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巣穴の中へ
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ナビに従って到着したのは高層マンションの前。都心部まで駅二つというところか。近くにコンビニがあったので、そこにクラウンを停め、ジローを連れてエントランスへと向かった。肥田久子のメモによれば、海崎志保の部屋は十二階の1208号室。問題はどうすれば中に入れてもらえるのかだが、迷ってはいられない。
自動ドアからエントランスに入ると、内側にもう一つ自動ドアがある。しかし前に立っても開かない。ここから先は住人の許可がなければ入れない訳だ。
自動ドアの脇にあるオートロック操作盤のキーで1208を押し、最後に呼び出しボタンを押す。トラの巣穴の前に立つ気分。時刻はもう午後九時に近い。部屋にいる可能性は高いものの、こんな時間の来訪など、普通の人間なら警戒する。居留守を使われたらそれまでだ。やはり明日にすべきだったか。
だが善は急げ、いや俺の場合は悪は急げなのかも知れないが、後回しにすることにメリットはない。巧遅よりも拙速と言う。金が欲しいのなら、可能な限り急ぐことだ。チャンスをつかむのにベストタイミングなどない。誰よりも速いヤツが誰よりも金を手にすることができる。それがこの世の中なのだ。そんなことを考えていると。
「はい」
操作盤パネルのスピーカーから、女の声が応じた。思わず声を上げそうになる自分を抑える。落ち着け、落ち着け、不審に思われたら最後だ。俺はできるだけ低い声で、意識的にゆっくりと話した。
「……海崎志保さんのお宅でしょうか」
「どちら様でしょうか」
さて、ここで何と答えるべきか。一瞬迷ったが、こんなところで長々と自己紹介をしても始まらない。俺は覚悟を決め、思い切ってこう口にした。
「亡くなったお父さんのことでお話が」
一瞬の沈黙。そして。
「どうぞ」
巣穴への自動ドアが開いた。
エレベーターで十二階まで上がった俺たちを迎えたのは、暗く輝く長い廊下だった。その左右に、交互にドアが見える。中庭などはない。ぎっしり部屋が詰まっているのだ。
多少の圧迫感を感じながら、1208号室を探す。と、廊下の中ほどの部屋のドアが開いて人が出て来た。黒いジャージにサンダル姿。女だ。黒くて長い髪をポニーテールにしている。
その女が、俺たちに向かって無言で会釈をした。さすがの俺の胸にも、やや感慨めいたものが湧き上がる。とうとう実物に会えた。こいつが海崎志保なのか。
歳は二十九になるはずだが、大学生と言っても誰も疑わないだろう。少し垂れ目気味で儚げな印象はあるが、大きな瞳の整った顔立ち、スタイルの良さはダボダボのジャージの上からでも見て取れる。なるほど、男子高校生には目の毒だ。
海崎志保は窓のない応接室に俺たちを招き入れ、低いコーヒーテーブルにカップを三つ置くと、ソファに身を沈めた。これといって何もない質素な部屋。肥田久子の家の客間を思い出す。だがよく見れば、まったく違うことがわかる。
たとえばソファ。こっちは間違いなく本革だ。真ん中のコーヒーテーブルを囲むように四つ並んでいる。そして書棚。四方のうち三方の壁はみな書棚で覆われているが、それ自体はそう高そうなものではない。しかしその中にはハードカバーがびっしり詰まっている。
ざっと見ただけでも『枕草子』『源氏物語』『徒然草』が見える。『史記』と『論語』もある。あとはその隙間に、高校化学と書かれた本が何種類も。残る一方の壁は、これはおそらくクローゼットか。奥行きまではわからないが、ドアは普通の四枚扉だ。
他に目に付く物は何もない。高級な調度品など見当たらない。せいぜい床の絨毯の毛足が長いくらいで、大富豪の遺産を独り占めにした女の部屋としては、何とも質素な佇まいだった。
角がヨレヨレになった俺の名刺をテーブルの隅に置きながら、海崎志保はジローを見ていた。ジローはいつもの通り膝を抱えながら、海崎志保から見て右手、俺から見て左手のソファに座っている。その目は誰もいない真正面の席をじっと見据えていた。
「彼は、本当にあなたの助手なのですか」
その声には責めるような響きがあった。まあ慣れてはいるが。
「ええ、ジローは俺の助手ですよ。『極めて優秀な』という但し書きが付きますが」
俺はコーヒーを一口飲んだ。酸味を感じるが、昼間のファミレスのより飲みやすい。これならブラックでいい。
「ではお聞かせ願えますか。父が亡くなったとか」
海崎志保は膝で手を組みながら、ややトゲのある口調でたずねた。ただその表情にトゲトゲしさはない。どちらかと言えば目に光はなく、悲しみにうち沈んでいるのがありありと見て取れる。俺は口元を緩めた。
「ええ、アナタのお父さんは亡くなっています。亡くなっているはずです。そのことは、アナタが一番ご存じですよね」
「どういう意味でしょう」
しかし視線は上がらない。手元を見つめている。
「アナタはお父さんの谷野孝太郎氏と、三歳のときに別れています」
「ええ」
「その後、会ったことは」
「いいえ、一度も」
「それは嘘だ」
海崎志保は沈黙した。やはり視線は上がらない。
「アナタは最低でも一度、孝太郎氏に会っている。それも結婚した後に」
「何がおっしゃりたいのでしょう」
「出会ったとき、お父さんは別人になっていました。変わり果てた、という意味じゃない。文字通り別人の名前と生活を手に入れていたんだ。サイノウ薬品の社員、本木崎才蔵という人物のね」
再び沈黙。俺は続けた。
「そのときアナタは父親に、話してしまったのではないですか、自分の藤松家における境遇を。どれほど孤独で追い詰められているのかを。それを聞いて孝太郎氏は、いや本木崎才蔵は激怒した」
