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星のアンブレラと黄色い長靴
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落ちた金平糖は、そこで柔らかな光を発したまま、やがてするすると溶けて消えた。そこには闇が戻る。蛍が眠りにつくかのようだ。
「……た、確かに濡れないけど……当たったら、ちょっと痛いよな」
「痛い。じゃあ、痛くなくする」
猫はよほど外で遊びたいらしく、また爪を鳴らした。
すると、今度は、それは羽根に変わった。白い羽根。フワフワ、フワフワ、宙にゆっくり漂う。
朋樹はまた驚いた。夢のようだ。いや、いいのだ。これは夢だ。
現実からかけ離れたメルヘンな光景に、朋樹は思わずサンダルをつっかけ、外に出た。静まり返った駐車場の真ん中に立ち、羽根が舞い降りてくる中、両手を上げて掴み取ろうとする。
意思を持つかのように、それらは一つも手の中に握れない。頬に触れると、フワリと温かかった。
夢中になって回りながら追いかけた。身体が熱くなり、楽しくなってきた。たった一つの単純なことに、これほど無心になれたのは久しぶり。子供に戻った気分だ。
気がつくと、猫も一緒になって駆けずり回っていた。ゴロゴロと喉が鳴っている。
振り回す傘の内側には、たくさんの星が描かれていた。手描きのようだ。それに気がついた朋樹は、訳もなく急に切なさが込み上げる。もう戻れない遠い昔に思いを馳せるような切なさ。
「朋樹、思い出せ。思い出せ。ほら」
猫が夜空を指さした。見上げると、黒い絵の具を塗り込めたようだったそこには、いつのまにか無数の星が散らばっていた。
フワフワ舞っていたはずの羽根が、音もなく浮上していく。高く高く舞い上がって空に吸い込まれると、チカッと瞬き星になった。
猫が持った傘からも、小さな光が飛び立っていく。それは、まるで長く尾を引いたロケット花火のように。
ささやかな輝きは一つ、また一つと増えていく。広がる宇宙。それを、朋樹は不思議な気持ちで眺めていた。
「思い出せ、朋樹」
視線を猫に戻す。大きな瞳が濡れたように光っていた。その手が大事に持った傘は、星を一個も失っていない。
「……僕、どこかで君に会った?」
「思い出せ」
記憶の糸を手繰り寄せる。自分の奥深くに潜り込んでいく。指先に、チラッと何かが引っかかった感触がした。その毛色。瞳。
「わい、仔猫だったとき、朋樹に助けてもらった。川に捨てられた。流されそうだった。朋樹、救い出してくれた」
朋樹は、あっ、と声を上げそうになった。
思い出した。小学校からの帰り道、土手の下の細い川にダンボール箱が放置されているのを見つけた。中には、小さな猫がいた。
箱は葦になんとか引っかかっている感じで、すぐにも流されそうだった。朋樹に迷いはなかった。土手を転がるように下りて、ドブ臭い川に手も足も突っ込み、痩せた仔猫が入った箱を拾い上げた。仔猫はみー、みー、と鳴いていた。
あの日も、雨が降っていた。こんなひどいことをする誰かが許せなくて、朋樹の頬はしょっぱく濡れた。
あの仔猫は確かに茶色い縞模様で、口からお腹にかけて白い毛並みをしていた気がする。鼻の下のブチも同じ。
まさか、と朋樹は首を振った。でも、猫の手に握られた傘こそが、確かな証拠だった。
当時、朋樹の家族は賃貸アパートに住んでいた。動物と一緒に暮らすことはできなかった。
間違っても流されない土手の上に、仔猫を箱ごと避難させたものの、連れて帰ることはできない。それでも、朋樹はしばらく立ち去ることができなかった。
