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キツネとタヌキ
第三話 二人の出会い
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ローイックとキャスリーンが初めて会ったのは、彼が戦利品として帝国に連れてこられてから一月(ひとつき)ほど経った頃のことだった。
彼は一日の仕事を終えて、空も茜色に染まる夕暮れの中、宮殿の裏にある腰壁に肘をつけ、祖国の方角をじっと見つめていた。これは、連れてこられてから毎日続いていた。
帰りたい。
彼にはその思いしかなかった。知らない土地で、奴隷では無いものの扱いはモノだ。嫌な感情しか湧きあがってこない。
そんなローイックに気が付いた、当時十三歳のキャスリーンが彼に話しかけたのが始まりだった。
その頃もキャスリーンはお転婆で、部屋を抜けだしては捕まり連れ戻される、を繰り返していたようだった。たまたま逃げ回っている内にローイックがいる場所に来たらしい。
「何を、見ているの?」
ローイックは後ろから声をかけられた。ローイックは振り返り、声の主を見た。キャスリーンは橙色のドレスを着てはいるが、色々と汚れていたし、夕日に映える金色の髪もピンピンと跳ねていて、とても皇女には見えなかった。
ローイックは、お転婆だが可愛らしい女の子だ、と思ったが、戦利品である自分には縁はない、とも思った。
「……祖国を、見ていました」
ローイックはぼそっと質問に答えると、直ぐに視線を戻した。何をするでも無しに、祖国の方をずっと見ていた。戦利品である彼に、自由にできる事などなかったのだ。
「ふーん、そうなんだ」
キャスリーンには今の言葉で、彼の立場が分かったのだろう。そんな生返事だった。
「いつも見てるの?」
「……する事が、無いですから」
会話というには言葉が足りなかったが、キャスリーンには彼の言いたい事は理解できたようだ。
「あなたの目は、青くて綺麗ね!」
キャスリーンは話題を変えた。
帝国の人間の瞳の色は茶色が多く、稀に紫紺がいて、皇族は緋色であった。ローイックの瞳は、珍しいサファイヤブルーをしていた。キャスリーンはその色の瞳を、初めて見たのだろう。
「そう、ですか?」
振り向いたローイックのサファイアブルーの目が、キャスリーンの緋色の瞳を捕らえた。数瞬、見つめ合った。
「うん、綺麗!」
夕日の色を映し込んだ彼の瞳を見た彼女は、二パッと笑った。ローイックはその笑顔に釘付けになり、視線をずらせなかった。それほど彼女の笑顔は印象的、かつ魅力的だった。
「姫様ーーー!」
遠くから若い女性の声が聞こえて来た。あからさまに誰かを探している、といった声だ。ローイックには、その誰かが目の前にいる事も、分った。
「いっけなーい。逃げなきゃ!」
夕暮れだというのにどこに逃げるつもりなのか。ともかくキャスリーンは慌てて左右を見て、逃げる方向を探していた。
「そうだ! あなた、名前は?」
「……ローイックです」
「あたしはキャスリーン! 明日も来るね!」
キャスリーンは又も二パッと笑い、ドレスが暴れるのも気にせずに走って逃げていった。
その純粋な笑顔は、疲弊していたローイックを惹きつけてやまないものだった。この時から、ローイックはその笑顔にやられているのだ。
「明日、か」
ローイックの頬は無意識に緩んでいた。
何時までも続く出口のない生活。挫けそうだったローイックに、『明日』ができたのだ。
次の日、約束通りキャスリーンは現れた。やっぱり髪はぼさぼさで、色々と汚れたドレスだったが、その爛漫な笑顔はローイックを癒したのだった。
話をしたり、されたり、他愛のない子供のお遊びの一つだったが、ローイックには、それで十分だった。別れ際には必ず「また明日ね!」で締めくくられた。
勿論皇女であるキャスリーンが毎日そこに来れるわけではなかった。だがローイックは毎日そこにいた。この『明日』があったから、彼は希望の無い日々を生きてこられたのだ。
そんな、遊びという名の逢瀬が三年程続いたある日、ローイックは第三騎士団に転属となったのだ。
ローイックが食堂へと続く廊下を歩けば、支度に向かう騎士達とすれ違う。化粧をしていないが、みな美形か愛らしいかのどちらかだ。それでも顔で選ばずに剣技で選抜しているらしい。
