強請り屋 悪魔の羽根顛末

柚緒駆

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長畑房江

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 朝八時半。訪れた芦則精神科は午前中休診だった。

 何だよ午前中休診って。普通午後から休診じゃねえのか。まったくこれだから。くそっ、馬鹿にしやがって。俺は駐車場のクラウンの中でタバコを一本吸い切ってから車を出した。とにかく次だ、次。


 ナビの誘導に従って次の目的地に到着したのは午前九時半。途中で高速を使ったとはいえ、思っていたより近い。そこは海崎志保の元家政婦、長畑房江の家の前だ。路肩にクラウンを停め、インターホンを押してみた。肥田久子のときのように居留守を使われるかとも思ったのだが、長畑房江はあっさりと顔を出した。

 化粧っ気のない小柄な中年女。ゆるやかなパーマをかけた肩までの髪に何本もヘアピンを留め、真っ赤なTシャツには血走った眼球が描かれている。どこかのパンクバンドのグッズだろうか。

「何ですか」

 無表情で感情のこもらぬ声。俺は懸命に作った笑顔で話しかけた。

「長畑房江さんでしょうか」
「はあ」

「私、こういう者ですが」

 と、角がヨレヨレになった名刺を差し出す。

「はあ」

 長畑房江は受け取りはしたが、それしか言わない。

「えー、つまり興信所の者でして」
「はあ」

「一応、所長をしております」
「はあ」

「あ、後ろにおりますのは助手でして」
「はあ」

「ちょっとお伺いしたいことが」
「はあ」

 まさに暖簾に腕押しといった感じだ。作り笑顔が崩れないよう顔面に力を入れなくてはならなかった。これは非常に疲れる。もうこれ以上、前置きをダラダラ続ける訳には行かない。本題に入ろう。

「……海崎志保さんについてお聞きしたいのですが」

 すると長畑房江はドアを全開にし、一歩下がった。

「どうぞ」

 小さな声が聞こえる。どうやら招き入れられたらしい。俺とジローは玄関から入った。

「お邪魔します」

 入れるんなら、さっさと入れろよ。そう心の中で舌打ちながら。


 キッチンと言うよりは台所と言った方がしっくり来るだろうか。古いステンレスの流し台の横に置かれた木のテーブルに、木の背もたれがついた椅子が四組。椅子のうち一つだけが色あせ、ワックスがハゲている。そこに長畑房江が座り、ほとんど使われた形跡のない椅子に、俺とジローが座った。相変わらずジローは膝を抱えて中空を見つめているが、長畑房江はこれといって気にならないようだ。

 緑茶を注いだ湯飲みを三つテーブルに置いて、長畑房江はこちらを無表情に見つめた。それを合図にメモとボールペンを取り出す。

「では早速ですが、お願いします」
「随分とアナログなんですね」

 大きなお世話だ、と心の中で返しながら言葉を続けた。

「アナタが海崎志保さんのところで家政婦をしていたのは、いつ頃ですか」
「いつ頃でしたか。何月何日だったとかは覚えていないのですが、奥様が結婚された少し後から、あの事故が起きたしばらく後、お屋敷から追い出された頃くらいまでですね」

 思わず口元が緩んだ。この女、ボーッとした顔してるくせに、こっちが何を聞きたいのか、ちゃんと理解してやがる。肥田久子と言い、こいつと言い、油断ならねえ。

「今でも『奥様』と呼んでらっしゃるんですね」
「今さら『海崎さん』と呼ぶのも気持ち悪いですからね。慣れの問題です」

「さっきおっしゃった事故があったとき、海崎志保さんはどんな様子でしたか」
「それは驚いてらっしゃいましたよ」

 そしてしばしの沈黙。おれはちょっと前のめりになって言葉を促した。

「いや、そこんところ、もう少し詳しく。事故の連絡があったとき、アナタは海崎さんの近くにいたんですか」

「はい。事故の連絡の電話を取り次いだのは私ですから。奥様は最初意味が理解できなかったようで何度も聞き返してらっしゃいましたが、突然絶叫されましてね、そこからしばらくは随分取り乱してらっしゃいました。もう取り付く島もない感じで」

「そのとき、何か言ってませんでしたか」
「私が呪われているから、とか何とか」

 呪いか。俺は「けっ」と言いたくなるのを必死で抑えた。まあ海崎志保が本当に事故に無関係なら、想定外のとんでもない事態に巻き込まれた訳だ、とんでもない理由をこじつけたくなるのも無理はないのかも知れない。

