絶香の塔

皇 いちこ

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第一章 息

2. 誰が為の祈り

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食器が割れる甲高い音。
ひっくり返された部屋中の櫃と、糸の千切れた小袋。
次いで、濁った椰子酒の匂いが鼻を刺す。
甘酸っぱく腐り、鉄のような血の匂いと混じり合って、枯れ果てた喉の奥を焼いた。

母は床に伏していた。
自慢の亜麻髪を掴まれ、引きずられ、何度も何度も名前を呼んでいた。誰の名だったのか、幼いライラには分からなかった。ただ、助けを求める声だった。

それ以上叫ぼうとしても、全神経が機能を止めていた。
怪物が空の瓶を残して消えた後、ようやく手足が動く。

「母さんは……僕が守るから!」

涙に濡れた誓いと同時に、何かがぶつかる鈍い衝撃がした。
視界が白く弾け、世界が裏返る。
――そこで、目が覚めた。

ヒュッと肺の奥で息を呑み、ライラは跳ね起きた。
蜘蛛の巣が張った天井梁。ひび割れた壁。自分ひとり分の寝台。皿の破片も、怒号も、酒臭さもない。
あるのは、明け方の静寂だけだった。

心臓を鷲掴みにされたような息苦しさ。背中に冷たい汗が滲み、口の中がやけに乾いていた。発情ヒートは当分先だ。だが、肉体はまだ過去の中に取り残されている。

恐怖を、身体が覚えている。
それがオメガである代償だということを、ライラは知っていた。

ゆっくりと呼吸を整え、寝台を降りる。
窓帷を捲ると、市井の暮らしが流れ込んできた。土と家畜と、遠くで焚かれる安い香木の煙。生きている匂いだ。

今朝は仕入れがない。
それだけで、肩の力が微かに抜けた。

一階の炊事場に下り、汲み置きの井戸水で身体を清めた。
裏庭でロバに乾草を与え、毛並みを整える。手を動かす単純な作業は、思考を鎮めるのにちょうどよかった。
自分も簡単な食事を摂る。香草を煮ただけの薄いスープ。塩は控えめ。鼻腔と血流への過度な刺激を避けるための、長年の習慣だ。

香檀での祈りは短く済ませた。
言葉は喉元を通り抜けるだけで、胸には落とさない。

香は御前の徴、我らは器アル=イトル・アーヤトゥカ、ワ・ナフヌ・アウイヤ

目覚めに息を授かったこと。
正午に香を焚くこと。
日没に魂を返すこと。

守らなければならないと教え込まれた規律。
だが今のライラにとって、それは信仰というより、縛りに近かった。

工房の机に向かう。
使う器具は変わらず粗末だが、自らの身体を管理し、他者を生かすための儀式が始まろうとしていた。

乳香の屑を選り分け、青蓮の花弁を刻む。没薬はほんの微量だけ。秤の針が震えるのを、息を詰めて見守る。
粉を蜂蜜で練ったら、小さな丸錠に整える。舌に残る苦みは、効き目の証だった。

《サムト・アル=ナフス》――魂の沈黙。

それが、この抑制剤の名だ。
血中に溢れるフェロモンを、香で包み、外へ漏れ出すのを抑えつける。完全に止めることはできない。ただ、衝動を弱め、痛みを鈍らせる。三か月おきに訪れる発情期にも、半日横になるだけで済むようになった。

少しでも用量を誤れば、反動はひどくなる。
それでも、己の体質を研究し尽くした末の配合だった。

自分の分を封じ、小瓶に分ける。
続いて、これから訪ねる子どもたちのために、低刺激のものを調合する。成分を落とし、副作用を最小限に抑えたものだ。

――オメガは、無力ではない。
そう言い聞かせるように、ライラは香を混ぜ続けた。

外が少しずつ騒がしくなり、昼の足音が近づく。
午後の下市は、光が鈍く濁っている。
まばらに雑草が生えた地面に、熱が溜まる時間帯だ。

共同井戸を通り過ぎると、人の声は急に減り、水の匂いも香の名残も、そこで途切れた。
ライラが足を踏み入れた一角には、破れたゴザが点々と敷かれ、拾い集められた屑鉄や底の抜けた桶が無秩序に積まれていた。それらはゴミではない。彼らにとっては、日銭に変わる可能性のある資産だった。

二十人ほどの子どもたちが一斉に集まってくる。
年長者は十五、六歳。小さな者はまだ数え七つにも満たない。全員が親を失くしたベータとオメガだ。ここでは、それが唯一の共通点だった。

