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#24 二人のスパダリ
24-4 二人のスパダリ
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愛らしい小鳥のさえずり。レースカーテンから漏れる陽だまり。世界は虹色に輝いていた。
歌いながら伸びをすれば、窓から忍び込んだ数羽のコマドリがくちばしに袖を咥えて、ベッドサイドまで着替えを運んできてくれるだろう。そんなことはありもしなかったが、代わりに番犬のチワワが布団の上に飛び乗り、六人目の飼い主の顔を舐め始めた。
「んぶっ……やめ、くすぐったいよ!」
気分はネズミ映画の主人公だった。
今なら、継母からどれだけひどい仕打ちを受けても耐え忍べるだろう。仲間たちからのクリスマスプレゼントである、愛用のルームウェアに袖を通してリビングへ降りた。
「おはよう、紫音」
起きる順は大抵決まっていて、早朝の乾布摩擦を欠かさない櫂人、永久料理当番の奏多、モーニングルーティンのスキンケアに余念が無い佑真。夜更かししがちな大地は一番遅い。
今日は夕方から、ドームツアーに向けた打ち合わせとダンスの練習を控えている。それまでは、各自自由に過ごす予定だった。紫音は朝食の前にプリンの散歩当番だ。
変装がキャップだけの軽装で済むのは、老人ホームなど高齢者が多いエリアだからだ。必然的にアイドルより落語家の認知度の方が高い。杖をついて散歩していた老婆がプリンに笑いかけた。
「今日も可愛いねぇ、マカロンや」
遭遇するたびにジャーキーをくれるので、名前を訂正するのも憚られるようになった。
礼を言って世間話をするが、話題は天気と決まっている。そんな日曜の平穏は、前触れもなく打ち砕かれた。住宅街上空を劈く、珍しい飛行音。出し抜けに現れた一台のヘリが、突如降下してきたのだ。
――ゴォォ……バリバリバリバリバリ!
先に異変に気付いたのはプリンの方だった。突風に耐えられず地面に伏せ、両目をひん剝いて威嚇している。紫音がつばを少し持ち上げると、寮の10メートル上空まで迫り来た機体の扉が開いた。眩しい朝陽を遮り、ホイストを伝って颯爽と降りてくる人影が見える。
その人物は粋な偏光サングラスをかけ、黒を基調としたコーデに上品なファーストールを巻いていた。ドレスブーツの踵を鳴らしながら優雅に着地した男の顔を見て、紫音は目を丸くした。
「えっ……たあ君!?」
桐谷は朝の澄んだ空気と同じく爽やかに微笑み、幼馴染を抱きすくめた。凄まじいローターの回転音に負けないよう、紫音の耳元で話しかける。
「おはよう!朝ご飯は食べた?」
「?まだだけど――……」
紫音は精一杯の声量で言い返すが、その問いの真意は掴みかねた。なぜ寮の場所を知っているのか、聞くべきことは山ほどあっても起き抜けで頭が回らなかった。
「じゃあ、一緒に食べよう。プリンも連れて!」
この轟音では、滞在していても近所迷惑だろう。
今や世界的企業の社長という多忙な身でせっかく訪ねてきてくれたのに、断る理由は無かった。旧友の笑顔に根負けして、紫音は頷く。あれよあれよという間にハーネスを装着され、カラビナでワイヤーに連結された。尻尾を振って胸に飛び込んできたプリンを桐谷が片手で抱えると、二人と一匹の体は宙に浮いた。
紫音は浮遊する感覚を不思議に思いながら、地上の老婆と、そして寮から見送りに来てくれたらしい仲間たちに手を振った。
「しーちゃんがなかなか返事くれないから、会いに来ちゃった」
「あ……!ごめん、そういえばタイミング逃してばっかりで」
返信をしようとするたびに横やりが入ったため、既読スルー7連発をかましてしまった。
しかし、メッセージでも咎めることなく、持ち前のフットワークでこうして会いに来てくれたのだ。ワイヤーで吊り上げられる途中、機体に燦然と輝く社名ロゴにも感動を覚えた。
