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第二章 天正十一年十二月二十日
二 紀州街道
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◆ ◆ ◆
【顕如の日記(意訳)】
御座所日記は堅苦しい。まあ公式の記録なので仕方ないのだけれど、もう少しくだけた話も書きたいところ。いつまで続くかはわからないが、とりあえずこういうものも書いてみたい。
ああ、今日は良い天気だ。こんな日には旅に出たくなる。
◆ ◆ ◆
晴れ上がった冬の空は青く、雲は少なかった。街道には人の影がぽつり、ぽつり。
後の世に織豊時代、あるいは安土桃山時代と呼ばれる、戦国乱世も終わりに近付いた頃の事。織田信長が本能寺の変に倒れたその翌年、天正十一年(西暦一五八三年)の年の暮れ、天下に名高い自治都市である堺を背に、紀州街道を南に歩く小柄な若者がいた。
歳は十七。だがもう二つ三つ幼くも見える。月代を剃らずに髪を後ろになでつけて結っただけの総髪姿、綿の入った上等な紺の小袖に袴、腰には短めの刀を一本差し、近頃流行りの傾き者とは正反対の、地味だが品の良い、おとなしそうな良家の若衆姿であった。肩には風呂敷をかけ、右手には菅笠を持っている。その雰囲気は旅慣れているように見えた。
街道を進むと、前方に高く大きな石垣が見えてくる。右方向に顔を向ければ、青く穏やかに輝く海原、茅渟の浦曲。和泉と淡路を隔てる狭い海だ。冬の陽光をキラキラと反射している。孫一郎はその景色に目をやった。
「これが和泉国か」
正しくは堺の南部もすでに和泉国なのだが、自立した都市は、それのみで国の趣がある。この時代、和泉国らしいといえば、堺より南、紀州までの地域であろう。
しばらく歩くと石垣が少し近付いてくる。石垣には四本ほどの櫓が生えているのが見えた。天守はない。おそらくあれが岸和田城だ。少し左に目をやれば、すぐ近くまで山脈が迫っている。平野部は狭い。大きな川も見えない。緑は豊かだが百姓衆は大変だろうな、と孫一郎は思った。まして今は戦国の世である。
街道から離れて少し海の方に歩けば、じきに漁村があり、浜がある。波打ち際を歩いてみたいという気持ちに駆られたが、やめておいた。旅を続けたいなら迂闊な好奇心は捨てねばならない。今はこのあたりも飢饉が続いているはずだ。余所者が勝手に村に入れば、ただでは置くまい。少し大げさかも知れないが、そのくらい注意しておいた方が良い。町には入るが、村に入るのはやめておこう。
街道を進むと、旅籠街に出た。飢饉の続いている地域とは思えないような、明るい声が響いている。客引きの下女が孫一郎の袖を引いた。
「小さなお武家さん、もう昼過ぎだよ、休んでいきなよ、安くしとくよ」
孫一郎は申し訳なさそうに袖を引く手をそっとほどいた。
「今日は貝塚の本願寺さまにまで、行ってみようと思っているので」
「えー、あんな危ないとこ。根来の連中が近くまで来るんだよ」
孫一郎はおとなしげな顔を、少し困ったように微笑ませた。
「寺内町では根来の衆も、濫妨狼藉は働かないと聞きます。何とかなるでしょう」
そしてペコリと頭を下げると、背を向けて歩き出した。
「あー、ちょっと。うちなら二十四文だよ。米の飯ついてるよ。貝塚は高いってよ!」
背後から聞こえてくる下女の声を振り切るように、孫一郎は街道を南に急いだ。間もなく岸和田の町に入る。そのさらに向こうにあるのが、本願寺のある貝塚寺内町であった。
◇ ◇ ◇
一揆とは何か。一揆とは百姓が集団で反乱を起こす事ではない。百姓、地侍、侍、寺僧などが盟約を結び徒党を組む事を一揆と言い、それによって自分たちの主張を押し通そうと、より大きな勢力に共同で立ち向かう事を目的とする。国人一揆や惣国一揆、土一揆などの種類がある。たとえば紀州の根来雑賀の一揆は、根来寺の宗教一揆と雑賀の惣国一揆が合流したものだ。
この当時、紀州において根来雑賀の一揆勢は、粉河寺および高野山と共闘し、戦国大名に比肩する勢力を紀伊半島に誇っていた。戦力の中心は、その数五千挺とも言われた鉄砲。織田信長のそれを上回る鉄砲軍団を擁し、周辺諸国に睨みを利かせていたのだ。その紀州に国境を接する和泉国南部は、以前から根来寺の影響下にあり、いまだ羽柴秀吉の軍門には降っていなかった。秀吉の権威が通用するのは、岸和田までだったのだ。
その岸和田にこの年、すなわち天正十一年の四月、中村一氏が封ぜられた。羽柴秀吉の配下としては最古参、懐刀ともいうべき男である。一氏は着任してすぐ、和泉国の神社仏閣を次々に接収していった。信仰の面から領民を支配しようとしたのだろう。しかし和泉国の農民たちはそれに反発し、幾度となく徒党を組み、反乱を起こした。もちろんその裏には根来寺の存在がある。
一揆勢は澤城、畠中城、積善寺城、高井城、千石堀城などの比較的小規模な城を貝塚の近木川沿いに築いていた。これらの付け城と岸和田城は、直線距離でおよそ五~六キロメートルほどしか離れていない。この頃の和泉国南部は、羽柴秀吉と根来雑賀の一揆勢との、勢力争いの最前線であったのだ。
