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第2話 「平民風情が」その言葉で私は目が覚めた
しおりを挟む翌朝、セシリアはまぶしい朝日に目を細めた。
薄く開いたまぶたの向こうに、木の天井が見える。知らない部屋だ。
昨日の記憶が一気に押し寄せる。婚約破棄、嘲笑、雨の街角、そして――リアム。
「おはようございます」
声の方へ視線をやると、リアムが小さなテーブルにパン籠を並べていた。
香ばしい香りが鼻をくすぐる。ハーブと小麦、そしてバターの香り。
「パンが焼けたばかりです。食べられますか?」
「……はい、ありがとうございます」
テーブルに近づくと、丸いパンが数個並べられていた。形は少し不ぞろいだが、どれもふかふかしていて美味しそうだ。
セシリアは手を伸ばし、恐る恐る一口かじった。外はほんのり香ばしく、中はやさしい甘さが広がる。
「……おいしい」
思わず漏れたその言葉に、リアムが照れくさそうに頭をかいた。
「よかった。見よう見まねで作ってるんです。師匠に叱られるくらい下手で」
「とんでもありません。私……こんなに温かいパンを食べたのは初めてです」
そう言うと、リアムは少し不思議そうに笑った。
「お屋敷ではもっと豪華な食事が並んでいたはずでしょう?」
「そうですね。でも……あの場所での食事は、味がなかったんです」
セシリアの声に、かすかな震えが混じっていた。思い出したくない昨日の出来事。
けれど、目の前に広がる香りと温もりが、不思議とその痛みを和らげていく。
リアムは彼女が食べ終えるのを待ち、柔らかく口を開いた。
「もし、帰る場所がないのなら、しばらくここにいてもいいですよ。店の裏に空き部屋が一つありますから」
「そんな……ご迷惑では?」
「困ったときはお互いさまって言うでしょう。手伝ってもらえたら助かりますし」
セシリアは少しだけ迷ったものの、結局うなずいた。
「ありがとうございます。せめて掃除くらいはさせてください」
「じゃあ、決まりですね。よろしくお願いします、セシリアさん」
リアムは笑った。その穏やかな表情に、胸の奥が温かいもので満たされていく。
***
パン屋の生活は、貴族の屋敷とはまるで別世界だった。
朝は早く、日が昇る前には火を起こす。粉をこね、水を量り、薪を足す。
セシリアは最初こそ戸惑ったが、器用で真面目な性格が功を奏した。
何度か失敗を重ねながらも、少しずつ店の仕事を覚えていった。
リアムはそんな彼女を決して笑わなかった。
「こね方が違うな」と言われても、彼の声はいつも優しかった。
「焦らなくていい。最初からうまくできる人なんていません」
その言葉が、何度もセシリアの心を支えた。
ある日、買い物帰りにパンの配達を頼まれた。
初めて一人で外を歩く。
バスケットを抱え、石畳の通りを抜けると、どこからか昔の知り合いの声が聞こえた。
「……セシリア様?」
振り向くと、見覚えのある顔があった。侯爵家の元メイド、クララだ。
社交界で噂を聞きつけたのだろう。彼女は驚きと軽蔑の入り混じった瞳でセシリアを見た。
「まさか、本当にパンを売ってるなんて……」
「ええ、そうです」セシリアは静かに答えた。
けれど、クララの唇がひどく下品に歪んだ。
「高慢なお嬢様の成れの果て、ってところね。お似合いですわ」
人通りのある通りで放たれた嘲笑。
通りすがりの人々の視線が、冷たく突き刺さる。
しかし、セシリアは顔を上げたままバスケットを抱きしめた。
「……そうですね。でも、今は幸せです」
「何を言ってるの?平民風情のくせに!」
その言葉に、心の奥で何かがはじけた。
昨日までなら、きっと俯いていた。何も言えず、涙をこぼしていただろう。
けれど今、彼女の胸に宿るのは別の感情だった。
「平民風情……。そうですね。でも、一つだけ違います」
セシリアははっきりとクララを見据えた。
「私は、自分の意志でここに立っています。だれかに許可をもらわなくても、ここにいる理由があります」
クララは一瞬怯んだように目をそらしたが、すぐに鼻で笑って背を向けた。
「惨めな負け犬が、何を言っても滑稽ですわね」
彼女が去ったあと、通りのざわめきがふたたび戻った。
セシリアはゆっくりと息を吐いた。
手の中のバスケットがずしりと重い。でも、その重みが心地よかった。
それは、誰に命じられるでもなく、自分の手で抱える重さだ。
***
夕暮れ、店に戻ると、リアムが笑顔で迎えてくれた。
「おかえりなさい。どうでした?」
「少し……嫌なことがありました。でも、大丈夫です」
「嫌なこと?」リアムは心配そうに眉を寄せる。
「昔の知り合いに、ちょっと笑われただけです」
「そういう人、いますよね」リアムは首を傾けて言った。
「でも、その人たちは、きっと今のセシリアさんを知らない。知ったら驚くと思いますよ」
「驚く、ですか?」
「ええ。立派なパン屋見習いで、朝も早起きできるし、粉まみれになるのも怖がらない人なんて、そうそういません」
おどけた調子でそう言われ、セシリアは思わず吹き出した。
リアムの作る空気はいつも優しい。沈んだ気持ちは、彼の言葉で不思議とほどけていく。
「私でも、少しは役に立てているのでしょうか」
「もちろん。いなかったら困りますよ」
「……そんなふうに言われたの、初めてです」
ぽつりとこぼれた言葉に、リアムは目を丸くした。
「今まで、ずっと“ふさわしくない”“足手まとい”と言われてきました」
「誰がそんなことを」
「……婚約者、だった人です」
リアムの瞳の奥に、静かな怒りの色が宿った。
「ひどいことを言う人ですね」
「でも、もうどうでもいいんです」セシリアは微笑んだ。
「今日、街で『平民風情が』って言われました。でも、そんな言葉にもう怯えません。だって、私は私の足で立っているから」
その言葉を聞いて、リアムはしばらく黙り込んだ。そして、小さく笑った。
「強いですね、セシリアさん」
「強くなんてありません。あなたが、支えてくれたからです」
リアムは照れくさそうに、頭をぽりぽりとかいた。
「僕は何もしてませんよ。ただ、一緒にパンを焼いてるだけです」
「それで、十分です」
セシリアはオーブンの中で焼けるパンを見つめた。
生地がこんがりきつね色に変わり、膨らんでいく。
まるで、自分自身の心が少しずつ膨らんでいくようだった。
「ねえ、リアムさん。私、もっといろんなパンを作ってみたいです」
「いいですね。じゃあ次は、ハーブパンに挑戦してみましょう」
「ハーブパン?」
「香草を混ぜて香りをつけるんです。コツは焦らないこと」
「焦らないこと……。それなら、少しは得意かもしれません」
二人の笑い声が、小さな店の中に温かく響いた。
雨の日の出会いからまだ二日。
それでも、セシリアの中では確かに何かが変わり始めていた。
そしてその夜、彼女は初めて夢を見た。
暗い広間ではなく、陽だまりの中で、焼きたてのパンを差し出す夢。
その向こうに、優しく微笑むリアムの姿。
(続く)
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