強請り屋 悪魔の羽根顛末

柚緒駆

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海崎惣五郎

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 結論から言えば、海崎志保個人に関する捜査は、県警の捜査一課でも思ったほど進んでいない。昨日の件については、証拠が集まる前にフォックスが独断で突っ走った感がある。自白が取れると踏んだ訳だ。結果は大失敗だったが。ただやはり頭数が揃っているだけあって、周辺の捜査の広がり具合はさすがだった。

 海崎志保の祖父である海崎惣五郎が、研究所の事故の直前、大帝邦製薬の株を売り、ライバル企業の株を大量に買い付けていたという事実がある。限りなくインサイダー臭いが、事故は事故だ。決算や事業計画の発表とは訳が違う。あの事故が、実は事故ではなかったという証明が出来ない限り、不正取引を追求することは出来ない。

 本木崎才蔵がサイノウ薬品に就職するとき、海蜃館大学の卒業証明書が提出されている。当然書類の偽造を疑われたが、本物の本木崎才蔵が海蜃館大学の卒業生であるため、手続き上は問題なく発行されたことがすでに判明済みだ。もちろん卒業証明書取得の際に偽物の本木崎才蔵から提示された身分証明書は、偽造の可能性が極めて高いとは言え、それはまた別件となる。

 谷野孝太郎が本木崎才蔵の正体であるという証拠はまだない。そうであろうという前提で県警は動き、俺もまたそうだとは思っているのだが、もしそうであった場合、そもそも谷野孝太郎はどうやって本木崎才蔵の情報を手に入れたのかという問題が残されている。まだ捜査はそこまで進展していないようだ。

 海崎志保の母親である海崎美保と谷野孝太郎は、駆け落ち同然の状態で結婚したという。海崎惣五郎はこれに大反対し、勘当寸前まで行ったそうだ。しかし美保と孝太郎の離婚後は、即座に美保親子を受け入れている。一方、孝太郎は海崎家および海蜃館大学に出入り禁止となったようだが、これは怪しいのではないか?

 篠生幸夫は海崎志保が結婚した当初からのかかりつけ医だ。家族は妻のみ。娘が一人いたが、先般自殺している。その頃から妻の奇矯な行動が目立ち始め、近所でも噂になるレベルだという。とは言え、夫婦仲は良いという評判だそうだ。

 海崎志保と悪魔の羽根の関係について、一課はまったく重視していないらしい。おそらく俺の方が情報を持っているだろう。それがわかったことは喜んでいい点かも知れない。


 昼飯にこだわるタイプでもないので、ピザを取るのは構わないが、Lサイズ二枚はちょっと多いだろう。しかし笹桑は平然と言ってのけた。

「大丈夫っす。余った分は自分が全部食べるっすから」
「おまえ、太るぞ」

「嫌だなあ五味さん、それセクハラっすよ」

 そう言いながらバクバクと遠慮なく食べる。隣でジローはまたカレーをむさぼり食っている。フォックスは食欲がまるでないらしく、青い顔で座り込んだままだ。

 結局、話をすり合わせるだけで、午前中いっぱい時間を使った。フォックスはすぐにも海崎志保を追いたい様子だったが、行き先に当てがある訳でもない。

「一つ確認しときたいんだが」

 ピザを一切れ持った俺の言葉に、フォックスは顔を上げず、横目で応じた。

「何だ」
「拳銃には弾が入ってたのか」

 するとフォックスは上着のポケットを探り、黒光りする長方形を取り出してテーブルに置いた。先端に真鍮色の薬莢が見える。自動拳銃の弾倉だ。

「銃は空だ。だからって盗まれてもいいことにはならないが」
「こういうのは、すぐ撃てるような状態にしておかなくてもいいのか」

「暴発させるよりマシだ」
「なるほどな。とにかく何処かで弾を手に入れる可能性もゼロじゃないが、当面は撃ち殺される心配はない訳だ」

 フォックスは困惑した顔を上げた。

「撃ち殺される? 誰が」
「海崎志保に決まってるだろ」

 俺はピザを口に詰め込んだ。フォックスの目が見開かれている。

「海崎志保が殺されるって言うのか。何故」

 脂くせえピザだな。俺は口の中の物をコーヒーで流し込むと、タバコを取り出した。

「逆に聞きたい。殺すつもりもないヤツを、連れ去って何の意味がある。それも刑事の拳銃と警察手帳を奪ってまで」
「連れ去った? 海崎志保が進んで逃げたんじゃないのか」