「これって自社ヘリだったんだ!すごいね、さすが社長さん」
「でしょ?せっかくだから、空のドライブ楽しんじゃおう」
パイロットの案内の下、飛行ルート直下の大自然を横断していく。木々の間に朝霧が舞い、きらきらと光を反射する多摩川の支流。雪化粧した北アルプスの峰々。プリンも大喜びで窓に鼻を押しつけて絶景を眺めていた。
出発から40分ほど過ぎた頃だろうか。県境を二つ越え、雪深い山中の集落が見えてくると目的地は近かった。都心から180km先の広々とした駐車場に、ヘリはダイナミックに着陸した。
見渡すばかり雪景色の中にひっそりと佇む老舗店は、旧華族のかつての邸宅らしい威厳を醸し出している。信州紬の暖簾が山風にそよぐ玄関から、女将が柔らかな笑みで出迎えた。
「お待ちしておりました、桐谷様」
枯れ枝の陰影が雅な露地庭に映える、こじんまりとした奥座敷へと通される。ごまたんのアップリケが目立つラフな恰好で来たことが悔やまれた。
紫音は思い出したようにグループトークに朝食を食べてくると連絡を入れようとしたが、如何せん圏外だ。せっかくなので自然の静寂と平穏に浸ることにした。
「素敵なお店だね。ここ、よく来るの?」
「冬は寒さで蕎麦の甘みが増して美味しいから、毎年食べに来るよ。楽しみにしてて」
気軽にヘリで長野まで蕎麦を食べに来るとは、やはり富豪リストに名を連ねる人間はスケールが違う。
だし巻き卵や山菜の炊き合わせなど、素朴ながらも懐石風の郷土料理が運ばれてくる。主役として供されたのは、冬らしい柚子の香りが立ち上る、信州産のそば粉を使った十割蕎麦だ。そば粉本来が持つしっとりとした舌触りと香ばしさに、紫音は瞳を輝かせる。
「地元じゃ、十割蕎麦なんて滅多に食べられなかったよね」
「うん、やっぱり本場は格別だよね。雪景色も贅沢だし、最高」
急な訪問に少し身構えていたが、夏は縁側でスイカを食べ、冬は桜鍋を囲んだ記憶が思い出された。そして、昨日母親に見せてもらった懐かしい一枚も。朧げだった過去のピースが一つ一つ集まっていくようだ。
「たまには帰省してる?世界中あちこち飛び回って忙しいだろうけど……」
「なるべく定期的に帰ってるよ。急な出張も多いけど、仕事は楽しくやってるからさ。こうして、時々息抜きしてね」
一代でモーモー帝国を築いただけでなく、自己管理にも長けている。仕事も私生活も謳歌している彼に、紫音は純粋な尊敬と関心を抱いた。
「紫音の方こそ頑張ってるだろ。パリ滞在中に、Digorの広告見てすぐに分かったよ」
そば茶を啜っていた桐谷は、花の都を彩る巨大広告を見た時の感動そのままに目を細めた。
生放送をハイジャックした大胆不敵な側面とは打って変わって、旧友の代表作を手放しで喜ぶ素直さは変わっていないらしい。
「新しいミューズのシオンが、しーちゃんだって。夢を叶えられたんだって思った」
まだちっぽけな子供だった頃に思い描いた夢。
随分あっさりした別れ方をしたような記憶があるのに、離れていても覚えていて時折気に掛けてくれていたことがわかる。二十年近くという、気の遠くなりそうな隔たりが一気に縮まった気がした。
「僕はまだまだだよ……それに、たあ君のおかげでもあるし。あの時、唯一味方してくれたから」
「覚えててくれたんだ。しーちゃんはクラスで一番可愛かったから、絶対なれるって信じてたよ」
心なしか、座敷に漂う空気が甘く煮詰まっていく。
降り積もる雪のように澄んだ瞳に、紫音は吸い込まれそうになった。
そこへ、庭先を駆け回っていたプリンが戻って来る。わずかに残っていた炊き込みご飯を平らげ、満足げにピンク色のお腹を見せた。桐谷は少年のようにあどけなく笑った。
「実はここ、本館が旅館になっててさ。せっかくだし、温泉に入っていかない?昔もよく一緒にお風呂入ったよね」