「おはようございます」
ローイックは軽く会釈する。
この第三騎士団はキャスリーンの護衛部隊が元に構成されている。彼女が十六歳で成人したとき、騎士になりたいと駄々をこねたが為に、繰り上がりで騎士団となった。
ただ、護衛部隊だった彼女達の待遇は良い物になったから、不平は出なかった。寧ろ士気は駄々上がりにあがった。もはや彼女専用の近衛に近い存在であった。
「おはよー、ローイック君」
「おはよう!」
「おはようございまーす」
ローイックが会釈をして挨拶をすれば一様に微笑んでくれる。女の園に唯一の男である。が、平民ですらない彼は無害であるからか、彼女達も警戒しないのだ。
実際に彼にはそんな権限も、する気もなかったが。
「ふふ、姫様は行ってしまいましたよ」
「あっ!」
キャスリーンの呼び方は姫様。団長ではない。これは第三騎士団特有の決まりだ。
「し、失礼します!」
ローイックはキャスリーン追いかけるべく足を早めた。
騎士達が彼を、ニヤニヤしながら見送っていた事には、気がつかなかった。
ローイックが食堂に入ったときには、キャスリーンは幾つかあるテーブルの一つに着いていた。
「おっそーい」
キャスリーンは頬杖を付き、口を可愛く家鴨にしていた。ローイックは苦笑いしつつも、ご褒美だと思っている。普段の彼女は凜として可憐なのが、ローイックの前では地を出す。その落差が良いのだ。
彼女が待つテーブルに歩み寄りながら「すみません。でも、そんな可愛い顔で怒られても、怖くないですよ」と軽口を叩く。
「ふ、ふん。おだてても、ダメなんだから」
可愛いと言われたキャスリーンは腕を組み、視線を逃がしている。そんな仕草もローイックにとってはご褒美だ。
「ともかく、朝食をとってよ」
目の前に並んでいるのは、パンにサラダにスープと肉詰めだ。まだ湯気が立ち上っていて、わざわざ暖め直したのが分かった。
ローイックは静かに席につき、祈りを捧げて食べ始めた。
「あの、姫様?」
「なーに? 足りない?」
「いえ、そうジロジロ見られていると、食べ辛いのです」
キャスリーンは顎に手を当て、ニコニコしながらローイックの食事を見ていた。ローイックは非常に食べにくい状況に置かれている。
「ローイックは放って置くと食事はとらないじゃない。宿舎にも帰らないで机で寝ちゃうし!」
ニコニコからムスに変わったキャスリーンが、ローイックの問題点を挙げ始めた。事実をツラツラと告げられてはローイックも居心地が悪い。
たまらず「そ、それは処理しなければならない書類が多くて、処理しきらないのです」と言い訳をした。ズボラと言われているに等しいが、事実ではある。
「それは分かるけど、身体の事も考えてよ」
口を尖らせたキャスリーンに母親の如く言われ、ローイックは尻がむず痒かった。だが心配して貰っていることには、心の中で感謝した。
「そんなに書類が多いんだったら、あたしが手伝うわよ!」
キャスリーンはニカッと悪戯っ子の笑顔をしている。
愛らしいこの笑顔は何か企んでるな、とローイックは直感した。以前にもあるのだが、大体が碌な結果にならないのだ。
「姫様に手伝って頂く事はできません」
「ローイックに倒れられると、困るのよ」
キャスリーンは笑っていて、ちっとも困っていないように見える。何かをサボる口実にするのが見え見えだ。
「大丈夫です。今日頑張れば終わりますから」
「昨晩は宿舎に帰ってないんだから、今日は早く帰れるようにしないと!」
今日の姫様はやけに食い下がるな、とローイックは感じた。いつもならすぐに「分かったわよ、分った分かった」と諦めるのだ。しかもキャスリーンは笑っていて、妙に嬉しそうではあった。ローイックとしては疑問ではあるが、彼女の微笑みという目の保養を楽しんでしまっていた。
「…………だからね、分かった?」
だが、その目の保養に集中しすぎて、ローイックはキャスリーンの言葉を聞き漏らしていた。
「え、あの」
「返事は?」
「え?」
焦ったローイックが言い淀んでいると、キャスリーンが寂しそうな顔をした。
「はい、分かりました」
勿論、ローイックは何を言われたかなど分かっていない。だがキャスリーンの寂しそうな顔を見るのは、嫌だった。男にとって理由など、その程度で良いのだ。
「よーし、言ったな~」
