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「ぎゃあああああ!」
両腕とも前に突き出し、大声を上げながら駆け寄った。
背中から抱きついたその人物を、無我夢中で引っ張る。凜とした赤い花に囲まれた小さな泉から、彼の頭を起こし上げた。噴水と彼の髪の毛から、透明なしぶきが舞い上がる。
青い空がぐらりと反転。
ずっしりと比重のあるその身体もろとも、どさりと後方に倒れ込む。盛大にめくれ上がったスカートから、黒いタイツに包まれた太ももが露わになった。
意識のない人間の身体はこんなにも重いものか、と感心する。しかも、相手は男性。非力でうら若き女性のわたしが、よくぞ引っ張り上げられたものだ。これが火事場のってやつか。
「いでで」
開いた足の間から、子供のベソかきに似た顔が振り向いた。
昨日と同じ、カーキ色のロングコート。茶色い前髪が濡れて、額に貼りついている。八重歯が覗く口元から、アルコール臭が漂った。
「貴様なんかもう、酒樽に頭を突っ込んで死んでしまえばいいんだ!」
ぶるぶる唇を震わせながら怒鳴っていた。鼓動のせわしなさは、久々に重労働をしたせいだけではない。
今日も今日とて、公園にはわたしたちの他に誰もいない。この近辺の住人はみんな、行動パターンを変えたの? みんな引っ越したの?
「ひでえ。目を覚ましてただけなのに」
「もうちょっとマシな方法があるでしょ! どう見たって溺死体だったってば!」
「ぎゃんぎゃんわめくなよ。二日酔いに響く」
「死ねえ!」
うるさいなというふうに顔をしかめながら、彼はうなじをかきむしる。充血した視線がおもむろに下へ向かっていくにつれ、わたしは自身の格好を思い出して青ざめていった。
「どいてよ!」
彼の横っ面を手で押しのける。上半身を起こした彼の腰をさらに押して、素早く足を閉じた。スカートを被せる。
酒に溺れるダメ人間に構っていられない。今日こそは遅刻せずに会社に行くのだ。
ところが、立ち上がろうと力を入れたその腰、背骨にかけて激痛が走った。雷が突き抜けていったのかと思うほどだ。
どうやら尻餅をついた際に、したたか打ちつけたらしい。骨にヒビくらいは入ったかもしれない。
その場にへたりこむ。本当に痛いと声も出ないのだ、と知った。
「どうした?」
異変に気づいた彼が、真っ赤な目で覗き込んできた。
「……何でもない」
どうにかそれだけ搾り出す。声が震える。
「何でもなくないだろ。今ので痛めたのか?」
「お酒臭いよ。あっち行って」
お願いだから。喋るだけで痛い。
「可愛げのないこと」
彼はそう言い捨てる。くるりと反対を向いて、背中を見せた。
「喋らなくていいから。乗れ」
わたしはびっくりしてしまう。
「乗れってば」
「何か……企んでる?」
「なんて失礼な」
彼は嘆いた。そして言う。
「親切にされたら、親切で返す。当たり前のことです」
「親切?」
「ああもう、喋るなって言ってるのに。水、買ってきてくれたでしょ」
「それだけで……?」
「今朝だって、無視できたはずだろ?」
「そんなことで?」
「そんなことだよ」
「バカじゃないの?」
本当に呆れたわけではない。照れ臭かったのだ。
彼は膨れっ面をした。
「優しさって、一方通行じゃないのよ。少なくとも、俺はそう思う。優しくしてもらったから、俺も優しくする。嬉しかったから」
背中を向けたままの彼が、それきり動こうとしないので、わたしはしぶしぶとその肩に手をかけた。
世話になりたくないけど、ならないと会社に行けない。パンツにすればよかったと後悔するけど、今さらだ。
「スマホで会社までのルートを表示してよ。それなら、君が道案内しなくて済むでしょ」
言われた通り、バッグからスマホを取り出し、地図アプリを起動させる。ナビが開始されると、彼はわたしをおぶって立ち上がった。
たった今目が覚めたのかってほど、見える世界が劇的に変わった。誰かにおぶわれるなんて、相当に久しい。彼の身長が思いがけず高かったせいもある。
女性とは違う、硬い肉質。自分のものとはかけ離れた感触に、触れていることが気恥ずかしくなる。
歩き出すと、今度はその振動に参ってしまった。
急いでくれるのはありがたい。でも、あまりにがさつ過ぎる。腰に響くたび、声にならない悲鳴が上がった。
濡れた髪。太陽光を受けた水滴が光る。首元から日向のにおいがした。それはどことなく懐かしい。
涙が滲むほど痛いのに、やけに鮮明に記憶に刻まれたのだった。
両腕とも前に突き出し、大声を上げながら駆け寄った。
背中から抱きついたその人物を、無我夢中で引っ張る。凜とした赤い花に囲まれた小さな泉から、彼の頭を起こし上げた。噴水と彼の髪の毛から、透明なしぶきが舞い上がる。
青い空がぐらりと反転。
ずっしりと比重のあるその身体もろとも、どさりと後方に倒れ込む。盛大にめくれ上がったスカートから、黒いタイツに包まれた太ももが露わになった。
意識のない人間の身体はこんなにも重いものか、と感心する。しかも、相手は男性。非力でうら若き女性のわたしが、よくぞ引っ張り上げられたものだ。これが火事場のってやつか。
「いでで」
開いた足の間から、子供のベソかきに似た顔が振り向いた。
昨日と同じ、カーキ色のロングコート。茶色い前髪が濡れて、額に貼りついている。八重歯が覗く口元から、アルコール臭が漂った。
「貴様なんかもう、酒樽に頭を突っ込んで死んでしまえばいいんだ!」
ぶるぶる唇を震わせながら怒鳴っていた。鼓動のせわしなさは、久々に重労働をしたせいだけではない。
今日も今日とて、公園にはわたしたちの他に誰もいない。この近辺の住人はみんな、行動パターンを変えたの? みんな引っ越したの?
