絶香の塔

皇 いちこ

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第二章 王

10. 欠けた月の祭

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数名の宦官に手伝われながら、案内役を務めるライラ自身も、目元以外の肌を漆黒で覆い隠した。
布を重ねるたび、息が内へ沈んでいく。

現王にとっては、未開の地。
単なる気紛れか、事務的な視察か、より良い管理のためか、理由を尋ねることはしない。
王の英断は絶対だからこそ。
そして、絶対であるものほど、理由を問われない。

――民の暮らしを知れば、香の使い道も変わるはず。
一介の調香師にしては踏み込みすぎた進言を、殿下は淡々と受け取った。
不敬だと咎めることも、暴君らしく首を跳ねることもせず。

今夜が、どんな結果を運んでくるのかはわからない。
ライラはただ、己の役目を全うするまでだった。
ただ一つ、香では覆えないものがあるとすれば、それは――知ることそのものかもしれない。

立ち入りを許された王の寝所で、月光を取り込む高窓には薄紗が幾重にも垂れている。
天蓋の内側には、昼の謁見室よりも穏やかな香調が残っていた。
眠るための香。命じるためではない香。

香煙の向こうに、身支度を終えた殿下が立っていた。
深藍の長衣の下には簡易防具。肩から胸へ渡された遊牧民風の布帯が、無造作に揺れている。
仮面の代わりに、目元は紗の面で覆われていた。やはり布越しでも、隆々とした身体の線が一目でわかる。

非常用通路は、香の塔の地下にあった。
間近に見る塔は、真闇の中で空へ突き刺さるように聳えている。
螺旋を描く外壁の文様は、祈りと支配の境界を濁していた。
天井から垂れる香煙は、今宵も王国を呑み込むように漂っている。

禁衛副団長の手引きにより、通路の入口と出口を守る兵は、配置時間をずらしたうえで、あらかじめ香で眠らせてある。
スイートマジョラム、微量のバレリアン根、ベンゾイン。小一時間は夢から戻らない。

前方でザイードが、後方で部下が目を光らせる。
神殿跡の回廊には、崩れた石柱と古い刻文が残されていた。
湿った石の匂いに、長く焚かれていない香炉の煤が混じる。足を踏み出すたび、つま先がわずかに冷えを拾う。
階段の先に広がるのは、城壁の影に押しやられた荒地。湿った風が、王宮とは異なる時間を運んでくる。

石段はわずかに滑り、靴底に湿り気が絡みついた。
二段段先を上っていた殿下の足が止まり、不意に手が差し伸べられた。

一瞬ためらって掴んだ瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
この手は、命じるためではなく、支えるために差し出されている。
それが、かえって憎しみを呼び起こす。近づこうとするほど、遠ざけたい記憶に触れてしまう。

地上では、ハーシムが小型のラクダを待たせていた。
額には魔除けの青いガラス玉が揺れ、背のコブは極彩色の刺繍布で覆われている。頸元の鈴の音が、遠い商路の記憶を呼び起こすようだった。

壁門は『王室の賓客』として滞りなく通過できた。
門をくぐった途端、音の密度が変わる。

満ちる前の夜。願いが入り込む新月の祭り。
自分の郷土で身分を装うのは、落ち着かない。しかし、見知った顔が日々の憂いを忘れ、笑う姿を見るのは好きだった。

――この夜が永遠に続くのなら。
そう願うことに、理由はいらないだろう。

道端では太鼓と笛が響き、焚火の周りでは子どもたちも交じって踊っている。

「なぜ円を描く?」
「欠けた月を補うためです」

振る舞われた香草茶を、殿下は珍しそうに口にした。

八角形の広場で屋台に並ぶのは、干し肉、香草漬け、腸詰、少し贅沢な粥。かき入れ時だからと、青果店や金物屋も、昼間から品物を並べたままだ。
変装とは言え上等な衣は目を引くのか、次々と客引きの声が掛かる。店主の宣伝文句に頷きながら、殿下はあくまで調査するように品を見て回る。

この腸詰は、何日持つのか。
香草はどこから仕入れるのか。
粥に使う穀は、去年と同じ出来か。

逐一問い、納得した物だけを、無言でハーシムに示した。

荷物でいっぱいになった背嚢を提げ、豪奢に飾り立てられたラクダが珍しいのか、次々と子どもたちが見物に集まってくる。
ザイードは腕白な子どもに慣れていないのか、やや困惑したように端整な眉を顰めた。

「旅のお方。甘い菓子はいかがですか」

人だかりが目立ったのか、背後から聞き慣れた声がかかる。
毎月恒例の卵菓子を売り出している、サーディクの屋台だった。

秘密裏の遊行については、実の父親にも固く黙ってくれたようだった。
変装が上手く誤魔化してくれているのか、息子の友人とは気付かない。母親は自宅で生地の仕込みと娘の看病に忙しいのだろう。

