箸で地球はすくえない

ねこよう

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牛尾田の話 その三

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 裏通りのビルの二階にあるショットバー「リメンバー」のカウンター
チェアーに座った牛尾田は、肘をついてウーロン茶の入ったグラスを傾けていた。
 
 牛尾田は、下戸だ。
 全く酒が飲めない。
 
 もちろん、自分より先輩の刑事に「酒の一つも飲めないといい刑事になれないぞ」
と何度も言われたので、飲んでみようとトライしてみた事はある。
 が、コップ一杯のビールで気分が悪くなって吐いてしまい、それ以来酒を口に
するのはやめている。だいたいどうして酒が飲めないといい刑事になれないのか、
先輩の言ったその理屈がどうしても納得出来なかった。
 そんな酒の飲めない男が、なぜこのショットバーにいるのか。
 仕事の為。ではない。
 この店は、牛尾田のただお気に入りの店だった。
店のやや暗めの照明といい、落ち着いたジャズの流れる雰囲気といい、仕事で
すり減った牛尾田の神経をゆったりと落ち着かせてくれた。
 そして、この店のバーテンダーの鹿島という男の存在だ。
 鹿島は40にもなる、学生時代は野球部でキャッチャーだったという少し
小太りの男だ。
 この鹿島と牛尾田はとても波長が合った。
 牛尾田の好きな野球の知識は豊富で、プロ選手の豆知識をいろいろ教えてくれる。
それでいてあまり話したくない日は出しゃばらずにそっとしておいてくれる。
 
 今日は、目下の懸案である詐欺グループについての捜査で、何も進展がなく
上司に発破をかけられた牛尾田の心中を察して、お互いが何も言わない静かな空気が
二人の間を包んでいた。
 牛尾田は、チラとカウンターの隅にいる女に目をやった。
 髪の長い女は暗い目でグラスを揺らし、中の丸い氷をカラカラ鳴らして
 「なんで人生うまくいかないんだろうね。」
 と鹿島に向かってぼやいている。
 
 
 「いやー、まいったまいったわ。」
 
 大きな声で誰に言うでもなく入ってきたのは、70は超えた白髪の
痩せぎすの男性だ。
 カウンターの中の鹿島が「いらっしゃいませ」という言葉と同時に動き、
男が座るべき場所の前にすでにコースターを置いている。
 男は当然のようにそこに座り「ソルティーね」と伝えると、三個隣に座っている
牛尾田に目を向けて
 「どうも。牛さん」とぺこりと頭を下げた。
 「ギンナンは相変わらず‘‘まいったまいった‘‘だな。」
 「いやでもホント参っちゃうよ牛尾田さん。また店の女の子辞めちゃってさぁ。」
 「それでも結構稼いでるんだからいいじゃないかよ。」
 「でもそれとこれとは別なのよ。本当に参っちゃうよなぁ。」
 牛尾田にギンナンと呼ばれた老齢の男は、鹿島が無言で出したソルティードッグを
クイっと一口飲み、「ああうまぁ」と呟いた。
 
 また店のドアが開き、今度はかなり酔った様子の、二人組の若いサラリーマンが
入ってくる。
 と、二人はよろけながらテーブル席に座り
 「お兄さん! こっち、生ビール二つね!」と品のない声が響く。
 牛尾田は、フンと鼻から一息出してウーロン茶を口に入れた。
 貴重な静かな時間に邪魔が入った。だがこうやって酒に溺れるサラリーマンの
気持ちも分かる気がする。
 取引先に無理を言われ上司にいじめられ、その憂さを酒で晴らすしかないん
だろうな。という同情に近い感情を持っていた。
 
 「牛さんは、今日は仕事上がりですか?」
 のんびりとしたギンナンの声に後ろのテーブル席の二人は反応した。
 「牛さんだって。ククククク」
 「モー。ですか? モー。って。ハハハハ。」
 酒のせいもあって、若い二人の男はギンナンという老人と牛尾田を小馬鹿にした
口調で喋っている。恐らく、年寄りとおっさんの二人組なぞ怖くないと考えている
のだろう。
 止まり木から立ち上がろうとしたギンナンの肩を牛尾田は制した。
 「やめとけよ」
 「でも牛さん。」
 「まあいいから。構わないから飲もう。な?」
 そう言うと、また乾杯だとでも言うように牛尾田はギンナンのグラスと
自分のウーロン茶のグラスをぶつけた。
 
 牛尾田はまた隅の女に目を向けた。
 女は相変わらず暗い目でどこか虚空を眺めている。
 鹿島がカウンターから出て、生ビールをサラリーマン達のテーブルに出すと、
二人は乾杯して口をつけた。
 「バーテンさん。こっちからそちらの牛さんに一杯出してあげて。
  ミルクのカクテルで。」
 真剣な声で先輩らしき男がそう言うと、もう一人の後輩らしき男は
「ギャハハハ。ミルクっスか!」とまた品の無い大声を出した。
 もうこらえられなくなったであろうギンナンがサッと立ったかと思うと、
老人とは思えない素早い身のこなしでテーブルの前に仁王立ちした。
 「さっきからよ、兄ちゃん達ちょっと迷惑がすぎるんじゃねえのか?」
 「は? 爺さんなんだよ? ケンカ売ってんの? やめた方がいいって
  俺もコイツもボクシングやってたからさ。」
 もう先輩らしき男の目は剣呑だ。
 「だからな、この人も俺も静かに飲んでんだよ。それをあんちゃん達に邪魔
  されたくねえんだ。もうちょっと周りの迷惑ってもんを考えてくれよな。」
 先輩の男は、突然自分のジョッキのビールをぐいぐいぐいぐいっと煽り、一気に
全部飲み干した。そして、プハー。と息を吐きだすと
 「ムカついた。もう俺この爺さん殴るわ」そう宣言した。
 
 「面白いな。こんなジジイを殴るってどうやるのか見せてもらおうか。」
 ギンナンの目も爛々と輝いている。こうなってくるとマズイ。
 どっちかって言うと危ないのはこの老人よりもボクシング男だ。
 牛尾田がカウンターから立ち上がり、間に入ろうとした時だった。
 ギンナンがテーブルの上の何かを持ち、振り向きざまに牛尾田の背後に
投げた。

 ゴト! ガ! ガチャン!

