長編版・不能の公爵令息は婚約者を愛でたい(が難しい)

たたら

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55:わたくしのぼっちゃま・2

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「あんにゃ」

「はい、アンナでございます」

「……いっちょ?」

「はい。一緒でございますよ」

あの時のわたくしは、
乳母か、奥様付きの侍女が来られるまでの間、
ずっとご一緒いたします、
そのつもりで申し上げたのでございました。

ぼっちゃまが少しでも安心なさるように、

「大丈夫でございます、ずっと一緒でございますよ」

そうお伝えしたのでございます。

けれど、それはわたくしが
このお屋敷を去るまでの間、
という意味でございました。

ですが。

ほどなくして、
わたくしとぼっちゃまの声に気づいた執事が、
階段下でわたくしたちを見つけ出し、
ぼっちゃま捜索は、
無事に終了いたしました。

そのはずでございましたのに。

なぜか、ぼっちゃまは、
わたくしの手を離そうとなさいませんでした。

奥様が、
侍女長が、
どれほど優しく声をかけても、
ぼっちゃまはわたくしの手をぎゅっと掴み、

「あんにゃ、いっちょ!」

そうおっしゃって、
小さく首を振られるのです。

そのあまりの愛らしさに、
わたくしはすでに完全に、
心を奪われておりました。

そして、その後でございます。

奥様がわたくしをお呼びになり、
ぼっちゃま付きの侍女になる気はないか、と
お尋ねくださいました。

わたくしは、これまでの事情をすべてお話しし、
すでに平民になっているかもしれない自分が、
バーンズ侯爵家で働く資格はないのではないか、
そう申し上げたのでございます。

ですが、奥様は静かに微笑まれ、
「構いませんよ」と、おっしゃいました。

このまま侍女見習いとして
バーンズ侯爵家に滞在してもよいこと、

場合によっては、
学院へ通うための援助も考えてくださること。

ただし、条件は一つ。

ぼっちゃまの側付きであること。

わたくしは、その条件を、
迷うことなく受け入れました。

わたくしはそのまま、
バーンズ侯爵家にとどまりました。

子爵家へは戻らなかったので、
修道院行きががどうなったのか、

わたくしが貴族籍から外されたのかどうか、
何ひとつ、わからぬままでございました。

ただ、奥様が旦那様に
口添えをしてくださり、
「何も問題はありませんよ」とだけ
お伝えくださいました。

そして、わたくしは、
ぼっちゃまが二歳の頃から、
ずっとおそばでお守りすることとなったのです。

お食事も、
お着替えも、
湯あみも、
遊びも、
お勉強も。

すべて、わたくしがお供いたしました。

最初のうちは、
見習いでございましたので、
先輩侍女たちとご一緒でしたが、
次第に仕事を覚え、
一人でぼっちゃまのお世話を
任せていただけるようになりました。

また、奥様のご推薦により、
わたくしは貴族院ではなく、
侍女専用の訓練所へ通うことを
お許しいただきました。

そこは、高位貴族に仕える侍女だけが通う、
学校のような場所でございます。

授業料も非常に高く、
けれど、卒業できれば
公爵家の侍女長にもなれると
噂されるほどの場所。

下位貴族の娘たちが
こぞって憧れる訓練所に、
奥様は、わたくしを推薦してくださったのです。

わたくしは、
決して奥様のお顔に泥を塗らぬよう、
必死に努めました。

訓練所で学ぶのは、
礼儀作法だけではございません。

一般教養だけでなく、
語学、薬学といった
お仕えする方に
何かあった場合に
対処するすべを学びました。

護身術、
乗馬、
そして、感情のコントロールの仕方まで。

すべては、
ぼっちゃまのお側で、
確実にお守りするため。

わたくしは心血を注ぎ、
ぼっちゃまが快適に、
安全にお過ごしになれるよう、
あらゆることを学びました。

おそらく、ぼっちゃまは、
わたくしが訓練所へ通っていたことなど、
知らされていなかったことでしょう。

ただ、訓練で怪我をして戻るたび、
ぼっちゃまは心配そうに、

「いたい?」
「どうしたの?」
「ぼくが、やっつけてあげる」

などと、
とても可愛らしい言葉を
かけてくださいました。

それだけで、
わたくしの痛みなど消え失せ、
「このお方をお守りしよう」
そう、心に誓ってしまうのでございます。

そして気づけば、
わたくしも二十五歳になっておりました。

結婚をするつもりは、ございません。

もともと、修道院へ行っていれば、
結婚など叶わなかったはずなのです。

両親が亡くなったあの日、
わたくしの子爵令嬢としての未来は、
すべて消えた。

わたくしは、そう思っております。

本当は、わたくしが成人した年に、
旦那様が一度だけ、
亡き両親の爵位を継ぐ気はないかと、
お尋ねくださったことがございます。

どうやら叔父――
正確には、叔父が婿入りした元男爵家が、
子爵位を得て増長し、
かなりの問題を起こしたようでございました。

取り潰しか、
それとも、わたくしが継ぐか。

選択は、わたくしに委ねられると
おっしゃってくださいました。

けれど、わたくしは
実家を継ぐよりも、
ぼっちゃまのお側にいることを
選びました。

わたくしは、
バーンズ侯爵家における、
唯一のエレミアスぼっちゃま専属侍女でございます。

旦那様は、
「侯爵家で務める以上、
身分はあった方がよいだろう」と、
領地は国へ返還し、
わたくしの貴族籍だけを残すよう、
陛下に進言すると
おっしゃってくださいました。

