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第一章 空腹で世界と出会う
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「……ん、んん……」
まぶたの裏に、さっきまでの光の破片がちらついている。目を開けると、空はやけに青くて、校舎の窓から見ていた空よりも近い。草の先端が光って鼻先をくすぐり、耳の奥でロビーの電子音が、遠ざかる電車みたいに細くほどけて消えた。
頬に触れるのは、柔らかな草と冷たい土。指でつまむと、湿った粒が爪の間に残る。膝の裏には朝露のひんやりが張りついて、短いスカートの裾が風にさわ、と鳴った。鳥が二羽、空の端を横切る。匂いは土と草、それから見えない樹液の甘さ。体育館の埃っぽい匂いとも、VRロビーの金属めいた冷気とも違う、やけに“生き物っぽい”空気だ。
「……ここ、どこ? え、夢? いや、痛っ……」
頬をつねると、本当に痛い。身につけているのは、左肩が大きく見える白いフリルの短いシャツ。おへそが出る丈で、風が直接肌を撫でてぞくりとする。オレンジ色のミニスカートは太腿の真ん中まで。白いベルトが光を拾い、足にはショートソックスと、オレンジと緑のハーフブーツ。見慣れた制服ではなく、出かける時にふざけて選んだみたいな普段着――そんな格好のまま、見知らぬ場所に放り出された。
右のサイドテールに差した星の髪飾りが、太陽の粒を跳ね返すみたいにまたたく。指でつまむと金属が少し温かい。現実の温度だ。
(……これ、ほんとに異世界転生ってやつ? いやいや、そんなバカな。……でも)
立ち上がると、膝についた土埃がふわりと舞った。少し離れたところに、石積みの塀と赤茶の瓦屋根が見える。窓は木枠で、小さなガラスが格子みたいに並んでいた。絵本で見た“古い町”の景色が、そのまま目の前にある。風が運んでくる気配は、確かに“人”。木箱を下ろす重い音、誰かが笑う声、遠くで一度だけ鳴る鐘。喉がからからなのに唾は味がなく、代わりに、胃の底が空洞みたいにきゅうと鳴った。
――おなかがすいた。
「うぅ……ぐぅぅぅ……。お腹すいたぁぁぁ……!」
自分の声が、情けないくらい素直に出る。両腕で腹を抱えて、石畳の端にぺたりと座り込んだ。スカートの裾が石の冷たさを遮りきれず、ぞくりとする。立たなきゃ。分かってるのに、足が鉛みたいに重い。息を吸っても、吸っても、胃袋が文句を言ってくる。
その時、風向きが変わった。
ふっと、甘く香ばしい匂いが鼻の奥に落ちる。小麦が焼ける匂い。溶けたバターのきらめき。表面のこんがりが中のふわふわを包み、ほんの少し砂糖が焦げたみたいな甘苦さ――給食の“当たり日”のコッペパンを思い出す。トレイを持って列に並んで、友達と「今日は当たりだね」って目配せした、あの瞬間。それから、耳のどこかで“お母さん”の声がした気がした。「冷めないうちに食べなさいよ」。胸の真ん中が小さく疼く。帰りたい、って気持ちと、今すぐ食べたい、が同時に押し寄せる。
「た、食べ物……!」
ほとんど反射で立ち上がって、匂いの方へふらふら歩く。土道はやがて石畳に変わり、木組みの家々が肩を寄せ合う通りに出た。看板には見たことのない文字が彫られているけれど、描かれた絵は分かる。葡萄、靴、そして――楕円のパン。通りの両側には露店が連なっていた。赤や黄色の果物を高く積んだ台、焼き串を売る屋台から漂う肉の匂い、花束を抱えた少女、壺を肩にのせる少年。人々の呼び声が重なり合い、言葉は分からないのに活気だけが身体へ伝わる。さらに近くでは、旅人風の男が革袋を掲げて値段を交渉している声、楽器を抱えた少女が路上で爪弾く音も混じっていた。陽の光が屋根瓦で跳ね返り、白い石畳に光の模様を描く。ここは、間違いなく“異世界の町”だった。