「何のことかわかりません」
「その後、大帝邦製薬の研究所で事故が起こった。そのとき、その場所には、研究員として出向していた本木崎才蔵がいた。それは偶然じゃない。アナタはそのことを知っていたはずだ。だから事故の第一報が入ったとき、思わずこう口にしたんだ『私が呪われているから』と」
「違います」
「いいや、違わないね」俺は手応えを感じていた。「アンタは気付いたんだ。自分の口が発した『呪い』が藤松家を破滅に追い込んだってことに。あの日事故の中心部で何が起きたのか、誰がどんな操作をしたのか、いまとなっちゃもう解明のしようがない。全部吹っ飛んじまったからな。だが本木崎才蔵がその場にいたのは間違いない。それはアンタが誰よりも知ってるはずだ」
三度目の沈黙。今度はこちらも沈黙した。コーヒーを一口飲む。そして海崎志保の口が開くのを待った。時間にしておそらく十数秒、だが海崎志保にとっては何時間にも感じたかも知れない。
「……何が望みですか」
「話が早くて助かる」俺は右手の指を三本立てた。「三百万。それで手を打とう。そんだけもらえりゃ、この話は俺が責任を持って墓の中まで持って行く。どうだい、アンタにとっちゃ安いもんだと思うがね」
「いいえ」そして海崎志保は視線を上げた。「高いですね」
そのとき、まるでタイミングを見計らったかのようにチャイム音が響いた。
「ちょっと失礼します」
海崎志保は立ち上がり、インターホンの操作パネルに向かう。俺は小さく舌打ちし、残ったコーヒーを飲み干した。
「はい……はいそうですが……わかりました、どうぞ」
どうぞ? この状況でまた誰か招き入れるってことか? これには内心焦った。こいつ、何を考えてやがる。海崎志保は平然と元の席に戻って来たかと思うと、ソファに座り、俺を見つめた。
「県警の捜査一課の方が来られたそうです」
「なっ」
思わず口に出た。ヤバい。県警には面が割れている。捜査一課だと、まさか俺を知ってるヤツが来るんじゃないだろうな。この状況で顔なんぞ合わせたら、言い逃れが出来ない。
「私は別に構わないのですが、あなたは大丈夫なのですか」
海崎志保の言葉。口元は笑ってはいない。だが目は口ほどに物を言うのだ。
「出口はエレベーターか非常階段ですが、エレベーターはいま警察の方が上って来ています。この子を連れて、階段で十二階下りられますか」
そう言ってジローを見つめた。この女、状況を完璧に理解してやがる。まあジローはいざとなったら見捨てればいいが、十二階下まで階段で下りても、エントランスに刑事が待ってたんじゃ、俺はタダでは済まない。
だが、そこで海崎志保は予想外の行動に出た。不意に立ち上がったかと思うと、クローゼットに近付き、戸を引き開けたのだ。
「こちらへどうぞ。嫌だと言うのなら、私は別に構いませんけど」
どういうつもりだ、とは思ったものの、実際のところ他に選択肢はない。俺も立ち上がった。
「ジロー、立て。その中に入れ」
ジローを先にクローゼットに押し込め、俺も入って座る。海崎志保が戸を閉め、二人揃って暗い中で膝を抱えていると、再びチャイムが鳴った。海崎志保は部屋のドアを開けっぱなしで玄関に向かったらしい。音がすべて聞こえている。玄関ドアの開く音がする。そして聞き覚えのある女の声がした。
「県警捜査一課の、築根麻耶と申します。こちらは原樹巡査です」
フォックスかよ。俺は危うく声に出しそうになった。フォックスは築根麻耶の仇名だ。主に捕まる側が口にする仇名だが。よりにもよって何でこいつが。
「はあ、それで何の御用でしょうか」
「先般の大帝邦製薬研究所爆発事故について、お伺いしたいことがあります。ご同行願えませんでしょうか」
「お断りします」
静かで大人しげな、しかし断固とした言葉だった。
「おい、あんた」
これは原樹の声だろう。だがフォックスに止められたのか、黙り込んでしまった。
「同行できない理由でもあるのでしょうか」
フォックスは落ち着いた声だ。この女はしぶとい。
「警察にはもう何度も取り調べを受けました。お話しできることはすべて話しました。いまは体調も崩しがちになっておりますので、これ以上協力はいたしかねます」
海崎志保も淡々と、けれど一歩も引かない。
「これは極めて重要なことです。後々あなたが不利になるかも知れません」
だがフォックスは押す。すると、海崎志保はこんなことを言い出した。
「それでは、中でお話しください。私は一人暮らしですし、このマンションは防音もしっかりしています。秘密が外に漏れることはないと思いますよ」
おいおいおい、ちょっと待てよ。この部屋に入れる気なのか。マジか……いや、この女、まさか最初からそのつもりだったんじゃ。
「いいでしょう、ではこちらでお話を伺います」
靴を脱ぐ音がする。フォックスと原樹が入って来たのだ。俺はジローを見た。だがピクリとも動かない。まあそうだろう。この状況で音を立てる可能性が高いのは、どう考えても俺の方だった。
「誰かここにいたのですか」
部屋に入ってくるなりフォックスがたずねた。しまった、忘れていた。コーヒーのカップがそのままだった。あと名刺も。しかし海崎志保の声に動揺はない。
「ええ、マンションの中のお友達が二人、ついさっきまで」
「タバコを吸われるようですね」
「はい、私のうちの中では喫煙禁止ですけど」
そんなにニオうものなのか? 俺は自分の腕のニオイを嗅いでみたが、クローゼットの防虫剤のニオイしかしなかった。と言うか名刺は。フォックスが気付かないということは、海崎志保が隠したのだろうか。
柔らかいソファにかける音。海崎志保が自分の席に着いたのだろう。
