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猫と北風
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猫から冬の匂いがした。
海の上を撫でてきたような、少しつんとして、ひやっとした冷たさが、鼻腔を抜けていく。
冬は、北風に乗ってやってくるものだと、それまでずっと信じていた。そうじゃなかった。
しゅんと寒々しい半透明の冬は、本当は猫の狭い額に乗っかってやってくるらしい。我が家の汚い八畳間にも、トコトコトコトコと。
大発見だ。
「なんか臭いの?」
佐川さんはコタツの真向かいで、ゆらゆら頼りないダンスを踊るみたいな、白い湯気の上がるマグカップから視線を上げた。
「君は知らなかっただろう」
わたしは自分のために淹れた熱々のルイボスティーそっちのけで、虎太郎と格闘している。
つい先程、散歩から戻ってきたところを捕獲したのは、猫ではなく鰻だったかと思いそうなほど、腕の中でぬるぬると虎太郎は落ち着かない。それでも、どうにかしてその匂いをもう一度確認しようと、嫌がる額に無理やり鼻を押しつけることに挑戦する。
「何が?」
「冬という季節は、寒太郎が連れてくるのではないのだよ。猫が連れてくるのだ」
自信たっぷりに言う。佐川さんは、ふ、と鼻から息を漏らして柔らかく笑った。
「本当だぞ。ここ、虎太郎のおでこから、冬の匂いがする」
指をさして示す場所は、彼の毛並みの中でも一際黒い部分。全体的に濃い茶色ではあるけど、どうしてそこだけ余計に焦げたのだ、と不思議に思う。
「そりゃ、外からきたんだもん。外気の匂いが移っているでしょ」
物知り顔で言う佐川さんは、冬の匂いって何、と邪険には訊かない。
「違う。さっに表に出たけど、空気はまだぜんぜん暖かかった。違うんだよ、冬の匂いは。そうじゃない」
佐川さんは驚いたように目を丸くした。
「表に出たの?」
「……うん。ゴミ出してきた」
「偉いね」
佐川さんはふんわりと、小学生の坊主頭を撫でる先生みたいに笑うから、わたしはなんだか、きゅう、と泣きそうになる。
外の世界の鮮やかさが恐ろしいと、玄関で立ちすくむわたしを、佐川さんはもうずいぶん見てきていた。
「今は、猫が冬を連れてくる説の話をしている」
そう強気に言って、目に力を入れて細めていないと、涙腺の蓋が開いてしまう気がした。
「そうか」
佐川さんは聞いているのかいないのか、静かな動作で顎を横にそむける。木目調の壁紙に掛けられている、会社からの貰い物のカレンダーを見た。
「もうそんな時期がくるんだね。五回目の冬だ」
佐川さんはいつだって聡明だけど、知らないことだって、実はたくさんある。
結婚しようってなった時、驚くべきことに、男性側が指輪を用意することを知らなかった。サンダルとミュールの違いもわからないし。柔軟剤をどのタイミングで投入するかも、いまだに把握できていない。
だから、わたしがちょっと厄介な病気にかかってしまった時、ものすごく慌てた。五年前のこと。
佐川さんは、手足が長いせいでつんてるてんのパジャマのまま、普段は滅多にめくることのない分厚い電話帳を引っくり返して、専門の病院を探した。
インターネットも漁った。一部のごく親しい友人にも、こっそりと相談していたみたいだ。
そうしていざ向かった病院で、「初診は予約が必要ですので」と門前払いを食らった際には、佐川さんは給食費を失くした子供みたいに、きゅっと小さく肩をすぼめていた。
でも、そんな佐川さんを頼りないと思ったことは、一度たりともない。
背が高くていつもパリッと姿勢が良いおかげで、どこかの教授みたいな印象であることも大きいけど、佐川さんはいつだって最後には、きちんと正しい答えを運んできてくれる。
「元気になったねぇ」
