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贖罪と慈愛の果て
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傾き始めた日が俺の住んでいるマンションを照らしている。
なんの変哲もない光景であるが、妙な胸騒ぎがするのは気のせいなのか。
オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込む。自分の家の階のボタンを押して到着を待った。
ちらりとスマホの画面を見る。特にメッセージなどは受信していない。
念の為、アプリを開いて確認するが、新規メッセージはもちろん、既読すら付いていなかった。
(うーん、なんだかなぁ……)
釈然としない思いを胸に、小さくため息をつくとエレベーター扉が開いた。
静かで無機質な廊下に降り立つ。
俺の家はこの階の角部屋だ。いつものように廊下の端まで歩いていき、玄関のドアを解錠……しようとした時だった。
(ん……? なんの音だ……?)
扉の向こう側から、ドタドタと荒々しい足音のような音が聞こえてくる。階下の人に迷惑であろうレベルの物音だった。翔子がそんな足音を立てるはずがない。
怪訝に思っていると、今度は何かを叫ぶような声まで聞こえてきた。何を言っているかまでは聞き取れないが、その声は間違いなく女の声、翔子のものに違いなかった。
(まさか……強盗っ!?)
一瞬にして、俺の体が硬直した。強盗が押し入って翔子を拘束しているのではないかと思ったからだ。
どうするべきだろうか。俺は混乱してしまった頭で瞬時にことを考える。とりあえず警察に連絡するしかない。
スマホを取り出し緊急通報をタップする。そして、表示された110に指を重ねようとした、その時だった。
「ーーーーっ!」
今度はまた別の女の叫び声が聞こえてきた。その声は翔子とは明らかに異なる女のものだった。そして、翔子と同じく毎日俺が聞いている声。
間違いなく芽衣子のものだった。
一体何が起きているのか。全く想像もつかない。なぜ俺の家から翔子と芽衣子の声が響いて、荒々しい物音が漏れているのだ。
俺はスマホをポケットにしまい込むと、急いで鍵をかけた。勢いよく扉を開く。
玄関には2つの靴。それぞれがひっくり返ったりバラバラになった状態でそこにはあった。
明らかに異常な光景だ。
「ふざけるんじゃないわよっ!!」
呆然としていると、部屋の奥から怒号が響いてきた。間違いなく翔子の声だ。
「ごめんなさいっ! ほ、ほんとにごめんなさいっ!」
続いて聞こえてくるのは芽衣子のものだった。その声は必死で悲痛さが滲んでいる。
その声にハッとして、俺は急いで靴を脱ぐ。乱暴にドアに鍵をかけ、一目散にリビングへと向かった。
盛大な音を立て、開けたドアの向こうに広がっていた光景。
それはあまりにも衝撃的で理解するには難しかった。
リビングの壁際に沿うように置かれたダイニングチェア。そこにビニール紐で乱雑に縛られた芽衣子がいた。
俺が気に入っているシルクのような黒髪はすっかり乱れてボサボサになっている。身につけている学校の制服も同じく乱れて、シワだらけになってしまっていた。
そして何より彼女の表情。端正な顔は涙に濡れて、両の頬が赤くなっている。それは羞恥や上気とは全く異なる染まり方で、一目で叩かれた故のものだとわかった。
そして、芽衣子を見下ろすように正面で仁王立ちしている翔子がいた。彼女は俺が入ってきたにもかかわらず、まるで気づいていないかのようにこちらを振り向こうとしない。肩が上下に大きく揺れている。呼吸も激しく荒々しい。翔子が激怒の最中にいるのは明らかだった。
予想だにしない光景に、俺はただただ目を見開く。なぜ芽衣子が家にいるのか、そしてなぜ縛られて翔子に折檻を受けているのか、まったくもって理解ができない。思考が追い付かずに立ち尽くすしかなかった。
「きょ、京介……くん……」
弱々しい声で俺を呼ぶ芽衣子。乱れた黒髪の間から、充血した瞳がこちらを向く。助けを求めるかのような視線は、縛られた姿と相まって俺の胸を痛いほどに抉った。
