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第1章 闇を孕む者達の邂逅
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どうしたものか。
とらえどころのない冥々とした霧が、柳一夜の胸中に充満していた。
辻宗弥央と名乗る少年と出会って、正確には再会してから数日経過した。彼が言うには2人は小学生の頃に1年程交流があり、彼は当時のことを鮮明に記憶しているようだった。
一方一夜は、正直覚えているとは言い難い状態だった。弥央と話すことでようやくひどくピンぼけした映像が断片的に引き出されたくらいだ。具体的なエピソードを持ち出されても、そう言われればあったような気がするという曖昧な感覚しか湧いてこない。
それについてとやかく考えるつもりはない。6年前の出来事を覚えているか忘れているか、人によって異なるのは当然のことだろう。生きている限り記憶は日々上書きされていくのだから。
引っかかっているのは、弥央自身のことだ。
先日弥央がわんぱくな子供のように飛びついてきた時、うまく例えられないぞわりとした何かが全身を駆け巡った。それと似たような感覚を知ってはいるが、その類似性が本当だとしたら、弥央は自分と同じ…………。いや、それともただの勘違いか。
浮かび上がった一つの可能性を一旦しまい込む。憶測で決めつけるのはよくない。
その時、向かいから来る生徒と肩がぶつかり、はっと我に返る。相手に軽く頭を下げ、散漫していた意識を前方に向けつつ再び歩き出す。
放課後の廊下はいつにも増して混んでいて、南棟の階段を下り1階の渡り廊下に出ても状況は同じだった。その細長い通路に壁はなく、西側が脱靴場、東側が中庭へ通じている。
通路から中庭に出たすぐのところに、見知った顔があった。
名神累人。高校で出会った一夜の同級生。2人の間には、友情の一言では片付けられない複雑な関係がある。そのせいで何度もすれ違い時に衝突したが、互いの想いを受け止め共に乗り越えていこうと誓った。一夜にとって、たった一人の〈居場所〉。
そして累人と相対しているのは弥央。隣にそびえる北棟を指差しながら何やら喋っている。
あの2人は同じ1組で席も前後。弥央は休憩時間になると最低1日1度は用もないのに2組へやってくるが、普段は累人と過ごしているのだろう。休憩時間に互いに会話を弾ませる様子をたまに見かける。
そんな光景を目にする度に、どういうわけか胸の中がもやもやする。些細と言えば些細な不安感だが、一度気になってしまえば意識の外に追いやるのは難しい。静かな部屋でただ一つ等間隔に鳴り続ける時計の秒針音のように、頭の中に絡みついて離れない。
「あ、一夜。掃除終わった?」
弥央がこちらに気付き、手を振る。それには何も返さず2人のそばに歩み寄る。
「おそいよー。あとちょっとで始まるよ」
「何がだ」
「何って、累人の演奏聞きにいこうって前から話してたじゃん。おれすっごいたのしみにしてたよ」
「演奏……あぁ、そうか」
今日は新入生へ向けた部活紹介が行われる日。吹奏楽部が16時から中庭で数曲披露すると昼にアナウンスもされていた。よく見るとすでにスタンバイが完了し、観客も多く集まっている。
「3曲とも定演でやったやつだから、柳は知ってるよね」
先月行われた定期演奏会。ぜひ来てほしいと累人に何度も誘われて聞きに行ったが、音楽に聡いわけではない身からしてもすごいと思えるものだった。
「楽器ってどれもかっこいいな。おれもやってみたい」
累人が手にしている、全体的に少しくすんだ金管楽器を見つめながら弥央が言う。あれは確かトロンボーンといったか。
「演奏の後に楽器体験あるから、ぜひやってみて」
「どれがおすすめ?」
「んー、そうだな。弥央未経験者だよね。人によって向き不向きってあるからな。サックスは割と音出しやすいんだって。あの金色の木管」
と、中庭の中央あたりを指差す。
「へぇー。じゃあそのとなりの黒いやつは?」
「オーボエはダブルリードだから難しいらしいよ。俺はなぜか一発で吹けたけど」
