絶香の塔

皇 いちこ

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第二章 王

9. 灰香、揺らぐ均衡

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母への薔薇は、花瓶から溢れそうなほど供えられていた。
質素な香檀の前で膝をつくたび、宵闇に包まれた王宮の薔薇園が脳裏をよぎる。剪定と灌漑が徹底された薔薇は、香りに荒れがなく、油の出も良い。夜明け市の薔薇ほど感情を掴まないが、王家の香としては、これ以上望めぬ質だった。

余った花弁を抽出しながら、ライラは王の書庫から借り受けた書を読み進めていた。

『香税と王権の均衡』は、信仰の名を借りた支配の正当化を淡々と記す。
『都市国家における配給制度』では、制度が機能する条件として、必ず“現場の裁量”が挙げられていた。
『飢餓と精神変調の記録』『貧民街の流行病誌』は、治療法より先に、数字と症例が並ぶ。頁を追うほど、それが医療書である以前に、時代そのものを糾弾する記録であることが明らかになっていった。

二十年前の当時、王家は飢えを知らなかったのではない。
――知りながら、根絶を選ばなかったのだ。

識字率がそう高くない下市では、スークの外れに小さな古書店がたった一軒ある程度。
一晩では巡回しきれない王の書庫で、背表紙を追い、指先が止まるたびに、胸がわずかに高鳴った。個人的に興味を引かれた題名の他には、真実の門を少しずつ押し開くための一冊。
それは、王国の成り立ちと、翻弄されるオメガの遍歴を紐解く内容だった。

約500年前、啓香けいこうの時代。
ルーハ教の聖者「ナビ・サリム」が香を焚き、神の啓示を受けたとされる時代。香が聖なる儀式・癒し・占いに使われ始める。
約300年前、統香とうこうの時代。
各部族王が統合され、「アラ=ルーハ王国」成立。香料貿易で急速に富み、砂漠のオアシスに巨大都市を築く。

香は、神と人を繋ぐ媒体。
聖者と神官が管理し、まだ信仰共同体の内側にあった。
オメガは「感応者」として記され、その語の脇に、保護を示す注釈が添えられている。

――保護。
ライラはその一語だけを、しばし追った。

約100年前、黒金くろがねの時代。
石油・金の発掘により、王国は空前の繁栄を迎える。欧州諸国の技術導入で、王族と貴族が富を独占する。

黒金初期は、利便性の独占であり、石油・金と併せて、香は国家資源となった。
王家が「正しい香」を定義。神官は官僚となり、香は儀式から行政へ移された。感応者は保護される存在から、管理される機構へと組み込まれていく。
同中期には、輝かしい「王家の秘香」が誕生した。香を絶やさぬために焚かれ続け、王国の体制維持に貢献する。
後期は、再生産の独占であった。やがて、オメガが保護から管理対象へ。

王家の秘香という語に、ライラの注意が留まった。
だが書は、それ以上を語らない。栄華の記述は唐突に途切れ、頁は次の時代へと移っていた。
指先にわずかに残った薔薇の油のせいか、頁を繰る手が、一瞬、覚束なくなる。

先王が治める約30年前、腐香ふこうの時代に突入する。
資源が枯渇し始め、貴族同士の内戦が起こり始める混沌の時世。市民は飢えと貧困に苦しむ。
ザヒール先王退位により、嫡男長子ファルーク・アル=ザフィール即位。
その年の上梓だったのか、当世の灰香かいこうの時代への希望を託したところで、書は終わっていた。

香は焚かれるが、何も癒さない。
人は祈るが、救われない。

それでも、香はまだ焚かれ続ける。
祈りも、完全には捨て去られていない。

ならば――この行き詰まりこそが、新しい選択の余地なのだと、ライラは思った。
史を塗り替える名など要らない。
ただ、その最初の一欠片になれればいい。

書を伏せ、革袋に香一式とともに収める。
今日は参殿の前に、納品二件と売掛金の回収がある。身支度を整え、釣床で昼寝をしていたサーディクを叩き起こした。

「あと5分……」

寝網に片足をかけ、精悍な肩を揺すっていると、のらりくらりと不精な手が伸びてくる。
その手が腰に滑り込み、尻を揉みしだこうとして、ライラは即座に頬を叩いた。

「……バカ!」

機嫌を損ねたサーディクは月香楼に着くなり、待合間の卓に置いてあったナッツを勝手につまみ出す。
長身のラズィーヤは、手にした香油を一嗅ぎすると、夢心地の微笑みを浮かべた。