「お姉ちゃん、その服かわいい!」「おへそ、出てる……」
小さな子ども二人が手をつないで見上げてくる。思わずスカートの裾を押さえると、母親らしい人が苦笑して会釈した。
「旅の方? 市場はそっち。パンのいい匂いでしょ」
指さされた先から、いよいよ濃い小麦の香りが押し寄せてきた。
「ありがとう……!」
オレンジのハーフブーツの先で石が小さく鳴った。視線を感じる。私の肩やおへそへ向かう、好奇と驚きの混ざった視線。ひそひそと囁く声も耳の端に引っかかった。けれど、それ以上にパンの匂いが強烈に私を引き寄せる。
角を曲がると、小さなパン屋があった。木の扉、飾り彫りの入った楕円の看板、窓の向こうに並ぶ籠。丸いパン、ねじれたパン、長いバゲット。表面に入った切り込みから白い柔らかさがのぞいて、粉砂糖をまとった白もある。窓に顔を寄せれば、湯気でガラスが曇る。胃袋が、期待でぐうっと縮んだ。
ドアを押す。鈴がちりん、と転がるみたいに鳴く。店の中は外より少し暖かく、粉と木の台と焼けた皮の匂いが層になってたゆたう。窯の口が赤く、奥で火がぱち、ぱち、と小さくはぜた。棚には丸パンが積み上げられ、上段には香辛料を練り込んだ黒パン、下段には蜂蜜を塗った甘いパンが並んでいた。レジ代わりの秤、粉で白くなった床、壁に掛けられた木べらや刷毛。誰かの仕事の息が、まだ空気の中で温かい。
カウンターの脇に立った瞬間、体の奥が震えるほど、お腹が鳴る。
「おい嬢ちゃん、その格好はなんだ? 見ねぇ顔だな」
奥から現れたのは、白い帽子をかぶった大柄の男。腕まくりした前腕は小麦粉で白く、熱でほんのり赤い。眉は太いが、目は意外に丸く、じっと観察する魚みたいに動かない。視線が、私のフリルのシャツ、出ているおへそ、オレンジのスカート、白いベルト、ブーツを順に撫でていく。異国の町でこんな服は珍しいに決まっている。
「えっ? あ、あの……ご飯、ください!」
言ってから、“ご飯”じゃなくて“パン”だと気づく。けれど、もう遅い。男は片眉を上げ、カウンター越しにこちらをじろりと見た。その間に、私の腹がここぞとばかりに鳴る。静かな店内に響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「金はあるのか?」
「……に、日本円なら……」
震える手で財布を取り出す。千円札、五百円玉。こっちでも通じますように、と祈るみたいに差し出す。男は紙幣を透かして眺め、硬貨を弾いて音を聞き、それからしばらく黙り込んだ。重い沈黙が、パンの香りを余計に濃くする。やがて、男は肩をすくめた。
「なんだそりゃ。絵は描いてあるが、ここじゃ通用しねぇ」
「そ、そんなぁぁ! でもお腹が……!」
声が震える。目の奥がじわっと熱い。泣きたくないのに、涙腺が勝手に準備を始める。深呼吸、深呼吸――そう言い聞かせても、焼きたての匂いが胸いっぱいに広がって、余計にお腹が鳴った。
ふっと、朝の台所の気配が脳裏に差し込む。食卓の皿の上で湯気を立てるトースト。半分寝ぼけた私に「ほら、冷めないうちに」と言って笑うお母さん。焦げ目がちょっと苦いなんて文句を言ったくせに、本当は大好きだった味。その記憶は、帰りたいを引き寄せるフックになって、同時に目の前の匂いをさらに鮮明にした。
