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第16話 冴島の誤算

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 冴島と遥の密会はその後も頻繁に続いていた。


 「遥、最近あまり有給を取っていないようだけど大丈夫か? そんなに働いて?」

 夫の光一郎は言った。

 「大丈夫だよ、夜は家でなるべくゆっくりしたいからね、しょうがないよ」

 私は既に有給を使い果たし、冴島と会うために私用の休暇申請までしていたのだ。
 ふたりは夜に会うよりも、日中に会うことの方が都合が良かった。
 それは私が人妻であり、冴島も日中の方が比較的時間が自由になったからだ。



 今日も遥は冴島との逢瀬を楽しんでいた。


 「保育園のお迎えだからもう行かなくっちゃ」
 「遥、もう一度僕と人生をやり直さないか?」
 「私はこのままで十分しあわせ」


 遥は冴島から体を離し、シャワーを浴びにベッドを降りた。


 冴島は昨夜の妻の礼子との遣り取りを思い出していた。
 冴島は不倫の罪悪感を払拭するために、礼子を抱こうとした。
 すると礼子は、

 「そんなにしたければそういうお店にでも行けばいいでしょう?
 止めて、そんな気分じゃないの」

 妻の礼子とのセックスレスは、娘の渚が生まれてからすでに15年が経過していた。
 娘の渚とも父娘の関係は良くなかった。
 私立の一貫校なので受験の心配はなかったが、娘との会話は殆ど無かった。
 この家での冴島はただの同居人だった。
 夫でも父でもなく、ただ経済的に家族を支えているだけの存在だったのだ。



 1週間後、冴島は役所に離婚届を取りに出掛けた。
 窓口で離婚届の用紙を申請すると、担当の若い女性職員は別にめずらしいという様子もなく、事務的にそれを渡して説明をしてくれた。

 
 冴島はカフェで離婚届を広げてサインをし、捺印をした。

 (カネさえあればあいつらは俺を必要とはしない。俺は遥と人生をやり直すんだ)

 冴島は冷めてしまった珈琲を飲むのを止め、ウエイトレスを呼んだ。

 「すみません、ビールを」

 気怠い午後の陽射しの中で冴島はビールを飲み干し、離婚届を鞄に仕舞った。



 娘の渚が友だちと出掛けた土曜日の午後、冴島はリビングで編物をしていた礼子に声を掛けた。


 「話があるんだ」
 「何の話かしら?」

 礼子は編物の手を止めなかった。
 冴島は書斎に向かうと鞄から離婚届を取り出し、それを礼子の前に広げた。


 「俺と離婚してくれ」

 妻の礼子は編物の手を止め、それに動じることなく静かに微笑んで見せた。

 「どうして?」
 「もう俺は君たちには必要のない人間だからだ。
 カネのことは心配しなくていい、それ相応の対価は支払うつもりだ。
 この家も君たちに渡し、俺はここを出ることにする」
 「そしてあの人妻さんと暮らすつもりね? 君島遥さんと。若くて綺麗な人よね?
 私みたいなオバサンと違って」

 冴島は凍り付いた。

 「私も随分舐められた物ね? これでも総合商社の元社員、出来るだけ多くの情報を集め、それを的確に分析して行動計画を立案する。そんなの常識でしょう?
 知らないとでも思った? あなたたちのこと?
 あーははは、あーおかしい」

 礼子は高笑いをし、キッチンに隠しておいた調査会社の報告書を冴島の前に叩きつけた。

 「いつあなたがそれを持ってくるのかとワクワクして待っていたわ。
 随分楽しそうな顔してホテルに入って行くのね? いい歳して手なんか繋いじゃって。
 こんなうれしそうなあなたの顔、結婚して以来見た事がなかったわ。
 お金なんか貰っても別れないわよ、絶対に。
 あなたたちを絶対に幸せになんかさせないから!」
 「お前は俺に抱かれようともしなかったじゃないか!15年も!」
 「あなた渚が私のお腹にいる時、自分の部下の直子とかいう女と浮気していたじゃないの!
 こっちが悪阻で苦しんでる時に!
 そんな他の女を抱いた男なんて私には無理!
 私は商売女じゃないわ!」
 「・・・」

 冴島は当時、仕事のストレスと礼子の妊娠で、部下だった小野寺直子と数回、関係を持ってしまったことがあった。
 礼子はそれをずっと根に持っていたのだ。

 「すまなかった・・・」
 「認めるのね? あなたは何もわかっちゃいない。
 渚ともちゃんと話したことある? 
 一番父親が必要な時もあなたはいつも仕事、仕事、仕事。
 渚の話をきちんと聞いてあげたこともなかったじゃない! それでも父親なの!
 私たちがあなたを捨てたんじゃない! あなたが私たちを捨てたのよ!」

 礼子はそのままキッチンに行き、包丁を抜いて自分の手首に宛てた。

 「どうしても私が邪魔なら死んであげるわよ、今ここで!」
 
 礼子は手首に宛てた包丁を一気に引いた。
 鮮血が溢れ出し、床に血が滴り落ちた。

 「礼子!」

 冴島はすぐに包丁を取り上げ、タオルで腕を縛り、キッチンペーパーで傷口を抑えた。

 「ほら見て、凄く綺麗。動脈の血ってこんなに鮮やかなのね?
 あーははは、あーははは・・・。うううううっつ」

 離婚届が礼子の血で染まった。

 「押してあげましょうか? 私の血判」

 礼子は大きな声を上げて泣き続けた。
 冴島は救急箱から消毒液とガーゼ、包帯を取り出し、応急処置をしてクルマに礼子を乗せた。
 
 「今回はデモンストレーション、次は確実に死んであげるから安心しなさい」
 「もう止めろ・・・、俺が悪かった」

 礼子は目の涙を指で拭った。
 それは冴島の誤算だった。
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