「どうぞ、おかけください」
「失礼します」
フォックスが座る音がした。だが二つ目の音はない。原樹は立っているのか。そしてそのまま、フォックスは事務的な口調で話し始めた。
「早速ですが、まずあなたには黙秘権が認められています」
「はい、何度も聞きました」
「それでは単刀直入に伺います。本木崎才蔵氏をご存じですね」
俺の背筋に冷たいものが走る。けれど海崎志保はこう答えた。
「いいえ、存じ上げません」
知らん訳があるか。俺は心の中で突っ込んだ。何てこった、俺はこんな図太い女を相手にしてたのか。しかし、フォックスがこの程度で諦めるはずがない。
「サイノウ薬品の社員だった人物です。あの事故のとき、出向研究員として研究所で勤務していました」
「そうですか」
「しかし再度我々が調査した結果、この本木崎才蔵氏は偽物だと判明しました」
もうそこまで調べ上げやがったのか。県警が凄いのかフォックスが凄いのかは何とも言えないが、この女が優秀な刑事なのは間違いない。
「はあ」
対して、まるで意味がわからない、と言わんばかりの海崎志保の声。フォックスはまだ押す。
「本物の本木崎才蔵氏はおよそ十年前に亡くなっています。しかし、誰かが何らかの方法を使って、その名前と戸籍を買い取ったのです」
「そんなことがあるのですね」
「その名前と戸籍を買い取った人物の正体もすでに判明しています」
「そうなんですか」
「あなたの父親、谷野孝太郎氏です」
沈黙が訪れた。確かに衝撃的な話ではあるだろう。初めて聞いたのなら、という注釈が付くが。
もしかしたら海崎志保は、驚いたような顔を見せているのかも知れない。くそ、今回ばかりはフォックスに同情したくなる。
「海崎志保さん」フォックスが声を一段落とした。「あなたは、孝太郎氏が本木崎才蔵と名前を変えて研究所で働いていることを、知っていたのではありませんか。そしてそれを利用し、研究所の破壊を企てた。違いますか」
俺があえて踏み込まなかったところにまで踏み込みやがった。詰めにかかっているのだろう。だが、フォックスはちょっと焦っているようにも思える。金のかかってない連中はこれだから。
一方、海崎志保の声に一切動揺はない。
「何のために、そんなことを企てなければならないのでしょう」
「復讐です」
「復讐?」
「あなたは藤松家の中で、古い因習に縛られ困難な暮らしを余儀なくされました。そのことについて、藤松勘重氏を始めとする家族一同に恨みを抱いていたはずです」
一瞬の沈黙。このとき海崎志保がどんな顔をしていたのかは、クローゼットの中の俺には見えない。だが、少なくともその声には自信が満ち溢れていた。
「もし仮にそれが事実だとしても、だから父を死なせて、さらに何十人も巻き添えにしてまで皆殺しを企てたというのは、少し論理が飛躍し過ぎているのではありませんか」
女同士の会話はどちらも穏やかな口調である。だが言葉の端々に火花が散っている。
「あなたには動機があります」
「証拠はありませんよね」
今度はフォックスが沈黙する番だった。
「証拠がないのなら、それはすべて憶測です。自白偏重の捜査は、いい加減やめるべきではないでしょうか」
海崎志保の顔を想像する。おそらく勝ち誇ってはいないだろう。その口ほどにものを言う目を除いて。
「……ご指摘痛み入ります。ですが、もしご心境に変化がありましたら、こちらまでご連絡ください。」
今回はフォックスの敗北である。まあ証拠がないんじゃ同情も出来ないが、それにしても海崎志保という女、こいつはとんでもないぞ。
立ち上がる気配。遠ざかる微かな足音。「それでは失礼いたします」というフォックスの声。玄関ドアの開いて閉まる音。そして足音がクローゼットに近付き、戸が引き開けられた。
「警察の方は帰られましたよ」
俺はノロノロと立ち上がり、クローゼットから歩き出た。
「最初から変だとは思ってたんだ」
そして腰を伸ばす。まったく、ジジイになった気分だ。
「若い女の一人暮らしで、こんな時間に男を部屋に入れるなんて、不用心にも程があるだろうってな。アンタ、今夜県警が来ることを知ってたんだな」
「こんな素晴らしいタイミングで来られるとは思っていませんでしたけど」
海崎志保は否定しない。おそらく詳しいことを聞いても答えないだろう。金持ちは『ご友人』が多くて羨ましい限りだ。
テーブルの上には名刺が一枚だけ置いてあった。名前は見なくてもわかる。フォックスの物だ。俺の名刺はない。海崎志保のポケットの中か。
「それで、どうしますか」海崎志保は静かに問うた。「先程の話の続きをしますか」
この女、よくもまあヌケヌケと。さすがの俺も少し呆れてしまった。
「俺がアンタの首を絞めて『金を出せ』ってなことになるかも知れない、とは思わんのか」
「そんなことをする人は、わざわざ私の父親のことを探ったりはしません」
確かに。人には向き不向きがある。しかしやりにくい相手だ。頭が回って度胸もある。
「話の続きはやめとこう。警察が知っちまってるんじゃ、いまさら強請りのネタにはならない。まあマスコミにバラすぞって脅すこともできるが、今さらマスコミが出てきても、アンタには効きそうにないしな。て言うか、俺に取り調べの様子を聞かせたのは、それが目的だろ」
「そう理解していただけると助かります」
その目。口ほどに物を言う目が勝ち誇っている。
「だから」俺は海崎志保を正面から見つめた。「もう一つのネタが固まるまで、アンタは自由だ」
海崎志保は視線を動かさない。毛の先程の動揺も見せない。大人しい顔をして、恐ろしく気の強い女だ。しかしその沈黙が『もう一つの疑惑』の存在を肯定している。
「ジロー、立て。歩け。帰るぞ」
