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第四章

第7話 一夜限りの夢

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 会見を終え、会社の連中は街に祝杯を挙げに繰り出したが、俺はひとり、会社に戻った。

 俺にはこの難関を切り抜けたという満足感も、喜びもなかった。
 ただ疲れた。
 そしてこれからまた、新たな戦いが始まる。
 会社経営とは、毎日が問題解決の連続なのだ。
 俺は携帯を機内モードに設定し、社長室の椅子に座り、放心していた。

 その時、開け放したままのドアに立ち、微笑む祥子がいた。

 「社長、お邪魔してもよろしいですか?」
 「みんなと飲みに行かなかったのか?」
 「途中で抜け出して来ちゃいました」
 「どうして?」
 「社長秘書ですから、私」
 「ありがとう祥子。お前のおかげで会社を守ることが出来た」
 「私はただ、社長から言われたことをしただけです。会社を救ったのは社長です」
 「何か礼をしなくちゃな? 何が欲しい?」
 「だったらお願いがあります」
 「なんだ?」
 「お酒、飲みに連れて行って下さい。
 今夜は社長と飲みたい気分なんです。秘書としてではなく、ひとりの女として」



 俺たちは会社を出て、俺の行きつけの小さなJAZZ・BAR、『Wild Cat』にタクシーで向かった。

 タクシーの中で、祥子は俺の肩に自分の顔を載せた。

 「今夜だけ、私の止まり木になって下さい」
  
 俺はそのまま祥子の肩を抱いた。



 銀座の外れのその店には、ささやかな明かりが灯っていた。

 「よう、こんばんは」
 「あらどうしたの? めずらしいわね? 今や有名人の杉ちゃんが、こんな美人さんをウチに連れて来るなんて。ここにはいつも一人でしか来ないのに」

 オーナーのみすずママはそう言って笑うと、外のマットを店の中に仕舞ってドアに鍵を掛けた。

 「今日は平日だし、杉ちゃんたちの貸し切りにしてあげる」
 「ありがとう、ママ」
 「今日は私の奢り。記者会見、水戸黄門みたいでスカッとしたからそのお祝い」
 「水戸黄門は爺さんだぜ。せめて吉宗にしてくれよ」
 「そうね、杉ちゃんは『暴れん坊将軍』だもんね? あそこが。あはははは」
 「ママさんって、杉田さんとお付き合いしていたんですか?」
 「まさか! お客さんよお客さん。でも、特別なお客さんね? 私、杉さんのファンだから。お嬢さんは何にする?」
 「じゃあ、マルガリータを」
 「杉さんはいつものでいい?」
 「ああ、それを頼む」

 みすずママはコルトレーンからマイルスデイビスにレコードを変えると、見事なシェイカー捌きでマルガリータを作り、俺にはラフロイグのロックを出してくれた。

 「お邪魔でしょうから、私はあがらせてもらうわね? 後は勝手に飲んでいいから。
 これ、勝手口の鍵。戸締りだけはお願いね?
 ではどうぞごゆっくり」

 みすずママはそう言って帰って行った。


 「随分信用されているんですね?」
 「信用しているのは俺の方だ。まずは乾杯するか? ご苦労様、祥子。
 ありがとう」
 「社長、お疲れ様でした」

 俺たちはグラスを合わせた。

 「おいしいー。今日のお酒は格別です。
 今夜だけ、甘えさせてもらってもいいですか?」
 「今夜だけな?」
 「はい、今夜だけ。私たち、バディですから」
 「バディか・・・」

 俺はタバコに火を点けた。

 「そのタバコ、私もいただいていいですか?」

 咥えていた俺のタバコを祥子の口に咥えさせ、俺は新たに別のタバコに火を点けた。

 「不良になった気分です」
 「酒とタバコでか?」
 「今夜はその先もあるかもしれません」

 俺は横顔で笑った。
 気怠い帝王のトランペットが心地いい。
 こんなに旨い酒は社長になってから一度もなかった。
 社長になるとメシを食っても味がしない。
 酒を飲んでも酔えない。
 そして女を抱いても本当の快感は得られなくなっていた。
 だが今夜はとても安らかな、満ち足りた気分だった。

 俺たちは何も言わずに寄り添い、タバコを吸い、酒を飲んだ。

 祥子がふいにキスをして来た。
 甘く、蕩けるようなキスだった。
 突き抜けるようなマイルスのトランペットの高音が聴こえた。

 「もっと不良になりたい・・・」

 俺たちは激しく抱き合い、口づけを交わした。



 店を出ると、そのままホテルに入った。

 一夜限りの夢を求めて。
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