cranberry soda

朋藤チルヲ

文字の大きさ
4 / 6

4

しおりを挟む
「ぎゃあああああ!」

 両腕とも前に突き出し、大声を上げながら駆け寄った。
 背中から抱きついたその人物を、無我夢中で引っ張る。凜とした赤い花に囲まれた小さな泉から、彼の頭を起こし上げた。噴水と彼の髪の毛から、透明なしぶきが舞い上がる。
 青い空がぐらりと反転。
 ずっしりと比重のあるその身体もろとも、どさりと後方に倒れ込む。盛大にめくれ上がったスカートから、黒いタイツに包まれた太ももが露わになった。

 意識のない人間の身体はこんなにも重いものか、と感心する。しかも、相手は男性。非力でうら若き女性のわたしが、よくぞ引っ張り上げられたものだ。これが火事場のってやつか。

「いでで」

 開いた足の間から、子供のベソかきに似た顔が振り向いた。
 昨日と同じ、カーキ色のロングコート。茶色い前髪が濡れて、額に貼りついている。八重歯が覗く口元から、アルコール臭が漂った。

「貴様なんかもう、酒樽に頭を突っ込んで死んでしまえばいいんだ!」

 ぶるぶる唇を震わせながら怒鳴っていた。鼓動のせわしなさは、久々に重労働をしたせいだけではない。
 今日も今日とて、公園にはわたしたちの他に誰もいない。この近辺の住人はみんな、行動パターンを変えたの? みんな引っ越したの?

「ひでえ。目を覚ましてただけなのに」
「もうちょっとマシな方法があるでしょ! どう見たって溺死体だったってば!」
「ぎゃんぎゃんわめくなよ。二日酔いに響く」
「死ねえ!」

 うるさいなというふうに顔をしかめながら、彼はうなじをかきむしる。充血した視線がおもむろに下へ向かっていくにつれ、わたしは自身の格好を思い出して青ざめていった。

「どいてよ!」

 彼の横っ面を手で押しのける。上半身を起こした彼の腰をさらに押して、素早く足を閉じた。スカートを被せる。
 酒に溺れるダメ人間に構っていられない。今日こそは遅刻せずに会社に行くのだ。
 ところが、立ち上がろうと力を入れたその腰、背骨にかけて激痛が走った。雷が突き抜けていったのかと思うほどだ。
 どうやら尻餅をついた際に、したたか打ちつけたらしい。骨にヒビくらいは入ったかもしれない。
 その場にへたりこむ。本当に痛いと声も出ないのだ、と知った。

「どうした?」

 異変に気づいた彼が、真っ赤な目で覗き込んできた。

「……何でもない」

 どうにかそれだけ搾り出す。声が震える。

「何でもなくないだろ。今ので痛めたのか?」
「お酒臭いよ。あっち行って」

 お願いだから。喋るだけで痛い。

「可愛げのないこと」

 彼はそう言い捨てる。くるりと反対を向いて、背中を見せた。

「喋らなくていいから。乗れ」

 わたしはびっくりしてしまう。

「乗れってば」
「何か……企んでる?」
「なんて失礼な」

 彼は嘆いた。そして言う。

「親切にされたら、親切で返す。当たり前のことです」

「親切?」
「ああもう、喋るなって言ってるのに。水、買ってきてくれたでしょ」
「それだけで……?」
「今朝だって、無視できたはずだろ?」
「そんなことで?」
「そんなことだよ」
「バカじゃないの?」

 本当に呆れたわけではない。照れ臭かったのだ。
 彼は膨れっ面をした。

「優しさって、一方通行じゃないのよ。少なくとも、俺はそう思う。優しくしてもらったから、俺も優しくする。嬉しかったから」

 背中を向けたままの彼が、それきり動こうとしないので、わたしはしぶしぶとその肩に手をかけた。
 世話になりたくないけど、ならないと会社に行けない。パンツにすればよかったと後悔するけど、今さらだ。

「スマホで会社までのルートを表示してよ。それなら、君が道案内しなくて済むでしょ」

 言われた通り、バッグからスマホを取り出し、地図アプリを起動させる。ナビが開始されると、彼はわたしをおぶって立ち上がった。
 たった今目が覚めたのかってほど、見える世界が劇的に変わった。誰かにおぶわれるなんて、相当に久しい。彼の身長が思いがけず高かったせいもある。
 女性とは違う、硬い肉質。自分のものとはかけ離れた感触に、触れていることが気恥ずかしくなる。

 歩き出すと、今度はその振動に参ってしまった。
 急いでくれるのはありがたい。でも、あまりにがさつ過ぎる。腰に響くたび、声にならない悲鳴が上がった。

 濡れた髪。太陽光を受けた水滴が光る。首元から日向のにおいがした。それはどことなく懐かしい。
 涙が滲むほど痛いのに、やけに鮮明に記憶に刻まれたのだった。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

離婚した妻の旅先

tartan321
恋愛
タイトル通りです。

盗み聞き

凛子
恋愛
あ、そういうこと。

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

なんども濡れ衣で責められるので、いい加減諦めて崖から身を投げてみた

下菊みこと
恋愛
悪役令嬢の最後の抵抗は吉と出るか凶と出るか。 ご都合主義のハッピーエンドのSSです。 でも周りは全くハッピーじゃないです。 小説家になろう様でも投稿しています。

次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢

さら
恋愛
 名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。  しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。  王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。  戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。  一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。

【完結】さよなら私の初恋

山葵
恋愛
私の婚約者が妹に見せる笑顔は私に向けられる事はない。 初恋の貴方が妹を望むなら、私は貴方の幸せを願って身を引きましょう。 さようなら私の初恋。

私のドレスを奪った異母妹に、もう大事なものは奪わせない

文野多咲
恋愛
優月(ゆづき)が自宅屋敷に帰ると、異母妹が優月のウェディングドレスを試着していた。その日縫い上がったばかりで、優月もまだ袖を通していなかった。 使用人たちが「まるで、異母妹のためにあつらえたドレスのよう」と褒め称えており、優月の婚約者まで「異母妹の方が似合う」と褒めている。 優月が異母妹に「どうして勝手に着たの?」と訊けば「ちょっと着てみただけよ」と言う。 婚約者は「異母妹なんだから、ちょっとくらいいじゃないか」と言う。 「ちょっとじゃないわ。私はドレスを盗られたも同じよ!」と言えば、父の後妻は「悪気があったわけじゃないのに、心が狭い」と優月の頬をぶった。 優月は父親に婚約解消を願い出た。婚約者は父親が決めた相手で、優月にはもう彼を信頼できない。 父親に事情を説明すると、「大げさだなあ」と取り合わず、「優月は異母妹に嫉妬しているだけだ、婚約者には異母妹を褒めないように言っておく」と言われる。 嫉妬じゃないのに、どうしてわかってくれないの? 優月は父親をも信頼できなくなる。 婚約者は優月を手に入れるために、優月を襲おうとした。絶体絶命の優月の前に現れたのは、叔父だった。

雪の日に

藤谷 郁
恋愛
私には許嫁がいる。 親同士の約束で、生まれる前から決まっていた結婚相手。 大学卒業を控えた冬。 私は彼に会うため、雪の金沢へと旅立つ―― ※作品の初出は2014年(平成26年)。鉄道・駅などの描写は当時のものです。

処理中です...