★【完結】海辺の朝顔(作品230722)

菊池昭仁

文字の大きさ
2 / 21

第2話 未遂

しおりを挟む
 富山に着いた。
 すっかり様変わりしてしまった富山駅には、学生時代の面影はもうなかった。

 私はタクシーに乗り、予約しておいた鯰鉱泉の宿へと向かった。
 タクシー運転手は話好きな老人だったが、私が返事をしなかったので、無言のまま目的地に着いた。


 「神崎様、長旅お疲れ様でした。
 では、お部屋へご案内いたします」

 年配の、人の良さそうな丸顔の仲居が出迎えてくれた。


 私は湯に浸かり、旅人の気分を味わった。
 食欲はなかったが、出されたお膳を少しだけ啄み、富山の地酒を飲んだ。


 床に就いたが中々眠れなかった。
 くだらない深夜のお笑い番組を観ても笑う気にもなれず、いつの間にか朝を迎えた。


 朝風呂に入り、朝食を肴にビールを飲んだ。


 私は会計を済ませて宿を出ると、富山湾沿いを走る路線バスに乗り、最期の目的地へと向かった。



 かつて私が青春時代を過ごした場所、海老江練合えびえねりやでバスを降りた。
 天然ガスの微かな匂いと、懐かしい磯の香り。
 蘇る学生時代の思い出。
 久しぶりの日本海だった。夕暮れの穏やかな海。
 日本海では沈む夕日が見える。
 私は朝日が煌めく雄大な太平洋より、夕焼けに染まる日本海が好きだった。

 日本海に夕日が沈み、富山新港の灯台が光り始め、星が輝き出した。
 綺麗な星空だった。
 
 私は持って来たウィスキーで睡眠薬を多量に流し込み、背広を脱いでネクタイを外し、砂浜に大の字になった。
 春とはいえ、まだ肌寒かった。

 睡眠薬が効き始め、起きる気力は失せた。
 意識はあるが、瞼を開けることが出来なかった。

 波が砂に滲み込んでいく音が耳元で聞こえていた。
 潮が満ちて来ているようだった。
 あと2時間もすれば満潮を迎え、私は離岸流に乗って沖へと流されて行くだろう。

 西北西の風、風力2。
 「船乗りの死に場所は海だ」と、船長をしていた先輩がよく言っていた。
 だから私も元航海士として、死に場所をこの新湊の海に選んだのだ。
 この母なる海で。

 
     我、海に憧れ海に育ち、そして今、海に船出する


 海を生業なりわいとしていた者にとって、海はいつまでも艶めかしく、母のように慈愛に満ちていた。
 嵐の海も、穏やかな海も、決して海は手を抜くことはない。
 海はいつも真剣なのだ。

 誰にも知られず、看取られることもなく、海へ流され私は泡沫となり、消える。
 家族も友人も去って行った。
 私には守るべき物も、失う物も何もなかった。



 私は3日前、医師から死を宣告された。
 

 「神崎さん、ご家族は?」
 「おりません、7年前に家族とは別れました。
 今、どこに住んでいるのかさえもわかりません」
 「そうでしたか・・・。
 心エコーの検査で心筋梗塞と判明しました。
 現在、神崎さんの心臓は50%しか機能していない状態です。
 紹介状を書きますので、一刻も早く設備の整った大学病院で精密検査を受けることをお勧めします」
 「先生、心筋梗塞と言えば末期がんと同じだと聞きますが、私はあと、どのくらい生きられますか?」

 銀縁のメガネを掛けた、温厚そうな中年医師は即答を避けた。
 私は法廷に立つ被告人のように、裁判長としての医師からの余命宣告を待った。
 数秒の沈黙の後、右手の中指で眼鏡の位置を整えると医師は言った。

 「それは医者である私にもわかりません。
 寿命は神のみぞ知ることですから」

 ベストアンサーだった。



 私はクリニックを出て、川辺の駅に続く道を歩いた。
 散り行く間際の桜が春風に揺れ、花びらが風に飛ばされていった。
 川面に散った桜の花びらが、無数に川を流れて行く。
 川はピンクに染まっていた。
 その光景に私は自分の姿を投影した。

 自分が死ぬことなど考えもしなかった。
 私はいつ訪れるかもしれない死の恐怖に怯えた。


      死んだらどうなるのだろう? 

 
 私は会社を倒産させ、家を追われ、すべての財産を失った。
 家族を食べさせるため、生きてゆくために私は何でもやった。
 私はあの日から夫であることも、父親であることも捨て、命掛けで働いて来た。
 そしてやっと希望の光が見え始めた時だった。


 私は土手に咲くタンポポの花を泣き叫びながらむしり取り、川に向かって投げつけた。
 まるで狂人のように。

 「何のために俺は生きて来たんだ!」

 私は自分の人生に失望した。
 私はそのまま土手に仰向けになり、ネズミ色の空を見上げた。
 流されて行く千切れ雲。
 私は死を待つことを止め、自ら死ぬことを決意した。



 そして私は青春時代を過ごしたこの新湊の海にやって来たのだ。死場所を求めて。

 人は死ぬ間際、今まで生きてきた自分の人生のショートムービーを観るという。
 それが喜劇であることを私は願った。
 
 そろそろ上映開始のベルが鳴る。
 人はひとりで生まれ、ひとりで死んでゆくのだ。
 潮が満ちて来た。私の足元を波が舐め始めた。
 私の目から涙が零れ、砂に落ちて行った。

 口に海水が入って来た。
 私はその時、涙が海水と同じ成分であることを知った。
 そして私は自分が海から生まれ、そして今、海に帰ろうとしていることを。
 
 私は自分の映画を観ることもなく、私の記憶はそこで途絶えた。





 「神崎さん! 分かりますか? ここは病院ですよ!」

 白い無機質な天井、消毒液の匂い、医療機器の作動している電子音が聞こえていた。
 気が付くと私は病院のベッドに寝かされていた。
 若いナースがしきりに私の名前を呼んでいる。

 「よかった意識が戻って。
 今、先生を呼んで来ますね!」
 
 どうやら私は死に損ねたらしい。
 若い細面ほそおもての医師がすぐにやって来た。

 「お名前は?」
 「神崎仁です」
 「この指が何本に見えますか?」

 医師はマニュアル通りの診察を始めた。

 

 一通りの診察が終わり、彼は言った。

 「神崎さんのご事情は私にはわかりません。
 ただ、人は自分で死を望まなくても、死は向こうから勝手にやって来るものです。
 神崎さんがここに運ばれて来たのは、たまたま近くを犬の散歩で通り掛かったご老人があなたを発見し、通報してくれたからです。
 その方はこう仰っていました。
 「助けたなんて言わんでくれ。その代わり、もしも命を捨てるというのであれば、その命、ワシにくれと伝えてくれ」と。
 私も多くの臨終に立ち会いますが、いつも考えさせられます。
 人の命って何だろうと」

 私は病室から見える吸い込まれそうな春の青空を眺め、再び、あの日本海の海を思い出そうと目を閉じた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

放課後の保健室

一条凛子
恋愛
はじめまして。 数ある中から、この保健室を見つけてくださって、本当にありがとうございます。 わたくし、ここの主(あるじ)であり、夜間専門のカウンセラー、**一条 凛子(いちじょう りんこ)**と申します。 ここは、昼間の喧騒から逃れてきた、頑張り屋の大人たちのためだけの秘密の聖域(サンクチュアリ)。 あなたが、ようやく重たい鎧を脱いで、ありのままの姿で羽を休めることができる——夜だけ開く、特別な保健室です。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...