キャスリーンはまた、悪戯っ子な笑顔を見せてくれた。ローイックはその顔を見てホッとしたのだが、この選択を後悔することになるのは、今の彼では知る由もないのだった。
彼は一日の仕事を終えて、空も茜色に染まる夕暮れの中、宮殿の裏にある腰壁に肘をつけ、祖国の方角をじっと見つめていた。これは、連れてこられてから毎日続いていた。
帰りたい。
彼にはその思いしかなかった。知らない土地で、奴隷では無いものの扱いはモノだ。嫌な感情しか湧きあがってこない。
そんなローイックに気が付いた、当時十三歳のキャスリーンが彼に話しかけたのが始まりだった。
その頃もキャスリーンはお転婆で、部屋を抜けだしては捕まり連れ戻される、を繰り返していたようだった。たまたま逃げ回っている内にローイックがいる場所に来たらしい。
「何を、見ているの?」
ローイックは後ろから声をかけられた。ローイックは振り返り、声の主を見た。キャスリーンは橙色のドレスを着てはいるが、色々と汚れていたし、夕日に映える金色の髪もピンピンと跳ねていて、とても皇女には見えなかった。
ローイックは、お転婆だが可愛らしい女の子だ、と思ったが、戦利品である自分には縁はない、とも思った。
「……祖国を、見ていました」
ローイックはぼそっと質問に答えると、直ぐに視線を戻した。何をするでも無しに、祖国の方をずっと見ていた。戦利品である彼に、自由にできる事などなかったのだ。
「ふーん、そうなんだ」
キャスリーンには今の言葉で、彼の立場が分かったのだろう。そんな生返事だった。
「いつも見てるの?」
「……する事が、無いですから」
会話というには言葉が足りなかったが、キャスリーンには彼の言いたい事は理解できたようだ。
「あなたの目は、青くて綺麗ね!」
キャスリーンは話題を変えた。
帝国の人間の瞳の色は茶色が多く、稀に紫紺がいて、皇族は緋色であった。ローイックの瞳は、珍しいサファイヤブルーをしていた。キャスリーンはその色の瞳を、初めて見たのだろう。
「そう、ですか?」
振り向いたローイックのサファイアブルーの目が、キャスリーンの緋色の瞳を捕らえた。数瞬、見つめ合った。
「うん、綺麗!」
夕日の色を映し込んだ彼の瞳を見た彼女は、二パッと笑った。ローイックはその笑顔に釘付けになり、視線をずらせなかった。それほど彼女の笑顔は印象的、かつ魅力的だった。
「姫様ーーー!」
遠くから若い女性の声が聞こえて来た。あからさまに誰かを探している、といった声だ。ローイックには、その誰かが目の前にいる事も、分った。
「いっけなーい。逃げなきゃ!」
夕暮れだというのにどこに逃げるつもりなのか。ともかくキャスリーンは慌てて左右を見て、逃げる方向を探していた。
「そうだ! あなた、名前は?」
「……ローイックです」
「あたしはキャスリーン! 明日も来るね!」
キャスリーンは又も二パッと笑い、ドレスが暴れるのも気にせずに走って逃げていった。
その純粋な笑顔は、疲弊していたローイックを惹きつけてやまないものだった。この時から、ローイックはその笑顔にやられているのだ。
「明日、か」
ローイックの頬は無意識に緩んでいた。
何時までも続く出口のない生活。挫けそうだったローイックに、『明日』ができたのだ。
次の日、約束通りキャスリーンは現れた。やっぱり髪はぼさぼさで、色々と汚れたドレスだったが、その爛漫な笑顔はローイックを癒したのだった。
話をしたり、されたり、他愛のない子供のお遊びの一つだったが、ローイックには、それで十分だった。別れ際には必ず「また明日ね!」で締めくくられた。
勿論皇女であるキャスリーンが毎日そこに来れるわけではなかった。だがローイックは毎日そこにいた。この『明日』があったから、彼は希望の無い日々を生きてこられたのだ。
そんな、遊びという名の逢瀬が三年程続いたある日、ローイックは第三騎士団に転属となったのだ。
ローイックが食堂へと続く廊下を歩けば、支度に向かう騎士達とすれ違う。化粧をしていないが、みな美形か愛らしいかのどちらかだ。それでも顔で選ばずに剣技で選抜しているらしい。
「おはようございます」
ローイックは軽く会釈する。
この第三騎士団はキャスリーンの護衛部隊が元に構成されている。彼女が十六歳で成人したとき、騎士になりたいと駄々をこねたが為に、繰り上がりで騎士団となった。
