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第10章 夏の階段
新資源
しおりを挟むそれはそれは、のどかな午後のことでした。
雲ひとつない、澄み切った青空が嬉しくて、スズキさんは大した用もないのに、スレートグレーのソフトハットとジャケットを身につけて住宅街を歩いていました。ご機嫌なスズキさんは周りで黄色い小鳥が1匹、まるでついてくるかのように飛び回って、ピチュン、ピチュンと鳴きわめいているのも気にしません。むしろ、この青空と小鳥の黄色のコントラストを気に入っているようです。こんな午後には町を歩いているだけでも、シトラスの香りがしてくる気がする。そう思いながらスズキさんが曲がり角を曲がると、そこに奇妙なものがありました。
細い道の真ん中に、黄色い半球状のものが浮いていたのです。スズキさんが近づいて見てみると、それは表面がすべすべしていました。そして下から覗き込んでみると、球の断面に当たる部分は白い輪郭を持った黄色い円で、しかもそれは縦、横、斜め二方向に走る白い線で8等分されていたのです。それでスズキさんは分かりました。これは半分に切ったグレープフルーツなのです。この爽やかな午後は、もしかしたらこのグレープフルーツからできているのかもしれない。ふとそんなことを思いました。よく見てみると、この果実の断面からは、ぽたり、ぽたりと果汁の滴が落ちています。スズキさんは慌てて、この果汁を無駄にするまいと何か容れ物になるものを探しましたが、両手に何も持たずに出てきてしまったため、仕方なく自慢のソフトハットを差し出しました。はじめのうちは果汁がソフトハットにしみ込んでゆくだけでしたが、不思議なことに五分もしないうちにだんだんとそれはクラウンに溜まり始め、やがて舌を出して舐めながら飲めるくらいにはなりました。スズキさんはそこで果汁をすくうのをやめ、顔をソフトハットに近づけて飲んでみることにしました。すると何ということでしょう。そのグレープフルーツのジュースは、ただの果汁ではありませんでした。今までスズキさんが飲んだことのない、苦みの全くない、爽やかな午後の空気を一杯に封じ込んだような、まさに今のスズキさんの気持ちにぴったりの味がしました。スズキさんは、これからもここに来れば毎日この爽やかな味を楽しめるのかと1人にこにこ頷き、また散歩に戻りました。
ところが、その様子を陰で見ていた男がいました。タナカさんです。彼は、ひとけのない細い路地で帽子を逆さにしてずっと立ち止まっている男のことが気になって仕方なかったのです。しかし今、タナカさんはその男のしていたことが分かりました。
「こうすればいいものを」
タナカさんはスズキさんが去ったのを確認すると、すぐさまグレープフルーツの真下まで飛んできて、その下で餌を待つ鯉のように大口を開けてしゃがみ込みました。グレープフルーツの果汁はタナカさんの口の中に1滴ずつ入っていきましたが、タナカさんは味がよく分かりません。それで、グレープフルーツの断面を舐めてしまおうと体を動かしたその時、
「ピチャ」
「いってえ!」
バランスを崩したタナカさんの左目に、果汁が1滴、落下したのです。その上タナカさんはその場で頭を激しく振り、頭頂部をグレープフルーツにぶつけてしまいます。それが何と、ものすごく痛いものだったのですから、
「何だこれ、……珍しいもんを見つけたと思ったら、俺に意地悪してくる上に、岩みてぇに堅ぇと来やがる。なかなか図太い野郎だな、覚えてろ……」
真っ赤に腫れた目でぼやけた黄玉を、タナカさんはうらめしげにみつめました。
その夜。路地はひっそりかんと静まりかえっていて、明るい午後とは違って塀や家々の壁はほとんど暗く塗りつぶされていました。道が入り組んで曲がり角が多いにも関わらず、四辻から四辻が遠く感じてしまうのは、時間帯のせいだろう。そう考えながら歩いているのは、タナカさんでした。彼は驚くべきことに、2頭の馬を連れていました。タナカさんは欲張りではありましたがお金持ちだったので、馬2頭の買い物など大したことではなかったのです。しかし彼は無鉄砲でもあったので、この馬たちをなだめるのに大変苦労しました。夜の住宅街では馬の荒い鼻息は五月蠅いいびきのごとくよく障るのです。
「ほら、し、静かにしろっ。これからお前たちには大事な仕事をしてもらわなきゃならねぇんだから」
実はタナカさんは、この馬たちの胴体に結びつけた綱を1本にねじり寄せ、さらにそれをグレープフルーツに結んで馬たちに引っ張らせることで、この魔法の果実を独り占めして持ち帰ろうとしていたのです。彼が夜を待ってから再びここに来たのは、周りの人影を気にしてのことでした。
果たして、あのグレープフルーツはまだ道の真ん中に浮かんでいました。タナカさんは綱を手際よく小さな果実に巻きつけましたが、何しろ綱は太いので結びつけることができません。あれこれ綱を動かしているうちに、やがてほどけて地面に落ちてしまいました。