「逃げる理由があるのか。あのクソ度胸の塊みたいな女に」

 俺はタバコを咥えた。笹桑が唸る。

「五味さーん。食事中くらいタバコは勘弁してくださいよー」

 俺は舌打ちをして、ジローを見た。もうカレーは食べ終わっている。タバコを咥えたまま丼を手に立ち上がり、キッチンに向かった。

「海崎志保に逃げる理由はない。あの女は警察なんぞ恐れていないからだ。だがその向こう側にいるヤツはそうじゃなかった。県警捜査一課のお出ましに危機感を抱いたってことだ。拳銃と警察手帳を奪ったのは、不祥事絡みで捜査が有耶無耶になる可能性に期待したのかも知れない。アンタを狙ったのは、一人でノコノコ近づいて来たから好都合だったんだろう」

 丼を軽く水で流し、洗い桶に浸ける。そして振り返り、流し台にもたれた。フォックスがこちらを見つめている。

「拳銃と警察手帳を奪った以上、そこに海崎志保を残してはおけない。逮捕されるだけだからな。もちろん、アンタを殺すっていう手も考えたんだろう。死体を隠して行方不明にするとか方法はない訳じゃないが、そんなことになりゃ、警察は最後に築根刑事と会った海崎志保を徹底マークするに違いない。それじゃヤブヘビだ。だからアンタは殺せない。ならば海崎志保の方を行方不明にするしかない。だが実際問題、大人の女を一人隠すのは簡単じゃない。以前から用意していたのならともかく、今回のは突発的だ。ホテルであれ何処であれ、一時的には身を隠せても長くは無理だ。だとしたら最初から、つまりアンタの拳銃と手帳を奪った時点で、海崎志保を隠すつもりはなかったと考えるべきなんじゃないのか」

 俺は後ろ手に換気扇を回し、その下でタバコに火を点けた。

「明日辺り、どっかの港に海崎志保の水死体が浮かんでるかもよ」

 フォックスは俺をにらみつけている。まるで俺が犯人であるかのように。

「おまえ、悪魔か」
「あいにく、ガキとオカルトは大嫌いでね」

 すると笹桑が俺の方を振り返って何かモゴモゴ言い出した。

「あ? 何だよ、飲み込んでから喋れ」

 笹桑はコーラでピザを飲み込むと、口元にピザソースをつけたまま、俺とフォックスの顔を見比べながら言った。

「でも海崎志保が殺される可能性があるってことは、殺されない可能性もあるってことっすよね」

 それを聞いてフォックスの顔に明るさが差した。笹桑を見つめ、俺を見つめる。

「あるのか、その可能性が」

 まったく面白くない。面白くはないのだが、成り行き上、協力をしないという訳にも行かない。

「俺としちゃ、悪魔の羽根を先に調べたいんだがね」いまの俺には、これがせいぜいの抵抗だ。「まあ、仕方ねえな。そっちから始めるか」


 名前がわかっている。仕事もわかっている。ならば海蜃館大学総長のお屋敷の住所は、マニアに探させるまでもない。ちょっと情報屋に電話すればすぐわかった。

 藤松の豪邸に比べれば、おそらく随分こぢんまりとした坪数の、鉄筋コンクリート造りの白い四角い建物。外から見た限りでは、庭はほとんどないだろうと思われた。石庭もガーデニングも興味がないのかも知れない。

 少し離れた路肩にクラウンを停め、俺は鼻先でタバコを動かして頭をひねっていた。後部座席のフォックスが身を乗り出す。

「考えてみれば当然か。海崎惣五郎なら海崎志保をかくまう動機はあるし、実際にかくまうことも可能だ。これだけの規模の家なら海崎志保が暮らす部屋くらい用意できる。なんなら大学に隠すことだって」
「理屈としちゃ、そうなんだがな」

 フォックスは俺の消極的な態度が解せないらしい。噛みつかんばかりの形相で問うた。

「どういうことだ。海崎惣五郎が関わっていないと言いたいのか」
「そりゃわからんさ。だがいまいちピンと来ない」

「ピンと来ない?」

 そう、ピンと来ないのだ。第六感は信じちゃいないが、自分の中でストンと腑に落ちる感じがしない。

「大学の総長なんぞやってるんだから、間違いなく頭はいいんだろう。しかし七十過ぎの爺さんだ。海崎志保の向こう側にいたのが海崎惣五郎だとしたら、ちょっと柔軟に過ぎる気がしてならん」
「そんなの、人によるだろう」