考えて、考えて、考え抜いたあげく、朋樹はお気に入りの傘を仔猫にあげた。内側に黄色いマジックでたくさんの星を描いた、青い傘を。
気分が沈みがちになる雨の日を、楽しく過ごせるように。ポジティブの塊だった幼い頃の朋樹が捻り出した、会心のアイデアが詰まった傘。
「でも……でも、僕は、君を救ってなんかいない」
次の日、同じ場所に仔猫はいなかった。
入れられていた箱も、朋樹があげた傘もなかった。心優しい誰かに拾われたのか、それとも最悪のケースか。
前者であることを強く祈るけど、どちらにしたって、朋樹が救いの手を差しのべられなかったことには変わりない。心に重く厚い雲が垂れ込めるのを、朋樹は感じていた。
「朋樹。結果、どうでもいい」
知らず知らずのうちにうなだれていた頭を、朋樹はハッと上げた。
「大事なのは、そのとき、朋樹がわいのために泣いてくれたこと。嬉しかった。わい、忘れない。素敵な傘、楽しくなれる傘。朋樹が魔法をくれた」
猫が長靴の底で地面を叩く。氷が割れる澄んだ音が響き渡り、空の色はいっぺんに明るくなり、踏んだ場所から巨大な七色の虹が現れた。
「思い出せ、朋樹。弱くない。朋樹の中、優しい強い心、いっぱい」
そう言って、猫は虹のたもとに足を踏み出す。踏まれた箇所の七色が、ゆらゆらと湖面のように揺らめいた。
「……ま、待って」
朋樹は手を伸ばす。
「遊ぼう。悲しいだめ。楽しいほうがずっといい。限りある時間。遊ぼう」
猫は笑っていた。永遠のサヨナラの予感がする。
朋樹はいつしか泣いていた。
でも、それは悲しみとか、別れの寂しさからじゃなかった。小学生だった朋樹の頬を濡らした、あの塩辛い冷たさとは違う。温かかった。
猫は青い傘をさし、虹の先を見据えると、どんどん昇っていく。踏まれるたびにゆがむ虹の表面。黄色い長靴の足跡。追いかけるようにして、するするとカラフルな色彩が消えていく。虹の橋が音もなく消えていく。
目を閉じると、朋樹のまぶたの裏には、黄色い長靴の残像だけが残った。
「……た、確かに濡れないけど……当たったら、ちょっと痛いよな」
「痛い。じゃあ、痛くなくする」
猫はよほど外で遊びたいらしく、また爪を鳴らした。
すると、今度は、それは羽根に変わった。白い羽根。フワフワ、フワフワ、宙にゆっくり漂う。
朋樹はまた驚いた。夢のようだ。いや、いいのだ。これは夢だ。
現実からかけ離れたメルヘンな光景に、朋樹は思わずサンダルをつっかけ、外に出た。静まり返った駐車場の真ん中に立ち、羽根が舞い降りてくる中、両手を上げて掴み取ろうとする。
意思を持つかのように、それらは一つも手の中に握れない。頬に触れると、フワリと温かかった。
夢中になって回りながら追いかけた。身体が熱くなり、楽しくなってきた。たった一つの単純なことに、これほど無心になれたのは久しぶり。子供に戻った気分だ。
気がつくと、猫も一緒になって駆けずり回っていた。ゴロゴロと喉が鳴っている。
振り回す傘の内側には、たくさんの星が描かれていた。手描きのようだ。それに気がついた朋樹は、訳もなく急に切なさが込み上げる。もう戻れない遠い昔に思いを馳せるような切なさ。
「朋樹、思い出せ。思い出せ。ほら」
猫が夜空を指さした。見上げると、黒い絵の具を塗り込めたようだったそこには、いつのまにか無数の星が散らばっていた。
フワフワ舞っていたはずの羽根が、音もなく浮上していく。高く高く舞い上がって空に吸い込まれると、チカッと瞬き星になった。
猫が持った傘からも、小さな光が飛び立っていく。それは、まるで長く尾を引いたロケット花火のように。