「すご。でもそのラッパみたいなのやってんだ」
「オーディションで決まったからね。でもこれでよかったと思ってるよ。なんて言うか、しっくりくる気がする」
「ふぅん。累人は部活しててたのしい?」
「楽しいよ。大変なこともあるけど、こういうのって学生の間しかできないと思うから。今日はあちこちで勧誘やってるはずだから、興味のあるとこ行ってみて」
そして累人は一夜へ目線を移し、
「柳も何か部活入りなよ。文化系だけでもいっぱいあるし、俺のとこみたいに毎日練習ってわけでもないだろうから活動しやすいと思うよ。去年みたいなことはもうないんだからさ」
何気ないその言葉が、小さな針のように胸に突き刺さった。
余計なことを言ったと思ったのか、累人はすぐに慌てた様子で、
「あっ、ごめん。今のは、その……」
「別にいい」
一夜は小さく首を振って言葉を遮る。
お前が謝ることじゃない。あれは、お前を巻き込んだ俺のせいだ。
「そろそろ行かなくていいのか、名神」
「あっ、うん。それじゃあ、短いけど楽しんでって」
控え目な笑顔でそう言い、累人は駆けていった。見送った後、弥央がゆるりとこちらを向く。
「去年みたいなって?」
「……別に。色々あっただけだ」
目を逸らしながら言い、さっさと中庭に出る。
真ん中あたりまで来ると、渡り廊下を背に編成された奏者全体が見える。校舎の影が大きく落ちて、吹き下ろす風と相まってかなり涼しく感じる。
去年も3度程中庭で演奏が行われたように思うが、この場所で聞くのは今回が初めてだ。
「なぁ一夜」
隣に来た弥央が言う。
「累人と一夜って、なんで名字で呼んでるんだ?仲いい人間同士はあだ名で呼ぶと思ってた」
さっきと同じ質問かと思ったが、全く関係ない内容だった。
「途中で呼び方を変える必要もなかった。それだけだ」
「ふーん。そう」
少し間を空けて答えたところ、さして興味のないような反応。だったらなぜ訊いた。
顔を背けて溜め息を吐いていると、演奏が始まった。すでに中庭だけでなく両脇の校舎の窓にも人が集まっている。生徒の過半数が注目しているだろうか。
すぐ隣でわあっと歓声が上がる。弥央が初めて経験したかのような感激を露わにし、ずり下がった眼鏡に構わず聞き入っている。1曲目は有名なアーティストの楽曲だが、流行りの類に一切関心のない一夜には知る由もない。
その代わりに放課後の音楽室からこの楽曲がよく聞こえていたことと、「16分連符とか鬼過ぎる」と嘆く累人の沈んだ顔を思い出していた。
演奏終了後、弥央は新入生に混じって楽器体験に向かった。サックスを選んでいたが、か細い隙間風を奏でただけで終わった。あまり向いてなかったようだ。
渡り廊下に戻り、他に見学に行きたい所はあるかと尋ねようとしたところへ別方向から声をかけられた。
「そこの2人、本は好きかな?」
頭突きする勢いで顔を近付けてくる、見知らぬ女子生徒。
「本?おれはよく読んでたなぁ。あの時すげーひまだったから」
「ほう。君は?」
「……たまになら」
誰だこいつ、と顔をしかめつつ至近距離からの問いに答える。
「オーケー。それじゃあ2人共、我が部に招待してあげる」
「ほんと?おれら2年だけどいいの?」
「もちろん。本に少しでも興味があるなら入る資格ありよ。さ、ついてきて」
行くとは言ってない、と口にする前に腕を掴まれ連行されていく。
北棟の階段を上がり、着いたのは2階の西側の端。ガラガラと引き戸が開かれ、表札を確認する暇もなく室内に踏み込んだ。
教室の半分もないような手狭な部屋。開いた窓からはグラウンドの喧騒が聞こえてくる。中央には向かい合わせで置かれた2つの会議机と添えられたパイプ椅子。4つのうちすでに2つが埋まっている。
「好きなとこ座っていいから」
促され、仕方なく一夜はすでに座っている弥央の隣に着く。
向かいに座る女子2人のうち、一方は不安そうに目を逸らし、もう一方は一心にノートパソコンのキーボードを叩いている。
「よし、みんな注目!」
女子生徒は窓を背に振り返り、高々と声を上げる。
「私は部長の津名橋李々。早速だけどみんなに重要なお願いがある。それは他でもなく、我が文芸部に入部してほしいということ!」
