始まりの猫

朋藤チルヲ

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猫と北風

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 虎太郎を貰い受けることを決めたのは、佐川さんだ。

 わたしはその頃、病気のせいで、まったく仕事に行けなくなっていた。身体は至って健康なのに、心がうまく機能しない。

 そのショックで、趣味にも手がつかず、親や友達にすら怖くて会えず、生への執着すら失いかけていて、酸素を吸って吐くだけの毎日をやっと送っていた。

「猫を貰おうかと思うんだけど」

 ある日の朝、ポンコツ状態のわたしの代わりに食器を片づけたあと、しばらくスマホとにらめっこしていた佐川さんは、唐突に言った。日曜日で、佐川さんは仕事が休みだった。

「知り合いの家で、仔猫が産まれたんだって」

 わたしは座椅子に沈み込んだまま、返事をしなかった。物事を考える余裕がなかった。イエスとノーでさえ、すんなり導き出せない。

 ただ、佐川さん、猫触れないくせに、と思った。

 わたしは幼い頃から猫が大好きで、物心ついた時から、自分のそばにいつも猫がいたことを覚えている。実家を出て、佐川さんと二人でアパート暮らしを始めてからは、よくデートと称して猫カフェへ出向いた。

 そんな時も佐川さんは、猫を遠巻きに見ているだけで、結局触れられなかった。どうしてそんな人が、猫と一緒に生活しようなんて言うのだ。

「見てごらん。可愛いよね」

 佐川さんが、友達がスマホに送ってくれたという仔猫の写真を、腕を伸ばしてわたしに見せる。

 そのとたん、わたしは涙を流した。胸が詰まって、しばらく涙を止められなかった。

 仔猫の譲渡の話は、わたしをよそにトントン拍子に進み、次の佐川さんの休日の午後、初めて対面することになった。その時も、わたしはやっぱり泣いてしまい、仔猫のこんがり焦げたみたいな黒い頭に、ぽとぽとと涙の粒を落とした。

 愛おしいわけではなかった。わたしはただ、大きな後悔の念に押し潰されそうでいた。

 故障した家電の応急処置であるとか、冠婚葬祭のマナーであるとか、そういった知識では、わたしは佐川さんに敵うことは一個もない。

 でも、猫のことに関しては、わたしは佐川さんなんかよりずっとずっとエキスパートだ。そんなわたしだけど、長い間、猫を家族に迎え入れることを避けてきた。

 それは、中学生の頃に受けたトラウマが起因している。その事実を、婚姻届を提出する前夜の告白で、佐川さんは初めて知った。

「きっと誰もが持つ可能性のある感情だと思うよ。それに、君はまだ子供だった」

 布団の中で、佐川さんは眠気なんか感じさせない声で、当然のことのようにスパッと言った。

 わたしはたぶんそう言って欲しかったので、そんな自分がひどく醜く恥ずかしく思えて、布団を頭から被って「違う違う」と泣きじゃくった。

「そうやって後悔するってことは、ちゃんと愛していたってことだよ」

「違う。きっと本当に愛していなかった」

 そうじゃなかったら、いくらあの子の足が膿んでしまったからって、距離を置いてしまうはずがないもの。臭うからって、おざなりに扱うはずがないもの。

 独りきりで死なせてしまうはずがないもの。

「じゃあ、これから愛そうよ。一生懸命愛そうよ」

 佐川さんは照れることもなく、青空みたいにスカッと言った。

 わたしの心がそれで気持ちよく晴れ渡るなんて、そんなに事は都合よくいかない。だけど、厚い雲の隙間から、チカッと光の気配を感じたことは確かだった。

 まったく同じセリフを、虎太郎と会った時にも言ってくれた。

 佐川さんは強い。

 佐川さんはしゃんとしている。

 でも、わたしは知っている。

 二人の挙式が済んで、お披露目のパーティーも終わって、出席できなかった方々へのお礼回りも無事終了した夜。倒れて、急激に神経を病んでしまったわたし。

 取り乱すわたしを、持ち前のおおらかさでなだめ、落ち着かせて、寝かしつけたあとで。

 佐川さんは、独りで泣いていた。

 台所の小さな明かりをつけて、コップにビールを半分くらい注いで、でも、それに口をつけることもしないまま、しくしくと泣いていた。惨めなくらいささやかな蛍光灯の光が、佐川さんの濡れた頬を照らしていた。

 これから本格的にやってくるだろう冬は、優しすぎるこの人にはきっと厳しい。わたしは、優しさと弱さは紙一重だと考えていた。

 だけど、佐川さんを解放してあげることなど、できなかった。わたしは佐川さんがいなかったら、独りでは何もできない。生きていくことさえ。

 でも、そんな心配は不要だった。

 そんな時でさえ、佐川さんはちゃんと自分で解決策を見つけていたのだ。

 それが、虎太郎を譲り受けること、だった。


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