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露見と線引き
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自分の呼吸の音がうるさい。心臓が激しく脈打っているのは走っているせいではなく動揺しているからだろう。
泣きたいぐらいに苦しいのに、そんな甘えは許されない。後悔で頭がいっぱいになるが、もう引き返すことが出来ないことも分かっている。
「――っ!ううっ、痛いよぉ……っく」
悲痛な声に思わず足を止めて視線を巡らせると、細い路地裏に誰かが倒れていた。幼さが残るその声と小さな身体から子供だと気づいて、恐る恐る近づいてみると左腕を庇うようにして蹲っている。
「……どうしたの?」
早く遠くに逃げないといけないのに、気づいてしまったからにはそのまま立ち去ることが出来なかった。
「っく、腕が……痛っ――助けて……」
だらりと力がない腕には外傷が見当たらないが、もしかしたら骨折など見えない部分に怪我をしているのかもしれない。
(……癒しの力を使えば、きっと治せる)
だけどそれは危険な行為だ。力が露見すれば、神殿も国も自分を野放しにしておかないだろう。これまで学んだ知識や周囲の人間の様子から瑛莉はそれを敏感に感じ取っていた。
「うぅっ……っぁ」
少年の弱々しい声に瑛莉は我に返った。苦しんでいる子供を前に自分本位な考え方をしている自分が恥ずかしくなって、瑛莉は少年の横に膝をつくと左腕にそっと手を添えた。
手の平が温かくなり何かが流れ込んでいく感覚がふっと途切れる。
「腕を動かしてみて。まだ痛むところはある?」
泣き止んだ少年が恐る恐る手を動かして、丸い瞳をさらに見開いている。
「すごい……治った」
他人を癒したのは初めてだったため、瑛莉は安堵に胸を撫で下ろす。だがゆっくりしている時間はないことを思い出し、急いで少年に言い含める。
「このことは誰にも言っちゃいけないよ。後から言って悪いけど、大事なことだから約束して欲しい」
視線を合わせて真剣な表情で伝えると、少年の視線が瑛莉から外れてその背後に向けられる。地面を踏みにじるような音と同時に冷ややかな声が落ちた。
「自分は約束を破っておいて、人に守らせようというのは少々身勝手じゃないのか」
『約束を守るのは相手のためじゃなくて自分のためだ。約束を破ればそれは自分に返ってくるからな』
(先生が教えてくれたのに、どうして忘れていたんだろう)
焦った挙句、「先生」の言葉を切り取って自分の都合の良いように解釈してしまった。
振り向きたくないという思いとは裏腹に無理やり身体を動かしたのは、自分がしたことに対する責任と義務感からだ。
どれだけ冷たい視線や非難の言葉を向けられても、約束を破ったのは自分なのだから。
ディルクの瞳に嫌悪はなく、だが感情を削ぎ落とした顔からは何も読み取れない。
そんな中聞こえてきたディルクの一言に瑛莉は息が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
「フリッツ、もう行っていいぞ」
「………うん」
立ち去る少年の足音を聞きながら、瑛莉は否定したくなる現実を無理やり呑み込むのが精一杯だった。
「私を……嵌めたのか」
「お前が約束を破らなければ起きなかったことだ」
静かな口調に責めるような響きがなく、むしろ憐れんでいるように聞こえた。
「……あの少年は本当に怪我をしていた。あれは……」
「俺がやった」
誰の仕業なのか、そう口にできなかった瑛莉の問いをディルクはあっさりと自白した。何故だとは聞かなかった。もう答えは出ているのだ。
「癒しの力が開花したことは俺から報告しておく。……逃げ出そうとしたことは黙っておいてやるから余計なことは言うなよ」
瑛莉が必死で隠そうとしていた癒しの力、それが本当に使えないのか確認するために仕組まれた茶番にあっさり引っかかってしまったのは自分の浅はかさに他ならない。
握りしめていたはずの手から髪留めが滑り落ちて、こつりと無機質な音が聞こえた。
帰りの馬車は重苦しい沈黙に包まれていた。ジャンが気遣わしげな視線を向けながら、何度か声を掛けてくれたが瑛莉はろくに返事もしなかった。
彼が罰せられることを理解した上で逃げ出した自分に、優しくされる資格などない。
部屋に戻った瑛莉をエルヴィーラが迎えてくれたが、疲れたので休む旨を伝えると室内には自分以外誰もいなくなった。
ふらふらとベッドに倒れ込むと色々な感情が洪水のように溢れ出す。
(先生…先生…先生、助けて――!)