俺は海崎志保に背を向け、玄関に向かって歩いた。ジローが後に続く。すると、海崎志保は俺たちを追い抜き、玄関の靴箱を開けて中から俺たちの靴を取り出し、三和土に並べた。なるほど、フォックスに俺たちの靴を見せる訳にはいかないから隠したのか。
「どうも」
そう言って俺は革靴を履き、ジローがスニーカーを履くのを確認して、玄関のドアを開けた。
マンションの一階に刑事たちの姿はなかった。堂々とエントランスを抜け、俺たちはコンビニに向かった。そういやジローに晩飯を食わせていない。カレーライスは売っているだろうか。クラウンがカレー臭くなるが、どうせタバコのニオイで上書きされる。ファミレスに寄るのも面倒だしな。
そんなことを考えつつ、俺はジローをクラウンに乗せ、一人でコンビニのドアを開けた。真っ直ぐ弁当コーナーに向かう。カレーライスは、お、あった。次は自分の晩飯か。惣菜パンのコーナーに向かう。晩飯に凝るタイプではないのだ。カレーパンとベーコンパンがある。これでいい。後は缶コーヒーがあれば充分だ。
そうして缶飲料の冷蔵庫に向かった俺を、呼び止める声があった。
「五味」
嫌悪感をからめた女の声。横を向くと、金髪を団子頭にしてブラウンのストライプのスーツを着た女が、五個入りの薄皮あんパンを手に持って、エナジードリンクを取ろうとしていた。歳は三十手前、かなりの美人だ。間違いなく美人ではある。だがその美しさは、アクリル樹脂で出来ていた。透明感はあるが、氷やガラス細工では断じてない。海崎志保の、何処か儚げな顔とは対極にあると言える。
「フォッ……いや、築根さん」
「いま何か言いそうになったよな」
「いえいえ何も。ところで一人ですか」
「一人で悪いか。おまえだって一人だろう」
そう言いながら俺が手に持っている商品を見て、眉を寄せた。
「そんなに食うのか。糖尿になるぞ」
エナジードリンクであんパン食おうとしてるヤツが、人のことを言えるか。
「いや、まあその」
「それより、こんなところで何をしている。おまえの事務所はこの近辺じゃないはずだ」
「いきなり職務質問ですか。でも言えませんよ、守秘義務があるもんで」
俺は缶コーヒーを取った。フォックスもエナジードリンクを取る。ロング缶だ。
「依頼を受けて仕事をしてるんならいい。だがまた誰かを強請ってるんじゃないだろうな」
冷蔵庫をバタンと音を立てて閉める。もうちょっと静かにできないのか。
「勘弁してくださいよ。築根さんこそどうなんです。まだ一課にいるんですか」
「ワタシが一課にいちゃ悪いのか」
「いや、そうは言いませんけど、キャリアなんですから、そろそろどっかの署長とか話があるでしょ」
「大きなお世話だ」
フォックスは憤然と背を向けると、大股でレジに向かった。そして会計をカードで済ませた後、一度俺を振り返り、にらみつけてから出て行った。
クラウンの中でカレーライスをむさぼり食うジローを横目に、カレーパンはやめておくべきだったかと思う。カレーのニオイでむせ返りそうだ。俺はまだコンビニの駐車場にいた。車を出せずにいたのである。
何かが引っかかっていた。だが、それが何なのかよくわからない。海崎志保の言葉か。それとも行動か。何処に不自然さがあったのだろう。気のせいだろうか。いや、そんなことはない。何かが頭の隅に引っかかっているのは確かだ。もちろん、第六感など信じない。
「俺はガキとオカルトが大嫌いだからな」
そうつぶやいてみる。しかし、解答は見えてこない。ああもう、いったい俺は何に引っかかっているのだ。イライラが頂点に達し、頭をかきむしりたくなる。
ふと横を見ると、ジローはカレーライスを食べ終わっていた。仕方ない。俺は考えを中断させると、ゴミをまとめてビニール袋に入れ、クラウンの外に出た。そしてビニール袋をコンビニのゴミ箱に突っ込んだ。
ゴミ箱に突っ込んだ
その瞬間、何かが白い電流となって頭を駆け巡る。突っ込んだ。何を。ゴミを。いや、違う。何を……靴だ。俺たちの靴を突っ込んだ。何処に。靴箱に。誰が。海崎志保が。何のために。フォックスに見つかるから。そしてそれを出して並べた。何のために。俺たちが帰るから。違う。海崎志保は育ちがいいから。違う。そう、違うんだ。もしあのとき海崎志保が俺たちの靴を並べなかったら、いったい何が起こった。おそらく俺は靴を探した。何処を。靴箱を。
クラウンに走った。慌てて運転席に乗り込むと、叩きつけるようにドアを閉め、ジローの肩を揺すった。
「おいジロー、思い出せ。さっき海崎志保と俺が話していたとき、あそこに、あの1208号室には、何人いた」
ジローはいつも通りの遠い目で何かを見るような仕草をした後、左手を小さく挙げて、指を四本立てた。
「……四人」
そうだ、そうなのだ。おそらく、あそこにはもう一人誰かがいた。靴箱にはその四人目の靴があったに違いない。海崎志保は、それを俺に気付かれたくなかった。
「その四人目は誰だ。知ってるヤツか」
「わからない」
「顔は見なかったのか」
「見なかった」
「何処にいた」
「ドアの隙間」
「隙間からこっちを見てたのか」
「見てた」
「そうか、それならいい」
何故教えなかった、などとジローに言っても仕方がない。聞かれなかったから言わなかったに過ぎないからだ。いまさらマンションに取って返しても意味はあるまい。その四人目はもういないかも知れないし、そもそも海崎志保が部屋に入れてくれるとは思えない。
胸ポケットからタバコを取り出し、一本咥えた。そしてキーを回してエンジンをかけ、シガーライターでタバコに火を点けた。シートベルトを締めながら、煙を思い切り吸い込む。
「やってくれるじゃねえか」
