始まりの猫

朋藤チルヲ

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星のアンブレラと黄色い長靴

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 例えば、小さな出来事に馬鹿馬鹿しいくらいにはしゃいで、心が空っぽになるくらい涙を流して笑い、脱け殻のようになって眠りにつきたい。




 夕食後、そんなふうに考えながら、朋樹ともきは歯を磨いていた。

 洗面台に備え付けの電灯。貧相な白熱球みたいな風情のくせして、やたらとまぶしい。鏡の表面に飛んでこびりついた、歯磨き粉の泡の痕をくっきりと浮かび上がらせている。

 汚ならしいが、ティッシュで拭う気力すらない。白い点々で汚れたままの鏡面に映る顔色は、今夜もすこぶる良くなかった。




 朋樹は、先月、転職をしたばかりだった。

 それまでの職場で得たスキルを活かし、さらに規模の大きな会社でステップアップをするつもりだった。三十歳目前で、独り身の今がチャンスだ。

 不安は微塵も感じなかった。仕事の大変さは今までの比じゃないだろうとはわかっていたけども、逆にやりがいがありそうだとワクワクしていた。好きな仕事だし、朋樹は元々前向きな性格だ。

 それに、以前の職場ではそれなりの成果を上げて、評価を貰えていた。多少の自惚れがあったことは否めない。

 新しいツールは、確かに難しかった。だけど、基礎ができていたので、ある程度使いこなせるようになるまでに、長い時間は要らなかった。

 初めて作成した記事を、朋樹は上司に自信満々で提出した。

 ダメ出しの嵐だった。何度修正しても、良い反応を貰えなかった。どうしたらいいのかわからなくなった。朋樹の自信は、ぽっきり折れた。

 次第に、会社へ向かうことが辛くなってきた。上司も同僚も、周りのみんなが馬鹿にした目で自分のことを見ている気がした。

 早まってしまった、と後悔した。あの場所には自分の居場所がない。あそこは、まだ自分が行くべき場所じゃなかった。

 だからと言って、元の場所に戻ることなど今さらできるはずもない。胸を張って出てきたのに、それこそ笑い者になってしまう。




 毎日毎日、心も身体も疲弊していく。時間は無限のループで、悩みにも終わりがこない。積み重なった疲れで、押し潰されてしまいそうだ。

 子供の頃は、些細なことに全力で喜んで、全力で怒って、全力で泣いて、クタクタになって空っぽで眠りについたら、翌朝にはスッキリしたのに。




 雨が降っていた。

 暑い季節へと移り変わっていくこの頃は、気象が不安定だ。それでも、朋樹が職場から、重い身体を引きずって自宅アパートに戻ってくるまでは、その気配を漂わせつつもなんとか持ちこたえていた。

 シャワーで汗を流し、遅い夕食であるカップラーメンをすすっている間に、とうとう降り出した。

 いつまでも歯を磨いているわけにもいかず、朋樹は口をゆすいだ。


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