男が掌をひとつ、軽く上げた。顎で奥を指す。窯の前には布をかけられた皿があり、中の生地がふっくら膨らみ始めている。もう一度、私を見る目は厳しいが、冷たいというよりは“見定める目”だった。
「……仕方ねぇ。特別だ。ただし条件がある」
「えっ……?」
「働けば食わせてやる。掃除でも、パンを並べるでもいい。やる気があるなら置いてやるさ」
「は、働くって……」
思わず繰り返すと、男は鼻で笑った。
「当たり前だろ。タダで食わせる奴がどこにいる」
「で、でも、私……その……」
「できねぇか? なら帰んな」
男の言葉は突き放すようで、同時に試すようでもあった。ここで逃げたら、本当に道が閉じる気がした。
「ま、待って! やります。やるから、やらせてください!」
「口は元気だな。手はどうだ」
男はカウンターの下から木製のトレイと、粗い麻布のエプロンを取り出した。
「まず、手を洗え。爪の中までだ。水は奥の桶、石鹸はそこ。髪はまとめろ。――名前は」
「か、神咲舞愛梨沙です」
「かみ……なんだって?」
「……愛梨沙、で」
「長ぇ。仕事中は短い名で呼ぶ。『リサ』でいいか」
「え、えっと……はい」
ほんの一瞬、胸がちくりとした。お母さんが呼んでくれた“神咲舞愛梨沙”が、ここでは長すぎる。けれど、今は飲み込む。生きるための、短い音。
「言っとくが、泣いても容赦しねぇぞ。粉で汚れても、熱で顔が赤くなっても、文句言うな。メシは出すが、金は出さねぇ。――手は早く、声は静かに」
「了解……です!」
声がうわずった。けれど、決意は喉をまっすぐ通った。
エプロンを結び、星の髪飾りを触ってから、言われた桶のところへ向かう。水は冷たく、指を差し込むと爪の中に土がひやりと浮いた。石鹸は動物の脂の匂いがして、泡は思ったよりも粗い。手の甲、指の間、爪。念入りにこすり、布で拭う。
店内の裏口は小さな中庭に面していて、物干しに白い布が揺れていた。壁際には空になった粉袋、積み上がった木箱。どれも仕事の痕跡で、見ているだけで背筋が伸びる。
戻ると、男は私の手を一瞥して、うなるように言った。
「よし。……じゃあ、まずはこの焼き網を持って、並べ台まで運べ」
「はい!」
思ったより重い。腕がぷるぷる震える。落としたら終わりだ、と自分に言い聞かせて歩く。台の上には既にいくつかのパンが胸を張っていて、焼き色のついた皮が「ピキッ」と小さく鳴った。
「次。紙袋を十枚、開いて待機。指の腹で端を押して、空気を含ませるように」
「こ、こう……ですか?」
「そうだ。――それと、声は抑えろ。さっきから腹の音が鳴りすぎだ」
「す、すみません……!」
思わず腹を押さえる。空腹は続いているのに、胸の奥は別の熱で満ちていた。仕事の手順が、頭の中の不安を追い出してくれる。
「おい、旦那! さっきの変な子、雇ったのかい?」
客席側から年配の女の声が飛んだ。男は面倒くさそうに返す。
「見りゃわかるだろ。人手がいるんだよ」
「その格好で働けるのかい?」
「働かせる」
短いやり取りの間に、私は紙袋を開き終えた。袋の口が小さく並び、戦列みたいに整っているのがちょっと嬉しい。
男はわざとらしく咳払いをして、顎で窯を示した。
「リサ。焼き上がりを運ぶぞ。熱い。落とすな。走るな。焦るな。――いいな」
「はい!」
窯の口が開く。熱が顔にぶつかって、瞬きが増える。焼き網に乗った丸パンを受け取り、慎重に、慎重に台へ移す。焼き立ての匂いが鼻孔を満たし、意識がふっと軽くなる。