「それは確かにそうなんだが」

 すると突然フォックスはクラウンを下りた。後部ドアを叩きつけるように閉める。

「もういい。自分で確かめる」

 そして早足で海崎邸の正門に向かった。ボサボサの金髪を振り乱して。おいおい、その見た目じゃ相手が出て来たとしても、不審者扱いで終わりだぞ。俺はため息をつきながら運転席のドアを開けた。

「笹桑、おまえは待ってろ」
「了解っす。ジロー君と待ってるっす」

 外に出た俺はドアを閉め、車の反対側に回って助手席のドアを開けた。

「行くぞジロー。下りて歩け」
「ええー、一人で留守番っすか」

「頑張れよ、おまえはやれば出来る子だ」

 笹桑にそう言い残し、俺はジローを連れてクラウンを離れた。まあ、海崎惣五郎の顔を見ること自体には反対しない。いや、俺としても是非見たい。金になりそうだからな。

「海崎惣五郎氏にお会いしたい」

 正門前のフォックスの声が聞こえる。やれやれ、もうインターホン押しやがったのか。

「いや、約束はしていない……これは緊急の要件で、あ、ちょっと待ってくれ!」

 通話を切られたようだ。そりゃまあそうだろうな。もう一度ボタンを押そうとしたフォックスの手をつかまえる。

「築根さんよ」

 手を乱暴に振り払うフォックスに、諭すように言い含める。

「とりあえず、髪の毛だけでもまとめたらどうだ。ファッションで通用するレベルじゃねえぞ」

 フォックスは一瞬顔に血を上らせ、慌てて髪の毛で団子を作り始める。俺は改めてインターホンのボタンを押した。そこから聞こえて来たのは、明らかに不機嫌な声だった。

「しつこいですね。警察を呼びますよ」

 実にいいタイミングだ。俺はボタンの上にあるカメラに向かって満面の笑みを向ける。

「海崎志保さんが警察から逃亡したことはご存じですか」

 インターホンは沈黙した。動揺しているのかも知れない。声の大きさを一段上げた。

「警官を昏倒させて、拳銃と警察手帳を奪って逃走しているのですがね」
「ちょ、ちょっとお待ちください」

 通話は切れた。フォックスが、あ然とした顔で見つめている。俺は歯を見せてやった。

「これでダメなら、お手上げだな」
「おまえ、いつもこんなことしてるのか」

「俺には令状出してくれるところがないんでね」

 二、三分は待ったろうか。正門右横の小さな扉が開き、髪の薄い中年の男が、おそるおそる顔を出した。

「先生がお会いになるそうです」

 インターホンから聞こえた声だった。


 角の少しヨレヨレになった俺の名刺をテーブルの隅に置き、赤いガウン姿の海崎惣五郎は、胡散臭そうに目の前の三人を見ていた。俺の両隣にはフォックスとジローが座っている。

「話をするなら一人で良かったんじゃないのかね」
「スミマセン、いま新人研修中なもので」

 頭をかく俺の、テーブルをはさんだ真正面の椅子に座る海崎惣五郎は、ほとんど白髪ではあるものの、オールバックの豊かな髪といい、シワの少ない顔といい、七十を越えた爺さんにしては随分若く見えた。ただ、名刺に触れるその手だけは、紛れもない老人の物だったが。