文芸部。何もピンとこないその単語を頭の中で反芻する。
「今現在我が部の部員は私を含め2人。だがしかし、この学校の部活動及び同好会の規定人数は5人以上。つまり、このまま新入部員がいなければ文芸部は廃部に陥ってしまう。それだけは何としても避けたい!」
この場にいるのは全員で5人。パソコンに熱中している女子はすでに部員だろうから、残りの3人が入部すればギリギリ部の存続が確保されるということか。
「しつもーん。文芸部って何するんですか」
弥央が挙手する。
「いい質問ね。メインの活動は文化祭での文集出版。各自小説を書いてもらってそれを掲載する。個人的に大賞に応募するっていうのもありよ。あとは基本的にここで読書したり執筆したり。私は毎日部室に来るけど活動日は特に決まってない。年中緩くやってるから気軽に参加できるし兼部も可。文学を愛する同士としてぜひ文芸部への入部を検討してほしい。少しでも興味があるならこの用紙に必要事項を記入して明日持って来るように。以上、解散!」
津名橋から無理矢理入部届を渡され、部室を後にする。正味5分程しか経過していないはずなのに、まるで数時間閉じ込められてやっと解放されたような気分だった。他の部を回る気力はなかったためそのまま帰宅することにした。
先に校門へ向かっていると、後ろから弥央が自転車を押しながら走ってきた。
「さっきの人すごかったなー」
隣に並び、眼鏡を直しながら言う。指が思い切りレンズに触れている。
「なんかややこしいこと言ってたけど、要するに入りたかったら明日また来いってことだよね」
「そうだな」
「おれはけっこういいかなーと思ったよ。一夜は?」
問われてしばし考え込む。
一夜はこれまで部活動に参加したことはない。そもそも他人と関わること自体が昔から嫌いだった。仲良くなろうと寄ってくる人間がいても、自分の〈秘密〉を知って離れていくのが怖くて自ら突き放していた。
それができなかったのが、累人だった。
何度遠ざけようとしてもしぶとく食い下がる。諦めるという言葉を知らないのかと思う程に。はっきりとは覚えていないが、弥央もきっと同じだったのだろう。2人がいなければ自分は今ここにいない。そう断言してもいいくらいだ。
「悪くないと思う」
外していた視線を戻し、返答する。累人に後押しされた手前難色を示すのは気が引けるというのもあるが、純粋に部活というものに興味がある。
「ほんと?じゃあ明日の放課後また行こう」
たのしみだなー、と嬉しそうに呟く横顔を無言で見つめる。
6年前に会っていた時も、弥央はこんな風に笑っていたのだろうか。その笑顔に、一歩引いて傍観するような眼差し以外のものを、俺は返していたのだろうか。思い出せないもどかしさからか漠々としたモヤが心中を漂い、ふいっと目線を外す。
道の両脇に沿って真っ直ぐ続く満開の桜並木。時折風に乗って散り落ちる花弁が、黒ずんだ煉瓦の歩道に白い斑模様を作る。明日はもっと白くなっているだろう。
やがて並木を抜け交差点に差し掛かる。すると、
「一夜」
斜め後方から呼び止める声がした。何だと言いつつ振り返ると。
すぐ目の前まで伸びていた弥央の手が、髪に触れた。そっとなぞる感覚が頭部をかすめる。
……まただ。ぞわりとしか表現できない、あの妙な感覚。水面上に顔を出した疑念は、しかしすぐに潜って遠ざかる。
「ちょっと前からついてたよ」
そう言って大事そうにつまんで見せるのは、白い小さな花びら。
「気付いたなら早く言え」
「だって似合ってたから。黒髪に桜の花。こういうのをばえるって言うんだっけ」
臆面なく告げるその表情は、まさに春の穏やかさを具現したような笑顔。それに呼応するように、胸の中で何かが小さくうずくのを一夜は感じた。空っぽの引き出しに記憶の欠片でも残っていたのだろうか。それを確かめようとする前に、何となく浮かんだ言葉を口にしていた。
「お前も似合ってるんじゃないのか」
「何が?」
「桜」
道の両脇から伸びる花枝が道の上空で交差し、薄桜色のアーチを作る。幻想的な風景を背後に立つ彼の姿はまるで美しい絵画の中に入り込んだかのよう。