「よし。……で、腹は」
「まだ、すいて……ます」
「だろうな」
男はため息をひとつだけ落として、奥から小さな切れ端のパンを持ってきた。端っこは固いが、中はまだ温かい。
「落とさず動けたら、ちぎって口に入れろ。仕事は続けろ。食いながら喋るな」
「……! ありがとう、ございます!」
歯を立てると、塩と小麦の甘さが舌に広がった。思わず目が熱くなる。味がする。私の中に、確かな重みで入ってくる。
(生きてる。――ここで、生きてる)
その実感が胸の奥に広がったとき、奥の扉が開いて、小さな少年が顔を覗かせた。
「旦那、広場の鐘、二回鳴りましたー!」
「よし。配達は昼過ぎだ。……リサ、午前は店内。午後は裏の掃除。できるか」
「や、やってみます!」
「やれ」
短い言葉に、妙に勇気が乗っていた。
客が二人入ってくる。男はすでに表情を切り替えている。私は袋を広げ、パンを受け取り、差し出す。手元はまだぎこちないけれど、順番は掴めてきた。ふと、カウンターの端に置かれた小さな木札が目に入る。焼きたての時刻や、今日のおすすめが墨で書かれている。こういう細やかさが、店の“温度”になるのだと、なんとなく分かった。
「リサ。声」「あ、いらっしゃいませ……!」「もう少し笑う。だが騒ぐな」「はい……!」
笑うって難しい。けれど、星の髪飾りを指でつまみ、そっと深呼吸すると、自然と口角が上がった。お母さんが写真を撮るときに「はい、笑って」と言った声が、耳の奥でやさしく反響する。
(お母さん。……私、やれてる?)
返事はない。それでも、窯の火がぱちっと鳴いて、代わりに頷いてくれた気がした。
昼前、男がふいに言った。
「――お前、どこから来た」「え」「言葉は通じる。だが金は違う。それに、その靴。見ねぇ造りだ」
胸が一瞬だけ冷たくなる。けれど、嘘をつくのが下手なのは自分が一番知っている。
「……遠くから、来ました」「だろうな」
それ以上、男は何も聞かなかった。代わりに、トングをひとつ差し出す。
「余計なことを喋らないのも、客商売のうちだ。――持て」「はい」
金属の冷たさが手のひらに移る。重さが、居場所みたいに感じられる。
午後の陽が傾き始めた頃、客足が少し落ち着いた。男は窯の火加減を見に行き、私は裏口で水を撒いた。白い布が風に揺れる音、遠くの市場の呼び声、鐘が一回。世界は続いている。私が知らないままでも、続いていく。だからこそ、今立っている場所を掴まなきゃいけない。
「おーい、リサ。今日の分はここまでだ」
振り返ると、男が湯気の立つスープの入った器を持っていた。卓上に置かれると、野菜と骨のだしの匂いが立ちのぼる。
「まかない、だ。冷めないうちに食え」
「……!」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んで、そして温かくなった。スプーンはない。器を両手で抱え、ふうふう息を吹きかけて一口。舌の先が少しだけ熱に負け、同時に幸福に痺れる。
「おいしい……」
思わず零れた声に、男は腕を組んで鼻を鳴らした。
「明日も来るなら、朝は早いぞ」「来ます! ぜったい!」「なら、さっさと休め。二階の屋根裏は空いてる。寝床に使え」「えっ、そこまで……!」「代わりに、明日の朝一番で床を磨け。静かにな」「はいっ!」
空腹はようやく引いて、代わりに体じゅうに心地よい疲れが広がっていく。器の底が見えたとき、頬を撫でる風が少しだけ優しくなった気がした。