「五味総合興信所……興信所ということは、誰かに私の家を調査しろと言われたのかな」
「まあそうなりますね」

「誰に頼まれたね」
「それは言えません。守秘義務がありますんで」

「便利な言葉だな」

 惣五郎はテーブルの上の小箱から、細身の葉巻を一本取り出して見せた。

「失礼するよ。悪いがコレなしで出来る話でもないようだ」

 そう言ってギロチン式のシガーカッターで葉巻の両端を切り落とし、卓上ライターに火を点ける。

「ああ、それでしたら私にも灰皿を貸して頂けると有り難いんですが」

 俺の言葉に、ライターの火で葉巻をあぶっていた手を止め、惣五郎は苦笑した。

「また図々しい男だな」
「よく言われます」

「砂上」

 惣五郎が声をかけると、その後ろに立っていた、玄関口に出て来た中年男が前に出た。

「はい、先生」
「彼に灰皿を貸してあげなさい」

「はい、先生」

 しかし砂上はすでにガラスの灰皿を持っていた。優秀な使用人らしい。灰皿が目の前に置かれるのを待って、俺は胸ポケットからタバコを取り出し、咥えた。

「それで海崎志保さんなんですが」

 相手はまだ葉巻の香りを嗅いでいた。葉巻はワインに似ている。俺には面倒臭い。

「孫が警察から逃げたとか」
「ええ、それも拳銃と警察手帳を盗んで」

「しかし警察からはまだ何も言って来ていない。確かな話なのかね」
「それについては、極秘の情報ルートがありますんで」

「ご都合主義のフィクションでもあるまいに、そんな物が実際にあるとは信じ難いな」
「しかし志保さんには連絡が取れない。違いますか」

 惣五郎は葉巻の端に火を点け、その反対側を口に咥えた。

「……一時的なものかも知れん」
「それはつまり、俺たちが外で待ってる間に連絡してみた、ってことですよね」

 俺はタバコの煙を吸い込み、天井に向かって吐き出した。

「タバコの煙は口の中で楽しむ物だ。肺の奥まで吸い込むのは体に悪い」

 惣五郎のつぶやきが、俺の口元に笑みを誘う。

「らしいですな。しかし俺の体はもう刺激に慣れ切っちまってるもんで」
「孫娘は警官を襲うほど愚かではない」

 その声には心なしか苦悩が見て取れるように思えた。

「半分同意ってとこですかね。確かにお孫さんは、後先考えずにあんなことをするタイプには思えない。もっとドッシリと構えた、言っちゃ何だが相当タチの悪いヤツだ」
「ならば」

「ならば、それなりの理由があったと考えるべきでしょう。問題はその理由です。それが核心とも言える。何か心当たりはないですか」

 葉巻を口元に置いたまま、吸いもせずに思い悩む惣五郎の様は、芝居には見えない。俺は続けた。

「うちの新人は疑り深くってですね、アナタが逃げたお孫さんをかくまってるんじゃないかと考えてた訳です」

 惣五郎は、一つ大きな息を吐いた。

「かくまえるものなら、かくまっている」
「でしょうねえ。いつ頃からです、お孫さんと疎遠になったのは」

 惣五郎は、弾かれたように顔を上げると、俺をにらみつけた。

「何故疎遠だと思った」
「いやあ、今日もし俺たちが来なかったら、お孫さんがマンションから行方不明になったことに、いつ気が付いたのかなって思ったものでね」

 俺のヘラヘラ笑う顔を不快そうに見つめながら、惣五郎は葉巻を吸った。どう見ても肺の奥まで煙を吸い込んでいる。

「私は疎遠になったとは思っていない。だが志保の様子が変わりだしたのは、結婚した頃からだ」
「なるほど、彼女的には、嫁ぎ先と本当に『家族』になろうと考えたのかな」

「だが結婚は失敗だった」
「そのようですね」

「志保はうちに戻って来た。しかし、もう以前のようには行かず、家を出てしまった」
「以前ってのはいつ頃です」

「……何?」

 虚を突かれたような惣五郎の顔は、酷く間抜けに見える。

「以前はお孫さんとシックリ行ってたんですよね。それはいつ頃ですか。まさか、引き取ってからここにいる間、ずっと上手く行ってたなんて言わんでしょう」
「おい」

 フォックスが隣から声をかける。やめろと言いたいのだろう。だが俺は聞こえない振りをして灰皿でタバコをもみ消した。そして新しいタバコを咥え、火を点ける。

「実のところ、お孫さんと上手く行ってた時期なんてないんじゃないですか。向こうが一方的に恩義に感じて、一方的に我慢してくれてたんでしょう。そしてアンタはそれが当たり前だと思ってた」
「キミに何がわかるのかね」

 静かな口調。だが顔面は紅潮し、目は釣り上がっていた。惣五郎の手で葉巻が小刻みに震えている。この老人は気付かなかったのだろう、俺がその言葉を待っていたことに。

「別に何もわかりゃしません」俺は嗤った。「たとえばアンタが谷野孝太郎に本木崎才蔵の名前を与えて何がしたかったのかとか、わかってることは何もない。想像はつきますけどね」

 葉巻がテーブルに落ちた。砂上が慌てて拾い、灰皿の縁に乗せる。だがそれを惣五郎が再び手にすることはなかった。部屋には俺の声だけが響いている。

「もしかしたら、サイノウ薬品に本木崎才蔵が潜り込んだのは、アンタの差し金だったのかも知れない。もしかしたら、娘に会わせてやることを条件に、大帝邦製薬の情報を得るためのスパイに仕立て上げたのかも知れない。もしかしたら、その娘が藤松の家族によって酷い目に遭わされていることを教えたのは、アンタなのかも知れない。もしかしたら、本木崎才蔵が藤松の連中に復讐しようとしていることを、アンタは知っていたのかも知れない。もしかしたら、その復讐心を煽ったのは、最初から株の売買で大儲けするつもりだったのかも知れない。全部推測です。証拠は何もない」