そして、一夜も気付いていたが、不思議そうに傾く濃紫の頭の上には白い花びらが2つ落ちていた。
とらえどころのない冥々とした霧が、柳一夜の胸中に充満していた。
辻宗弥央と名乗る少年と出会って、正確には再会してから数日経過した。彼が言うには2人は小学生の頃に1年程交流があり、彼は当時のことを鮮明に記憶しているようだった。
一方一夜は、正直覚えているとは言い難い状態だった。弥央と話すことでようやくひどくピンぼけした映像が断片的に引き出されたくらいだ。具体的なエピソードを持ち出されても、そう言われればあったような気がするという曖昧な感覚しか湧いてこない。
それについてとやかく考えるつもりはない。6年前の出来事を覚えているか忘れているか、人によって異なるのは当然のことだろう。生きている限り記憶は日々上書きされていくのだから。
引っかかっているのは、弥央自身のことだ。
先日弥央がわんぱくな子供のように飛びついてきた時、うまく例えられないぞわりとした何かが全身を駆け巡った。それと似たような感覚を知ってはいるが、その類似性が本当だとしたら、弥央は自分と同じ…………。いや、それともただの勘違いか。
浮かび上がった一つの可能性を一旦しまい込む。憶測で決めつけるのはよくない。
その時、向かいから来る生徒と肩がぶつかり、はっと我に返る。相手に軽く頭を下げ、散漫していた意識を前方に向けつつ再び歩き出す。
放課後の廊下はいつにも増して混んでいて、南棟の階段を下り1階の渡り廊下に出ても状況は同じだった。その細長い通路に壁はなく、西側が脱靴場、東側が中庭へ通じている。
通路から中庭に出たすぐのところに、見知った顔があった。
名神累人。高校で出会った一夜の同級生。2人の間には、友情の一言では片付けられない複雑な関係がある。そのせいで何度もすれ違い時に衝突したが、互いの想いを受け止め共に乗り越えていこうと誓った。一夜にとって、たった一人の〈居場所〉。
そして累人と相対しているのは弥央。隣にそびえる北棟を指差しながら何やら喋っている。
あの2人は同じ1組で席も前後。弥央は休憩時間になると最低1日1度は用もないのに2組へやってくるが、普段は累人と過ごしているのだろう。休憩時間に互いに会話を弾ませる様子をたまに見かける。
そんな光景を目にする度に、どういうわけか胸の中がもやもやする。些細と言えば些細な不安感だが、一度気になってしまえば意識の外に追いやるのは難しい。静かな部屋でただ一つ等間隔に鳴り続ける時計の秒針音のように、頭の中に絡みついて離れない。
「あ、一夜。掃除終わった?」
弥央がこちらに気付き、手を振る。それには何も返さず2人のそばに歩み寄る。
「おそいよー。あとちょっとで始まるよ」
「何がだ」
「何って、累人の演奏聞きにいこうって前から話してたじゃん。おれすっごいたのしみにしてたよ」
「演奏……あぁ、そうか」
今日は新入生へ向けた部活紹介が行われる日。吹奏楽部が16時から中庭で数曲披露すると昼にアナウンスもされていた。よく見るとすでにスタンバイが完了し、観客も多く集まっている。
「3曲とも定演でやったやつだから、柳は知ってるよね」
先月行われた定期演奏会。ぜひ来てほしいと累人に何度も誘われて聞きに行ったが、音楽に聡いわけではない身からしてもすごいと思えるものだった。
「楽器ってどれもかっこいいな。おれもやってみたい」
累人が手にしている、全体的に少しくすんだ金管楽器を見つめながら弥央が言う。あれは確かトロンボーンといったか。
「演奏の後に楽器体験あるから、ぜひやってみて」
「どれがおすすめ?」
「んー、そうだな。弥央未経験者だよね。人によって向き不向きってあるからな。サックスは割と音出しやすいんだって。あの金色の木管」
と、中庭の中央あたりを指差す。
「へぇー。じゃあそのとなりの黒いやつは?」
「オーボエはダブルリードだから難しいらしいよ。俺はなぜか一発で吹けたけど」
「すご。でもそのラッパみたいなのやってんだ」
「オーディションで決まったからね。でもこれでよかったと思ってるよ。なんて言うか、しっくりくる気がする」
「ふぅん。累人は部活しててたのしい?」