「ひでえ。目を覚ましてただけなのに」
「もうちょっとマシな方法があるでしょ! どう見たって溺死体だったってば!」
「ぎゃんぎゃんわめくなよ。二日酔いに響く」
「死ねえ!」
うるさいなというふうに顔をしかめながら、彼はうなじをかきむしる。充血した視線がおもむろに下へ向かっていくにつれ、わたしは自身の格好を思い出して青ざめていった。
「どいてよ!」
彼の横っ面を手で押しのける。上半身を起こした彼の腰をさらに押して、素早く足を閉じた。スカートを被せる。
酒に溺れるダメ人間に構っていられない。今日こそは遅刻せずに会社に行くのだ。
ところが、立ち上がろうと力を入れたその腰、背骨にかけて激痛が走った。雷が突き抜けていったのかと思うほどだ。
どうやら尻餅をついた際に、したたか打ちつけたらしい。骨にヒビくらいは入ったかもしれない。
その場にへたりこむ。本当に痛いと声も出ないのだ、と知った。
「どうした?」
異変に気づいた彼が、真っ赤な目で覗き込んできた。
「……何でもない」
どうにかそれだけ搾り出す。声が震える。
「何でもなくないだろ。今ので痛めたのか?」
「お酒臭いよ。あっち行って」
お願いだから。喋るだけで痛い。
「可愛げのないこと」
彼はそう言い捨てる。くるりと反対を向いて、背中を見せた。
「喋らなくていいから。乗れ」
わたしはびっくりしてしまう。
「乗れってば」
「何か……企んでる?」
「なんて失礼な」
彼は嘆いた。そして言う。
「親切にされたら、親切で返す。当たり前のことです」
「親切?」
「ああもう、喋るなって言ってるのに。水、買ってきてくれたでしょ」
「それだけで……?」
「今朝だって、無視できたはずだろ?」
「そんなことで?」
「そんなことだよ」
「バカじゃないの?」
本当に呆れたわけではない。照れ臭かったのだ。
彼は膨れっ面をした。
「優しさって、一方通行じゃないのよ。少なくとも、俺はそう思う。優しくしてもらったから、俺も優しくする。嬉しかったから」
背中を向けたままの彼が、それきり動こうとしないので、わたしはしぶしぶとその肩に手をかけた。
世話になりたくないけど、ならないと会社に行けない。パンツにすればよかったと後悔するけど、今さらだ。
「スマホで会社までのルートを表示してよ。それなら、君が道案内しなくて済むでしょ」
言われた通り、バッグからスマホを取り出し、地図アプリを起動させる。ナビが開始されると、彼はわたしをおぶって立ち上がった。
たった今目が覚めたのかってほど、見える世界が劇的に変わった。誰かにおぶわれるなんて、相当に久しい。彼の身長が思いがけず高かったせいもある。
女性とは違う、硬い肉質。自分のものとはかけ離れた感触に、触れていることが気恥ずかしくなる。
歩き出すと、今度はその振動に参ってしまった。
急いでくれるのはありがたい。でも、あまりにがさつ過ぎる。腰に響くたび、声にならない悲鳴が上がった。
濡れた髪。太陽光を受けた水滴が光る。首元から日向のにおいがした。それはどことなく懐かしい。
涙が滲むほど痛いのに、やけに鮮明に記憶に刻まれたのだった。
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