星の髪飾りをそっと撫でる。金属はさっきより温かく、現実の温度を確かに伝えてくる。
(鈴芙美、ノエル。……大丈夫。私、ここで生きるから。絶対に、見つけるから)
心の中でそう告げて、私は小さく頷いた。
こうして神咲舞愛梨沙は、異世界での最初の仕事――パン屋のアルバイトを始めることになった。
まぶたの裏に、さっきまでの光の破片がちらついている。目を開けると、空はやけに青くて、校舎の窓から見ていた空よりも近い。草の先端が光って鼻先をくすぐり、耳の奥でロビーの電子音が、遠ざかる電車みたいに細くほどけて消えた。
頬に触れるのは、柔らかな草と冷たい土。指でつまむと、湿った粒が爪の間に残る。膝の裏には朝露のひんやりが張りついて、短いスカートの裾が風にさわ、と鳴った。鳥が二羽、空の端を横切る。匂いは土と草、それから見えない樹液の甘さ。体育館の埃っぽい匂いとも、VRロビーの金属めいた冷気とも違う、やけに“生き物っぽい”空気だ。
「……ここ、どこ? え、夢? いや、痛っ……」
頬をつねると、本当に痛い。身につけているのは、左肩が大きく見える白いフリルの短いシャツ。おへそが出る丈で、風が直接肌を撫でてぞくりとする。オレンジ色のミニスカートは太腿の真ん中まで。白いベルトが光を拾い、足にはショートソックスと、オレンジと緑のハーフブーツ。見慣れた制服ではなく、出かける時にふざけて選んだみたいな普段着――そんな格好のまま、見知らぬ場所に放り出された。
右のサイドテールに差した星の髪飾りが、太陽の粒を跳ね返すみたいにまたたく。指でつまむと金属が少し温かい。現実の温度だ。
(……これ、ほんとに異世界転生ってやつ? いやいや、そんなバカな。……でも)
立ち上がると、膝についた土埃がふわりと舞った。少し離れたところに、石積みの塀と赤茶の瓦屋根が見える。窓は木枠で、小さなガラスが格子みたいに並んでいた。絵本で見た“古い町”の景色が、そのまま目の前にある。風が運んでくる気配は、確かに“人”。木箱を下ろす重い音、誰かが笑う声、遠くで一度だけ鳴る鐘。喉がからからなのに唾は味がなく、代わりに、胃の底が空洞みたいにきゅうと鳴った。
――おなかがすいた。
「うぅ……ぐぅぅぅ……。お腹すいたぁぁぁ……!」
自分の声が、情けないくらい素直に出る。両腕で腹を抱えて、石畳の端にぺたりと座り込んだ。スカートの裾が石の冷たさを遮りきれず、ぞくりとする。立たなきゃ。分かってるのに、足が鉛みたいに重い。息を吸っても、吸っても、胃袋が文句を言ってくる。
その時、風向きが変わった。
ふっと、甘く香ばしい匂いが鼻の奥に落ちる。小麦が焼ける匂い。溶けたバターのきらめき。表面のこんがりが中のふわふわを包み、ほんの少し砂糖が焦げたみたいな甘苦さ――給食の“当たり日”のコッペパンを思い出す。トレイを持って列に並んで、友達と「今日は当たりだね」って目配せした、あの瞬間。それから、耳のどこかで“お母さん”の声がした気がした。「冷めないうちに食べなさいよ」。胸の真ん中が小さく疼く。帰りたい、って気持ちと、今すぐ食べたい、が同時に押し寄せる。
「た、食べ物……!」
ほとんど反射で立ち上がって、匂いの方へふらふら歩く。土道はやがて石畳に変わり、木組みの家々が肩を寄せ合う通りに出た。看板には見たことのない文字が彫られているけれど、描かれた絵は分かる。葡萄、靴、そして――楕円のパン。通りの両側には露店が連なっていた。赤や黄色の果物を高く積んだ台、焼き串を売る屋台から漂う肉の匂い、花束を抱えた少女、壺を肩にのせる少年。人々の呼び声が重なり合い、言葉は分からないのに活気だけが身体へ伝わる。さらに近くでは、旅人風の男が革袋を掲げて値段を交渉している声、楽器を抱えた少女が路上で爪弾く音も混じっていた。陽の光が屋根瓦で跳ね返り、白い石畳に光の模様を描く。ここは、間違いなく“異世界の町”だった。