しかし、その瞬間、目の前に立っている翔子の体が大きく震えた。激情を表すように大きく息を吸い込む。
「気安く名前呼んでるんじゃないわよ!!」
空気を震わせるほどに絶叫した瞬間に、右手を大きく振り上げた。俺がはっとしたときにはもう遅かった。振り上げた右手が芽衣子の左頬を直撃する。バシンっ、と破裂するような嫌な音が部屋中に響き渡る。
「お、おいっ! やめろよっ!」
我に返った俺は、一目散に芽衣子のもとへと駆け寄った。
「芽衣子、大丈夫かっ?」
何一つとして理解ができぬままに、うなだれる芽衣子の肩を抱きながら彼女の顔を覗き込んだ。
「……うぅ……」
こらえる様な悲痛なうめき声を漏らしつつ、彼女は力なく一度だけ首を頷かせる。翔子のにぶたれた左頬が痛々しく赤に染まっている。均衡のとれた顔が苦痛に歪み、瞬きをするごとに左右の瞳から涙の雫が滴った。
あまりに凄惨な姿に、俺は焦りを覚えつつもどうしていいかわからず、ぼさぼさになった黒髪を撫でつつ、彼女を抱きしめた。答えるかのように彼女は俺の胸元に顔を押し付けてくる。決して泣き声はあげないものの、ぐしぐしと鼻をすすり、しゃくりあげるように不規則に肩を震わせていた。
「姉さん……なんてことしてるんだ……っ!」
芽衣子を抱きかかえながら、俺は怒りを込めて翔子を振り返った。
「…………」
翔子は何も答えない。ただただ、激情を燃やし続ける瞳でこちらを睨みつけてくるだけだった。
その表情には、怒りと憎悪しか感じられなかった。敵対心をむき出しにしたおぞましいほどの負の感情がぶつけられ続ける。姉弟の俺でさえ恐ろしいと思うのだ。赤の他人である芽衣子にはトラウマになりかねないほどの恐怖であっただろう。
自分の恋人を一方的に痛めつける卑劣な行為に、俺の怒りは徐々にボルテージを上げていく。何も言わず、ただ見下ろしてくるだけの翔子の様子も、火に油をそそいだ。
「おいっ! 何か言ったらどうなんだよ! 自分が何してるのかわかってるのかっ!」
自分の目元が激怒に歪んでいるのがわかった。これまで一度として向けたことがない怒りに満ちた視線で翔子を睨みつける。
「復讐」
「は?」
ポツリとつぶやかれた一言に、俺は素っ頓狂な返事しかできなかった。またしても理解が出来ない。
「復讐ってなんのことだよ?」
怒気を隠さず俺は尋ねた。仁王立ちを続ける翔子はそれに表情一つ変えずに口を開く。
「この女……京介の彼女だって言うけど……違うでしょ、あの女じゃない」
その声は徐々に震えが伴っていた。肩をわなわなと震わせて、両方の手で拳を作る。
「あの、中学校の頃に京介に散々ひどいことしてきた女じゃない!!」
憎悪と悲痛が混ざったような激情を迸らせる。極端に歪んだ表情は、俺の記憶の限りでは見たことがないものだった。思わず呆気にとられてしまう。
「ほ、ほんとにごめんなさい……私が……私がバカだったんです……」
涙声で呟く芽衣子。怒鳴られぶたれ続けたにも関わらず、少しも抵抗する素振りはない。
芽衣子の言葉は翔子の耳にも届いているはずだが、彼女は完全に無視をしているかのように何も答えない。ただ、湧き上がっている怒りに体を震わせて、荒く呼吸を繰り返すのみだった。
「なんで知ってるんだ……芽衣子のこと……?」
俺が一番理解できないことはそれだった。確かに中学生のころ、俺にあらぬ噂を焚き付けたのは芽衣子である。しかし、それを翔子に言ったことは一度もない。
翔子がふんと鼻を鳴らして言葉を返す。
「私だって馬鹿じゃないわ。あなたが当時、どんなことをされていたかくらいは把握していたのよ。その原因がどんな内容で……誰が焚き付けたかってことくらいはね」
怒りに染まった相貌がギロリと芽衣子を射抜いた。
俺は唖然としてしまった。そこまで知っていたとは思わなかったのだ。俺を貶めていたのが芽衣子であることを知っているとは思わなかった。
「私が全部悪かったんです……すみません……ごめんなさい……私のこと、許せなくても当たり前だと思います……」
涙で震える声でたどたどしく芽衣子は呟く。しかし、言葉を一拍置いたかと思うと、俺の胸に埋めていた顔を動かし、翔子を見据えた。