 惣五郎の目は恐怖に見開かれ、顔は青ざめていた。これじゃリトマス試験紙だな。肝の太さじゃ海崎志保の足下にも及ばない。

「つまり俺には何もわかってないんですよ、海崎さん。ただね、うちは警察じゃない。証拠なんて必要ないんだ。そんな物がなくったって、『事実』をそれらしく組み立てることは出来る。そして同時に、いますぐ調査をやめることだって可能なんです」

 何一つ嘘はついていない。ただ正直さに欠けるだけだ。

 心の動きを表わすように、惣五郎の眼球は振動した。俺の顔を見つめながら、その視線は俺を捉えていない。何度も唾を飲み込んでいる。

「私の、私の家に関する調査を打ち切ってくれと言ったら、そうしてくれると言うのかね」
「それは、そちらのお考え次第ですよ」

 そのとき、フォックスが俺の腕をつかみ、引っ張った。

「おい、おまえまさか」
「口を出さないって約束だよな」

 横目で見る視界の中で、フォックスは花がしおれるようにうつむき、力なく腕を放した。

「海崎さん」

 名前を呼ばれて、惣五郎の目の焦点は俺に結ばれた。

「志保さんが何処に行ったか知りたくないですか」
「それは、もちろん知りたいが」

「でも、周辺を嗅ぎ回るのはやめて欲しいんですよね」
「そ、そうだ」

「じゃ、合わせて二百ですね」
「二百?」

「ええ、二百万で手を打ちましょう」

 惣五郎は怒りの表情で俺をにらみつけている。だが演技だ。目に力がない。

「私が、そんな脅しに屈すると」
「別に屈しなくていいですよ。金さえ払って頂ければ。株で相当儲けたんですよね。そのことを志保さんに何と言われたのかは知りませんが」

 俺は鼻先で嗤った。海崎惣五郎はうつむき、目を閉じるとまた一つ息を吐いた。

「砂上」
「ですが、先生」

 駆け寄った中年男は、泣きそうな顔で惣五郎を見つめる。その顔を見て惣五郎はうなずいた。

「構わん。金庫から二百万持って来なさい」

 砂上は黙って一礼すると背を向け、奥へと向かった。

 俺は二本目のタバコを灰皿でもみ消した。

「それじゃ海崎さん、今後のためにあと三つだけ質問をいいですか」

 惣五郎は不快感をあらわにした。

「三つだけ、か」
「ええ、三つで終わりです。まあ確認のようなものですね」

「いいだろう、言ってみたまえ」
「まず、志保さんが行方をくらませたとして、どこか行きそうな場所に心当たりはないですか」

「ないな。皆目見当も付かない」

 まあ、そこに見当が付くくらいなら、疎遠にはならないか。

「わかりました。では二つ目。『悪魔の羽根』というウェブサイトをご存じですか」

 惣五郎は不審げに眉を寄せる。

「それは自殺サイトではないのか。志保の学校の生徒が自殺したと聞いている。一時期大学でも話題にはなったはずだが」
「それ以上のことは、ご存じないですか」

「知らんな。それが志保の行方不明と関連しているのかね」
「現段階では何とも」

 やはり、そう簡単に繋がってはくれないか。まあ仕方ない。

 そこに砂上が戻って来た。銀色の盆に、厚みのある茶色い封筒を乗せて。仕事が早いな。

「先生」

 隣に立った砂上の差し出す盆から封筒を手に取り、惣五郎は中身を見た。そして再び封筒を盆に置くと、無言でうなずく。砂上は俺を恨めしそうににらみながら、しかし動作は静かに上品に近づいてくると、盆を差し出した。俺は重みのあるその封筒を手に取り、上着の内ポケットにねじ込んだ。

「中身を確認しなくても良いのかね」
「いえいえ、信頼しておりますので」

 その返答に、惣五郎はまた不快な顔を見せた。だがこっちはそんな些細なことで腹を立てたりしない。いやはや、金の力は偉大だねえ。

「では、最後の質問です。おそらくいま、志保さんは『誰か』と一緒にいるはずなんですが、その『誰か』に心当たりはありませんか」

 惣五郎はそれを聞くと目を伏せ、また大きく息を吐いた。そして。

「……篠生幸夫という男を知っているかね」
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