「何の呪いか、とかはわかりませんよね」
「そんなことを聞けるほど、悠長な状況ではなかったですね。錯乱状態と言ってもいいくらいでしたから」

「その後はどうでした」

「どうと言われましても。茫然自失というのでしょうかね、お通夜も本葬も社葬のときも、ずっとふさぎ込んで、心ここにあらずという感じでした。元々は朗らかな方だったのですが、まるで火が消えたようで。お食事も摂らずに体重が一気に落ちたりもされましたね。あまりの変わりように、奥様まで後を追われてしまうのではと心配したものです」

 それは余程ショックだったのだろう。まあ芝居の可能性も、まだあるにはあるのだが。

「その辺りで、肥田久子さんが訪ねて来ませんでしたか」
「ああ、『あの方』は何度か、三回くらいは見えられたはずです。事故のあった翌日、葬儀の日、あと社葬の前日にも来られましたね。私が知っているのはその三回ですが、他の日に来られていたとしても不思議ではないです」

「お二人は何の話をしていたか、わかりませんか」
「同席をしておりませんので、話の内容までは。ただあの方とお話になった後の奥様は、たいそうお疲れだったのを覚えております」

「肥田久子さんは、海崎志保さんが笑った、と言ってるんですが」

「さあ、それは見ていないので何とも。ただ三回目、社葬の前日に来られたとき、私がお茶を用意して持って参りましたら、あの方がえらい剣幕で何か怒鳴りながらお部屋から飛び出していらして。奥様も呆気に取られておいででした。あの方にはそれ以来お目にかかっておりませんね」

 おそらく肥田久子の言ってた写真てのは、社葬に使われた写真のことだな。だとしたら、まったくどうでもいい話だ。無駄なことに神経を使っちまった。

 長畑房江は静かにお茶を飲んでいる。どうする。いま聞いておくことは他になかったか。このまま碌な収穫なしで帰るのか。……いや、一つどうしても確認しておかなければならないことがあるな。俺はぬるくなった茶で口を少し湿らせた。

「海崎志保さんの知り合いの中に、篠生幸夫さんという方はいましたか」

 一瞬の間があった。知らないと言われたら、また一からやり直しだ。しかし。

「篠生先生のことですか? ええ、奥様のお知り合いです。というか、奥様のかかりつけのお医者様ですよ」

 俺は下っ腹に力を入れた。思わず立ち上がりそうになる身体を懸命に抑え付ける。

「かかりつけ、ということは、海崎志保さんは、その、精神的なトラブルを抱えていたということでしょうか」

「トラブルと言いますか」長畑房江は少し呆れたような顔を見せた。「あの頃奥様は藤松の家の中で孤立されていましてね。普通に暮らすだけのことが、えらく大変だったのです。気苦労も尋常ではありませんでした。それでときどき篠生先生のカウンセリングを受けておられたのです。奥様が唯一心を開いて話せる方だったかも知れませんね」

「孤立、ですか」

 てっきり大金持ちのセレブ生活を満喫していたものだとばかり思っていたのだが、どうもそうではないようだ。

「ええ、そもそも私が奥様に雇われたのもそれが理由です。藤松の家には大勢の家政婦がいたのですが、奥様の身の回りの世話をしてくれる者は誰もいませんでしたから。ただでさえ藤松の家は旧家で、決まり事の多い面倒臭い家だったのです。そこに外から『嫁』がやって来たのですから、まあ居場所などあるはずがありません。じっとしていれば邪険にされ、自分で動こうとすれば貧乏人のような真似をするなと叱られます。日常のルーティンを行うだけでも決まりやしきたりに縛られて、不自由極まりない生活を余儀なくされていたわけですから、何週間かに一度受けられるカウンセリングについてなど、さんざん嫌味を言われていたようです。奥様についてイロイロ言う人もいますけど、私はよく耐えておられたと思いますよ」

 一気に喋り終わると、長畑房江はまた一口茶を飲んだ。もしかして、これを言いたかったがために俺たちを招き入れたのだろうか。そんな気さえした。


 海崎志保は結婚した際、大帝邦製薬の役員補佐的な役職を与えられていた。しかし研究所の事故後、大帝邦製薬はそれを剥奪した。会社内から創業者である藤松家の影響を取り除く好機と捉えたのだろうか。藤松家の土地屋敷も、いつの間にか会社名義になっており、事故後半年もしないうちに志保は追い出されてしまった。もちろんそれでも彼女が相続した財産は、莫大な額であったのだが。

 ちなみに件のサイノウ薬品未公開株購入は、志保がまだ役職を持っている頃にサイノウ薬品側から持ちかけられたものらしい。お得意様の跡取りの嫁に、ご機嫌伺いのつもりだったのかも知れない。

 長畑房江は海崎志保が藤松の家から追い出されると同時に暇を出され、それ以後のことはわからないという。とりあえず今日の時点ではここまでが限界のようだった。俺とジローは長畑房江の家を出て、銀色のクラウンで来た道を再び戻った。昼飯を食ってから、再び芦則精神科に向かうのだ。
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