嗚咽が漏れないよう口元を手で押さえながら、瑛莉は縋るような思いで心の中で呼び掛け続けた。
ふっと意識が浮上する感覚に瞼を開けると、窓から明るい日差しが降り注いでいる。
(あのまま寝ちゃったのか……)
強張る目元をこすり、ベッドから起き上がる。さほど時間は経っていないようだが、戻ってきた時よりも心も頭も落ち着いたようで、すっきりとした気分だった。
(うん、もう大丈夫だ)
コップに注いだ水をごくごくと飲み干せば、もういつもの自分だと思えた。
今日の出来事を反芻すればまだ心が揺れるだろうが、いつまでもぼんやりとしていられない。癒しの力を使えることがバレてしまったのだ。
(浄化よりも貴重な力だから、扱いは多少ましになるか?でも訓練と称して酷使されるかもだし、逃げるのが難しくなった……)
自業自得とはいえ、まんまとディルクに嵌められてしまったことが悔やまれる。
(――いや、違う。そうじゃないな)
ディルクは自分の仕事をしただけに過ぎない。城を抜け出そうとした瑛莉を見つけたのはディルクだったし、いまだに逃亡の意思があるか確認したかったのだろう。
『十分もかからないはずだから店内で待っていろ』
最初に気を失った振りをした時と同じようにディルクがわざわざ時間を告げたのは、瑛莉にヒントを出していたと解釈するのは考え過ぎだろうか。
(でもあの怪我をした少年の件はちょっとおかしくないか?)
瑛莉が癒しの力を使えることを疑っていたとしても、あのタイミングで確かめる必要性はない気がする。少年の名前を呼んでいたことからも顔見知りなのだろうが、そんな子供を確認のために傷付けるなんてディルクらしくない。
そこまで考えて瑛莉はディルクを擁護しようとしている自分に気づき、乾いた笑いを漏らした。
(餌付けされたかな……)
ちょっと優しくされただけで簡単に信用するなんて、自分らしくない。今までは友人がいて、そして何より「先生」がいた。この世界で一人きりの自分はきっと味方が欲しかったのだろう。
でもそれはディルクじゃないし、線引きを間違えたのは自分だ。
(やられっぱなしは気に入らないし、いつか絶対に仕返ししてやるけどな!)
ディルクの意図を考えるよりも、今はどうやってこの状況を切り抜けるかが最優先事項だ。
瑛莉は机に向かうと状況を打開するための最善策を練りはじめた。
泣きたいぐらいに苦しいのに、そんな甘えは許されない。後悔で頭がいっぱいになるが、もう引き返すことが出来ないことも分かっている。
「――っ!ううっ、痛いよぉ……っく」
悲痛な声に思わず足を止めて視線を巡らせると、細い路地裏に誰かが倒れていた。幼さが残るその声と小さな身体から子供だと気づいて、恐る恐る近づいてみると左腕を庇うようにして蹲っている。
「……どうしたの?」
早く遠くに逃げないといけないのに、気づいてしまったからにはそのまま立ち去ることが出来なかった。
「っく、腕が……痛っ――助けて……」
だらりと力がない腕には外傷が見当たらないが、もしかしたら骨折など見えない部分に怪我をしているのかもしれない。
(……癒しの力を使えば、きっと治せる)
だけどそれは危険な行為だ。力が露見すれば、神殿も国も自分を野放しにしておかないだろう。これまで学んだ知識や周囲の人間の様子から瑛莉はそれを敏感に感じ取っていた。
「うぅっ……っぁ」
少年の弱々しい声に瑛莉は我に返った。苦しんでいる子供を前に自分本位な考え方をしている自分が恥ずかしくなって、瑛莉は少年の横に膝をつくと左腕にそっと手を添えた。
手の平が温かくなり何かが流れ込んでいく感覚がふっと途切れる。
「腕を動かしてみて。まだ痛むところはある?」
泣き止んだ少年が恐る恐る手を動かして、丸い瞳をさらに見開いている。
「すごい……治った」
他人を癒したのは初めてだったため、瑛莉は安堵に胸を撫で下ろす。だがゆっくりしている時間はないことを思い出し、急いで少年に言い含める。
「このことは誰にも言っちゃいけないよ。後から言って悪いけど、大事なことだから約束して欲しい」
視線を合わせて真剣な表情で伝えると、少年の視線が瑛莉から外れてその背後に向けられる。地面を踏みにじるような音と同時に冷ややかな声が落ちた。
「自分は約束を破っておいて、人に守らせようというのは少々身勝手じゃないのか」
『約束を守るのは相手のためじゃなくて自分のためだ。約束を破ればそれは自分に返ってくるからな』
(先生が教えてくれたのに、どうして忘れていたんだろう)