煙を吐き出しながら、大声でわめいた。クラウンのアクセルを踏み込み、道路に飛び出す。ふざけやがってふざけやがってふざけやがって。いまに見てろよ、絶対に追い詰めてやるからな。追い詰めて追い詰めて、有り金全部吐き出させてやる。俺はそう強く思っていた。
その翌日の朝までは。
自動ドアからエントランスに入ると、内側にもう一つ自動ドアがある。しかし前に立っても開かない。ここから先は住人の許可がなければ入れない訳だ。
自動ドアの脇にあるオートロック操作盤のキーで1208を押し、最後に呼び出しボタンを押す。トラの巣穴の前に立つ気分。時刻はもう午後九時に近い。部屋にいる可能性は高いものの、こんな時間の来訪など、普通の人間なら警戒する。居留守を使われたらそれまでだ。やはり明日にすべきだったか。
だが善は急げ、いや俺の場合は悪は急げなのかも知れないが、後回しにすることにメリットはない。巧遅よりも拙速と言う。金が欲しいのなら、可能な限り急ぐことだ。チャンスをつかむのにベストタイミングなどない。誰よりも速いヤツが誰よりも金を手にすることができる。それがこの世の中なのだ。そんなことを考えていると。
「はい」
操作盤パネルのスピーカーから、女の声が応じた。思わず声を上げそうになる自分を抑える。落ち着け、落ち着け、不審に思われたら最後だ。俺はできるだけ低い声で、意識的にゆっくりと話した。
「……海崎志保さんのお宅でしょうか」
「どちら様でしょうか」
さて、ここで何と答えるべきか。一瞬迷ったが、こんなところで長々と自己紹介をしても始まらない。俺は覚悟を決め、思い切ってこう口にした。
「亡くなったお父さんのことでお話が」
一瞬の沈黙。そして。
「どうぞ」
巣穴への自動ドアが開いた。
エレベーターで十二階まで上がった俺たちを迎えたのは、暗く輝く長い廊下だった。その左右に、交互にドアが見える。中庭などはない。ぎっしり部屋が詰まっているのだ。
多少の圧迫感を感じながら、1208号室を探す。と、廊下の中ほどの部屋のドアが開いて人が出て来た。黒いジャージにサンダル姿。女だ。黒くて長い髪をポニーテールにしている。
その女が、俺たちに向かって無言で会釈をした。さすがの俺の胸にも、やや感慨めいたものが湧き上がる。とうとう実物に会えた。こいつが海崎志保なのか。
歳は二十九になるはずだが、大学生と言っても誰も疑わないだろう。少し垂れ目気味で儚げな印象はあるが、大きな瞳の整った顔立ち、スタイルの良さはダボダボのジャージの上からでも見て取れる。なるほど、男子高校生には目の毒だ。
海崎志保は窓のない応接室に俺たちを招き入れ、低いコーヒーテーブルにカップを三つ置くと、ソファに身を沈めた。これといって何もない質素な部屋。肥田久子の家の客間を思い出す。だがよく見れば、まったく違うことがわかる。
たとえばソファ。こっちは間違いなく本革だ。真ん中のコーヒーテーブルを囲むように四つ並んでいる。そして書棚。四方のうち三方の壁はみな書棚で覆われているが、それ自体はそう高そうなものではない。しかしその中にはハードカバーがびっしり詰まっている。
ざっと見ただけでも『枕草子』『源氏物語』『徒然草』が見える。『史記』と『論語』もある。あとはその隙間に、高校化学と書かれた本が何種類も。残る一方の壁は、これはおそらくクローゼットか。奥行きまではわからないが、ドアは普通の四枚扉だ。
他に目に付く物は何もない。高級な調度品など見当たらない。せいぜい床の絨毯の毛足が長いくらいで、大富豪の遺産を独り占めにした女の部屋としては、何とも質素な佇まいだった。
角がヨレヨレになった俺の名刺をテーブルの隅に置きながら、海崎志保はジローを見ていた。ジローはいつもの通り膝を抱えながら、海崎志保から見て右手、俺から見て左手のソファに座っている。その目は誰もいない真正面の席をじっと見据えていた。
「彼は、本当にあなたの助手なのですか」
その声には責めるような響きがあった。まあ慣れてはいるが。
「ええ、ジローは俺の助手ですよ。『極めて優秀な』という但し書きが付きますが」
俺はコーヒーを一口飲んだ。酸味を感じるが、昼間のファミレスのより飲みやすい。これならブラックでいい。
「ではお聞かせ願えますか。父が亡くなったとか」
海崎志保は膝で手を組みながら、ややトゲのある口調でたずねた。ただその表情にトゲトゲしさはない。どちらかと言えば目に光はなく、悲しみにうち沈んでいるのがありありと見て取れる。俺は口元を緩めた。
「ええ、アナタのお父さんは亡くなっています。亡くなっているはずです。そのことは、アナタが一番ご存じですよね」
「どういう意味でしょう」
しかし視線は上がらない。手元を見つめている。
「アナタはお父さんの谷野孝太郎氏と、三歳のときに別れています」
「ええ」
「その後、会ったことは」
「いいえ、一度も」
「それは嘘だ」
海崎志保は沈黙した。やはり視線は上がらない。
「アナタは最低でも一度、孝太郎氏に会っている。それも結婚した後に」
「何がおっしゃりたいのでしょう」
「出会ったとき、お父さんは別人になっていました。変わり果てた、という意味じゃない。文字通り別人の名前と生活を手に入れていたんだ。サイノウ薬品の社員、本木崎才蔵という人物のね」
再び沈黙。俺は続けた。
「そのときアナタは父親に、話してしまったのではないですか、自分の藤松家における境遇を。どれほど孤独で追い詰められているのかを。それを聞いて孝太郎氏は、いや本木崎才蔵は激怒した」
「何のことかわかりません」
「その後、大帝邦製薬の研究所で事故が起こった。そのとき、その場所には、研究員として出向していた本木崎才蔵がいた。それは偶然じゃない。アナタはそのことを知っていたはずだ。だから事故の第一報が入ったとき、思わずこう口にしたんだ『私が呪われているから』と」