「お姉ちゃん、その服かわいい!」「おへそ、出てる……」
小さな子ども二人が手をつないで見上げてくる。思わずスカートの裾を押さえると、母親らしい人が苦笑して会釈した。
「旅の方? 市場はそっち。パンのいい匂いでしょ」
指さされた先から、いよいよ濃い小麦の香りが押し寄せてきた。
「ありがとう……!」
オレンジのハーフブーツの先で石が小さく鳴った。視線を感じる。私の肩やおへそへ向かう、好奇と驚きの混ざった視線。ひそひそと囁く声も耳の端に引っかかった。けれど、それ以上にパンの匂いが強烈に私を引き寄せる。
角を曲がると、小さなパン屋があった。木の扉、飾り彫りの入った楕円の看板、窓の向こうに並ぶ籠。丸いパン、ねじれたパン、長いバゲット。表面に入った切り込みから白い柔らかさがのぞいて、粉砂糖をまとった白もある。窓に顔を寄せれば、湯気でガラスが曇る。胃袋が、期待でぐうっと縮んだ。
ドアを押す。鈴がちりん、と転がるみたいに鳴く。店の中は外より少し暖かく、粉と木の台と焼けた皮の匂いが層になってたゆたう。窯の口が赤く、奥で火がぱち、ぱち、と小さくはぜた。棚には丸パンが積み上げられ、上段には香辛料を練り込んだ黒パン、下段には蜂蜜を塗った甘いパンが並んでいた。レジ代わりの秤、粉で白くなった床、壁に掛けられた木べらや刷毛。誰かの仕事の息が、まだ空気の中で温かい。
カウンターの脇に立った瞬間、体の奥が震えるほど、お腹が鳴る。
「おい嬢ちゃん、その格好はなんだ? 見ねぇ顔だな」
奥から現れたのは、白い帽子をかぶった大柄の男。腕まくりした前腕は小麦粉で白く、熱でほんのり赤い。眉は太いが、目は意外に丸く、じっと観察する魚みたいに動かない。視線が、私のフリルのシャツ、出ているおへそ、オレンジのスカート、白いベルト、ブーツを順に撫でていく。異国の町でこんな服は珍しいに決まっている。
「えっ? あ、あの……ご飯、ください!」
言ってから、“ご飯”じゃなくて“パン”だと気づく。けれど、もう遅い。男は片眉を上げ、カウンター越しにこちらをじろりと見た。その間に、私の腹がここぞとばかりに鳴る。静かな店内に響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「金はあるのか?」
「……に、日本円なら……」
震える手で財布を取り出す。千円札、五百円玉。こっちでも通じますように、と祈るみたいに差し出す。男は紙幣を透かして眺め、硬貨を弾いて音を聞き、それからしばらく黙り込んだ。重い沈黙が、パンの香りを余計に濃くする。やがて、男は肩をすくめた。
「なんだそりゃ。絵は描いてあるが、ここじゃ通用しねぇ」
「そ、そんなぁぁ! でもお腹が……!」
声が震える。目の奥がじわっと熱い。泣きたくないのに、涙腺が勝手に準備を始める。深呼吸、深呼吸――そう言い聞かせても、焼きたての匂いが胸いっぱいに広がって、余計にお腹が鳴った。
ふっと、朝の台所の気配が脳裏に差し込む。食卓の皿の上で湯気を立てるトースト。半分寝ぼけた私に「ほら、冷めないうちに」と言って笑うお母さん。焦げ目がちょっと苦いなんて文句を言ったくせに、本当は大好きだった味。その記憶は、帰りたいを引き寄せるフックになって、同時に目の前の匂いをさらに鮮明にした。