ささやかな輝きは一つ、また一つと増えていく。広がる宇宙。それを、朋樹は不思議な気持ちで眺めていた。
「思い出せ、朋樹」
視線を猫に戻す。大きな瞳が濡れたように光っていた。その手が大事に持った傘は、星を一個も失っていない。
「……僕、どこかで君に会った?」
「思い出せ」
記憶の糸を手繰り寄せる。自分の奥深くに潜り込んでいく。指先に、チラッと何かが引っかかった感触がした。その毛色。瞳。
「わい、仔猫だったとき、朋樹に助けてもらった。川に捨てられた。流されそうだった。朋樹、救い出してくれた」
朋樹は、あっ、と声を上げそうになった。
思い出した。小学校からの帰り道、土手の下の細い川にダンボール箱が放置されているのを見つけた。中には、小さな猫がいた。
箱は葦になんとか引っかかっている感じで、すぐにも流されそうだった。朋樹に迷いはなかった。土手を転がるように下りて、ドブ臭い川に手も足も突っ込み、痩せた仔猫が入った箱を拾い上げた。仔猫はみー、みー、と鳴いていた。
あの日も、雨が降っていた。こんなひどいことをする誰かが許せなくて、朋樹の頬はしょっぱく濡れた。
あの仔猫は確かに茶色い縞模様で、口からお腹にかけて白い毛並みをしていた気がする。鼻の下のブチも同じ。
まさか、と朋樹は首を振った。でも、猫の手に握られた傘こそが、確かな証拠だった。
当時、朋樹の家族は賃貸アパートに住んでいた。動物と一緒に暮らすことはできなかった。
間違っても流されない土手の上に、仔猫を箱ごと避難させたものの、連れて帰ることはできない。それでも、朋樹はしばらく立ち去ることができなかった。
考えて、考えて、考え抜いたあげく、朋樹はお気に入りの傘を仔猫にあげた。内側に黄色いマジックでたくさんの星を描いた、青い傘を。
気分が沈みがちになる雨の日を、楽しく過ごせるように。ポジティブの塊だった幼い頃の朋樹が捻り出した、会心のアイデアが詰まった傘。
「でも……でも、僕は、君を救ってなんかいない」
次の日、同じ場所に仔猫はいなかった。
入れられていた箱も、朋樹があげた傘もなかった。心優しい誰かに拾われたのか、それとも最悪のケースか。
前者であることを強く祈るけど、どちらにしたって、朋樹が救いの手を差しのべられなかったことには変わりない。心に重く厚い雲が垂れ込めるのを、朋樹は感じていた。
「朋樹。結果、どうでもいい」
知らず知らずのうちにうなだれていた頭を、朋樹はハッと上げた。
「大事なのは、そのとき、朋樹がわいのために泣いてくれたこと。嬉しかった。わい、忘れない。素敵な傘、楽しくなれる傘。朋樹が魔法をくれた」
猫が長靴の底で地面を叩く。氷が割れる澄んだ音が響き渡り、空の色はいっぺんに明るくなり、踏んだ場所から巨大な七色の虹が現れた。
「思い出せ、朋樹。弱くない。朋樹の中、優しい強い心、いっぱい」
そう言って、猫は虹のたもとに足を踏み出す。踏まれた箇所の七色が、ゆらゆらと湖面のように揺らめいた。
「……ま、待って」
朋樹は手を伸ばす。
「遊ぼう。悲しいだめ。楽しいほうがずっといい。限りある時間。遊ぼう」
猫は笑っていた。永遠のサヨナラの予感がする。
朋樹はいつしか泣いていた。
でも、それは悲しみとか、別れの寂しさからじゃなかった。小学生だった朋樹の頬を濡らした、あの塩辛い冷たさとは違う。温かかった。
猫は青い傘をさし、虹の先を見据えると、どんどん昇っていく。踏まれるたびにゆがむ虹の表面。黄色い長靴の足跡。追いかけるようにして、するするとカラフルな色彩が消えていく。虹の橋が音もなく消えていく。
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