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第10話 ガラスのうさぎ
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華絵と私はホテルにスーツケースを置いて、小樽運河沿いの道を手を繋いで歩いた。
「寒くないか?」
「大丈夫、でも流石に冬の北海道は寒いよね?」
私たちは新雪をギュギュと踏み締めながら、鈴木の教えてくれた鮨屋を探した。
その鮨屋はすぐに見つかった。
気取らないが清潔感のある和モダンの外観と藍染めの暖簾が掛かっている、小樽の風情が感じられる店だった。
店の前では女将らしい女性が和服に割烹着姿のまま、竹箒で新雪を掃いていた。
「こんにちは、お店に入ってもいいですか?」
「雪の中、ありがとうございます。
寒いですからどうぞ中で暖まって下さい」
引戸を開けると、さらに引戸があった。
寒い地方の知恵であろう、寒さの為の緩衝域が設けてある。
店内は白木のカウンターが10席ほどの店だったが、すでに6席が埋まっており、そのうちの2席には予約席のプレートが置かれていた。
「失礼ですけど、堂免様でいらっしゃいますか?」
「えっ?」
「鈴木様から「多分13時過ぎくらいにイケメンと美女がお店に行くからよろしくね」とご予約をいただいておりましたもので」
女将は予約席に私たちを案内してくれた。
さっき雪を掃いていてくれたのも、おそらく私たちへの配慮であろう。
そんな気配りのある鮨屋だった。
「熱燗とお茶をお願いします」
「かしこまりました」
店主は40歳位の物静かな歌舞伎役者の女形のような男だった。
鮨を握る手がとても優雅で美しかった。
「鈴木様にはいつもご贔屓にしていただいております。
わざわざ遠くからありがとうございました。
何か苦手な物はございますか?」
「私も家内も好き嫌いはありません。
お造りを2人前と、あとはお任せで」
「かしこまりました」
造りにはホッケの刺身が出て来た。
「ホッケは足が早いので、脂の乗った新鮮な物はここでしか召し上がれないかもしれません。
朝、市場で仕入れた物です」
華絵はめずらしそうにそれを口にすると、
「おいしい! 初めて食べました!」
「喜んでいただいて良かったです」
後から別々に2名の客も訪れ、店はすぐに満席になった。
それをまるでオーケストラの指揮者のように、店主はてきぱきと捌いていた。
「これは「オヒョウ」の握りになります」
「オヒョウってどんなお魚なんですか?」
「すごく大きなカレイなんです。塩をふってありますのでそのままお召し上がり下さい」
「北米やベーリング海にも生息していて、現地では「ハリバット」とも言うんだよ。
大きい物になると4m以上の物もいるらしい」
「よくご存じですね?」
「まさか日本でオヒョウが食べられるとは思いませんでしたよ」
鮨飯には赤酢を使っており、ネタに合わせてシャリの量を微妙に変えていた。
口の中でいい具合にほぐれるシャリ。
どれも一番美味しく食べられるようにと、そのネタに合う味付けがされていた。
銀座の高級店にも引けを取らない寿司だったが、それを誇示するような寿司ではなかった。
とてもやさしい味がした。
料理には作り手の人柄が伝わる物だ。
「ご旅行ですかな?」
カウンター席の隣にいた、品の良い老夫婦から声を掛けられた。
「ええ、夫婦で新潟からフェリーでやって来ました」
「船旅ですか? それは良かった。
私は商社で働いておったので、殆ど家にはおりませんでした。
ですから今はこうして家内を接待しているというわけです。罪滅ぼしですな? あはははは」
「まるで母子家庭のようでしたのよ。3人の子供を必死に育てました。
でもね、人生なんてあっという間、気が付いたら結婚してもう50年ですもの」
「夫婦円満の秘訣は何ですか?」
華絵が訊ねた。
「それはお互いの良いところを認めることね? 嫌なところはなるべく見ない、いいところだけを見ること。
だって嫌なところはすぐに気付くでしょう?」
「喧嘩とかしないんですか?」
「たまにはするよ、くだらんことでな? 喧嘩もしない夫婦はおらん。
夫婦とは本音を言い合える関係だということでもあるからな?
あなたたちは喧嘩はしないのかね?」
「うちはケンカすることは少ないですね? 一緒にいる時間が少ないので」
「単身赴任ですか?」
「はい、長期の」
「それは大変ですな? 折角の小樽ですから十分楽しんで下さいね?