「でも……私は……今の私は、京介くんが好きなんです。好きで好きでたまんないんですっ!」
涙を浮かべながらも、その瞳はまっすぐに翔子に向けられていた。言葉には一点の曇りも感じられなかった。ただただ本心をぶつけている。それは、俺が当事者だからではなく、単純に端から聞いていてそう感じることができた。
しかし、その言葉と同時に、翔子の目つきが一層険しくなる。敵対する相手に襲い掛からんとする野生動物のような睨みを芽衣子に突き刺していた。
「よくも……そんなことをしゃあしゃあと……」
湧き上がる怒りに尽きる様子は見られなかった。再び翔子の右手が拳をつくり、俺たちのほうへと一歩近づく。
「姉さん、もうやめろ。暴力振るうのは違うだろ」
たまらず芽衣子を殴打しかねない翔子の右手を抑える。小刻みに震えるそれを握って押さえつけた。
怒りに燃える翔子の瞳が今度は俺をとらえる。
「違うって……全然違くないわよ。あなた、自分が中学の頃にされたこと、忘れたわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ覚えてるよ。覚えているけど、あれは仕方がないことなんだよ。姉さんだって、下着盗まれて、その犯人と思われる人間がいたらそいつのこと軽蔑するでしょ」
「だからって、京介がそんなことするはずないじゃない! それをこの女は頭の悪い勘違いして好き放題して……絶対許さない……っ!」
吐き捨てるようにそういうと、俺の制止を振り切ろうと体をじたばたと振り乱し始める。
「離してよ! 私、絶対許さない! 徹底的にこの女、痛めつけてやるんだから! あんなひどいことしておいて恋人だって? 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
華奢な体のどこから湧き上がるのか、翔子は俺の拘束から逃れようと必死でもがき続けて怒鳴り散らす。普段の彼女からは想像もできない姿だった。
「だから! 俺はそんなこと気にしてないんだって! 俺にとって彼女は大切にしたい恋人なんだよ!」
「京介に言っていないの! 私はこのバカ女に言ってるの! 離してよ! 徹底的に何度でもぶん殴ってやる!」
「いい加減にしろっ!」
俺は渾身の力で翔子の両腕を抑えて正面に見据えた。今まで一度として姉に向けたことのない怒鳴り声に、彼女は目を見開いて驚愕する。
「……俺も、彼女が……芽衣子が好きなんだ。姉さんが俺のことを想ってくれているのは痛いほどわかるよ。けど、それは当事者の俺にとってはどうでもいいことなんだ。芽衣子は自分の過ちを素直に認めて、俺と接しているうちに好きになってくれたんだ。それだけのことだし、俺はそれで充分すぎるほど満足しているし幸せだよ。だから……姉さんがそんな風に彼女を痛めつけるのは許せない。そんな姉さんを俺は見たくないよ」
努めて冷静に、言い聞かせるように俺は言った。普段なら赤面してとても言えるようなことではないが、状況が状況のせいなのか、じぶんでも驚くほど滑らかに言葉が出てきた。
対して、翔子は目を見開き続けている。信じられないといった感で俺を凝視し、乱暴に身をよじっていた力は完全に消え失せていた。
わかってくれたのだろうか。それならば、一件落着である。気張ってしまっていた体から力を抜き、俺はふぅ、と一つ息を吐いた。
なんの変哲もない光景であるが、妙な胸騒ぎがするのは気のせいなのか。
オートロックのエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込む。自分の家の階のボタンを押して到着を待った。
ちらりとスマホの画面を見る。特にメッセージなどは受信していない。
念の為、アプリを開いて確認するが、新規メッセージはもちろん、既読すら付いていなかった。
(うーん、なんだかなぁ……)
釈然としない思いを胸に、小さくため息をつくとエレベーター扉が開いた。
静かで無機質な廊下に降り立つ。
俺の家はこの階の角部屋だ。いつものように廊下の端まで歩いていき、玄関のドアを解錠……しようとした時だった。
(ん……? なんの音だ……?)