「楽しいよ。大変なこともあるけど、こういうのって学生の間しかできないと思うから。今日はあちこちで勧誘やってるはずだから、興味のあるとこ行ってみて」
そして累人は一夜へ目線を移し、
「柳も何か部活入りなよ。文化系だけでもいっぱいあるし、俺のとこみたいに毎日練習ってわけでもないだろうから活動しやすいと思うよ。去年みたいなことはもうないんだからさ」
何気ないその言葉が、小さな針のように胸に突き刺さった。
余計なことを言ったと思ったのか、累人はすぐに慌てた様子で、
「あっ、ごめん。今のは、その……」
「別にいい」
一夜は小さく首を振って言葉を遮る。
お前が謝ることじゃない。あれは、お前を巻き込んだ俺のせいだ。
「そろそろ行かなくていいのか、名神」
「あっ、うん。それじゃあ、短いけど楽しんでって」
控え目な笑顔でそう言い、累人は駆けていった。見送った後、弥央がゆるりとこちらを向く。
「去年みたいなって?」
「……別に。色々あっただけだ」
目を逸らしながら言い、さっさと中庭に出る。
真ん中あたりまで来ると、渡り廊下を背に編成された奏者全体が見える。校舎の影が大きく落ちて、吹き下ろす風と相まってかなり涼しく感じる。
去年も3度程中庭で演奏が行われたように思うが、この場所で聞くのは今回が初めてだ。
「なぁ一夜」
隣に来た弥央が言う。
「累人と一夜って、なんで名字で呼んでるんだ?仲いい人間同士はあだ名で呼ぶと思ってた」
さっきと同じ質問かと思ったが、全く関係ない内容だった。
「途中で呼び方を変える必要もなかった。それだけだ」
「ふーん。そう」
少し間を空けて答えたところ、さして興味のないような反応。だったらなぜ訊いた。
顔を背けて溜め息を吐いていると、演奏が始まった。すでに中庭だけでなく両脇の校舎の窓にも人が集まっている。生徒の過半数が注目しているだろうか。
すぐ隣でわあっと歓声が上がる。弥央が初めて経験したかのような感激を露わにし、ずり下がった眼鏡に構わず聞き入っている。1曲目は有名なアーティストの楽曲だが、流行りの類に一切関心のない一夜には知る由もない。
その代わりに放課後の音楽室からこの楽曲がよく聞こえていたことと、「16分連符とか鬼過ぎる」と嘆く累人の沈んだ顔を思い出していた。
演奏終了後、弥央は新入生に混じって楽器体験に向かった。サックスを選んでいたが、か細い隙間風を奏でただけで終わった。あまり向いてなかったようだ。
渡り廊下に戻り、他に見学に行きたい所はあるかと尋ねようとしたところへ別方向から声をかけられた。
「そこの2人、本は好きかな?」
頭突きする勢いで顔を近付けてくる、見知らぬ女子生徒。
「本?おれはよく読んでたなぁ。あの時すげーひまだったから」
「ほう。君は?」
「……たまになら」
誰だこいつ、と顔をしかめつつ至近距離からの問いに答える。
「オーケー。それじゃあ2人共、我が部に招待してあげる」
「ほんと?おれら2年だけどいいの?」
「もちろん。本に少しでも興味があるなら入る資格ありよ。さ、ついてきて」
行くとは言ってない、と口にする前に腕を掴まれ連行されていく。
北棟の階段を上がり、着いたのは2階の西側の端。ガラガラと引き戸が開かれ、表札を確認する暇もなく室内に踏み込んだ。
教室の半分もないような手狭な部屋。開いた窓からはグラウンドの喧騒が聞こえてくる。中央には向かい合わせで置かれた2つの会議机と添えられたパイプ椅子。4つのうちすでに2つが埋まっている。
「好きなとこ座っていいから」
促され、仕方なく一夜はすでに座っている弥央の隣に着く。
向かいに座る女子2人のうち、一方は不安そうに目を逸らし、もう一方は一心にノートパソコンのキーボードを叩いている。
「よし、みんな注目!」
女子生徒は窓を背に振り返り、高々と声を上げる。
「私は部長の津名橋李々。早速だけどみんなに重要なお願いがある。それは他でもなく、我が文芸部に入部してほしいということ!」
文芸部。何もピンとこないその単語を頭の中で反芻する。
「今現在我が部の部員は私を含め2人。だがしかし、この学校の部活動及び同好会の規定人数は5人以上。つまり、このまま新入部員がいなければ文芸部は廃部に陥ってしまう。それだけは何としても避けたい!」