ではお先に。大将、おあいそして下さい」
老夫婦は店を出て行った。
「素敵なご夫婦だったわね?」
「うん・・・」
結婚して50年、その言葉が私に重く圧し掛かっていた。
私は今まで華絵と喧嘩をした記憶はなかった。
それは喧嘩をするほど長く一緒にいなかったからかもしれない。
「凄く美味しかったです! もうお腹いっぱい。
こんな美味しいお寿司、食べたことがありませんでした」
「ありがとうございます。是非またおいで下さい。お待ちしております」
「ではお勘定をお願いします」
すると女将が、
「お支払いは鈴木様から頂戴しております。お気をつけて小樽のご旅行をお楽しみ下さい」
店を出ると華絵が言った。
「お寿司、すごく美味しかったね? でもなんだか悪いわね? 鈴木さんにご馳走になっちゃって」
「あそこまで気を回してくれて、いかにも鈴木らしいよ。 学生の時からそうなんだよ、割り勘なんて俺たちはしない。ましてや女にカネを払わせるようなことは絶対にしないんだ。持ってるやつが払う。それが船乗りなんだよ」
「良かった、船乗りさんと結婚して。うふっ」
うれしそうに笑う華絵。
小樽には『帆船日本丸』の実習航海で来て以来だった。
その時はまだ10月だったがとても寒く、雪がちらついている中での裸足でのタンツー(椰子を半分に切った物をタワシ代わりにして甲板を磨くこと)はキツかった。
そして今、華絵とその小樽を歩いている。
「小樽ってなんだか寂しい街ね?」
「北海道はどこか物悲しいものだよ。
アメリカもそうだが、本国で夢敗れた者たちの、リベンジの場所だからかもな?
演歌の似合うところだよ、北海道は」
「でも、食べ物も美味しいし、広くて自然がいっぱいで、私は好きだな、北海道。
さっきのお鮨屋さんも、すごく親切だったし」
「この厳しい自然が人を優しくするのかもしれないな?」
小樽運河にはレンガ倉庫が映り、水面に揺れていた。
「小樽はね、昔は日本の「ウォール街」とも呼ばれていたらしい。北海道の経済の中心は小樽だったんだ。
ソビエトとの交易、樺太や満州との連携地としても栄え、石炭の積み出し、ニシン漁でも小樽は潤っていた。
日銀の支店も小樽にあったんだよ。
だが、ソビエトがロシアになり、樺太や中国との交易も縮小され、「黒いダイヤ」と言われた石炭は石油に代わり、ニシンも獲れなくなってしまった。
今では寂れた観光地だ」
「でも、繁栄しているからいいとも限らないでしょう?」
「もちろんそうだ。金持ちが必ずしもしあわせとは限らないからな?
家があって、仕事があって、飯が食えて。
そして温かい家族があればそれで十分だ」
「私は幸せよ、ヒロのお船での仕事がどんなものかもわかったし、北海道まで連れて来てもらえて。
ヒロの奥さんで本当に良かった」
私は人目を気にすることなく、華絵を抱き締めて泣いた。
「どうしたの? みんなが観てるよ」
「ごめん、ハナ。
俺は何も、何も今までハナにしてやれなかった・・・」
「そんなことないよ、私の方こそ、ヒロに奥さんらしいこと、何もしてあげられなかった。
ゴメンなさい・・・」
しばらくの間、私たちは石像のように雪の中で抱き合ったままでいた。
雪が私と華絵にやさしく降っていた。
私と華絵は『北一硝子』に寄った。
沢山のキラキラ光る、美しいガラス工芸が飾られていた。
華絵が小さなガラス製のうさぎを見つけた。
「わあ、これカワイイ!」
「家に飾ろうか? リビング? それとも玄関に?」
「仏壇。私のお仏壇に飾って欲しい・・・」
「華絵・・・」
私は言葉を失った。
「小さくて可愛いでしょ? 私みたいで?」
「・・・」
「このウサギさんがいいな」
私たちはそのガラスのうさぎを買った。
ガラス館を出ると、羽毛のような雪が降っていた。
「もうすぐクリスマスだね?」
「そうだな?」
私と華絵は片方の手袋を脱ぎ、恋人繋ぎをしてその手を私のコートのポケットに入れた。
どこからか、『ジングルベル』が聴こえていた。
「寒くないか?」
「大丈夫、でも流石に冬の北海道は寒いよね?」