ライラは背負っていた麻袋から、手早く食糧と抑制剤を配っていく。顔が煤けていても髪が砂埃にまみれていても、誰が誰かは分かる。体温、匂い、息遣い――すべてが目に見えるようだった。

荒れ放題の路地の端に、ふと紙切れが落ちているのが見えた。
点や線が刻印された薬包紙だ。中身はもうない。
子どもの一人が拾い上げ、鼻先に近づけようとする。

ライラは即座に手を伸ばし、それを奪った。
紙を丸め、懐にしまう。

足元には、骨牌こっぱいの欠けた一枚が転がっていた。動物の意匠――蛇でも獅子でも鳥でもない、半端な欠片。役を作れず、勝てなかった証だ。

壁には、水に溶かした煤で書き殴られた跡があった。
山羊の角のような記号と、数字。

地下闘獣の賭け率だが、子どもたちは意味を知らない。ただの絵だと思っている。
だが、大人たちは決まりが悪そうに視線を逸らした。

しばらくして、カリームが息を切らせながら駆け寄ってきた。
あばらが浮き出るほど痩せているが、落ち窪んだ目だけは熾烈な覚悟を帯びている。

弟ヤーセルが発情期に入ったという。
ライラは頷き、兄の背中を追った。

ヤーセルは、崩れかけた小屋の奥で横たわっていた。
ボロ布をかき集めた巣の中で縮こまり、熱に浮かされた呼吸が荒い。甘ったるく、危うい匂いが充満している。

――まだ間に合う。

そう判断し、ライラはすかさず彼を抱き上げた。紙切れのような体重に、胸が痛む。

ここでは守れない。
連れ帰るしかなかった。

自宅の屋根裏は、隔離に使うため整えてある。外気を遮り、匂いが漏れにくい構造だ。
香を染み込ませた端切れの上に寝かせ、さらに抑制剤を投与する。火照ったうなじ、鎖骨下、足首を冷やし、手首を軽く握って一定の圧で呼吸を導く。

「大丈夫……君は一人じゃない」

ヒートは、神に近づきすぎる状態だと言い伝えられる。
だが現実には、誰にも手を差し伸べられないまま、死に至る。

オメガの烙印を押されてから、ライラもまた抑制剤を切らすことができない。
救う側でありながら、同じ檻の中にいる。

一人匿っては、また一人。
こんな状態を、いつまで続けられるのだろうか。
全員分の抑制剤を定期的に作ることは、もう限界に近い。材料も、時間も、人手も足りない。個人の善意で支えられる規模ではない。

王宮主導の保護、医療制度、生活支援。
それらが必要だと、理屈では分かっている。
だが王族は、香を独占することにしか余念が無い。

下市。
上市。
そして王宮。

香の質も、祈りの意味も、すべてが違う。

子どもたちのための抑制剤と、宮殿で焚かれる香。
生き延びるための匂いと、権威を示す匂い。

下市の祈りは、救済を乞う声だ。
塔の香儀式は、支配を可視化する装置だ。

後ろ暗いベータたちはその間で、見て見ぬふりをする。
中立という名の安全地帯に留まり続ける。

――祈りは、誰のためのものだ?

欠かしてはならないと刷り込まれた習慣。
破れば罪悪感が生まれるよう設計された義務。

王宮の失策は「神の試練」。
貧困は「信仰が足りない」せい。

ライラは、そこでようやく理解した。

祈りは、神へ向けたものではない。
民を黙らせるために用意された朗誦だ。

母は祈った。
神は沈黙した。
香は、救わなかった。

それでも、完全には否定できない。
神そのものではない。神を独占する人間たちを。

夕刻、ヤーセルの脈拍が落ち着くのを確かめ、ライラは身支度を整えた。
白と砂色、わずかに灰紫を含んだ衣。人生の節目のために、一着だけ誂えたものだ。誰かの門出を祝い、誰かを弔うための。香袋は一つで十分だ。

店じまいをした表戸を叩く音は、サーディクが迎えに来た知らせだった。
護衛を申し出てくれた彼一人でも、王宮の敷地まで同行できるはずだ。

宮門へ向かう道すがら、ライラは一度だけ振り返った。
慣れ親しんだ下市の埃と匂いを、肺いっぱいに吸い込む。

これは、檻の外へ出るための一歩。
そう自分を奮い立たせ、つま先を遠く前に出した。
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