蕎麦で五臓六腑が温まったが、雪域の寒さをしのぐには心許ない。体の芯まで温まれるのは、嬉しい計らいだった。
古城のほとりに生い茂る深い森の先、手配してくれたという貸切温泉の離れへ向かう。源泉からほど近い、木の香漂う空間が広がっていた。ハイブランドの服を脱ぎ去った桐谷の肉体美に、紫音は思わず見惚れてしまう。さすがはその秀逸な美貌で、世間を賑わせているだけはある。続いて目を引いたのは、湯船に浮かぶ沢山の果実だった。
「見て、たあ君!」
湯の波に打たれてぷかぷかと揺れるのは、甘酸っぱい香りのりんごである。
さっそく湯船に入るのに紫音が掛け湯をしていると、背中をなぞる感触が走った。閑散とした一帯に、素っ頓狂な声が響き渡る。
「へゃうっ!?」
「……これ、彼氏につけられた?」
抑揚の無い声がして紫音が振り返ると、鍛え上げられた肉体が驚くほど間近にあった。
「へえ、やっぱりあの人と付き合うことにしたんだね」
一度きりだったが、接触した主人の存在をしっかりと記憶しているようだ。
頭の回転が早いやり手の経営者の前では、いくら誤魔化しても無駄だろう。桐谷は不敵に微笑むと、豪快に湯船に浸かった。
「一足先に取られちゃったな。俺、本気だったのに伝わってなかった?」
「えっ?……そもそも、この間のは会社の宣伝も兼ねてたんでしょ」
りんごを掻き分けて隣に座った紫音は、メンバーの考察により至った結論を投げかける。
誇大なパフォーマンスがあってこそ、結果的に本人と会社への注目度はうなぎ上りになったのだから。美しい紫のバラの花束に胸をときめかされたのは、否めなかったが。
「そんなワケないよ。すでにCMは見飽きるぐらい打ってるのに」
土曜のゴールデンタイムに流れていたとおり、その事実は紫音自身で確かめたとおりだ。
「紫音のこと、ずっと探してたのも本当。それに……あの時の約束も、ちゃんと守ったよ」
「約束って……何のこと?」
住む世界が違う成功者の彼から向けられる好意が、やはり腑に落ちない。
紫音は目を白黒させ、湯気に霞む幼馴染の顔をじっと見つめた。
「ハァ……引っ越しの時言ったのに傷つくな」
忘れても仕方ないか。
そう苦笑した桐谷は、紫音の腰に手を回して抱き寄せた。蒸気に包まれた肌の上で、ネックレスのプラチナチェーンに光るダイヤが輝く。
「億万長者の社長になって迎えに行くって」
歌いながら伸びをすれば、窓から忍び込んだ数羽のコマドリがくちばしに袖を咥えて、ベッドサイドまで着替えを運んできてくれるだろう。そんなことはありもしなかったが、代わりに番犬のチワワが布団の上に飛び乗り、六人目の飼い主の顔を舐め始めた。
「んぶっ……やめ、くすぐったいよ!」
気分はネズミ映画の主人公だった。
今なら、継母からどれだけひどい仕打ちを受けても耐え忍べるだろう。仲間たちからのクリスマスプレゼントである、愛用のルームウェアに袖を通してリビングへ降りた。
「おはよう、紫音」
起きる順は大抵決まっていて、早朝の乾布摩擦を欠かさない櫂人、永久料理当番の奏多、モーニングルーティンのスキンケアに余念が無い佑真。夜更かししがちな大地は一番遅い。
今日は夕方から、ドームツアーに向けた打ち合わせとダンスの練習を控えている。それまでは、各自自由に過ごす予定だった。紫音は朝食の前にプリンの散歩当番だ。
変装がキャップだけの軽装で済むのは、老人ホームなど高齢者が多いエリアだからだ。必然的にアイドルより落語家の認知度の方が高い。杖をついて散歩していた老婆がプリンに笑いかけた。
「今日も可愛いねぇ、マカロンや」
遭遇するたびにジャーキーをくれるので、名前を訂正するのも憚られるようになった。
礼を言って世間話をするが、話題は天気と決まっている。そんな日曜の平穏は、前触れもなく打ち砕かれた。住宅街上空を劈く、珍しい飛行音。出し抜けに現れた一台のヘリが、突如降下してきたのだ。
――ゴォォ……バリバリバリバリバリ!
