始まりの猫

朋藤チルヲ

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星のアンブレラと黄色い長靴

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 肌掛けに潜り込んだものの、朋樹はなかなか寝つけないでいた。何度目かの寝返りをした耳に、雨が窓にしとしとと触れる音にまぎれて、足音が聴こえた。

 弾力性のある素材の靴の音。踏まれた雨水が、パリンと割れる音を立てて跳ね返る。

 ひどく響く音だ、と思った。夜中で、しかも雨。出歩く人がいるとは意外だった。

 しかし、アパートの部屋の中にいるのに、外を通る足音が、これほど鮮明に聴こえるものだろうか。まるで耳元で鳴っているかのようだ。

 そして、不思議なことに、その靴音は、一階にある朋樹の部屋の前を通り過ぎていくのではなく、まっすぐ向かってきているように感じられた。




「朋樹」




 不意に耳のすぐ近くで声がして、朋樹は文字通り飛び上がった。

 落ちてきた場所で、今度は腰を抜かしそうになる。布団の上に座り込んだ朋樹を見下ろしていたのは、二本足で立った猫だった。

 とても大きい。ライオンのようだ。朋樹が立ち上がれば、その胸くらいにまで三角耳の先っぽが届くかもしれない。でも、正真正銘、猫だ。

 茶色い縞々の毛並み。口元からお腹にかけては、フサフサと白い。ピンと長いヒゲ。モコモコとした鼻の下の右側にだけ、茶色いブチがあった。尻尾も縞々。床につかないギリギリのところで、先端を上向きにカーブさせている。童話のキャラクターさながらに、黄色い長靴を履いていた。

 猫は、真っ黒い大きな瞳孔でじっと朋樹を見つめている。さした雨傘の先端から、ポツリ、ポツリ、と水滴がしたたって朋樹の頬に落ちた。




「朋樹、遊ぼう。外、行こう」




 猫は、にゃあ、とは言わなかった。日本語を喋った。しかも、カタコト。どこからどう突っ込んでいいものやら、何が何やら、わからない。

 そうか、これは夢だ、と朋樹は悟った。いつのまにか眠っていたのだ。

 夢ならば、突拍子もないことが起こっても、辻褄が合わなくても、しかたのないことだ。夢は記憶の整理作業。その工程のさなかで、ごちゃ混ぜになった記憶の断片同士が、時々あり得ない向きで繋がることがある。

 開けっ放しの口がカラカラになった頃、朋樹は喉の奥から声をしぼり出した。

「……遊べない。もう夜も遅いし、明日も仕事だし、外は雨が降ってる」

 こちらの言うことは通じるのだろうか。

「遊ぼう、朋樹。雨、しかたない」

 言葉は通じているようだ。だけど、猫は聞く耳を持たなかった。

「わい、朋樹と遊ぼう。外、行こう」

 猫はそう言うと、青い傘の柄を握っていないほうの手で、朋樹の手首を掴んだ。ぷにぷにした肉球が、怪物的な力でそのまま引っ張り上げる。

「うわぁ!」

 そうして、玄関へと引きずっていく。朋樹はつんのめるようにしながらも、なんとかついて行った。ついて行かざるを得なかった。

 玄関ドアのロックは外れていた。ドアが少しだけ開いて、深い夜が覗いている。戸締まりはきちんとしたはずだ。内鍵なのに、どうやって開けたんだろう? 猫が合鍵を持っているわけがない。

 朋樹は混乱した。でも、すぐに考えることをやめた。これは夢なのだ。

 押し開けたドアの先は、狭い駐車場。冷たい雨に濡れたコンクリートが黒っぽい。落ちてくる雨粒は、先程よりも大きくなっている。ピチピチと弾ける音は、カエルが水面に顔を出して呼吸するのに似ていた。

 玄関のドアを開けたままで、そこに二人で立ち尽くす。

「……ほら、見ろ。傘がないわけじゃないけど、わざわざ傘を広げてまで遊びたい気分じゃないよ。かといって、濡れるのはもっと嫌だからな」

 朝晩はまだ冷える。この時期に降る雨は、濡れたら確実に風邪を引くだろう。熱が出たら会社を休む口実になるなんて、手放しには喜べない。一度休んだら、次に行く時によけいに憂鬱になる。

「もう、大丈夫、今は」

 猫は言った。

「え?」

 戸惑う朋樹の横で、猫はパチンと指を弾いた。いや、尖った爪を。

 そのとたん、雨は星、いや、金平糖になった。

 一粒一粒が、本物の星のように淡い光を放っている。水色、桃色、白に、黄色。色とりどりの金平糖が果てのない空から降ってきて、バラバラと地面に落ちて軽い音を立てる。

 朋樹はあんぐりと口を開けた。猫は満足そうにうなずく。

「これなら、濡れない」


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