「違います」
「いいや、違わないね」俺は手応えを感じていた。「アンタは気付いたんだ。自分の口が発した『呪い』が藤松家を破滅に追い込んだってことに。あの日事故の中心部で何が起きたのか、誰がどんな操作をしたのか、いまとなっちゃもう解明のしようがない。全部吹っ飛んじまったからな。だが本木崎才蔵がその場にいたのは間違いない。それはアンタが誰よりも知ってるはずだ」
三度目の沈黙。今度はこちらも沈黙した。コーヒーを一口飲む。そして海崎志保の口が開くのを待った。時間にしておそらく十数秒、だが海崎志保にとっては何時間にも感じたかも知れない。
「……何が望みですか」
「話が早くて助かる」俺は右手の指を三本立てた。「三百万。それで手を打とう。そんだけもらえりゃ、この話は俺が責任を持って墓の中まで持って行く。どうだい、アンタにとっちゃ安いもんだと思うがね」
「いいえ」そして海崎志保は視線を上げた。「高いですね」
そのとき、まるでタイミングを見計らったかのようにチャイム音が響いた。
「ちょっと失礼します」
海崎志保は立ち上がり、インターホンの操作パネルに向かう。俺は小さく舌打ちし、残ったコーヒーを飲み干した。
「はい……はいそうですが……わかりました、どうぞ」
どうぞ? この状況でまた誰か招き入れるってことか? これには内心焦った。こいつ、何を考えてやがる。海崎志保は平然と元の席に戻って来たかと思うと、ソファに座り、俺を見つめた。
「県警の捜査一課の方が来られたそうです」
「なっ」
思わず口に出た。ヤバい。県警には面が割れている。捜査一課だと、まさか俺を知ってるヤツが来るんじゃないだろうな。この状況で顔なんぞ合わせたら、言い逃れが出来ない。
「私は別に構わないのですが、あなたは大丈夫なのですか」
海崎志保の言葉。口元は笑ってはいない。だが目は口ほどに物を言うのだ。
「出口はエレベーターか非常階段ですが、エレベーターはいま警察の方が上って来ています。この子を連れて、階段で十二階下りられますか」
そう言ってジローを見つめた。この女、状況を完璧に理解してやがる。まあジローはいざとなったら見捨てればいいが、十二階下まで階段で下りても、エントランスに刑事が待ってたんじゃ、俺はタダでは済まない。
だが、そこで海崎志保は予想外の行動に出た。不意に立ち上がったかと思うと、クローゼットに近付き、戸を引き開けたのだ。
「こちらへどうぞ。嫌だと言うのなら、私は別に構いませんけど」
どういうつもりだ、とは思ったものの、実際のところ他に選択肢はない。俺も立ち上がった。
「ジロー、立て。その中に入れ」
ジローを先にクローゼットに押し込め、俺も入って座る。海崎志保が戸を閉め、二人揃って暗い中で膝を抱えていると、再びチャイムが鳴った。海崎志保は部屋のドアを開けっぱなしで玄関に向かったらしい。音がすべて聞こえている。玄関ドアの開く音がする。そして聞き覚えのある女の声がした。
「県警捜査一課の、築根麻耶と申します。こちらは原樹巡査です」
フォックスかよ。俺は危うく声に出しそうになった。フォックスは築根麻耶の仇名だ。主に捕まる側が口にする仇名だが。よりにもよって何でこいつが。
「はあ、それで何の御用でしょうか」
「先般の大帝邦製薬研究所爆発事故について、お伺いしたいことがあります。ご同行願えませんでしょうか」
「お断りします」
静かで大人しげな、しかし断固とした言葉だった。
「おい、あんた」
これは原樹の声だろう。だがフォックスに止められたのか、黙り込んでしまった。
「同行できない理由でもあるのでしょうか」
フォックスは落ち着いた声だ。この女はしぶとい。
「警察にはもう何度も取り調べを受けました。お話しできることはすべて話しました。いまは体調も崩しがちになっておりますので、これ以上協力はいたしかねます」
海崎志保も淡々と、けれど一歩も引かない。
「これは極めて重要なことです。後々あなたが不利になるかも知れません」
だがフォックスは押す。すると、海崎志保はこんなことを言い出した。
「それでは、中でお話しください。私は一人暮らしですし、このマンションは防音もしっかりしています。秘密が外に漏れることはないと思いますよ」
おいおいおい、ちょっと待てよ。この部屋に入れる気なのか。マジか……いや、この女、まさか最初からそのつもりだったんじゃ。
「いいでしょう、ではこちらでお話を伺います」
靴を脱ぐ音がする。フォックスと原樹が入って来たのだ。俺はジローを見た。だがピクリとも動かない。まあそうだろう。この状況で音を立てる可能性が高いのは、どう考えても俺の方だった。
「誰かここにいたのですか」
部屋に入ってくるなりフォックスがたずねた。しまった、忘れていた。コーヒーのカップがそのままだった。あと名刺も。しかし海崎志保の声に動揺はない。
「ええ、マンションの中のお友達が二人、ついさっきまで」
「タバコを吸われるようですね」
「はい、私のうちの中では喫煙禁止ですけど」
そんなにニオうものなのか? 俺は自分の腕のニオイを嗅いでみたが、クローゼットの防虫剤のニオイしかしなかった。と言うか名刺は。フォックスが気付かないということは、海崎志保が隠したのだろうか。
柔らかいソファにかける音。海崎志保が自分の席に着いたのだろう。
「どうぞ、おかけください」
「失礼します」
フォックスが座る音がした。だが二つ目の音はない。原樹は立っているのか。そしてそのまま、フォックスは事務的な口調で話し始めた。
「早速ですが、まずあなたには黙秘権が認められています」
「はい、何度も聞きました」
「それでは単刀直入に伺います。本木崎才蔵氏をご存じですね」