先に異変に気付いたのはプリンの方だった。突風に耐えられず地面に伏せ、両目をひん剝いて威嚇している。紫音がつばを少し持ち上げると、寮の10メートル上空まで迫り来た機体の扉が開いた。眩しい朝陽を遮り、ホイストを伝って颯爽と降りてくる人影が見える。
その人物は粋な偏光サングラスをかけ、黒を基調としたコーデに上品なファーストールを巻いていた。ドレスブーツの踵を鳴らしながら優雅に着地した男の顔を見て、紫音は目を丸くした。
「えっ……たあ君!?」
桐谷は朝の澄んだ空気と同じく爽やかに微笑み、幼馴染を抱きすくめた。凄まじいローターの回転音に負けないよう、紫音の耳元で話しかける。
「おはよう!朝ご飯は食べた?」
「?まだだけど――……」
紫音は精一杯の声量で言い返すが、その問いの真意は掴みかねた。なぜ寮の場所を知っているのか、聞くべきことは山ほどあっても起き抜けで頭が回らなかった。
「じゃあ、一緒に食べよう。プリンも連れて!」
この轟音では、滞在していても近所迷惑だろう。
今や世界的企業の社長という多忙な身でせっかく訪ねてきてくれたのに、断る理由は無かった。旧友の笑顔に根負けして、紫音は頷く。あれよあれよという間にハーネスを装着され、カラビナでワイヤーに連結された。尻尾を振って胸に飛び込んできたプリンを桐谷が片手で抱えると、二人と一匹の体は宙に浮いた。
紫音は浮遊する感覚を不思議に思いながら、地上の老婆と、そして寮から見送りに来てくれたらしい仲間たちに手を振った。
「しーちゃんがなかなか返事くれないから、会いに来ちゃった」
「あ……!ごめん、そういえばタイミング逃してばっかりで」
返信をしようとするたびに横やりが入ったため、既読スルー7連発をかましてしまった。
しかし、メッセージでも咎めることなく、持ち前のフットワークでこうして会いに来てくれたのだ。ワイヤーで吊り上げられる途中、機体に燦然と輝く社名ロゴにも感動を覚えた。
「これって自社ヘリだったんだ!すごいね、さすが社長さん」
「でしょ?せっかくだから、空のドライブ楽しんじゃおう」
パイロットの案内の下、飛行ルート直下の大自然を横断していく。木々の間に朝霧が舞い、きらきらと光を反射する多摩川の支流。雪化粧した北アルプスの峰々。プリンも大喜びで窓に鼻を押しつけて絶景を眺めていた。
出発から40分ほど過ぎた頃だろうか。県境を二つ越え、雪深い山中の集落が見えてくると目的地は近かった。都心から180km先の広々とした駐車場に、ヘリはダイナミックに着陸した。
見渡すばかり雪景色の中にひっそりと佇む老舗店は、旧華族のかつての邸宅らしい威厳を醸し出している。信州紬の暖簾が山風にそよぐ玄関から、女将が柔らかな笑みで出迎えた。
「お待ちしておりました、桐谷様」
枯れ枝の陰影が雅な露地庭に映える、こじんまりとした奥座敷へと通される。ごまたんのアップリケが目立つラフな恰好で来たことが悔やまれた。
紫音は思い出したようにグループトークに朝食を食べてくると連絡を入れようとしたが、如何せん圏外だ。せっかくなので自然の静寂と平穏に浸ることにした。
「素敵なお店だね。ここ、よく来るの?」
「冬は寒さで蕎麦の甘みが増して美味しいから、毎年食べに来るよ。楽しみにしてて」
気軽にヘリで長野まで蕎麦を食べに来るとは、やはり富豪リストに名を連ねる人間はスケールが違う。
だし巻き卵や山菜の炊き合わせなど、素朴ながらも懐石風の郷土料理が運ばれてくる。主役として供されたのは、冬らしい柚子の香りが立ち上る、信州産のそば粉を使った十割蕎麦だ。そば粉本来が持つしっとりとした舌触りと香ばしさに、紫音は瞳を輝かせる。
「地元じゃ、十割蕎麦なんて滅多に食べられなかったよね」
「うん、やっぱり本場は格別だよね。雪景色も贅沢だし、最高」
急な訪問に少し身構えていたが、夏は縁側でスイカを食べ、冬は桜鍋を囲んだ記憶が思い出された。そして、昨日母親に見せてもらった懐かしい一枚も。朧げだった過去のピースが一つ一つ集まっていくようだ。
「たまには帰省してる?世界中あちこち飛び回って忙しいだろうけど……」
