一寸先は闇

北瓜 彪

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第7章 探検隊

自問自答

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 気がつくと、もう教室にはぼく以外誰もいなかった。顔を上げて黒板の上の時計を見ると、帰りの会が終わってから30分以上も過ぎている。窓からは淡いオレンジの西日が入りこみ、背の低い物入れののっぺりした白い甲板に落ちて明るく広がっていた。甲板の上のめだかの水槽は、上からと下からの両方の光を反射してきらめく多角形に見えた。
 ぼくは居残って委員会の計画を書いていた自由帳をランドセルにしまうと、それを背負って立ち上がった。
 その時、ぼくの目は不思議な物を捉えた。
 それは春子の机の上にあったーー側面に「!」マークが書かれ、斜めのストライプが入った大きな箱。それはおよそランドセルに入れて持ち歩くには大き過ぎる四角い箱だった。
 箱にはふたがしてあって、ずっと前からこの教室の春子の机の上でそこにあったような様子だった。
 ぼくは春子の机に近づき、その箱をまじまじと見た。黄緑とピンクのストライプ。!マークは赤色だ。
 とても奇抜なデザインの箱だが、何だか誰にも手を触れられないような寡黙さを感じた。中に何が入っているのか分からない。何か大事な物が入っているのか、それとも大したことのない物なのか、分からない。
 ぼくはその奇妙な箱に興味を持ち始めていた。
 でも、このユニークな箱が無口であるがこそ、その中に恐ろしい魔物を閉じ込めていないとも限らない気がした。
 いずれにせよ箱はそこにあるだけなのである。春子にとって何か重大な物が入っていたとしても、全く他愛もない物が入っていたとしても、魔物が眠っていたとしても、あるいは何にも入っていなかったとしても、箱を開けてみなければそれは分からない。
 いや、何をやっているんだぼくは。
 そこで我に返った。
 これは春子の机の上にある箱なんだぞ。他人が勝手に開けて中を見ていいわけないじゃないか。
 ぼくは今まで一体何てことをしようとしていたんだ。
 「そうだね、そうだね。」
 その時、どこからか鈴を転がしたような声がした。
 突然右肩が重くなりそちらに顔を向けると、そこには白い服を着た小さなぼくが、頭に金の輪を浮かべて立っていた。
「そうだね、人の物をのぞくのはいけないことだね。」
そいつが言った。
 これは…もしや、もしかして、ぼくの「良心の象徴」なんだろうか。
 ぼくはアニメや何やで見かける展開が現実に自分の目の前で発生したことにただただ目を丸くするばかりだった。
 でも、天使の姿をした小さなぼくを見るうちに、ぼくの心は和やかになっていった。たとえ得体の知れないものであっても、自分の自制心を後押ししてくれる人がいる。
 ぼくは何だか安心して、教室を後にしようとした。


 彼は耳をそばだてた。
 目の前には大きな箱の蓋がある。そしてその向こうには、多分、彼がずっと欲しがっていたものがある。
 辺りは真っ暗、底無しの闇が広がっているが、その箱の黄緑とピンクのストライプ、そして赤の!マークだけはその闇の中で鮮明に見えていた。
 その立方体の箱は、彼の眼前で、冷徹な程頑強な5つの面を張っていた。どの面も規格正しく4つの頂点を結びつけ、そこに描かれたファンシーなストライプと!マークは、箱を開けようか開けまいか迷う彼の心理を見据えた箱の余裕の表出のように思われた。
 事実、彼は箱を開けたかった。しかしそれはできなかった。彼の良心が咎めたのである。
 他人のものを奪ってはいけない。
 そう。この箱の向こうでは、紛れもなく他人の所有物であるものが待っているのである。
 だから、箱を開けてはいけない。
 しかし、そう簡単には踏ん切りがつかなかった。
 今この箱を開けて手に入るのは、彼がもう長年欲しがっていたものなのである。今手に入れなければ、いつ手に入れるのだ。
 しかし一方で、彼の心の中ではずっと、彼の良心が警鐘を鳴らしている。
 「だめだ。だめだ。我慢しろ。今自分に打ち克たなければ、この先一生後悔するぞ。」
 そう、今彼が欲しがっているのは、他でもない他人のものなのである。それを強引に奪い取るなんて、絶対にやってはいけない事なのだ。
 そこまで分かって箱は、本当は厚紙1枚分しかない薄い側面の向こうの音を伝えている。厚く重たい鉄板なんかじゃない、何の変哲もない紙の箱なのだ。だからこそ箱は彼を冷笑できた。
 彼にとって、箱は残酷な鬼そのものであった。


