上 下
38 / 60

38

しおりを挟む

「──は、?」

 微かに聞こえて来た男女の言い争う声に理仁はびくりと肩を震わせると、耳をそばだてる。

 何処から聞こえて来ているのか。
 何か、危険な──事件性のある事が起きてるのだろうか、と理仁は周囲を見回す。

 だが、理仁がエレベーターから降りて微かに聞こえていた声は今は聞こえてこず、理仁はまさか「心霊系じゃないよな」とビクビクしながら廊下を自分の部屋に向かって歩く。

 少し進んだ所で、再び先程の言い争うような声が聞こえて来て、理仁はその声が聞こえて来た方向へ弾かれたように駆け出した。



 聞こえて来た声は、聞き覚えのある声で。
 会話の内容まではハッキリとは聞こえないが、口論をしているように感じる。
 何処から聞こえるのか、理仁は自宅の扉を通り過ぎると少しずつ声がはっきりとクリアに聞こえて来るようになり、その声が聞こえて来る方向に向かって駆けるスピードを上げた。



「──だからっ、もう分かりきってる事なのに、何で頷いてくれないのっ」
「何で俺がお前に振られなきゃいけねえんだよ! 俺が捨てるならまだしも、お前に言われんのが一番腹が立つ……!」

 廊下の端、エレベーターがある場所から離れた階段付近からその声が聞こえて来て、理仁はその声の主に心当たりがあって逸る気持ちを落ち着かせながら何とか急いでその場まで向かう。

「もうっ、堂々巡りで話がつかないっ! もう何ヶ月もこんな事の繰り返しじゃない!」
「──琴葉っ! 逃げんな!」

 何やら、どんどんと二人の会話がヒートアップしているようで、理仁はその声がはっきりと聞こえる距離までやってくると、理仁がやって来た事に気付いていない様子の二人、男女に声を掛けた。

「──あのっ!」

 思っていたよりも大きな声が出てしまった事に、理仁自身驚きながらそれでも声を掛けてしまった以上、このまま見過ごす訳には行かない。

 口論のような物をしていた二人の男女──女性の方は、理仁の隣に住む住人の藤川琴葉で。
 恐らく口論していた男性が、琴葉の彼氏、なのだろうか。
 傍から聞いていると、別れ話が拗れているような内容の会話をしていた。

 そして、その男性は以前理仁が琴葉の部屋から出てきた姿を見た男性と同一人物で。

 その男──嘉川樹は、突然自分達の話に割り込んで来た理仁に「あ?」と不機嫌そうな表情を浮かべて理仁に振り返った。
 琴葉も、声を掛けて来たのが理仁だと分かり驚きに目を見開いた後、知り合いにこのような場面を見られてしまったからか、気まずそうな、羞恥に耐えるような何とも言えない表情を浮かべて唇を噛み締めている。

「──何だ、あんた……」

 完全に体を理仁に振り向かせ、樹が苛立ちを顕に理仁に声を掛ける。
 だが、理仁はしっかりと樹に視線を合わせたまま眉を顰めて唇を開いた。

「──このような場所で、口論などしていては近所の迷惑です。それに、女性に対して貴方の態度は高圧的で見過ごせません」
「──はぁ? お前には関係ねえだろ……」

 樹はじろり、と理仁を睨み付け、そしてそこで理仁の顔に見覚えがあり僅かに目を顰めた。

「お前……見覚えあると思ったら……っ。琴葉! この男だろう!」

 樹は苛立ち混じりに声を荒らげると琴葉に向き直り琴葉の腕を掴もうと自分の腕を伸ばす。
 自分が口を挟んでしまった事で樹の怒りが再熱してしまった事に慌てて、理仁は急いで琴葉と樹の間に体を割り込ませる。

「感情が昂ったままでは何も解決しないのでは!? 一旦冷静になって、お互い話し合った方がいいと思います!」
「お、大隈さ──……っ」

 理仁の背に隠された琴葉が、か細く理仁の名前を呼ぶ。

 先程まで琴葉自身も感情が昂っていたせいか、第三者が話に入ってきたお陰で若干冷静さを取り戻したのだろう。
 そして、目の前の男に荒い口調で詰め寄られて居る事に恐怖を感じたのかもしれない。

 琴葉の声音からは確かに怯えのような物が滲み出ており、理仁はじりじりと間合いを詰めて来る樹から距離を取るように後方へと下がる。

 廊下から、少し奥まった階段の方向へと少しずつ入り込みながら理仁は樹を落ち着かせるように、落ち着いて冷静に二人で話し合いをしてはどうか、と声を掛けるが目の前の樹は理仁の顔を見て、怒りを顕にしている。

「──琴葉っ、お前はいっつもそうだ……! 自分がいつも正しい事をしている風に見せかけて、俺を追い詰めやがって……!」
「ちょ……っ、取り敢えず落ち着いて──!」

 理仁には何が何だか分からないが、これ以上樹が興奮しないように、となだめようとするが背中に庇っていた琴葉が小さく声を上げる。

「すみません、大隈さん……っ、こんな場所で本当皆さんに迷惑ですよね……。ちゃんと話し合います……っ」
「藤川さんがそれでいいなら……」

 琴葉の声に反応し、理仁はそう言葉を返すが目の前に居た樹はその琴葉の言葉に更に怒りを募らせる。

「そうやって、お前は……っ! 八方美人なのも大概にしろよ!」
「──ちょっ、樹やめ……っ」
「ちょっと……!」

 何が樹の琴線に触れたのか。
 それは分からないが、突然逆上した樹が理仁を避けて琴葉の方へ回り込み、琴葉を捕まえようと腕を伸ばした。
 琴葉がびくり、と体を震わせ、そして理仁が樹の腕から琴葉を再度自分の背中に庇おうとした時。

「邪魔なんだよ……っ!」

 樹の苛立たしげな声が響き、理仁の体がどんっ、と樹の腕に強く押された。

 廊下から、階段のある奥まった場所に入り込んでいた理仁達は、理仁の直ぐ後ろが階段になっている事には気付かず、理仁が押された衝撃でバランスを崩し、後ろに一歩足を後退させた時、そこには地面など無く、かくん、と理仁の体が後方へと傾いた。

(──あ、階段……っ)



 箱根で会った占い師に言われた言葉が突然理仁の頭の中で蘇る。

 階段には気を付けろ、と言う言葉はこの事だったのか、と妙に理仁は納得し、そしてそのまま階下へと派手な音を立てて落ちて行った。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】龍神の生贄

キャラ文芸 / 連載中 24h.ポイント:404pt お気に入り:342

小さなうさぎ

児童書・童話 / 完結 24h.ポイント:1,597pt お気に入り:1

臆病な犬とハンサムな彼女(男)

BL / 完結 24h.ポイント:248pt お気に入り:4

恋心を利用されている夫をそろそろ返してもらいます

恋愛 / 完結 24h.ポイント:9,244pt お気に入り:1,264

【短編集】

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:13,839pt お気に入り:2,020

転生チートは家族のために~ ユニークスキルで、快適な異世界生活を送りたい!~

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:27,726pt お気に入り:532

初恋の王女殿下が帰って来たからと、離婚を告げられました。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:71,423pt お気に入り:6,908

処理中です...