けれど、その後のことは、
わたくしは何も伺っておりません。

と申しますのも、
奥様に、
「過去のことはすでに忘れました。
どうか、良きようにしてくださいませ」
そう、お伝えしたからでございます。

ぼっちゃまのお側に、
子爵という身分が必要であれば、
わたくしは名を継ぎましょう。

必要ないのであれば、
平民であっても構いません。

わたくしの望みは、
ただ一つ。

ぼっちゃまのお側で
お仕えすること。

それだけでございます。

奥様は、わたくしの言葉を聞き、
「エレミアスを、よろしくね」
そう言ってくださいました。

それだけで、十分でございました。

わたくしは、生涯、
ぼっちゃまにお仕えいたします。

ぼっちゃまがご結婚なさらぬのであれば、
この屋敷で一生お仕えするつもりでしたし、

たとえ別の場所へ行かれることがあっても、
どこまでも、お供する覚悟でございました。

奥様にも、旦那様にも、
深い感謝と御恩を感じております。

けれど、
わたくしの中心にいるのは――
エレミアスぼっちゃまでございます。

ぼっちゃまのためならば、
わたくしは、何でもいたしましょう。

あの時。
絶望の底で見つけた光。

わたくしの手を握り、
闇に沈みかけた心を
救い上げてくださったのは
小さな、可愛らしい天使様でございました。

そして、ぼっちゃまは―
順調にすくすくと……
とは言い難いものの、
確かに、ご成長なさいました。

それはそれは、
愛らしく、美しく、
天使様のように、
無垢で、尊く。

熱を出されるたび、
ぼっちゃまはわたくしの名を呼び、
「そばにいて」と、
美しい緑の瞳で見つめてくださいます。

お食事の介助の折には、
「アンナがいると、うれしい」
そう、言ってくださるのです。

エレミアスぼっちゃまは
天使様……いえ。

わたくしだけの、神様でございます。

すべてを捧げて、生きていこう。
そう、心に決めました。

そのため、わたくしは
専属侍女として、
感情を表に出さぬ訓練にも
特に力を入れました。

わたくしの表情一つで、
ぼっちゃまの状態や心情が、
外部に漏れてしまう可能性があるからです。

他家の者が、
どこから入り込むか
それは、誰にもわかりません。

バーンズ侯爵家の権力は絶大ですが、
同時に、敵も多うございます。

旦那様も、奥様も、兄君様も、
ぼっちゃまを屋敷の外へ出されないのは、
お体が弱いからだけではございません。

ぼっちゃまが侯爵家の弱点となり得るからでございます。

すべての愛を一身に受ける
エレミアスぼっちゃまは、
バーンズ侯爵家にとって、
唯一にして最大の弱点。

だからこそ、
わたくしは、ぼっちゃまをお部屋に留め、
外の世界に興味を持たれぬよう、
そっと導いておりました。

そうして、ぼっちゃまが七歳になられた頃でしょうか。

バーンズ侯爵家の政敵が、
次々と没落いたしました。

何があったのかは、
わたくしには存じません。

庭へ出る許可が下り、
家庭教師がつき、
屋敷の警備は、わずかに緩みました。

外部の人間が、
このタウンハウスへ
出入りするようになったのです。

やがて、
旦那様と奥様は領地に滞在なさるようになり、
ぼっちゃまは貴族院へ入学されました。

ゆっくりと――
ぼっちゃまの世界は、広がっていきました。

けれども、
何が変わろうとも、
わたくしは、ぼっちゃまの専属侍女。

なすべきことは、変わりません。

お側で、
ただ、お守りする。

それだけ――
のはずでございました。

ですが。

エレミアスぼっちゃまに、
婚約者ができてしまったのです。

しかも、お相手は
公爵家の次男様。

さらに、さらに。

ぼっちゃまが、
バーンズ侯爵家を継がれるというでは
ございませんか。

顔には出さぬよう努めましたが、
さすがのわたくしも、
話を聞いたときは動揺いたしました。

けれど、ぼっちゃまが、次期当主。

それは、あまりにも、嬉しすぎるお話。

わたくしは、これまで以上に、
誠心誠意、
お仕えしようと心に決めました。

大切なお体を、
この手でお守りしなければなりません。

なぜなら、あの公爵家の次男様は、
ぼっちゃまをご覧になった瞬間、
一目で恋に落ちておられたのです。

わたくしは、その瞬間を、
確かに、この目で見ておりました。

お気持ちは、わかります。

けれど、ぼっちゃまは天使様。
わたくしの、神様。

いやらしい欲望を向けてよい
存在ではございません。

それ以来、わたくしは、
感情を表に出さぬよう
細心の注意を払いながら、

さりげなく、
あの次男様が、
ぼっちゃまに不埒な真似をなさらぬよう、
目を配る日々を
おくることになったのでございます。

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