私たちは新雪をギュギュと踏み締めながら、鈴木の教えてくれた鮨屋を探した。
その鮨屋はすぐに見つかった。
気取らないが清潔感のある和モダンの外観と藍染めの暖簾が掛かっている、小樽の風情が感じられる店だった。
店の前では女将らしい女性が和服に割烹着姿のまま、竹箒で新雪を掃いていた。
「こんにちは、お店に入ってもいいですか?」
「雪の中、ありがとうございます。
寒いですからどうぞ中で暖まって下さい」
引戸を開けると、さらに引戸があった。
寒い地方の知恵であろう、寒さの為の緩衝域が設けてある。
店内は白木のカウンターが10席ほどの店だったが、すでに6席が埋まっており、そのうちの2席には予約席のプレートが置かれていた。
「失礼ですけど、堂免様でいらっしゃいますか?」
「えっ?」
「鈴木様から「多分13時過ぎくらいにイケメンと美女がお店に行くからよろしくね」とご予約をいただいておりましたもので」
女将は予約席に私たちを案内してくれた。
さっき雪を掃いていてくれたのも、おそらく私たちへの配慮であろう。
そんな気配りのある鮨屋だった。
「熱燗とお茶をお願いします」
「かしこまりました」
店主は40歳位の物静かな歌舞伎役者の女形のような男だった。
鮨を握る手がとても優雅で美しかった。
「鈴木様にはいつもご贔屓にしていただいております。
わざわざ遠くからありがとうございました。
何か苦手な物はございますか?」
「私も家内も好き嫌いはありません。
お造りを2人前と、あとはお任せで」
「かしこまりました」
造りにはホッケの刺身が出て来た。
「ホッケは足が早いので、脂の乗った新鮮な物はここでしか召し上がれないかもしれません。
朝、市場で仕入れた物です」
華絵はめずらしそうにそれを口にすると、
「おいしい! 初めて食べました!」
「喜んでいただいて良かったです」
後から別々に2名の客も訪れ、店はすぐに満席になった。
それをまるでオーケストラの指揮者のように、店主はてきぱきと捌いていた。
「これは「オヒョウ」の握りになります」
「オヒョウってどんなお魚なんですか?」
「すごく大きなカレイなんです。塩をふってありますのでそのままお召し上がり下さい」
「北米やベーリング海にも生息していて、現地では「ハリバット」とも言うんだよ。
大きい物になると4m以上の物もいるらしい」
「よくご存じですね?」
「まさか日本でオヒョウが食べられるとは思いませんでしたよ」
鮨飯には赤酢を使っており、ネタに合わせてシャリの量を微妙に変えていた。
口の中でいい具合にほぐれるシャリ。
どれも一番美味しく食べられるようにと、そのネタに合う味付けがされていた。
銀座の高級店にも引けを取らない寿司だったが、それを誇示するような寿司ではなかった。
とてもやさしい味がした。
料理には作り手の人柄が伝わる物だ。
「ご旅行ですかな?」
カウンター席の隣にいた、品の良い老夫婦から声を掛けられた。
「ええ、夫婦で新潟からフェリーでやって来ました」
「船旅ですか? それは良かった。
私は商社で働いておったので、殆ど家にはおりませんでした。
ですから今はこうして家内を接待しているというわけです。罪滅ぼしですな? あはははは」
「まるで母子家庭のようでしたのよ。3人の子供を必死に育てました。
でもね、人生なんてあっという間、気が付いたら結婚してもう50年ですもの」
「夫婦円満の秘訣は何ですか?」
華絵が訊ねた。
「それはお互いの良いところを認めることね? 嫌なところはなるべく見ない、いいところだけを見ること。
だって嫌なところはすぐに気付くでしょう?」
「喧嘩とかしないんですか?」
「たまにはするよ、くだらんことでな? 喧嘩もしない夫婦はおらん。
夫婦とは本音を言い合える関係だということでもあるからな?
あなたたちは喧嘩はしないのかね?」
「うちはケンカすることは少ないですね? 一緒にいる時間が少ないので」
「単身赴任ですか?」
「はい、長期の」
「それは大変ですな? 折角の小樽ですから十分楽しんで下さいね?