蜂蜜の香る蒸し器の元へ、殿下は近づいた。

「これは何という菓子だ?」
「名前はありませんが、我が家に伝わる家庭の味です。味は保証しますよ」

湯気の立つ出来たての一切れを差し出される。
ライラは代金を手渡し、彼の父親に声を聞かれないよう、密かに耳打ちした。

「旨いですよ。ご心配なら、俺が毒見を」

しっとりふんわりとした焼き加減に、フェンネルの青い香りが残る。
慣れ親しんだ菓子を受け取ったライラは、面を少し捲ろうと手を掛けた。

「――お待ちを!」

威勢の良い声に、口元へ運ぼうとしたライラの手が止まる。
愛想笑いの奥で、青年の視線は一瞬だけ、安全を確かめる指先を測るように走った。

「最初の一切れは、甘くないのです。こちらの大きい方を」

覇気のある瞳が、旧友にも、王にも向けられている。
その瞬間だけ、太鼓の音が遠のいたように感じた。
殿下は何も言わず、ただ成り行きを見ている。

匂いに"異変"はなかったが、どのような魂胆なのか。
ライラはそれ以上深読みせず、頷いて受け取った。

割る。嗅ぐ。噛む。
舌先に広がる違和感もない。

もう半分を差し出しかけ、ぴたりと止まる。

(……王が路上で食べるわけがない)

不作法が恥ずかしくなり、結局は紙袋に包んでもらうことにした。
何も言わないが、殿下の視線が一瞬、紙袋に落ちた。
咎めるでも、拒むでもない。ただ、じっと見つめていた。

「毎度あり!」

生活の品だけでなく、今夜は特別に手作りの装飾具も売られる。
押し花を挟んだ薄い羊皮紙のしおりや、青硝子の護符、月形の銀片を縫い込んだ布紐が、灯りに揺れていた。
質素な素材ではあるが、誰かへの贈り物が揃っていた。

「何か欲しい物はあるか?」

雑踏の中で、王は少し背を屈め、ライラの耳元で囁く。
ライラは首を振るが、またもやハーシムから無言の眼差しで促される。

木箱の上に並べられた品物を見渡し、目に留まった腕輪を選び取る。
小さな花弁型の石を通した革紐に簡素な意匠は、仕事の邪魔にもならないだろう。

会計が済むと、王はおもむろにライラの左手を取った。
戸惑いの中で、ライラの心臓が再び跳ねる。
少しだけゆとりを持たせ、手首に沿うよう紐が結ばれていく。

店番の娘は微笑みながら、その様子を見守っていた。
彼女とは商い中に世間話をする程度だが、決まりの悪さを感じてしまう。
拒む口実が見つからないことが、一番困った。

「……重くはないか?」

それが贈り物についての言葉だとは、少し遅れて気づいた。
贈られる理由を考えないようにして、目線を落とした。

やがて、一行は共同井戸を通り過ぎた。
ぽつぽつと明かりが減り、空き家が増えていく。先頭を行くザイードが、裏路に近づくにつれ、躊躇うように歩が遅くなる。
胸騒ぎを覚えたライラは、早足で先回りし、小声で制した。

「ここから先は、治安がよろしくありません」
「なぜだ?」

王の声は、鬱蒼とした暗がりに響いた。
孤児たちは祭りにも加わらず、屑鉄集めで疲れたのかゴザの上で眠っていた。すでに賭博場へ働きに出たのか、カリームの姿は無い。

「……この子たちの住処です」

最近は食欲が増えたのか、昨日渡したパンの袋が空になって捨てられていることに気付く。
物音で目を覚ました一つの人影が、ゆっくりと起き上がった。
気配に気づいたザイードは、反射的に衣の下の短剣に手を掛ける。

「お止めください!」

ライラの口から、悲鳴に近い声が飛び出した。
咄嗟に、オメガの少女を抱き締めて庇う。

「彼らに……罪はありません」

息が浅くなり、視界が狭まる。言葉より先に、体が前へ出ていた。
少女が目をこすりながら、不思議そうに尋ねる。

「その声……ライラなの……?」

やはり、勘の鋭い幼子たちに隠し立てはできない。
ライラは観念して種明かしをした。

「……起こしてごめん。友達とこっそり遊びに来たんだよ」

知ってほしかった。だが、知られてはならない場所もある。
その矛盾が、胸の奥で音を立てて崩れていく。
統治の言葉では、ここは存在しないことになっている。
掃討や追放の対象となることを、ライラは恐れていた。

「……知らなかった、では済まされないな」

低く静かな声に、ライラは驚いて振り向いた。
新月の夜に乗じて、物好きな上市の住民が下りてくることもある。
彼らが屋台で買い物をすることは無く、大抵は自分の境遇と比べて安心を得るために。
しかし、中には地下に潜るための格好の理由にもなる。
この時はまだ、夜にはまだ底があることを、知らせることができずにいた。

月はまだ空に姿を見せない。
だが王の視線は、確かに闇を捉えていた。
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