そう目尻をとろりと垂らす佐川さんは、こくりとカフェオレを一口飲んだ。
海の上を撫でてきたような、少しつんとして、ひやっとした冷たさが、鼻腔を抜けていく。
冬は、北風に乗ってやってくるものだと、それまでずっと信じていた。そうじゃなかった。
しゅんと寒々しい半透明の冬は、本当は猫の狭い額に乗っかってやってくるらしい。我が家の汚い八畳間にも、トコトコトコトコと。
大発見だ。
「なんか臭いの?」
佐川さんはコタツの真向かいで、ゆらゆら頼りないダンスを踊るみたいな、白い湯気の上がるマグカップから視線を上げた。
「君は知らなかっただろう」
わたしは自分のために淹れた熱々のルイボスティーそっちのけで、虎太郎と格闘している。
つい先程、散歩から戻ってきたところを捕獲したのは、猫ではなく鰻だったかと思いそうなほど、腕の中でぬるぬると虎太郎は落ち着かない。それでも、どうにかしてその匂いをもう一度確認しようと、嫌がる額に無理やり鼻を押しつけることに挑戦する。
「何が?」
「冬という季節は、寒太郎が連れてくるのではないのだよ。猫が連れてくるのだ」
自信たっぷりに言う。佐川さんは、ふ、と鼻から息を漏らして柔らかく笑った。
「本当だぞ。ここ、虎太郎のおでこから、冬の匂いがする」
指をさして示す場所は、彼の毛並みの中でも一際黒い部分。全体的に濃い茶色ではあるけど、どうしてそこだけ余計に焦げたのだ、と不思議に思う。
「そりゃ、外からきたんだもん。外気の匂いが移っているでしょ」
物知り顔で言う佐川さんは、冬の匂いって何、と邪険には訊かない。
「違う。さっに表に出たけど、空気はまだぜんぜん暖かかった。違うんだよ、冬の匂いは。そうじゃない」
佐川さんは驚いたように目を丸くした。
「表に出たの?」
「……うん。ゴミ出してきた」
「偉いね」
佐川さんはふんわりと、小学生の坊主頭を撫でる先生みたいに笑うから、わたしはなんだか、きゅう、と泣きそうになる。
外の世界の鮮やかさが恐ろしいと、玄関で立ちすくむわたしを、佐川さんはもうずいぶん見てきていた。
「今は、猫が冬を連れてくる説の話をしている」
そう強気に言って、目に力を入れて細めていないと、涙腺の蓋が開いてしまう気がした。
「そうか」
佐川さんは聞いているのかいないのか、静かな動作で顎を横にそむける。木目調の壁紙に掛けられている、会社からの貰い物のカレンダーを見た。
「もうそんな時期がくるんだね。五回目の冬だ」
佐川さんはいつだって聡明だけど、知らないことだって、実はたくさんある。
結婚しようってなった時、驚くべきことに、男性側が指輪を用意することを知らなかった。サンダルとミュールの違いもわからないし。柔軟剤をどのタイミングで投入するかも、いまだに把握できていない。
だから、わたしがちょっと厄介な病気にかかってしまった時、ものすごく慌てた。五年前のこと。
佐川さんは、手足が長いせいでつんてるてんのパジャマのまま、普段は滅多にめくることのない分厚い電話帳を引っくり返して、専門の病院を探した。
インターネットも漁った。一部のごく親しい友人にも、こっそりと相談していたみたいだ。
そうしていざ向かった病院で、「初診は予約が必要ですので」と門前払いを食らった際には、佐川さんは給食費を失くした子供みたいに、きゅっと小さく肩をすぼめていた。
でも、そんな佐川さんを頼りないと思ったことは、一度たりともない。
背が高くていつもパリッと姿勢が良いおかげで、どこかの教授みたいな印象であることも大きいけど、佐川さんはいつだって最後には、きちんと正しい答えを運んできてくれる。
「元気になったねぇ」
そう目尻をとろりと垂らす佐川さんは、こくりとカフェオレを一口飲んだ。
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