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第5章 わな
ラベンダー
しおりを挟む北の、大地。
北の、風景。
強い寒気を薄く乗せて、青みがかった空色を、油彩画の中に閉じ込めたかのように、ここも、そこも、山並みの向こうも、そわぁっ、そわぁっと、北のよく晴れた、空。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
北の空のマグリットブルーの下に、一面に一面に一面に一面に広がる、薄紫の薄紫の薄紫の薄紫のラベンダー畑。薄紫に伸びるラベンダー畑が1枚、薄紫に伸びるラベンダー畑が1枚、薄紫に伸びるラベンダー畑が1枚…どこまで行っても、ラベンダーの群生、ラベンダーの、ラベンダーの、ラベンダーの、ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑に赤い屋根の小屋が1つ。
その中で1人、老婆が安楽椅子に座って編み物をしている。
編んでいるのは、ピンク色の、セーター。
にやっと老婆が手元をにらみ、目尻に皺を寄せ、編み棒を上げる。上がる、重なる、引かれる、すーっ、すーっ、ピンクの毛糸。
「あーっ、あったー」
声がする。
声が、ラベンダー畑に、ラベンダー畑に、ラベンダー畑に、
ラベンダー畑に、ラベンダー畑に、
ラベンダー畑に
こだまする。
赤毛の、緑のシャツの、紺のサスペンダーの、ズボンの、背の少し高い女の子。
駆ける。駆ける。ラベンダー畑を、駆ける。ささんささんと音も聞こえず、足の動いているのも見えず、しかしその女の子は、ラベンダー畑を駆けて、ラベンダーの中を、駆けて、駆けてきた。
老婆は窓の外にその女の子を見つけ、大きな大きな頭を右に持ち上げた。木製の、窓枠の、4分割の硝子も無視し、左の上に腰から上、左の下にそよぐラベンダー、右の上に頭が移って、右下のラベンダーが騒ぎ始める。そうして女の子が近づいてきて、老婆も彼女を目で目で追う。
ドンドンドン。
ノックの音が、ノックの音が響き渡る。
茶色の螺旋階段も、煉瓦造りの赤茶の暖炉も、木目調のフロアーも、金と緑のカーペットも、50年以上棲みついたこの小屋で、50以上年目のノックを伝え播く。
「あのー、すみませーん。願い事が叶う家って、ここですかー?」
老婆はぎいっと安楽椅子を、傾け押し下げ立ち上がり、意外にも確かな足取りで、とん、
とん、
とん、
とん、と玄関口へ向かう。
「ギィイーッ…」
老婆は木のドアを前へと開けた。
「あの、ラベンダー畑の真ん中にある小屋に入れば願いを叶えてくれるって聞いたんですけど!」
老婆は少女を下から見上げ、ロイヤルブルーのドレスを浮かせ、フェルメールブルーのペンダントを金のフレームの中で際立たせ、言った。
「本当に、いいのかね?ここに来たということは、全てを覚悟したということだよ。分かってるだろうね?」
赤毛の少女は口元も、鼻も組んだ手も動かさず、笑顔のままでまばたきもせず、ただ一言
「はい。」
と言った。
少女は中へ通されて、老婆の小屋をきょろきょろ見回した。聖者のごとく両手を前で組み、老婆は安楽椅子に戻った。
「あの、どうやったら願い事が叶うんですか?」
老婆は左手を徐に差し出し、少女に席に着くよう促し、それから口を開き始めた。
「簡単なことさ。あたしの願いを聞けばいい。あたしの望みを叶えてくれると、そう言ってくれるのなら、おまえさんはすぐに願いが叶う。」
「そういうことだったんですか!じゃあ、おばあさんは魔女なんですか!!」
「あたしは魔女なんかじゃないよ。あたしはただの、年老いた隠者さ。このラベンダー畑に身を匿すように暮らし、あてもない毎日を送っている」
「じゃあ、そんな毎日が今日で終わるといいですね!」
「あたしは別段この生活に満足してない訳じゃないさ。ただ、死ぬまでここで暮らせればいい。朝の光を浴びて冴え渡り、昼の陽気を受けてほのかになびき、夜は黒いヴェールの下のほんの微かな燈となる、そんなラベンダーに囲まれていれば、それでいい。」
「なら、わたしがおばあさんのその願い、叶えてあげます! ですからわたしを、世界一のミュージカルスターにしてください!」
老婆の眉が、ぴくりと動いた。
「ミュージカル、スターかね?それは釣り合わないんじゃないのかね」
「釣り合わない? わたしの願いが身の丈に合ってないって、おばあさんまでそうおっしゃるんですか!」
「違う。わたしの生活を保証すると言った代わりとしては、その願い事は叶えるのが難しいと言いたいのだ。」
「ほら、やっぱり! みんななれっこないって、そう言うんです! 口裏合わせたみたいに!!」
「なれないなんて、一言も言ってないさ。ただ、あたしとおまえさん、2人の願いを同時に叶えるには、少し荒っぽいことをしなければならない。」
「そおんなの、構いませんよ!わたしはただ、世界一のミュージカルスターになりたいんです!!」
老婆は安楽椅子を僅かに後ろに倒し、窓の外へ視線を遣った。しかしすぐに少女の方に向き直り、胸元のペンダントを持ち上げた。
「いいかい、今からあたしがいいって言うまで、絶対に目を開けちゃいけないよ」
「はいっ!!」
目を瞑った少女の顔を、老婆は暫し見ていたが、やがて心を決めたようにペンダントの石を彼女の額にかざした。
北の空のマグリットブルーの下に、一面に一面に一面に一面に広がる、薄紫の薄紫の薄紫の薄紫のラベンダー畑。どこまで行ってもラベンダーの群生、ラベンダーの、ラベンダーの、ラベンダーの、ラベンダーの、ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
ラベンダー畑。
青みがかった空色の、油彩画の北の山地。
よく晴れた、寒い空。
赤い。
屋根の。
小屋の。
木製の、窓枠の中。
老婆が1人、編み物をしている。
にやっと老婆が手元をにらみ、目尻に皺寄せ、編み棒を上げる。上がる、重なる、引かれる、すーっ、すーっ、ピンクの毛糸。
ピンクのセーターは、まだできない。
あの日少女が来た時刻と、ちょうど同じくらいの頃に、老婆はふと、手を休めた。
「ほら、なれただろう、世界一のミュージカルスターに。おまえさんは今、最高のスターじゃないか。このラベンダー畑という舞台で、朝日を浴びて冴え渡り、昼の陽気を受けてほのかになびき、夜は黒いヴェールの下でほんの微かな燈となる…おまえさんはあたしにとって、最高のスターだよ」
しかし、そう独り言を言い終えた後、老婆は、窓の外とも部屋の中ともつかない虚空を見つめて、口を開いた。
「こうなることを望んでいたんだろう?
あたしの存在が公の場に知れ渡らないで、それでいておまえさんがミュージカルスターになるためには、こうする
しかなかったんだよ…。」
ラベンダー畑の、ラベンダーの群生の、ラベンダーの、ラベンダーの、
ラベンダーの、
ラベンダーの、
その中の1本のラベンダーが、ブルルッと震えた。
「さあ、届けておくれ、ラベンダーたちよ。花よ、その身よ、鎌首よ。芳しい香りと共に、人食いの棲まう小屋の噂を、海の果てまで届けておくれ。年老いた弱きこの魔女の、静かで安らかな余生のために」
その時、どこからか風が吹いた。
ざわあぁっ…とラベンダー畑が波としてそよめき、落ち着いた高貴な香りが広がりながら満ち満ちていった。
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