俺の背筋に冷たいものが走る。けれど海崎志保はこう答えた。
「いいえ、存じ上げません」
知らん訳があるか。俺は心の中で突っ込んだ。何てこった、俺はこんな図太い女を相手にしてたのか。しかし、フォックスがこの程度で諦めるはずがない。
「サイノウ薬品の社員だった人物です。あの事故のとき、出向研究員として研究所で勤務していました」
「そうですか」
「しかし再度我々が調査した結果、この本木崎才蔵氏は偽物だと判明しました」
もうそこまで調べ上げやがったのか。県警が凄いのかフォックスが凄いのかは何とも言えないが、この女が優秀な刑事なのは間違いない。
「はあ」
対して、まるで意味がわからない、と言わんばかりの海崎志保の声。フォックスはまだ押す。
「本物の本木崎才蔵氏はおよそ十年前に亡くなっています。しかし、誰かが何らかの方法を使って、その名前と戸籍を買い取ったのです」
「そんなことがあるのですね」
「その名前と戸籍を買い取った人物の正体もすでに判明しています」
「そうなんですか」
「あなたの父親、谷野孝太郎氏です」
沈黙が訪れた。確かに衝撃的な話ではあるだろう。初めて聞いたのなら、という注釈が付くが。
もしかしたら海崎志保は、驚いたような顔を見せているのかも知れない。くそ、今回ばかりはフォックスに同情したくなる。
「海崎志保さん」フォックスが声を一段落とした。「あなたは、孝太郎氏が本木崎才蔵と名前を変えて研究所で働いていることを、知っていたのではありませんか。そしてそれを利用し、研究所の破壊を企てた。違いますか」
俺があえて踏み込まなかったところにまで踏み込みやがった。詰めにかかっているのだろう。だが、フォックスはちょっと焦っているようにも思える。金のかかってない連中はこれだから。
一方、海崎志保の声に一切動揺はない。
「何のために、そんなことを企てなければならないのでしょう」
「復讐です」
「復讐?」
「あなたは藤松家の中で、古い因習に縛られ困難な暮らしを余儀なくされました。そのことについて、藤松勘重氏を始めとする家族一同に恨みを抱いていたはずです」
一瞬の沈黙。このとき海崎志保がどんな顔をしていたのかは、クローゼットの中の俺には見えない。だが、少なくともその声には自信が満ち溢れていた。
「もし仮にそれが事実だとしても、だから父を死なせて、さらに何十人も巻き添えにしてまで皆殺しを企てたというのは、少し論理が飛躍し過ぎているのではありませんか」
女同士の会話はどちらも穏やかな口調である。だが言葉の端々に火花が散っている。
「あなたには動機があります」
「証拠はありませんよね」
今度はフォックスが沈黙する番だった。
「証拠がないのなら、それはすべて憶測です。自白偏重の捜査は、いい加減やめるべきではないでしょうか」
海崎志保の顔を想像する。おそらく勝ち誇ってはいないだろう。その口ほどにものを言う目を除いて。
「……ご指摘痛み入ります。ですが、もしご心境に変化がありましたら、こちらまでご連絡ください。」
今回はフォックスの敗北である。まあ証拠がないんじゃ同情も出来ないが、それにしても海崎志保という女、こいつはとんでもないぞ。
立ち上がる気配。遠ざかる微かな足音。「それでは失礼いたします」というフォックスの声。玄関ドアの開いて閉まる音。そして足音がクローゼットに近付き、戸が引き開けられた。
「警察の方は帰られましたよ」
俺はノロノロと立ち上がり、クローゼットから歩き出た。
「最初から変だとは思ってたんだ」
そして腰を伸ばす。まったく、ジジイになった気分だ。
「若い女の一人暮らしで、こんな時間に男を部屋に入れるなんて、不用心にも程があるだろうってな。アンタ、今夜県警が来ることを知ってたんだな」
「こんな素晴らしいタイミングで来られるとは思っていませんでしたけど」
海崎志保は否定しない。おそらく詳しいことを聞いても答えないだろう。金持ちは『ご友人』が多くて羨ましい限りだ。
テーブルの上には名刺が一枚だけ置いてあった。名前は見なくてもわかる。フォックスの物だ。俺の名刺はない。海崎志保のポケットの中か。
「それで、どうしますか」海崎志保は静かに問うた。「先程の話の続きをしますか」
この女、よくもまあヌケヌケと。さすがの俺も少し呆れてしまった。
「俺がアンタの首を絞めて『金を出せ』ってなことになるかも知れない、とは思わんのか」
「そんなことをする人は、わざわざ私の父親のことを探ったりはしません」
確かに。人には向き不向きがある。しかしやりにくい相手だ。頭が回って度胸もある。
「話の続きはやめとこう。警察が知っちまってるんじゃ、いまさら強請りのネタにはならない。まあマスコミにバラすぞって脅すこともできるが、今さらマスコミが出てきても、アンタには効きそうにないしな。て言うか、俺に取り調べの様子を聞かせたのは、それが目的だろ」
「そう理解していただけると助かります」
その目。口ほどに物を言う目が勝ち誇っている。
「だから」俺は海崎志保を正面から見つめた。「もう一つのネタが固まるまで、アンタは自由だ」
海崎志保は視線を動かさない。毛の先程の動揺も見せない。大人しい顔をして、恐ろしく気の強い女だ。しかしその沈黙が『もう一つの疑惑』の存在を肯定している。
「ジロー、立て。歩け。帰るぞ」
俺は海崎志保に背を向け、玄関に向かって歩いた。ジローが後に続く。すると、海崎志保は俺たちを追い抜き、玄関の靴箱を開けて中から俺たちの靴を取り出し、三和土に並べた。なるほど、フォックスに俺たちの靴を見せる訳にはいかないから隠したのか。
「どうも」
そう言って俺は革靴を履き、ジローがスニーカーを履くのを確認して、玄関のドアを開けた。