「なるべく定期的に帰ってるよ。急な出張も多いけど、仕事は楽しくやってるからさ。こうして、時々息抜きしてね」
一代でモーモー帝国を築いただけでなく、自己管理にも長けている。仕事も私生活も謳歌している彼に、紫音は純粋な尊敬と関心を抱いた。
「紫音の方こそ頑張ってるだろ。パリ滞在中に、Digorの広告見てすぐに分かったよ」
そば茶を啜っていた桐谷は、花の都を彩る巨大広告を見た時の感動そのままに目を細めた。
生放送をハイジャックした大胆不敵な側面とは打って変わって、旧友の代表作を手放しで喜ぶ素直さは変わっていないらしい。
「新しいミューズのシオンが、しーちゃんだって。夢を叶えられたんだって思った」
まだちっぽけな子供だった頃に思い描いた夢。
随分あっさりした別れ方をしたような記憶があるのに、離れていても覚えていて時折気に掛けてくれていたことがわかる。二十年近くという、気の遠くなりそうな隔たりが一気に縮まった気がした。
「僕はまだまだだよ……それに、たあ君のおかげでもあるし。あの時、唯一味方してくれたから」
「覚えててくれたんだ。しーちゃんはクラスで一番可愛かったから、絶対なれるって信じてたよ」
心なしか、座敷に漂う空気が甘く煮詰まっていく。
降り積もる雪のように澄んだ瞳に、紫音は吸い込まれそうになった。
そこへ、庭先を駆け回っていたプリンが戻って来る。わずかに残っていた炊き込みご飯を平らげ、満足げにピンク色のお腹を見せた。桐谷は少年のようにあどけなく笑った。
「実はここ、本館が旅館になっててさ。せっかくだし、温泉に入っていかない?昔もよく一緒にお風呂入ったよね」
蕎麦で五臓六腑が温まったが、雪域の寒さをしのぐには心許ない。体の芯まで温まれるのは、嬉しい計らいだった。
古城のほとりに生い茂る深い森の先、手配してくれたという貸切温泉の離れへ向かう。源泉からほど近い、木の香漂う空間が広がっていた。ハイブランドの服を脱ぎ去った桐谷の肉体美に、紫音は思わず見惚れてしまう。さすがはその秀逸な美貌で、世間を賑わせているだけはある。続いて目を引いたのは、湯船に浮かぶ沢山の果実だった。
「見て、たあ君!」
湯の波に打たれてぷかぷかと揺れるのは、甘酸っぱい香りのりんごである。
さっそく湯船に入るのに紫音が掛け湯をしていると、背中をなぞる感触が走った。閑散とした一帯に、素っ頓狂な声が響き渡る。
「へゃうっ!?」
「……これ、彼氏につけられた?」
抑揚の無い声がして紫音が振り返ると、鍛え上げられた肉体が驚くほど間近にあった。
「へえ、やっぱりあの人と付き合うことにしたんだね」
一度きりだったが、接触した主人の存在をしっかりと記憶しているようだ。
頭の回転が早いやり手の経営者の前では、いくら誤魔化しても無駄だろう。桐谷は不敵に微笑むと、豪快に湯船に浸かった。
「一足先に取られちゃったな。俺、本気だったのに伝わってなかった?」
「えっ?……そもそも、この間のは会社の宣伝も兼ねてたんでしょ」
りんごを掻き分けて隣に座った紫音は、メンバーの考察により至った結論を投げかける。
誇大なパフォーマンスがあってこそ、結果的に本人と会社への注目度はうなぎ上りになったのだから。美しい紫のバラの花束に胸をときめかされたのは、否めなかったが。
「そんなワケないよ。すでにCMは見飽きるぐらい打ってるのに」
土曜のゴールデンタイムに流れていたとおり、その事実は紫音自身で確かめたとおりだ。
「紫音のこと、ずっと探してたのも本当。それに……あの時の約束も、ちゃんと守ったよ」
「約束って……何のこと?」
住む世界が違う成功者の彼から向けられる好意が、やはり腑に落ちない。
紫音は目を白黒させ、湯気に霞む幼馴染の顔をじっと見つめた。
「ハァ……引っ越しの時言ったのに傷つくな」
忘れても仕方ないか。
そう苦笑した桐谷は、紫音の腰に手を回して抱き寄せた。蒸気に包まれた肌の上で、ネックレスのプラチナチェーンに光るダイヤが輝く。
「億万長者の社長になって迎えに行くって」
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