 牛尾田は振り向いた。
 なぜかさっきまでカウンターの隅にいた女が立ち上がって、右手を抑えている。
床には、鋭利なナイフが落ちている。そしてナイフの近くには落ちて割れた
ジョッキの破片が散らばっている――。
 女は右手の手首を抑えたまま、店のドアにダッシュして出て行った。
牛尾田は慌てて「待てオイ!」とドアを出て追いかけたが、もう既にビルの階段を
下ろうとする女の後ろ姿を目にしただけだった。
 
 女の追跡をあきらめて、ドアを開けて店に戻ると、ギンナンがニヤニヤして
待っている。
 「牛さん。また狙われてんね。誰かから恨み買ったんでしょ?」
 「そうみたいだな。」
 牛尾田は薄暗い照明の中、不気味に光っている床に落ちたナイフを拾った。
刃身は細く、長いものだ。背中から刺されたら場所によっては重症もしくは命に
関わっていたかもしれない。
 ギンナンが咄嗟にジョッキを投げてくれなかったら、この刃先は牛尾田の背中に
刺さっていた。
 
 「牛さんさ、あの女チラチラ見てたから、もう気づいてるもんだとばっかり
  思ってたよ。」
 ギンナンはまだニヤついている。
 「いい女だなぁ。ちょっとチャンスがあったら話でもしようかなんて
  考えてたんだ。」
 女の憂い顔は牛尾田の好みの容姿だった。それがまさか自分を狙っていた
とは――。
 
 鹿島が、黙々と箒を動かして、割れて床に散らばったジョッキの破片を掃除
している。
 「牛さんも焼きが回ったねえ」ギンナンが笑った。
 牛尾田は、びっくりしてまだ状況がよく分かっていないボクシング男と
後輩を見た。
 「あのなお前ら。このギンナンは、刺し投げの名人だ。刺しって分かるか?」
 サラリーマン二人は、間抜けな顔で首を振る。
 「刺しってのはな、この位の長さのとがった針の親分みたいなもんだ。
  コイツは、5メートルくらいの距離なら目でも腹でも、刺しを投げて
  突き刺すことが出来る。何人もコイツにやられてるんだ。」
 勘弁してよ、俺知らないヨ。とギンナンが笑っている。
 その顔を見ながら、牛尾田は、針のような鋭利なもので喉や胸を突かれた他殺体が
何年かに一度上がるのを思い出した。
 ギンナンが犯人だと見込んだが、とうとう証拠は出なかったものだ。
  「昔ボクシングやってたって言ってもな、拳が届かない所から
   刺しを投げられたら何の役にも立たないんだぞ。」
 ボクシング男は間抜けな顔で「はあ」と頷いた。
 
 「それで俺は警察関係だ。もしお前らが本気で俺にケンカ売ってきたら、
  どうとでも出来る。公務執行妨害ってことで前科つける事なんて簡単だぞ。
  いいか? 相手もよく分からないのに、見た目だけでおっさんだとか
  ジジイだと思ってケンカなんか売っちゃダメだ。
  下手したら、一生後悔することになるぞ。」
 
 言われて、ボクシング男達は目線を合わせて少し気まずそうにしている。
 「これに懲りたら、もうちょっと大人しく酒を飲め。」
 先輩後輩二人は、すいませんすいませんでした。と慌ててギンナンと牛尾田に
頭を下げた。

 牛尾田は、また止まり木に座ってカウンターを向いた。
 命を狙われたのは今回で何度目だろう。
 確かに犯罪者や前科者にはかなりひどい事をしてきたが、こうして
‘‘自分は殺したいほど憎まれているのか‘‘という事を実感すると、愉快な話ではない。
 「牛さんもさ、たまには酒でも飲んで嫌な事パーっと忘れちゃいなよ。
  あ、俺、ソルティーおかわりね。」
 ギンナンの言葉に、掃除を終えた鹿島が「かしこまりました」と答えた。
 牛尾田は考えた。もし俺が酒を飲んで前後も分からないくらい酔っ払ったら、
このギンナンという男は俺を介抱してくれるだろうか。
 それとも、俺を恨んでいる奴らに俺を売るのだろうか・・・・。
 同じ事はこの鹿島にも言える。
 もし俺がこの店に来ている時に奴が誰かに連絡したら――。
 
 そう言えば今日、俺がこの店に来てから鹿島は一度「ちょっとすみません」と
断って店の外に出て行った。ほんの二三分で帰ってきたが、あの女が店に来たのは
あの後だ。もしかしたらあの時鹿島は・・・
 牛尾田の脳では、店の外に出てスマホで誰かと会話をしている鹿島の姿が
ありありと映し出されていた。
 
 コップの中で解けた氷に薄まったウーロン茶をグイっと飲みほすと、
鹿島に千円札を二枚払い、ギンナンと二言三言言葉を交わして牛尾田は店を出た。
 
 
 安全地帯なんか求めるな。しょせんこの世は食うか食われるか。だ。
 
 こう自分に言い聞かせてみて、なんだかそのフレーズがえらく気に入った
牛尾田は、肌寒くなってきた夜の風を感じながら、誰も待っていない郊外の
二階建て一軒家へと歩を進めていった――。
 


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