「この薔薇……アンタの母さんを思い出すね」
「たまたま、質が良い花材が手に入ったんだ」

亡き母と同年代のはずだが、出会った頃から、その艶はほとんど変わらない。楼の女たちも同様だった。

受胎を防ぐ薬はあっても、時を巻き戻す妙薬など存在しない。
それでも彼女たちは、夜を重ねるほどに瑞々しさを保ち、色に溺れる男たちの方が、いつしか翳りを帯びていく。

そんな光景を、ライラは幾度となく見てきた。

「今度は何が欲しい?」
「没薬が切れそうだ。後宮の香に要る」
「へえ、景気が良いじゃないの」

ライラは勘定頭から受け取った報酬から差し引いて、香材費をラズィーヤの懐に忍ばせる。
話し声を聞きつけたハディージャが、優艶な赤毛をなびかせ、サーディクの隣に腰掛けた。

「ふふ。仮面の殿方・・・・・に口添えした甲斐があったものだわ」

張りのある見事な乳房は、胸元を飾る金糸の鎖を押し広げ、宝石の雫がゆるやかに揺れた。
商人や資本家の懐に自然と忍び込み、後宮を抜け出した影――名も顔も伏せた常連たちとも、深い縁を結んでいる。心強い協力者の一人であり、機微にも聡かった。

「あら、サーディク。ライラと喧嘩でもしたの?」

ハディージャは己の武器を上腕二頭筋に押し付け、赤子をあやすように、腫れあがった片頬を撫でた。サーディクは柔らかな感触にも微動だにせず、無言で顔を背ける。

「いくらライラが色気づいてきたからって……おイタはだめよ?」
「――え?」

女達の意味深な笑みに、ライラは瞬きを繰り返した。

「気付かなかった?アンタ……匂いが少し濃くなってるよ」

ラズィーヤに顔を覗き込まれ、今度はライラが頬を赤らめる番だった。
思わず胸元を押さえる。思い当たる節が無いわけではない。
抑制剤の量が増えていることは、自分でも気づいていた。

「アタシはてっきり、ついに二人が……って思ったんだけど」

いたずらな野次に、サーディクが力任せに卓を叩いた。

「くだらねぇ。俺はナディアみたいな、しとやかな女が好みなんだ。
 コイツみたいな跳ねっかえりは、願い下げだぜ」

幼い頃こそよく風呂や寝床を共にしたが、そのたびに取っ組み合いも絶えなかった。
ライラは幼馴染を軽く睨み付け、こっちこそ御免だと内心毒気づく。

「もう行くぞ。これ以上いたら、移り香で酔いそうだ」

サーディクはうんざりしたように立ち上がり、ライラの手を取って、大股で裏口へ向かう。
笑い声の中で、胸の奥にかすかなざわめきを覚えるが、その正体を確かめる暇もない。
陽気な女達に見送られ、後宮への納品と代金徴収も済ませると、参殿の時刻をわずかに過ぎていた。
だがその日は、王の公務もすでに片付いており、遅れを理由に咎めることはなかった。

「もう読み終えたのか。それだけの冊数を」
「どれも興味深く……つい読み耽っていました」

天上の月は残光をわずかに留め、まもなく新月を迎えようとしていた。
切子硝子のランプが、二脚のフィンジャーンに揺れる影を落とす。

やがて、ライラは王の私室に招かれるようになった。
香炉からは、今週分を献上した王香が微かに立ちのぼっている。微量のローマンカモミールを新たに加えた調合は、欠けゆく月に呼応するように、神経の尖りを鎮めていた。

長椅子に身を預けた王は、夜着の上からでも分かる体躯を隠さない。
脚を組み替えると、布の陰影が変わり、力の輪郭が浮かぶ。その気配に、ライラの体がわずかに熱を帯びた。

それが、警鐘なのか、圧倒されているのか。
後宮で入り乱れるフェロモンに身を置いても、これまでは制御できていた。
だが、この男の香気は――量の問題ではなく、質が違う。

本格的に客を取り始めたのか、サーミルの姿が見えなかったことも気掛かりだった。
けれど今、ライラの神経を侵しているのは、別の圧だ。

謁見を重ねるたび、王の存在は、香のように――逃げ場なく、神経に染み込んでくる。
微笑の下に激情を秘することにも慣れたのだから、今もしたたかに振舞えるはずだった。

「ライラは、学ぶことを恐れないな。市井の出にしては、珍しい」
「いえ……必要に迫られていただけです」
「書を読むとき、香は要らぬのか」
「……集中したいときは、むしろ無い方が」
「ほう。では今は?」