焦った挙句、「先生」の言葉を切り取って自分の都合の良いように解釈してしまった。
振り向きたくないという思いとは裏腹に無理やり身体を動かしたのは、自分がしたことに対する責任と義務感からだ。
どれだけ冷たい視線や非難の言葉を向けられても、約束を破ったのは自分なのだから。
ディルクの瞳に嫌悪はなく、だが感情を削ぎ落とした顔からは何も読み取れない。
そんな中聞こえてきたディルクの一言に瑛莉は息が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
「フリッツ、もう行っていいぞ」
「………うん」
立ち去る少年の足音を聞きながら、瑛莉は否定したくなる現実を無理やり呑み込むのが精一杯だった。
「私を……嵌めたのか」
「お前が約束を破らなければ起きなかったことだ」
静かな口調に責めるような響きがなく、むしろ憐れんでいるように聞こえた。
「……あの少年は本当に怪我をしていた。あれは……」
「俺がやった」
誰の仕業なのか、そう口にできなかった瑛莉の問いをディルクはあっさりと自白した。何故だとは聞かなかった。もう答えは出ているのだ。
「癒しの力が開花したことは俺から報告しておく。……逃げ出そうとしたことは黙っておいてやるから余計なことは言うなよ」
瑛莉が必死で隠そうとしていた癒しの力、それが本当に使えないのか確認するために仕組まれた茶番にあっさり引っかかってしまったのは自分の浅はかさに他ならない。
握りしめていたはずの手から髪留めが滑り落ちて、こつりと無機質な音が聞こえた。
帰りの馬車は重苦しい沈黙に包まれていた。ジャンが気遣わしげな視線を向けながら、何度か声を掛けてくれたが瑛莉はろくに返事もしなかった。
彼が罰せられることを理解した上で逃げ出した自分に、優しくされる資格などない。
部屋に戻った瑛莉をエルヴィーラが迎えてくれたが、疲れたので休む旨を伝えると室内には自分以外誰もいなくなった。
ふらふらとベッドに倒れ込むと色々な感情が洪水のように溢れ出す。
(先生…先生…先生、助けて――!)
嗚咽が漏れないよう口元を手で押さえながら、瑛莉は縋るような思いで心の中で呼び掛け続けた。
ふっと意識が浮上する感覚に瞼を開けると、窓から明るい日差しが降り注いでいる。
(あのまま寝ちゃったのか……)
強張る目元をこすり、ベッドから起き上がる。さほど時間は経っていないようだが、戻ってきた時よりも心も頭も落ち着いたようで、すっきりとした気分だった。
(うん、もう大丈夫だ)
コップに注いだ水をごくごくと飲み干せば、もういつもの自分だと思えた。
今日の出来事を反芻すればまだ心が揺れるだろうが、いつまでもぼんやりとしていられない。癒しの力を使えることがバレてしまったのだ。
(浄化よりも貴重な力だから、扱いは多少ましになるか?でも訓練と称して酷使されるかもだし、逃げるのが難しくなった……)
自業自得とはいえ、まんまとディルクに嵌められてしまったことが悔やまれる。
(――いや、違う。そうじゃないな)
ディルクは自分の仕事をしただけに過ぎない。城を抜け出そうとした瑛莉を見つけたのはディルクだったし、いまだに逃亡の意思があるか確認したかったのだろう。
『十分もかからないはずだから店内で待っていろ』
最初に気を失った振りをした時と同じようにディルクがわざわざ時間を告げたのは、瑛莉にヒントを出していたと解釈するのは考え過ぎだろうか。
(でもあの怪我をした少年の件はちょっとおかしくないか?)
瑛莉が癒しの力を使えることを疑っていたとしても、あのタイミングで確かめる必要性はない気がする。少年の名前を呼んでいたことからも顔見知りなのだろうが、そんな子供を確認のために傷付けるなんてディルクらしくない。
そこまで考えて瑛莉はディルクを擁護しようとしている自分に気づき、乾いた笑いを漏らした。
(餌付けされたかな……)
ちょっと優しくされただけで簡単に信用するなんて、自分らしくない。今までは友人がいて、そして何より「先生」がいた。この世界で一人きりの自分はきっと味方が欲しかったのだろう。
でもそれはディルクじゃないし、線引きを間違えたのは自分だ。
(やられっぱなしは気に入らないし、いつか絶対に仕返ししてやるけどな!)
ディルクの意図を考えるよりも、今はどうやってこの状況を切り抜けるかが最優先事項だ。
瑛莉は机に向かうと状況を打開するための最善策を練りはじめた。
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