★【完結】アントワープ恋物語(作品240120)

菊池昭仁

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第14話

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 ベッドでのピロートーク。
 俺は由紀恵の髪を撫でながら訊ねた。

 「歌うのはもう辞めたのか?」 
 「うん。だってもう歌えないんだもん」
 「そう決めつけるのはまだ早いんじゃないのか?
 歌えないのと「歌わない」のは違うと思うけどな?
 自分で限界を決めてどうする?
 お前が歌えないかどうかを決めるのは、お前のファンだ」

 由紀恵は俺の顎にそっと指を置いた。

 「そうかもしれないけど、もうプロとしてお金を貰って舞台に立つわけにはいかないわ。
 お客様がそれで納得しても、私が納得出来ない」
 「俺はお前が大聖堂で歌った、あの『Woman ~Wの悲劇~』のアカペラには感動したけどな?」
 「ありがとう。でもあの程度じゃ本当の私の歌じゃない。ちょっと歌の上手い素人と同じよ」
 「由紀恵は自分に厳しいんだな?
 ところでひとつお願いがあるんだ。もし俺が死んだら、グノーの『Ave Maria』を歌って欲しい」
 「じゃあその時まで練習しておくわ」
 「頼む。約束だ」
 「約束のキスして」

 俺は由紀恵にキスをした。

 

 霧の深い朝だった。
 俺たちは運河沿いを散歩していた。
 風がなく、水辺に並ぶ風車は止まったままだった。
 大きな貨物船がドックを通過して行った。

 「大きなお船ね?」
 「アントワープ港はヨーロッパ第2位の貿易港だからな? 干満の差が大きいからパナマ運河のようにドックで水を注水したり排水したりして、上がったり下がったりしながら出入港をするんだ」
 「この運河を作るのはさぞかし大変だったでしょうね?」 
 「白人のやることはスケールがデカいよな? 
 そろそろ寒くなって来たからホテルに戻るか?」
 「うん、何か温かい物が食べたい」

 俺は朝からあまり体調が優れなかった。

 
    ゲボッ ゲボッ


 突然ドス黒い血を吐いた。

 「伸之!」

 咄嗟に由紀恵が俺の口を手で塞ごうとしたが、その手の隙間から俺の吐く血が石畳に滴り落ちて行った。
 由紀恵はすぐに救急車を呼んだ。
 
 
 

 病院に救急搬送された俺にすぐに応急処置が施され、出血は止まった。
 処置をしてくれた老医師が問診を始めた。

 「何か既往症はありますか?」

 俺は診察台で抗生剤の点滴を受けながら言った。

 「末期の膵臓癌なんです」
 「・・・なるほど。その診断はいつ、どこで受けましたか?」
 「2ヶ月前に日本で受けました」
 「そうでしたか。一応、どの程度病気が進行しているか検査してみましょう」
 「お願いします」


 
 結果は予想していた通りだった。

 「痛みはかなり前からあったはずですが?」
 「そうですね」
 「いかがでしょう? 一度日本に帰国されては? 
 尊厳のある死をふる里で迎えるために。
 取り敢えず、少し症状が収まるまで入院していただくことになります。
 これからのことはよく考えて見て下さい」


 診察室の前で待っていた由紀恵が心配そうに俺に駆け寄って来た。

 「先生、何だって?」
 「ただの飲みすぎだそうだ。
 酒を控えろと言われたよ。
 数日で退院出来るそうだ」
 「ああ良かった。このまま死んじゃうのかと思っちゃった。
 それじゃあ私も今日から禁酒するね?」
 「お前はいいよ、俺に付き合うことはない」
 「ひとりで飲んでも美味しくないもん」


 (由紀恵。悪いがどうやら計画が少し早まりそうだ)




 翌朝、余程疲れていたのか、由紀恵は椅子に座ったまま、安心してよく眠っていた。
 俺は由紀恵に遺書を書き、病院を出た。
 俺の死に場所、アントワープ大聖堂へ向かうために。

 

 激しい吹雪の朝。俺はタクシーに乗り、大聖堂へと急いだ。
 頭の中ではモーツァルトの『レクイエム』が鳴り響いていた。


      主よ 彼らに永遠の安息を・・・
 
 


 由紀恵が目を覚ました。
 北川の点滴が残ったまま放置されていた。
 彼の姿がベッドになかった。
 ベッドの上にメモ紙が置かれていた。


 
     愛する由紀恵へ

     お前と出会えて本当に良かった。
     色々と楽しかったよ。ありがとう。
     おかげで俺は有意義な最後を送る事が出来た。
     感謝している。

     このキャッシュカードはお前へのお礼だ。
     暗証番号はお前と初めて出会った日の「1220」にしてある。
     パリで何か美味い物でも食ってくれ。

     それから歌は辞めるな。
     お前はみんなのDivaだから。

     さようなら、由紀恵。

                
               たくさんの愛を込めて 

                     北川伸之



 
 由紀恵は病院を飛び出し、タクシーで北川を追い駆けた。

 「アントワープ大聖堂まで。急いで!」

 タクシーは吹雪の中を走り出した。


 (伸之のバカ! いつも一緒だって言ったのに!)

 
 由紀恵の心は悲しみと焦りで軋んでいた。

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