扉の向こう側から、ドタドタと荒々しい足音のような音が聞こえてくる。階下の人に迷惑であろうレベルの物音だった。翔子がそんな足音を立てるはずがない。
怪訝に思っていると、今度は何かを叫ぶような声まで聞こえてきた。何を言っているかまでは聞き取れないが、その声は間違いなく女の声、翔子のものに違いなかった。
(まさか……強盗っ!?)
一瞬にして、俺の体が硬直した。強盗が押し入って翔子を拘束しているのではないかと思ったからだ。
どうするべきだろうか。俺は混乱してしまった頭で瞬時にことを考える。とりあえず警察に連絡するしかない。
スマホを取り出し緊急通報をタップする。そして、表示された110に指を重ねようとした、その時だった。
「ーーーーっ!」
今度はまた別の女の叫び声が聞こえてきた。その声は翔子とは明らかに異なる女のものだった。そして、翔子と同じく毎日俺が聞いている声。
間違いなく芽衣子のものだった。
一体何が起きているのか。全く想像もつかない。なぜ俺の家から翔子と芽衣子の声が響いて、荒々しい物音が漏れているのだ。
俺はスマホをポケットにしまい込むと、急いで鍵をかけた。勢いよく扉を開く。
玄関には2つの靴。それぞれがひっくり返ったりバラバラになった状態でそこにはあった。
明らかに異常な光景だ。
「ふざけるんじゃないわよっ!!」
呆然としていると、部屋の奥から怒号が響いてきた。間違いなく翔子の声だ。
「ごめんなさいっ! ほ、ほんとにごめんなさいっ!」
続いて聞こえてくるのは芽衣子のものだった。その声は必死で悲痛さが滲んでいる。
その声にハッとして、俺は急いで靴を脱ぐ。乱暴にドアに鍵をかけ、一目散にリビングへと向かった。
盛大な音を立て、開けたドアの向こうに広がっていた光景。
それはあまりにも衝撃的で理解するには難しかった。
リビングの壁際に沿うように置かれたダイニングチェア。そこにビニール紐で乱雑に縛られた芽衣子がいた。
俺が気に入っているシルクのような黒髪はすっかり乱れてボサボサになっている。身につけている学校の制服も同じく乱れて、シワだらけになってしまっていた。
そして何より彼女の表情。端正な顔は涙に濡れて、両の頬が赤くなっている。それは羞恥や上気とは全く異なる染まり方で、一目で叩かれた故のものだとわかった。
そして、芽衣子を見下ろすように正面で仁王立ちしている翔子がいた。彼女は俺が入ってきたにもかかわらず、まるで気づいていないかのようにこちらを振り向こうとしない。肩が上下に大きく揺れている。呼吸も激しく荒々しい。翔子が激怒の最中にいるのは明らかだった。
予想だにしない光景に、俺はただただ目を見開く。なぜ芽衣子が家にいるのか、そしてなぜ縛られて翔子に折檻を受けているのか、まったくもって理解ができない。思考が追い付かずに立ち尽くすしかなかった。
「きょ、京介……くん……」
弱々しい声で俺を呼ぶ芽衣子。乱れた黒髪の間から、充血した瞳がこちらを向く。助けを求めるかのような視線は、縛られた姿と相まって俺の胸を痛いほどに抉った。
しかし、その瞬間、目の前に立っている翔子の体が大きく震えた。激情を表すように大きく息を吸い込む。
「気安く名前呼んでるんじゃないわよ!!」
空気を震わせるほどに絶叫した瞬間に、右手を大きく振り上げた。俺がはっとしたときにはもう遅かった。振り上げた右手が芽衣子の左頬を直撃する。バシンっ、と破裂するような嫌な音が部屋中に響き渡る。