ではお先に。大将、おあいそして下さい」
老夫婦は店を出て行った。
「素敵なご夫婦だったわね?」
「うん・・・」
結婚して50年、その言葉が私に重く圧し掛かっていた。
私は今まで華絵と喧嘩をした記憶はなかった。
それは喧嘩をするほど長く一緒にいなかったからかもしれない。
「凄く美味しかったです! もうお腹いっぱい。
こんな美味しいお寿司、食べたことがありませんでした」
「ありがとうございます。是非またおいで下さい。お待ちしております」
「ではお勘定をお願いします」
すると女将が、
「お支払いは鈴木様から頂戴しております。お気をつけて小樽のご旅行をお楽しみ下さい」
店を出ると華絵が言った。
「お寿司、すごく美味しかったね? でもなんだか悪いわね? 鈴木さんにご馳走になっちゃって」
「あそこまで気を回してくれて、いかにも鈴木らしいよ。 学生の時からそうなんだよ、割り勘なんて俺たちはしない。ましてや女にカネを払わせるようなことは絶対にしないんだ。持ってるやつが払う。それが船乗りなんだよ」
「良かった、船乗りさんと結婚して。うふっ」
うれしそうに笑う華絵。
小樽には『帆船日本丸』の実習航海で来て以来だった。
その時はまだ10月だったがとても寒く、雪がちらついている中での裸足でのタンツー(椰子を半分に切った物をタワシ代わりにして甲板を磨くこと)はキツかった。
そして今、華絵とその小樽を歩いている。
「小樽ってなんだか寂しい街ね?」
「北海道はどこか物悲しいものだよ。
アメリカもそうだが、本国で夢敗れた者たちの、リベンジの場所だからかもな?
演歌の似合うところだよ、北海道は」
「でも、食べ物も美味しいし、広くて自然がいっぱいで、私は好きだな、北海道。
さっきのお鮨屋さんも、すごく親切だったし」
「この厳しい自然が人を優しくするのかもしれないな?」
小樽運河にはレンガ倉庫が映り、水面に揺れていた。
「小樽はね、昔は日本の「ウォール街」とも呼ばれていたらしい。北海道の経済の中心は小樽だったんだ。
ソビエトとの交易、樺太や満州との連携地としても栄え、石炭の積み出し、ニシン漁でも小樽は潤っていた。
日銀の支店も小樽にあったんだよ。
だが、ソビエトがロシアになり、樺太や中国との交易も縮小され、「黒いダイヤ」と言われた石炭は石油に代わり、ニシンも獲れなくなってしまった。
今では寂れた観光地だ」
「でも、繁栄しているからいいとも限らないでしょう?」
「もちろんそうだ。金持ちが必ずしもしあわせとは限らないからな?
家があって、仕事があって、飯が食えて。
そして温かい家族があればそれで十分だ」
「私は幸せよ、ヒロのお船での仕事がどんなものかもわかったし、北海道まで連れて来てもらえて。
ヒロの奥さんで本当に良かった」
私は人目を気にすることなく、華絵を抱き締めて泣いた。
「どうしたの? みんなが観てるよ」
「ごめん、ハナ。
俺は何も、何も今までハナにしてやれなかった・・・」
「そんなことないよ、私の方こそ、ヒロに奥さんらしいこと、何もしてあげられなかった。
ゴメンなさい・・・」
しばらくの間、私たちは石像のように雪の中で抱き合ったままでいた。
雪が私と華絵にやさしく降っていた。
私と華絵は『北一硝子』に寄った。
沢山のキラキラ光る、美しいガラス工芸が飾られていた。
華絵が小さなガラス製のうさぎを見つけた。
「わあ、これカワイイ!」
「家に飾ろうか? リビング? それとも玄関に?」
「仏壇。私のお仏壇に飾って欲しい・・・」
「華絵・・・」
私は言葉を失った。
「小さくて可愛いでしょ? 私みたいで?」
「・・・」
「このウサギさんがいいな」
私たちはそのガラスのうさぎを買った。
ガラス館を出ると、羽毛のような雪が降っていた。
「もうすぐクリスマスだね?」
「そうだな?」
私と華絵は片方の手袋を脱ぎ、恋人繋ぎをしてその手を私のコートのポケットに入れた。
どこからか、『ジングルベル』が聴こえていた。
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