ただ、護衛部隊だった彼女達の待遇は良い物になったから、不平は出なかった。寧ろ士気は駄々上がりにあがった。もはや彼女専用の近衛に近い存在であった。
「おはよー、ローイック君」
「おはよう!」
「おはようございまーす」
ローイックが会釈をして挨拶をすれば一様に微笑んでくれる。女の園に唯一の男である。が、平民ですらない彼は無害であるからか、彼女達も警戒しないのだ。
実際に彼にはそんな権限も、する気もなかったが。
「ふふ、姫様は行ってしまいましたよ」
「あっ!」
キャスリーンの呼び方は姫様。団長ではない。これは第三騎士団特有の決まりだ。
「し、失礼します!」
ローイックはキャスリーン追いかけるべく足を早めた。
騎士達が彼を、ニヤニヤしながら見送っていた事には、気がつかなかった。
ローイックが食堂に入ったときには、キャスリーンは幾つかあるテーブルの一つに着いていた。
「おっそーい」
キャスリーンは頬杖を付き、口を可愛く家鴨にしていた。ローイックは苦笑いしつつも、ご褒美だと思っている。普段の彼女は凜として可憐なのが、ローイックの前では地を出す。その落差が良いのだ。
彼女が待つテーブルに歩み寄りながら「すみません。でも、そんな可愛い顔で怒られても、怖くないですよ」と軽口を叩く。
「ふ、ふん。おだてても、ダメなんだから」
可愛いと言われたキャスリーンは腕を組み、視線を逃がしている。そんな仕草もローイックにとってはご褒美だ。
「ともかく、朝食をとってよ」
目の前に並んでいるのは、パンにサラダにスープと肉詰めだ。まだ湯気が立ち上っていて、わざわざ暖め直したのが分かった。
ローイックは静かに席につき、祈りを捧げて食べ始めた。
「あの、姫様?」
「なーに? 足りない?」
「いえ、そうジロジロ見られていると、食べ辛いのです」
キャスリーンは顎に手を当て、ニコニコしながらローイックの食事を見ていた。ローイックは非常に食べにくい状況に置かれている。
「ローイックは放って置くと食事はとらないじゃない。宿舎にも帰らないで机で寝ちゃうし!」
ニコニコからムスに変わったキャスリーンが、ローイックの問題点を挙げ始めた。事実をツラツラと告げられてはローイックも居心地が悪い。
たまらず「そ、それは処理しなければならない書類が多くて、処理しきらないのです」と言い訳をした。ズボラと言われているに等しいが、事実ではある。
「それは分かるけど、身体の事も考えてよ」
口を尖らせたキャスリーンに母親の如く言われ、ローイックは尻がむず痒かった。だが心配して貰っていることには、心の中で感謝した。
「そんなに書類が多いんだったら、あたしが手伝うわよ!」
キャスリーンはニカッと悪戯っ子の笑顔をしている。
愛らしいこの笑顔は何か企んでるな、とローイックは直感した。以前にもあるのだが、大体が碌な結果にならないのだ。
「姫様に手伝って頂く事はできません」
「ローイックに倒れられると、困るのよ」
キャスリーンは笑っていて、ちっとも困っていないように見える。何かをサボる口実にするのが見え見えだ。
「大丈夫です。今日頑張れば終わりますから」
「昨晩は宿舎に帰ってないんだから、今日は早く帰れるようにしないと!」
今日の姫様はやけに食い下がるな、とローイックは感じた。いつもならすぐに「分かったわよ、分った分かった」と諦めるのだ。しかもキャスリーンは笑っていて、妙に嬉しそうではあった。ローイックとしては疑問ではあるが、彼女の微笑みという目の保養を楽しんでしまっていた。
「…………だからね、分かった?」
だが、その目の保養に集中しすぎて、ローイックはキャスリーンの言葉を聞き漏らしていた。
「え、あの」
「返事は?」
「え?」
焦ったローイックが言い淀んでいると、キャスリーンが寂しそうな顔をした。
「はい、分かりました」
勿論、ローイックは何を言われたかなど分かっていない。だがキャスリーンの寂しそうな顔を見るのは、嫌だった。男にとって理由など、その程度で良いのだ。
「よーし、言ったな~」
キャスリーンはまた、悪戯っ子な笑顔を見せてくれた。ローイックはその顔を見てホッとしたのだが、この選択を後悔することになるのは、今の彼では知る由もないのだった。
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