大草原の少女イルの日常

広野香盃

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38. ラナさんの求婚 - 1

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 翌日は朝から天幕の解体作業だ。力仕事なので私は蚊帳の外である。兄さんが中心に成って母さんとラナさんが手伝っている。天幕はヤギルの皮と木の骨組みで出来ている。形は直径5メートルくらいの円形で、内部は大人が立って歩けるほど高い。木を傘の骨の様に放射状に組み合わせたものにヤギルの皮のシートを被せてある。皮のシートはともかく、木の骨組みは分解するにも組み立てるにも順番が有って、よく知っている人の指示の元に行わないと、途中で崩れたりして危険だ。分解した天幕は荷車に積み込みラクダルに引かせる。居住地では他の家族達も自分達の天幕を分解するのに忙しい。流石に今日はヤギルの放牧もない。それでも朝食後2時間余りで、居住地のすべての天幕が分解された。その後は家畜を入れて置く囲いを分解して荷車に積み込むと出発の準備は完了だ。長老の合図で一斉に出発する。目的地は西に半月ほど行った所。ここより少し草は少ないが、豊富な湧水があり水には困らない所らしい。目的地に着くまでは野宿することになる。まあ、これだけの人数が一緒なら野宿も怖くはない。私も生まれてこの方この様な移動は慣れている。

 移動に当たっては、もちろん全員が騎乗して歩く人は居ない。ラナさんは乗馬の経験が無いので、ヤラン兄さんと同じ馬に乗っている。私の馬はもちろんラダルだ。ラダルは初めての旅に興奮している様だ。トーラさん一家も私達と一緒に行くことに成った様で、自分達の馬に乗ってコーラルさん一家の一団に加わっている。このまま遊牧民として暮らして行くつもりなんだろうか? 都会暮らしの人達に私達の様な生活は大変だと思うが、アトル先生だって遊牧民として立派に暮らしているのだ、出来ない訳はないはずだ。

 移動の速度はヤギルに合わせる必要があるのでゆっくりだ。移動の間の食事はヤギルの乳と干し肉やチーズなどの携帯食糧が中心となる。いつもならナンも出発前に大量に焼いて持って来るのだが、今回は移動が急に決まったため用意出来ていない。もう少し街道から離れたらナンを焼く時間を設ける予定らしい。夜には地面の上にヤギルの皮のシートを引いて毛布に包まって眠る。夜の間大人達は交代で起きて見張りをしてくれている。いつオカミの群や盗賊が襲って来るかもしれないからだ。

 誰かが傍を通る気配に目が覚めた。夜だが今夜は月があるので割と明るい。目を向けるとコーラルさんだった、アトル先生とヤルさんも一緒だ。あっ、これから見張りをしてくれるんだと気付いた。3人は近くにある大きな岩の上に上り腰を下ろした。見張りをすると言っても私達はたき火なんかしない。この草原で木は貴重なのだ。まったく生えていない訳ではないが、木は切り倒すと草の様にすぐには生えてこない。たき火なんかに使ってしまうと、あっという間にこの平原から木が無くなってしまう。だから木を燃やすのは、この前オカミが襲って来た時に燃やした篝火の様に特別な場合だけだ。

 3人は岩の上で互いに背を向けて輪になり、全周囲を監視しながら話をしている。声が小さいのと距離があるので何を言っているのかまでは分からない。だけど、耳を澄ましていると、所々で単語が聞き取れる。「アトル...」、「.....」、「トワール...」。どうやら、トワール王国の内戦について話している様だ。ちょっと後ろめたかったが、長耳の魔法で話を聞いてみる。

「...でもアトル、本当に国に帰らなくても良いのか? 今ならカルルの言うように王様に成れるんじゃないか? 唯一人の王族なんだろう?」

これはヤルさんだ。

「そんなに簡単なものじゃないですよ。既に前王の王妃と宰相が次の王座を巡って争っているんです。僕が名乗り出たところで、王族を騙る偽者として殺されるのが落ちです。仮にどこかの貴族が味方してくれたとしても、王妃と宰相の争いに第三の勢力として僕が参戦することになるだけで、事態が良くなるどころか戦火を広げて、余計に国民を苦しめることになります。」

「そうか...俺には難しいことは分からんが、王族も大変なんだな。」

「正直悔しいです。このまま国民が苦しむのを見ているだけしか出来ないなんて...。僕にもっと力があれば...。」

「イルちゃんに頼んでみたらどうだ。すごい力を持っているんだろう? 王妃や宰相なんか簡単にやっつけてくれたりして。」

「それって、イルちゃんに人を殺してくれって頼むってことですよね。僕には出来ませんよ。ヤルさんは頼めますか?」

「...すまん。俺にも無理だわ。」

「当たり前だ。ラナイの愛娘にそんなこと頼んでみろ、俺が許さんからな!」

最後のはコーラルさんだな。良かった、そんなこと頼まれたって出来ないよ。でもアトル先生もトワール王国を何とかしたいと思っている様だ。手伝ってあげたいけど私に何が出来るだろう...。

 目が覚めるとシートの上で寝ているのは私ひとりだった。近くにいた母さんが、

「お早う、良く寝てたから起こさなかったの。きっと疲れたのね。」

と言って来る。しまった、コーラルさん達の話を聞いている内に寝てしまって、おまけに寝過ごした。

「お早う、母さん。兄さん達はヤギルの乳を搾りに行ったの?」

「ええ、もう帰って来る頃だと思うわ。」

ありゃ、これはずいぶん寝過ごしてしまった様だ。母さんに謝ると、

「偶にはいいわよ、イルはいつも頑張り過ぎなのよ。」

と言ってくれたが、それでも良心が痛む。寝過ごした原因がコーラルさん達の話を盗み聞きしていたからだからね。兄さんとラナさんにも謝らないと、と思ってヤギルの居る方向を見ると、ちょうどふたりが乳の入った缶を持って、こちらに向かって来るところだった。

「兄さん、手伝えずにごめ....」

と言いかけて、驚きのあまり言葉を飲み込んだ。横では母さんが胸の前で手を合わせて、「あらあら、まあまあ」と嬉しそうに呟いている。原因は兄さんの首に巻かれたハンカチだ。そのハンカチにはラナさんが一生懸命行っていた刺繍が映えている。ついにラナさんが兄さんに刺繍の入ったハンカチをプレゼントし、兄さんはそのハンカチを首に巻いたわけだ。それの意味するところは言うまでもない。

 母さんが兄さんとラナさんに抱き着いて、「おめでとう!」と言う。流石に兄さんも嬉しそうに顔を赤くしている。一方のラナさんは、母さんの言葉の意味が分からないのかキョトンとしている。しまった! ラナさんにハンカチの意味を説明していない! ラナさんが兄さんを好きなのは間違いないが、ハンカチに関しては、兄さんに対する感謝と迷惑を掛けたお詫びの意味でプレゼントしただけで、それに求婚の意味が含まれているなんて知る由もない。冷や汗が背中を流れる。どうしよう...そこまで考えてなかった。仕方が無い、こうなったら当たって砕けろだ。私はラナさんに駆け寄ると、少し屈んでもらって耳元でハンカチの意味を囁いた。途端にラナさんの顔が沸騰しそうなくらい真っ赤になった。
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