多弁ではない。
しかしその問いは、慎重さを身上とする王にしては、踏み込みすぎていた。

「今は……殿下の香で十分です」

仮面の下で、空気がわずかに動いた。
奥まった視線が、卓に積み重ねられた書の背をなぞる。

「……この国について、そなたはどう思う?」

室内を沈黙が制した。
巷説に反して、王は市井の制度に目を向け始めている。
崇高な知性は、感情を伴わぬ分、刃のように冷たい。
理解しようとする姿勢そのものが、時に暴力になり得る。
そして、この問いに答えることは、評価されることではない。
――王に己を知られることだ。

「香は、国を守ってきました。ですが……腹は満たしません。
民の暮らしを知れば、香の使い道も変わるはずです」

金も石油も枯れ果てた。
もはや資源は香しか残されておらず、その均衡すら危ぶまれる国への、最上級の皮肉のつもりだった。

王は、静寂の中でその問答を秤にかけていた。
その横顔から、感情は読めない。

「……一度、下市をこの目で見てみたい」

王はそう呟くと、レモンバーベナの香茶を静かに啜った。
夜の重みをゆっくりと、しかし着実に変える一言だった。

「案内してくれぬだろうか」



王を下市へ導く。
それは、保護される立場を捨てる選択でもあった。

遊行の準備は、水面下で進められたらしい。
幾度か顔を合わせるようになった禁衛副団長ザイードと直属の部下、そして補佐官ハーシム。王が最も信頼を置く顔ぶれだと、ライラにも分かる。

どのような内幕劇があったか定かではないが、彼らは慌ただしく奔走したようだ。
ハーシムが公文書の遅延を装い、ザイードが非常通路・・・・前の衛兵配置を一時的にずらすことに成功したとのこと。
有事の際のために、統治者の逃走準備が整っているのは、どの国も同じらしい。

「それでしたら、遊牧民や香草商人が最も自然かと。
祭りの日は、灯火につられて、東部からの異人も物見遊山に訪れますゆえ」

サーディクは王の御前でも、顔色一つ変えることはなかった。
身元保証人として付き添うライラの隣で、あたかも自らの案のように、ヴェールの向こうに投げかける。

「ロバか小型のラクダを一頭連れると良いでしょう。私めが、調達することもできます」

いつまでも応接間どまりの待遇に痺れを切らしたのか、今宵の謁見は彼たっての希望だった。

武器は揃いつつある。
だが王宮に踏み込むには、まだ足がかりが足りなかった。彼もまた、これ以上部外者ではいられないようだった。

ただし、初手は慎重に。市井の内情に通ずる者として、ライラは友の進言を画策したのだった。会うかどうかは王の判断に委ね、此度のお目通りが叶えられた。
新月の祭りなら、喧騒が"よそ者"への警戒を紛らわせてくれるだろう、と。

「それはこちらで手配しますので、問題ありません」

速記役のハーシムが代わりに答える。
恭しく頭を垂れる青年に、王は声を掛けた。

「良い案だな。サーディクと言ったか」

名を呼ばれるまでに、僅かな間があった。

「……ライラとは、どれほど旧知の仲なのか」

慎重な王は、今回も答えを急がない。
言葉の重さと沈黙の揺れで、信用と距離を量っている。

「元々は隣人同士で、同じ年の生まれです。幼い頃より、兄弟のように育ちました」

サーディクは一貫して張りのある声で、淀みなく答えた。

「祭り当日は、家族で卵菓子を売ります。蜂蜜を練り込んだ、素朴なものですが……
調査団・・・の方々にも、ぜひ」

王自ら降り立つという事実は、さすがに伏せてある。
調査の名目は間違ってはいない。下手な動きはするなと、彼には事前に釘を刺しておいた。
私的な空間への出入りを許され、ようやく駒を進められた手応えがあったからだ。
しかし、この幼馴染は、長年共に過ごしても、時折掴めないところがある。

張り詰めた空気の中で、王は頷いたようだった。

新月の祭りまで、あと数日。
だが、均衡が着実に揺らぎ始める音がしていた。

――灰香の夜は、長い。
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