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第13話

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 由紀恵は亡夫、和也の夢を見ていた。

 夫はパリの白い部屋で、沢山の鉢植えに水をやっていた。

 「ねえ、朝食の卵はどうする? 目玉焼き? それともスクランブルエッグ?」
 「由紀ちゃん、彼は辞めた方がいいよ。
 彼はもうすぐ死んでしまう」
 「彼って誰のこと? おかしな人」
 
 すると夫が伸之に変わった。

 「さようなら、由紀恵」
 「伸之!」
 

 目が覚めた。イヤな夢だった。
 隣で寝ている筈の北川の姿がない。

 「んっ! 伸之がいない!」

 由紀恵は慌てて身支度を整え、化粧もせずに北川を探しに出掛けようとした時、北川が戻って来た。

 「着替えてどこに行くんだ? すっぴんのままで」
 「一体どこに行っていたのよ! 凄く心配したんだから!
 伸之のバカ!」

 由紀恵は伸之に縋って泣いた。
 北川は焼き立てのバゲットを由紀恵に渡した。

 「ごめん、バゲットを買いに行ってたんだ。
 由紀恵にこの焼き立てのバゲットをどうしても食べさせたくて」
 「すごくいい香りがする」

 由紀恵はそのバゲットを千切り、食べた。

 「美味しい・・・。パリのバゲットより美味しいわ」
 「ゲーテは言った。「涙と共にパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない」とな?
 だからお前は人生の味を知ったというわけだ。おめでとう」
 「人生の味って、素敵な小麦の味がするのね?」
 「旨いだろう? そのパン」

 由紀恵はまだ温かいバゲットを千切って、俺の口に入れてくれた。

 「うん、やっぱり旨いな? これ」
 「もう勝手にいなくならないでね?」
 「本当は一緒に行こうと思ったんだが、あまりにもよく眠っていたから俺一人で行って来たんだ。
 ごめん」
 「ありがとう。とっても美味しい」
 「今、コーヒーを淹れるよ」

 そんな朝から今日が始まった。



 アントワープ動物園はアントワープ中央駅に隣接していた。
 とても動物園には見えない外観だった。

 「動物園って、中央駅の隣にあったのね?
 何だか宮殿みたい」
 「このパンフレットによると、1843年に『王立動物学協会』として創設されたらしい。
 広さは10ヘクタール、8,000種類もの生き物がいるそうだ。
 とても全部は回り切れねえな?」
 「動物園というよりも巨大な庭園ね?」


 俺と由紀恵は園内を腕を組んで散策した。
 穏やかな冬の日だった。

 「ここには世界でもめずらしいオカピやコンゴ孔雀がいるらしい。
 アフリカのコンゴはベルギーの植民地だったからな?」
 「オカピって図鑑でも見たことがないわ」

 動物たちは多頭飼いされ、優美なクラシカル・ガーデンが続いていた。

 グレイト・エイプスの施設に入ると、ゴリラがいた。

 「うふっ なんだかあなたみたい。愛想がなくて」
 「俺はあんなに強そうじゃねえよ。どちらかと言うとチンパンジーだな?」
 「じゃあ私もメスのチンパンジーになる」
 「お前は白鳥だよ」

 (由紀恵、お前は白鳥だ。また北へと帰る白鳥だ)


 疲れたので『Grand Cafe Framing』でお茶にすることにした。
 吹き抜けのある大空間には天井まである大きな窓があり、ピンクのフラミンゴを見ながら俺たちはカフェ・オ・レを飲んだ。

 「フラミンゴって飛んで逃げないのかしら?」
 「フラミンゴは飛行機のように滑走路が必要らしい。
 飛び立つためにはかなりな助走がいる。
 だからここのフラミンゴは飛べない。
 日本の福島にもあるんだ。フラミンゴを見ながら食事が出来るレストランが」
 「そうなの?」
 「『メヒコ』という、カニピラフで有名な店だ。
 面倒な女と行くには丁度いい。カニピラフの蟹が殻付きなんだ。
 だから蟹の殻を剥いている時はお互い無口になるからだ」
 
 俺はその時、沙都子を思い出していた。
 以前、沙都子と東北を旅行した時、たまたま立ち寄った店が『メヒコ』だった。
 俺は沙都子のために、蟹の殻から身を取り出すのに夢中だった。

 「ありがとう。もういいからノブも食べて」



 「そのお店に沙都子さんと一緒に行った訳だ?」
 「俺ひとりの『孤独のグルメ』だよ」
 「ふふっ ウソばっかり。
 でもいいの。私も今、こうしてあなたとフラミンゴを見ながらお茶しているから。
 でも今度はそのお店で「カニピラフ」が食べたいけど。お茶じゃなく」

 由紀恵は俺を見ずに、フラミンゴを見ながらカフェ・オ・レを飲んでいた。
 綺麗なその横顔には憂いがあった。


 (怖い。このひとが死んでしまうなんて)

 
 俺は由紀恵がそんなことを考えていたなんて、その時夢にも思わなかった。
 
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