「ウー。ザボンぐらいでかけりゃ縛りやすいんだがなあ」
それからタナカさんは、この綱を力まかせに割くと、細い糸の集まりに分けてから、それぞれをグレープフルーツに巻きつけて結ぶことにしました。タナカさんは無鉄砲でしたが、力が強かったので、それくらい大したことではありませんでした。しかし彼は粗野でもあったので、最後は、茶色い糸くずがセロハンテープで果実にベタベタ貼りつけられる始末となってしまいました。タナカさんは不細工な糸玉を眺めると、少し冷静になって、今一度それを押してみました。しかしやっぱり、糸玉はびくともせずに浮いたままでした。
タナカさんはこの時になって、その綱が馬の手綱だったことに気がつきましたが、もう後の祭りです。せっかく作業したのを元に戻したくなくて、彼は仕方なく自分の右手で2頭の馬の尻を平手打ちしました。
「ブルブルブルヒヒーン!!」
突然、一方の馬が駆け出したのを見て、もう一頭も走り出しました。尻を打たれて興奮状態の馬と、それを見て危険が迫っていると勘違いした馬。2頭が綱を引く力は強く、あっという間に張った綱が
「ビーン!」
と音を出すと、馬たちはいよいよ背後に見えない敵がいるのだと確信して、パニックになりました。2頭はそれぞれ全く逆の方向にかけずり出して、静かだった住宅街にも住民の訝しむ声、そして家々の灯りがちらほら……。
「こら! こら! お前たち! そんなに騒ぐんじゃない! 何だこのブチッブチッという音は、あー!!」
タナカさんが振り返ると、セロハンテープの仮止めが次々と跳ね上がり、地面に垂れ下がってゆくのが見えました。混乱したタナカさんが、今度は馬をグレープフルーツにぶつけさせてみようと馬の方へ走っていった時、
「ズヒヒイィ——ン!!」
2頭の馬が急に正面に頭を向け、今までの倍以上のスピードで路地の向こうへ走り去ってしまいました。見ると、馬とグレープフルーツをつないでいた「綱の残骸」は全てことごとくはがれ落ち、今、馬に引きずられたそれらはだらしないおさげ髪のようになってのたうち回っていたのです。タナカさんは頭を抱えてしまいましたが、2頭の暴れ馬はあっちこっちの塀や壁に激突して、ついには近くにいたおまわりさんがかけつけてくる事態になってしまいました。
翌日、スズキさんが鼻歌を口ずさみながらまた路地にやって来ると、そこには黄色い規制線が張られていて、警察官が往来していました。周りは黒山の人だかりで、スズキさんは様子をうかがうこともできません。しかし何とか、あのグレープフルーツに何があったのか知りたかったスズキさんは、来た道を戻って曲がり角を4回曲がり、もう一方の人だかりに行き着きました。そこからは規制線の中の様子が少しだけ見え、そこには……昨日の通り、小さなグレープフルーツが1つ、半分から上だけ、断面が下の状態で宙に浮かんでいました。スズキさんはほっとしたのもつかの間、グレープフルーツが他の人たちに見つかれば、すぐに各所機関や研究所の調査対象となり、爽やかな午後は脅かされることに気がつきましたが、もう後の祭りです。そのうち白衣を着た男の人がやって来て、グレープフルーツを白手でつかんだりしていました。けれどもやっぱりそれはその場を動くことはありませんでした。
「……とまあ、極めて、極めて衝撃的なニュースですが、これ、ヤハギさん、お聞きになっていかがですか?」
「いやもう目を疑うような光景ですよねぇ。これっ、これホントに無修正の映像なんですか?」
(司会者・コメンテーターたちの笑い声)
「いやァー……ちょおっと、信じられないようなこっですよねぇこれ。も前代未聞ですよこれ……ええほんとに。えぇ……」
「……シロイさんもぉー、いかがですか……」
「え、これほんとに信じられないような、もう目を疑うような今、現場の映像が入ってきていますけれども、これまあ私なんかは、一種の淘汰だと、思う訳ですね。えぇ。これ実は、昨夜0時頃にこのグレープフルーツを持ってっちゃおうと、独り占めしようと馬連れてきた人がいて大騒ぎになったって今、お話ありましたけども、そういう、こう自然に、自然に存在するものに抗おうとする人は、決してその恩恵に与ることはできない、逆にそれをそのままのものとして、そっと残しておくことができる人は、もしかしたらこの不思議なグレープフルーツの果汁を永遠にもらうことができるかもしれない」
「アー…………」
「いやちょっと考え過ぎかもしれませんけど、そもそもこうやってこういう場で議論してること自体、単なる邪推に終わるのかもしれませんけど、でも自然っていつもそういう存在、ただそこにある、それが全てである、そういう単純なことのような気がするんですよね。それがどんな形であろうと。そういう意味では、この1つのグレープフルーツは、これからの我々にとっての注目すべき新資源となり得る訳ですね」
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