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第四章

第19話 Night Harbor

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 俺は絹世を食事に誘った。
 先日の件で彼女が落ち込んでいると思ったからだ。

 「もしもし、俺だ。今夜、時間あるか?」
 「私とデートしてくれるの?」
 「ベッドじゃなく、たまには食事デートでもどうかと思ってな?」
 「うれしい! 何をごちそうしてくれるの?」
 「銀座のフレンチを予約した。19時に絹世のマンションに迎えに行くよ」 
 「うん、待ってる! 気を付けて来てね」

 絹世はとても喜んでくれた。
 携帯からもその様子がよく伝わった。

 「じゃあ近くに行ったら電話するよ」
 「うん、わかった」

 絹世は定時になると急いで自宅へ戻り、シャワーを浴びて入念にメイクをして髪を整えた。
 今日の下着は黒にした。



 絹世はロイヤルブルーのワンピースにパールのネックレスをして現れた。
 ピアスもネックレスに合わせてパールにしていた。
 俺は改めて絹世の美しさに魅了された。
 これほどパールの似合う女はいない。
 宝飾品は女を選ぶが、真珠は特にむずかしい。
 よく「豚に真珠」とは言うが、品のない女が真珠を身に着けるとイミテーションに見えてしまう。
 ベンツやロレックスも同じだ。
 物が人を選ぶのだ。



 「そのドレスと真珠、よく似合っているよ」 
 「久しぶりなの、このドレスもパールも」

 絹世はうれしそうに真珠のネックレスに触れた。

 「このお店、前から1度来てみたいと思っていたの。
 こんな高級なお店、よく予約が取れたわね?」
 「この前のお詫びだよ。嫌な想いをさせてすまなかった」
 「ううん、私が聞き逃せば良かったのにね?
 大人気なくてごめんなさい」
 「男として俺は最低だよ」
 「仕方がないわ。あなたはモテるから。うふっ」
 「今夜はゆっくり食事を楽しもう」

 俺は給仕を呼んだ。

 「始めてくれ」
 「かしこまりました。ではただいまソムリエを呼んでまいります」

 身のこなしがスマートな、初老のソムリエが現れた。

 「いらっしゃいませ杉田様。いつもありがとうございます」
 「俺はワインの事はわからねえから彼女と話してくれ」
 「かしこまりました。では本日の白はローヌ産のシャプティエ、エルミタージュ、ブランシャタルエットはいかがでしょう?」

 すると絹世はメニューとワインリストを慎重に見比べると、

 「お魚は平目でおソースはトマトベースね?」
 「左様でございます」
 「では白はいりません、赤だけで」
 「かしこまりました」
 「メインのお肉の牛ヒレは、フォアグラとトリュフも一緒のようだから、このリヴェザルトの1962年はどうですか?」
 「すばらしい選択だと思います」
 「ではそれでお願いします。あと乾杯したいのでシャンパンをお願いします」
 「ブリュットのランソンはいかがでしょう?」
 「それでお願いします」
 「かしこまりました」


 俺たちはシャンパンで乾杯をした。

 「今夜はお姫様にしてくれてありがとう」
 「お前がいてくれて良かったよ。またここに来ような?」
 「また誘ってくれるの?」
 「絹が嫌でなければの話だが」
 「あなたのそういうところ、好きよ。
 さりげなく女が悦びそうなツボを押してくる。ニクイひと」
 
 
 料理が次々と運ばれて来た。
 上品にナイフとフォークを動かす絹世。
 少し歳を重ね、性の悦びも知り始めた絹世には、円熟した女の甘美な色香が漂っていた。


 「大きい声では言えないが、俺はフランス料理を旨いと思ったことがねえんだ。
 高級フレンチやイタリアンを食うなら、『叙々苑』で焼肉でも食った方がいい」
 「あらそう? じゃあ今日は私のためにここへ連れて来てくれたのね? ありがとう、とっても美味しいわ」
 「それは良かった。殆どの日本人は絹と違ってフレンチの良さなんて分かりはしねえ。
 ただ高級フレンチを食べ、ワインを飲んでる自分に酔っているだけだ。
 3,000円のテーブルワインとヴィンテージワインの違いも判らずにな?
 だってそうだろう? フランスにも住んだことがない、フランス語も話せない連中だぞ。
 家では朝メシに納豆と焼魚、味噌汁に糠漬。
 焼酎しか飲まねえオヤジにフレンチなんて分かるわけがねえ」
 「あはは、それもそうかもね?」
 「でもな、矛盾しているかもしれないが、フレンチもワインの味も分からねえ俺でもフレンチは好きだ。
 正確にはフランス料理を優雅に食べているお前を見るのが好きだ。だからまた来たいと思う。絹と一緒に料理とワインを楽しみたい」
 「ありがとう。それじゃあもっと女を磨かないと」
 「綺麗だよ、絹世」
 
 絹世はホワイト・トリュフとフォアグラをフィレ肉に器用に乗せ、それを口に優雅に運んだ。
 俺はベッドで口を半開きにして喘ぐ絹世を思い出していた。

 「私はあなたに認められた、いい女ってワケね?」
 「もちろん。絹は俺にとって最高の女だ。
 食事とは本来、料理よりも「誰と食べるか?」が重要なんだ。
 安い牛丼でも好きな女と食べる牛丼は美味いが、どんなに優れた高級料理でも、イヤな奴と喰うメシは不味い。
 食事とはその空間を味わうことでもあるからな?」
 「私はあなたと一緒なら何でも美味しいわ」
 「うれしいよ、絹にそう言ってもらえて。
 それなのに俺は絹に何もしてやれていない」
 「そんなことないわ。忙しいのにこうしてこんな素敵なお店に連れて来てくれたじゃない。
 私はあなたとこうして一緒にいるだけでしあわせなの。毎日なんて望まない、少しの時間でもいいの。
 たとえ10分でも5分でもいい、1秒でもいい。
 あなたの温もりを感じることが出来るなら」

 絹世はワインを飲んだ。

 「食事の後、晴海埠頭に行ってみないか?」
 「夜の港かあ。素敵ね?」



 俺と絹世はタクシーに乗り、銀座から晴海に向かった。

 
 「寒いわね?」
 「まだ2月だからな?」

 俺は絹世の手を取り、俺のコートのポケットに入れた。
 絹世が俺に寄り添った。

 「冷たい手だな?」
 「あなたの手は温かいわ。そして私の心も温かい」
 
 東京の夜景が暗い海を漂っていた。
 岸壁に打ち付けるさざ波の音が聞こえる。

 「絹世。このままで辛くはないか?」
 「あなたと別れて欲しいってこと?」
 「俺は本当にお前をしあわせにしているのだろうか?」
 「私はしあわせよ、今のままで。
 それ以上何も求めはしない。そしてこれからもそれは変わらないわ。
 しあわせってなる物じゃなくて、感じる物でしょう?」

 俺は絹世を強く抱き締めた。

 「ごめんな・・・、絹」
 「謝らないで、最初にあなたを好きになったのは私の方だから」
 「辛くなったらいつでも降りていいからな?」
 「そんなこと言わないで」
 
 俺と絹世はやさしい大人のキスを交わした。

 2月の冷たい東京湾の海風に晒されて。
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