この場にいるのは全員で5人。パソコンに熱中している女子はすでに部員だろうから、残りの3人が入部すればギリギリ部の存続が確保されるということか。
「しつもーん。文芸部って何するんですか」
弥央が挙手する。
「いい質問ね。メインの活動は文化祭での文集出版。各自小説を書いてもらってそれを掲載する。個人的に大賞に応募するっていうのもありよ。あとは基本的にここで読書したり執筆したり。私は毎日部室に来るけど活動日は特に決まってない。年中緩くやってるから気軽に参加できるし兼部も可。文学を愛する同士としてぜひ文芸部への入部を検討してほしい。少しでも興味があるならこの用紙に必要事項を記入して明日持って来るように。以上、解散!」
津名橋から無理矢理入部届を渡され、部室を後にする。正味5分程しか経過していないはずなのに、まるで数時間閉じ込められてやっと解放されたような気分だった。他の部を回る気力はなかったためそのまま帰宅することにした。
先に校門へ向かっていると、後ろから弥央が自転車を押しながら走ってきた。
「さっきの人すごかったなー」
隣に並び、眼鏡を直しながら言う。指が思い切りレンズに触れている。
「なんかややこしいこと言ってたけど、要するに入りたかったら明日また来いってことだよね」
「そうだな」
「おれはけっこういいかなーと思ったよ。一夜は?」
問われてしばし考え込む。
一夜はこれまで部活動に参加したことはない。そもそも他人と関わること自体が昔から嫌いだった。仲良くなろうと寄ってくる人間がいても、自分の〈秘密〉を知って離れていくのが怖くて自ら突き放していた。
それができなかったのが、累人だった。
何度遠ざけようとしてもしぶとく食い下がる。諦めるという言葉を知らないのかと思う程に。はっきりとは覚えていないが、弥央もきっと同じだったのだろう。2人がいなければ自分は今ここにいない。そう断言してもいいくらいだ。
「悪くないと思う」
外していた視線を戻し、返答する。累人に後押しされた手前難色を示すのは気が引けるというのもあるが、純粋に部活というものに興味がある。
「ほんと?じゃあ明日の放課後また行こう」
たのしみだなー、と嬉しそうに呟く横顔を無言で見つめる。
6年前に会っていた時も、弥央はこんな風に笑っていたのだろうか。その笑顔に、一歩引いて傍観するような眼差し以外のものを、俺は返していたのだろうか。思い出せないもどかしさからか漠々としたモヤが心中を漂い、ふいっと目線を外す。
道の両脇に沿って真っ直ぐ続く満開の桜並木。時折風に乗って散り落ちる花弁が、黒ずんだ煉瓦の歩道に白い斑模様を作る。明日はもっと白くなっているだろう。
やがて並木を抜け交差点に差し掛かる。すると、
「一夜」
斜め後方から呼び止める声がした。何だと言いつつ振り返ると。
すぐ目の前まで伸びていた弥央の手が、髪に触れた。そっとなぞる感覚が頭部をかすめる。
……まただ。ぞわりとしか表現できない、あの妙な感覚。水面上に顔を出した疑念は、しかしすぐに潜って遠ざかる。
「ちょっと前からついてたよ」
そう言って大事そうにつまんで見せるのは、白い小さな花びら。
「気付いたなら早く言え」
「だって似合ってたから。黒髪に桜の花。こういうのをばえるって言うんだっけ」
臆面なく告げるその表情は、まさに春の穏やかさを具現したような笑顔。それに呼応するように、胸の中で何かが小さくうずくのを一夜は感じた。空っぽの引き出しに記憶の欠片でも残っていたのだろうか。それを確かめようとする前に、何となく浮かんだ言葉を口にしていた。
「お前も似合ってるんじゃないのか」
「何が?」
「桜」
道の両脇から伸びる花枝が道の上空で交差し、薄桜色のアーチを作る。幻想的な風景を背後に立つ彼の姿はまるで美しい絵画の中に入り込んだかのよう。
そして、一夜も気付いていたが、不思議そうに傾く濃紫の頭の上には白い花びらが2つ落ちていた。
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