【顕如の日記(意訳)】
御座所日記は堅苦しい。まあ公式の記録なので仕方ないのだけれど、もう少しくだけた話も書きたいところ。いつまで続くかはわからないが、とりあえずこういうものも書いてみたい。
ああ、今日は良い天気だ。こんな日には旅に出たくなる。
◆ ◆ ◆
晴れ上がった冬の空は青く、雲は少なかった。街道には人の影がぽつり、ぽつり。
後の世に織豊時代、あるいは安土桃山時代と呼ばれる、戦国乱世も終わりに近付いた頃の事。織田信長が本能寺の変に倒れたその翌年、天正十一年(西暦一五八三年)の年の暮れ、天下に名高い自治都市である堺を背に、紀州街道を南に歩く小柄な若者がいた。
歳は十七。だがもう二つ三つ幼くも見える。月代を剃らずに髪を後ろになでつけて結っただけの総髪姿、綿の入った上等な紺の小袖に袴、腰には短めの刀を一本差し、近頃流行りの傾き者とは正反対の、地味だが品の良い、おとなしそうな良家の若衆姿であった。肩には風呂敷をかけ、右手には菅笠を持っている。その雰囲気は旅慣れているように見えた。
街道を進むと、前方に高く大きな石垣が見えてくる。右方向に顔を向ければ、青く穏やかに輝く海原、茅渟の浦曲。和泉と淡路を隔てる狭い海だ。冬の陽光をキラキラと反射している。孫一郎はその景色に目をやった。
「これが和泉国か」
正しくは堺の南部もすでに和泉国なのだが、自立した都市は、それのみで国の趣がある。この時代、和泉国らしいといえば、堺より南、紀州までの地域であろう。
しばらく歩くと石垣が少し近付いてくる。石垣には四本ほどの櫓が生えているのが見えた。天守はない。おそらくあれが岸和田城だ。少し左に目をやれば、すぐ近くまで山脈が迫っている。平野部は狭い。大きな川も見えない。緑は豊かだが百姓衆は大変だろうな、と孫一郎は思った。まして今は戦国の世である。
街道から離れて少し海の方に歩けば、じきに漁村があり、浜がある。波打ち際を歩いてみたいという気持ちに駆られたが、やめておいた。旅を続けたいなら迂闊な好奇心は捨てねばならない。今はこのあたりも飢饉が続いているはずだ。余所者が勝手に村に入れば、ただでは置くまい。少し大げさかも知れないが、そのくらい注意しておいた方が良い。町には入るが、村に入るのはやめておこう。
街道を進むと、旅籠街に出た。飢饉の続いている地域とは思えないような、明るい声が響いている。客引きの下女が孫一郎の袖を引いた。
「小さなお武家さん、もう昼過ぎだよ、休んでいきなよ、安くしとくよ」
孫一郎は申し訳なさそうに袖を引く手をそっとほどいた。
「今日は貝塚の本願寺さまにまで、行ってみようと思っているので」
「えー、あんな危ないとこ。根来の連中が近くまで来るんだよ」
孫一郎はおとなしげな顔を、少し困ったように微笑ませた。
「寺内町では根来の衆も、濫妨狼藉は働かないと聞きます。何とかなるでしょう」
そしてペコリと頭を下げると、背を向けて歩き出した。
「あー、ちょっと。うちなら二十四文だよ。米の飯ついてるよ。貝塚は高いってよ!」
背後から聞こえてくる下女の声を振り切るように、孫一郎は街道を南に急いだ。間もなく岸和田の町に入る。そのさらに向こうにあるのが、本願寺のある貝塚寺内町であった。
◇ ◇ ◇
一揆とは何か。一揆とは百姓が集団で反乱を起こす事ではない。百姓、地侍、侍、寺僧などが盟約を結び徒党を組む事を一揆と言い、それによって自分たちの主張を押し通そうと、より大きな勢力に共同で立ち向かう事を目的とする。国人一揆や惣国一揆、土一揆などの種類がある。たとえば紀州の根来雑賀の一揆は、根来寺の宗教一揆と雑賀の惣国一揆が合流したものだ。
この当時、紀州において根来雑賀の一揆勢は、粉河寺および高野山と共闘し、戦国大名に比肩する勢力を紀伊半島に誇っていた。戦力の中心は、その数五千挺とも言われた鉄砲。織田信長のそれを上回る鉄砲軍団を擁し、周辺諸国に睨みを利かせていたのだ。その紀州に国境を接する和泉国南部は、以前から根来寺の影響下にあり、いまだ羽柴秀吉の軍門には降っていなかった。秀吉の権威が通用するのは、岸和田までだったのだ。
その岸和田にこの年、すなわち天正十一年の四月、中村一氏が封ぜられた。羽柴秀吉の配下としては最古参、懐刀ともいうべき男である。一氏は着任してすぐ、和泉国の神社仏閣を次々に接収していった。信仰の面から領民を支配しようとしたのだろう。しかし和泉国の農民たちはそれに反発し、幾度となく徒党を組み、反乱を起こした。もちろんその裏には根来寺の存在がある。
一揆勢は澤城、畠中城、積善寺城、高井城、千石堀城などの比較的小規模な城を貝塚の近木川沿いに築いていた。これらの付け城と岸和田城は、直線距離でおよそ五~六キロメートルほどしか離れていない。この頃の和泉国南部は、羽柴秀吉と根来雑賀の一揆勢との、勢力争いの最前線であったのだ。
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