけど?」
 「私も同じ。
 なんだか私たち、好みが一緒みたいね?」

 こんな何気ない会話が、今の私たちにはしあわせだった。

 「カフェ・オ・レでいいか?」
 「うん、ミルク多めでお願い」

 いつもはエスプレッソだったが、今日は涼子に合わせてカフェ・オ・レにした。
 彼女の体には刺激が強いと思ったからだ。


 「では、いただきます」

 白いレースのカーテンから、新鮮な朝の光が差し込んでいた。
 白い食器やグラスが輝き、そしてそこには涼子の笑顔があった。
 
 「フリージアの香りって好き。お花はいつも飾っているの?」
 「近所の花屋で金曜日にね。
 独身男の家は殺風景だからな? 女の代わりだよ」
 「何年振りかしら? 男の人と朝食を食べるなんて?」
 「俺も同じだよ」
 「朝食って特別だよね?」
 「昔はよく「夜明けの珈琲」とか言っていたけどな? 珈琲だけじゃ味気ない」
 「そして一緒に作って、一緒に食べる朝食。
 すごく理想だったの、この朝食のカンジが」

 彼女も私と同じことを考えていたようだった。

 「ブラームスとモーツアルト、どっちがいい?」
 「ブラームスかな? 今の気分は」


 私はカラヤン指揮のベルリンフィルのレコードに、慎重にレコードプレイヤーの針を落とした。
 ヴァイオリン協奏曲ニ長調。

 涼子はカフェ・オ・レのカップを白い手で包み込むように飲んでいた。
 
 「海の家が完成するまでの間、ここで一緒に暮らさないか?」
 「えっ」
 
 そして彼女はカフェ・オ・レに視線を落とした。

 「ダメよ。私、もうすぐ死んじゃうんだよ?」
 「死なないやつなんて誰もいない。
 俺もいつかは死ぬ。それに君より先に俺が死ぬ可能性だって十分にある」
 「これ以上、しあわせになったらお家が完成する前に死んじゃうかもしれない。
 ありがとう、でも、凄くうれしい・・・」
 「君への同情で言っているわけではない。
 恋とは下に心と書くだろう? 
 恋は下心なんだよ。

        take and take

 相手から奪うもの、それが恋だ。
 でも愛は心が真ん中にある、あれもしてあげたい、これもあげたいという献身の想いだ。

        give and give

 それが愛だと思う。
 僕は君にもっと沢山のことをしてあげたい。
 君を愛したいんだ」
 「でも新一さんに私がしてあげられることはあまりないわ。
 そしてこれからさらに、あなたへの負担が増えていくのよ?」
 「君に出来ることはある。君だけにしか出来ないことが」
 「それはどんなこと? お掃除もお料理もお洗濯も出来なくなっていくのよ」
 「君にその時が来るまで、笑顔でいてくれたらそれでいい。俺はそれで満足だ。
 僕は君を笑顔で送りたい」

 私は涼子を後ろから強く抱きしめた。

 「逆らっても駄目だ、もうそう決めたんだ。
 ここで一緒に暮らそう」
 
 彼女は私の手に自分の手を重ねた。

 「海の家が出来たらどうするの?」
 「そこで一緒に暮らそう、毎日海を見ながら。
 そしてお互いを見詰めながら、自然に」

 私たちはそっと唇を重ねた。
 ブラームスの音楽に包まれて、カフェ・オ・レの味がした。

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