「お、おいっ! やめろよっ!」
我に返った俺は、一目散に芽衣子のもとへと駆け寄った。
「芽衣子、大丈夫かっ?」
何一つとして理解ができぬままに、うなだれる芽衣子の肩を抱きながら彼女の顔を覗き込んだ。
「……うぅ……」
こらえる様な悲痛なうめき声を漏らしつつ、彼女は力なく一度だけ首を頷かせる。翔子のにぶたれた左頬が痛々しく赤に染まっている。均衡のとれた顔が苦痛に歪み、瞬きをするごとに左右の瞳から涙の雫が滴った。
あまりに凄惨な姿に、俺は焦りを覚えつつもどうしていいかわからず、ぼさぼさになった黒髪を撫でつつ、彼女を抱きしめた。答えるかのように彼女は俺の胸元に顔を押し付けてくる。決して泣き声はあげないものの、ぐしぐしと鼻をすすり、しゃくりあげるように不規則に肩を震わせていた。
「姉さん……なんてことしてるんだ……っ!」
芽衣子を抱きかかえながら、俺は怒りを込めて翔子を振り返った。
「…………」
翔子は何も答えない。ただただ、激情を燃やし続ける瞳でこちらを睨みつけてくるだけだった。
その表情には、怒りと憎悪しか感じられなかった。敵対心をむき出しにしたおぞましいほどの負の感情がぶつけられ続ける。姉弟の俺でさえ恐ろしいと思うのだ。赤の他人である芽衣子にはトラウマになりかねないほどの恐怖であっただろう。
自分の恋人を一方的に痛めつける卑劣な行為に、俺の怒りは徐々にボルテージを上げていく。何も言わず、ただ見下ろしてくるだけの翔子の様子も、火に油をそそいだ。
「おいっ! 何か言ったらどうなんだよ! 自分が何してるのかわかってるのかっ!」
自分の目元が激怒に歪んでいるのがわかった。これまで一度として向けたことがない怒りに満ちた視線で翔子を睨みつける。
「復讐」
「は?」
ポツリとつぶやかれた一言に、俺は素っ頓狂な返事しかできなかった。またしても理解が出来ない。
「復讐ってなんのことだよ?」
怒気を隠さず俺は尋ねた。仁王立ちを続ける翔子はそれに表情一つ変えずに口を開く。
「この女……京介の彼女だって言うけど……違うでしょ、あの女じゃない」
その声は徐々に震えが伴っていた。肩をわなわなと震わせて、両方の手で拳を作る。
「あの、中学校の頃に京介に散々ひどいことしてきた女じゃない!!」
憎悪と悲痛が混ざったような激情を迸らせる。極端に歪んだ表情は、俺の記憶の限りでは見たことがないものだった。思わず呆気にとられてしまう。
「ほ、ほんとにごめんなさい……私が……私がバカだったんです……」
涙声で呟く芽衣子。怒鳴られぶたれ続けたにも関わらず、少しも抵抗する素振りはない。
芽衣子の言葉は翔子の耳にも届いているはずだが、彼女は完全に無視をしているかのように何も答えない。ただ、湧き上がっている怒りに体を震わせて、荒く呼吸を繰り返すのみだった。
「なんで知ってるんだ……芽衣子のこと……?」
俺が一番理解できないことはそれだった。確かに中学生のころ、俺にあらぬ噂を焚き付けたのは芽衣子である。しかし、それを翔子に言ったことは一度もない。
翔子がふんと鼻を鳴らして言葉を返す。
「私だって馬鹿じゃないわ。あなたが当時、どんなことをされていたかくらいは把握していたのよ。その原因がどんな内容で……誰が焚き付けたかってことくらいはね」
怒りに染まった相貌がギロリと芽衣子を射抜いた。
俺は唖然としてしまった。そこまで知っていたとは思わなかったのだ。俺を貶めていたのが芽衣子であることを知っているとは思わなかった。