マンションの一階に刑事たちの姿はなかった。堂々とエントランスを抜け、俺たちはコンビニに向かった。そういやジローに晩飯を食わせていない。カレーライスは売っているだろうか。クラウンがカレー臭くなるが、どうせタバコのニオイで上書きされる。ファミレスに寄るのも面倒だしな。
そんなことを考えつつ、俺はジローをクラウンに乗せ、一人でコンビニのドアを開けた。真っ直ぐ弁当コーナーに向かう。カレーライスは、お、あった。次は自分の晩飯か。惣菜パンのコーナーに向かう。晩飯に凝るタイプではないのだ。カレーパンとベーコンパンがある。これでいい。後は缶コーヒーがあれば充分だ。
そうして缶飲料の冷蔵庫に向かった俺を、呼び止める声があった。
「五味」
嫌悪感をからめた女の声。横を向くと、金髪を団子頭にしてブラウンのストライプのスーツを着た女が、五個入りの薄皮あんパンを手に持って、エナジードリンクを取ろうとしていた。歳は三十手前、かなりの美人だ。間違いなく美人ではある。だがその美しさは、アクリル樹脂で出来ていた。透明感はあるが、氷やガラス細工では断じてない。海崎志保の、何処か儚げな顔とは対極にあると言える。
「フォッ……いや、築根さん」
「いま何か言いそうになったよな」
「いえいえ何も。ところで一人ですか」
「一人で悪いか。おまえだって一人だろう」
そう言いながら俺が手に持っている商品を見て、眉を寄せた。
「そんなに食うのか。糖尿になるぞ」
エナジードリンクであんパン食おうとしてるヤツが、人のことを言えるか。
「いや、まあその」
「それより、こんなところで何をしている。おまえの事務所はこの近辺じゃないはずだ」
「いきなり職務質問ですか。でも言えませんよ、守秘義務があるもんで」
俺は缶コーヒーを取った。フォックスもエナジードリンクを取る。ロング缶だ。
「依頼を受けて仕事をしてるんならいい。だがまた誰かを強請ってるんじゃないだろうな」
冷蔵庫をバタンと音を立てて閉める。もうちょっと静かにできないのか。
「勘弁してくださいよ。築根さんこそどうなんです。まだ一課にいるんですか」
「ワタシが一課にいちゃ悪いのか」
「いや、そうは言いませんけど、キャリアなんですから、そろそろどっかの署長とか話があるでしょ」
「大きなお世話だ」
フォックスは憤然と背を向けると、大股でレジに向かった。そして会計をカードで済ませた後、一度俺を振り返り、にらみつけてから出て行った。
クラウンの中でカレーライスをむさぼり食うジローを横目に、カレーパンはやめておくべきだったかと思う。カレーのニオイでむせ返りそうだ。俺はまだコンビニの駐車場にいた。車を出せずにいたのである。
何かが引っかかっていた。だが、それが何なのかよくわからない。海崎志保の言葉か。それとも行動か。何処に不自然さがあったのだろう。気のせいだろうか。いや、そんなことはない。何かが頭の隅に引っかかっているのは確かだ。もちろん、第六感など信じない。
「俺はガキとオカルトが大嫌いだからな」
そうつぶやいてみる。しかし、解答は見えてこない。ああもう、いったい俺は何に引っかかっているのだ。イライラが頂点に達し、頭をかきむしりたくなる。
ふと横を見ると、ジローはカレーライスを食べ終わっていた。仕方ない。俺は考えを中断させると、ゴミをまとめてビニール袋に入れ、クラウンの外に出た。そしてビニール袋をコンビニのゴミ箱に突っ込んだ。
ゴミ箱に突っ込んだ
その瞬間、何かが白い電流となって頭を駆け巡る。突っ込んだ。何を。ゴミを。いや、違う。何を……靴だ。俺たちの靴を突っ込んだ。何処に。靴箱に。誰が。海崎志保が。何のために。フォックスに見つかるから。そしてそれを出して並べた。何のために。俺たちが帰るから。違う。海崎志保は育ちがいいから。違う。そう、違うんだ。もしあのとき海崎志保が俺たちの靴を並べなかったら、いったい何が起こった。おそらく俺は靴を探した。何処を。靴箱を。
クラウンに走った。慌てて運転席に乗り込むと、叩きつけるようにドアを閉め、ジローの肩を揺すった。
「おいジロー、思い出せ。さっき海崎志保と俺が話していたとき、あそこに、あの1208号室には、何人いた」
ジローはいつも通りの遠い目で何かを見るような仕草をした後、左手を小さく挙げて、指を四本立てた。
「……四人」
そうだ、そうなのだ。おそらく、あそこにはもう一人誰かがいた。靴箱にはその四人目の靴があったに違いない。海崎志保は、それを俺に気付かれたくなかった。
「その四人目は誰だ。知ってるヤツか」
「わからない」
「顔は見なかったのか」
「見なかった」
「何処にいた」
「ドアの隙間」
「隙間からこっちを見てたのか」
「見てた」
「そうか、それならいい」
何故教えなかった、などとジローに言っても仕方がない。聞かれなかったから言わなかったに過ぎないからだ。いまさらマンションに取って返しても意味はあるまい。その四人目はもういないかも知れないし、そもそも海崎志保が部屋に入れてくれるとは思えない。
胸ポケットからタバコを取り出し、一本咥えた。そしてキーを回してエンジンをかけ、シガーライターでタバコに火を点けた。シートベルトを締めながら、煙を思い切り吸い込む。
「やってくれるじゃねえか」
煙を吐き出しながら、大声でわめいた。クラウンのアクセルを踏み込み、道路に飛び出す。ふざけやがってふざけやがってふざけやがって。いまに見てろよ、絶対に追い詰めてやるからな。追い詰めて追い詰めて、有り金全部吐き出させてやる。俺はそう強く思っていた。
その翌日の朝までは。
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