 「何やってんだよ!箱の持ち主はいないんだろ?こっそり見ちゃえよ!」
 その時、意地の悪い声がぼくの左肩から聞こえた。
 ずんっ、と今度は左肩が重くなり、見ると、頭に角を生やした赤茶のパジャマ姿の、やはり小さなぼくがいた。
「当人はいないんだろ?中身見ちゃえよぉ。」
 ぼくの左肩に腰かけて足をぶらぶらさせながら、悪魔のぼくがぼくをそそのかす。これはぼくの「悪の心の象徴」なんだろうか。
 すると、天使のぼくが注意した。
「だめだよ、他人に見られたくない物かもしれないだろ。」
 けれど、悪魔のぼくは言い返した。
「別によくね?他人に中身を見られるのが嫌だってことはさ、つまりは箱の持ち主に中身を見たって知られたらマズイんだろ?今中をのぞいたところで、秘密にしときゃあ絶対にバレねぇって。」
「そういう問題じゃないだろ。じゃあ君がもし同じことされたらどう思う?考えてみなよ。」
天使が悪魔を諭す。
「人の物をのぞくのはいけないことだよ。」
「へッ!オレは第一こんなところにこんな目立つ箱置いてその中に大事な物をしまったりなんてしねぇよ。そもそも放課後にわざと物を置いて帰るなんて、置き勉じゃねぇかよ!今開けられなくてもいずれ先生に見つかって勝手に開けられるのがオチだよ。」
「でも…だめだ!それでも、他人の物を勝手にのぞくなんて、ぼくの良心が許さない!」
「リョーシンー?お前、自分のことを正義のヒーローだとでも思ってんのか!」


 彼の中で、天使と悪魔が戦い始めた。
 思えば、この瞬間に出会うまでに並々ならぬ努力をしてきた。自らそれを手に入れる方法も探したし、またこれまでも他人のを当人に気付かれずに奪う事を何度も試みた。しかしその度に失敗し、偏見、軽蔑、恐怖の目に晒される事を恐れて急いで逃げた。人気のない所まで逃げて深呼吸をし、そしてその後に訪れる抑えようのない悔しさに悶え苦しんだ。今回このチャンスを逃して後に残る悔しさは、到底我慢できるものではないのではないだろうか。
 一方で、箱を開けてしまったら、他人を傷つけてまで何かを手に入れたという経験を持つ自分を一生責め続けて生きていかなければならないという運命も同時に背負う事になると思うと、そちらにも耐えられない気がした。
 欲望と良心の戦い。それは段々激しくなっていった。


 天使と悪魔の言い合いは、次第に互いのなじりあいへと化していった。
「ンだからさ、おまえは自分を優秀だとでも思ってんのかよ?」
「そんなこと言ってない!キミこそそんな身勝手な考え方しててぼくのこと言える身分なのか、ボケ!」
「あーあーあーあー言っちゃったー、人にボケとか言っちゃったー、そんな言葉づかいしててドコが天使なんですかねー!」
「うるせー!」
 静かだった教室に、包丁のようにぎすぎすした2人の暴言が飛びかう。その声は教室中を揺らし、ぼくはまさしく天国と地獄を高速で行き来しているような気分になってその場に倒れかけた。
 その時、
「うああああああああ!!」
箱から太い声が飛び出しふたが開いた。中には怪物のようなものがいて、そいつは電光石火の勢いで手を伸ばし、言い争っている天使と悪魔をつかんで泣き叫ぶ2人を握りながら箱の中に戻っていった。
 ぼくは驚いて、机にぶつかりながら教室から逃げ出した。
「ヒヒヒヒヒヒヒ」
後ろで気味の悪い声が聞こえたけれど、気にせず命からがら廊下を走った。


 「ヒヒヒヒヒ、ヒヒヒヒヒ」
 彼は笑った。笑いに笑った。最後に笑うのは俺だとばかりに笑った。
 今、彼の手の中には彼がずっと欲しがっていたものがある。人間の、天使と悪魔だ。
 彼は長年それが欲しかった。だからまず自分でそれを手に入れる方法を幾つも試した。しかし成果は得られなかった。
 それが人間の傍に超天文的な確率で現れると知ってからは、彼は何人もの人間のそばで彼らの様子を観察した。中には天使と悪魔が現れる人間もいたが、多くはその人間の周りに他の人間がいる時であり、当人にそれらの存在が見えていないにしても、臆病な彼にとって2人を強引に奪い取るのは困難な事だった。
 ところが、大チャンスを前にして奇しくも彼の心は揺らいだ。他人のものを取るという行為。それが自らの良心に反するのではないかと苦悶した。
 しかしそれは一瞬の気の迷いに過ぎなかったのだと、今は思っている。
 彼がどんなに悩んでも、今までは彼の傍に天使と悪魔はいなかった。でも、これからはいる。それが例え他人のものだとしても、彼にとって、いないよりは何倍も良い事なのだから。

 春子の机の天板を入相の光が焦がしている。箱の蓋は開ききり、ファンシーなデザインの4枚の側面に囲まれて、怪物は悪魔の勝利を祝って笑った。
 

 
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