「私が全部悪かったんです……すみません……ごめんなさい……私のこと、許せなくても当たり前だと思います……」
涙で震える声でたどたどしく芽衣子は呟く。しかし、言葉を一拍置いたかと思うと、俺の胸に埋めていた顔を動かし、翔子を見据えた。
「でも……私は……今の私は、京介くんが好きなんです。好きで好きでたまんないんですっ!」
涙を浮かべながらも、その瞳はまっすぐに翔子に向けられていた。言葉には一点の曇りも感じられなかった。ただただ本心をぶつけている。それは、俺が当事者だからではなく、単純に端から聞いていてそう感じることができた。
しかし、その言葉と同時に、翔子の目つきが一層険しくなる。敵対する相手に襲い掛からんとする野生動物のような睨みを芽衣子に突き刺していた。
「よくも……そんなことをしゃあしゃあと……」
湧き上がる怒りに尽きる様子は見られなかった。再び翔子の右手が拳をつくり、俺たちのほうへと一歩近づく。
「姉さん、もうやめろ。暴力振るうのは違うだろ」
たまらず芽衣子を殴打しかねない翔子の右手を抑える。小刻みに震えるそれを握って押さえつけた。
怒りに燃える翔子の瞳が今度は俺をとらえる。
「違うって……全然違くないわよ。あなた、自分が中学の頃にされたこと、忘れたわけじゃないんでしょ?」
「そりゃ覚えてるよ。覚えているけど、あれは仕方がないことなんだよ。姉さんだって、下着盗まれて、その犯人と思われる人間がいたらそいつのこと軽蔑するでしょ」
「だからって、京介がそんなことするはずないじゃない! それをこの女は頭の悪い勘違いして好き放題して……絶対許さない……っ!」
吐き捨てるようにそういうと、俺の制止を振り切ろうと体をじたばたと振り乱し始める。
「離してよ! 私、絶対許さない! 徹底的にこの女、痛めつけてやるんだから! あんなひどいことしておいて恋人だって? 人を馬鹿にするのもいい加減にしなさいよ!」
華奢な体のどこから湧き上がるのか、翔子は俺の拘束から逃れようと必死でもがき続けて怒鳴り散らす。普段の彼女からは想像もできない姿だった。
「だから! 俺はそんなこと気にしてないんだって! 俺にとって彼女は大切にしたい恋人なんだよ!」
「京介に言っていないの! 私はこのバカ女に言ってるの! 離してよ! 徹底的に何度でもぶん殴ってやる!」
「いい加減にしろっ!」
俺は渾身の力で翔子の両腕を抑えて正面に見据えた。今まで一度として姉に向けたことのない怒鳴り声に、彼女は目を見開いて驚愕する。
「……俺も、彼女が……芽衣子が好きなんだ。姉さんが俺のことを想ってくれているのは痛いほどわかるよ。けど、それは当事者の俺にとってはどうでもいいことなんだ。芽衣子は自分の過ちを素直に認めて、俺と接しているうちに好きになってくれたんだ。それだけのことだし、俺はそれで充分すぎるほど満足しているし幸せだよ。だから……姉さんがそんな風に彼女を痛めつけるのは許せない。そんな姉さんを俺は見たくないよ」
努めて冷静に、言い聞かせるように俺は言った。普段なら赤面してとても言えるようなことではないが、状況が状況のせいなのか、じぶんでも驚くほど滑らかに言葉が出てきた。
対して、翔子は目を見開き続けている。信じられないといった感で俺を凝視し、乱暴に身をよじっていた力は完全に消え失せていた。
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