男が掌をひとつ、軽く上げた。顎で奥を指す。窯の前には布をかけられた皿があり、中の生地がふっくら膨らみ始めている。もう一度、私を見る目は厳しいが、冷たいというよりは“見定める目”だった。
「……仕方ねぇ。特別だ。ただし条件がある」
「えっ……?」
「働けば食わせてやる。掃除でも、パンを並べるでもいい。やる気があるなら置いてやるさ」
「は、働くって……」
思わず繰り返すと、男は鼻で笑った。
「当たり前だろ。タダで食わせる奴がどこにいる」
「で、でも、私……その……」
「できねぇか? なら帰んな」
男の言葉は突き放すようで、同時に試すようでもあった。ここで逃げたら、本当に道が閉じる気がした。
「ま、待って! やります。やるから、やらせてください!」
「口は元気だな。手はどうだ」
男はカウンターの下から木製のトレイと、粗い麻布のエプロンを取り出した。
「まず、手を洗え。爪の中までだ。水は奥の桶、石鹸はそこ。髪はまとめろ。――名前は」
「か、神咲舞愛梨沙です」
「かみ……なんだって?」
「……愛梨沙、で」
「長ぇ。仕事中は短い名で呼ぶ。『リサ』でいいか」
「え、えっと……はい」
ほんの一瞬、胸がちくりとした。お母さんが呼んでくれた“神咲舞愛梨沙”が、ここでは長すぎる。けれど、今は飲み込む。生きるための、短い音。
「言っとくが、泣いても容赦しねぇぞ。粉で汚れても、熱で顔が赤くなっても、文句言うな。メシは出すが、金は出さねぇ。――手は早く、声は静かに」
「了解……です!」
声がうわずった。けれど、決意は喉をまっすぐ通った。
エプロンを結び、星の髪飾りを触ってから、言われた桶のところへ向かう。水は冷たく、指を差し込むと爪の中に土がひやりと浮いた。石鹸は動物の脂の匂いがして、泡は思ったよりも粗い。手の甲、指の間、爪。念入りにこすり、布で拭う。
店内の裏口は小さな中庭に面していて、物干しに白い布が揺れていた。壁際には空になった粉袋、積み上がった木箱。どれも仕事の痕跡で、見ているだけで背筋が伸びる。
戻ると、男は私の手を一瞥して、うなるように言った。
「よし。……じゃあ、まずはこの焼き網を持って、並べ台まで運べ」
「はい!」
思ったより重い。腕がぷるぷる震える。落としたら終わりだ、と自分に言い聞かせて歩く。台の上には既にいくつかのパンが胸を張っていて、焼き色のついた皮が「ピキッ」と小さく鳴った。
「次。紙袋を十枚、開いて待機。指の腹で端を押して、空気を含ませるように」
「こ、こう……ですか?」
「そうだ。――それと、声は抑えろ。さっきから腹の音が鳴りすぎだ」
「す、すみません……!」
思わず腹を押さえる。空腹は続いているのに、胸の奥は別の熱で満ちていた。仕事の手順が、頭の中の不安を追い出してくれる。
「おい、旦那! さっきの変な子、雇ったのかい?」
客席側から年配の女の声が飛んだ。男は面倒くさそうに返す。
「見りゃわかるだろ。人手がいるんだよ」
「その格好で働けるのかい?」
「働かせる」
短いやり取りの間に、私は紙袋を開き終えた。袋の口が小さく並び、戦列みたいに整っているのがちょっと嬉しい。
男はわざとらしく咳払いをして、顎で窯を示した。
「リサ。焼き上がりを運ぶぞ。熱い。落とすな。走るな。焦るな。――いいな」
「はい!」
窯の口が開く。熱が顔にぶつかって、瞬きが増える。焼き網に乗った丸パンを受け取り、慎重に、慎重に台へ移す。焼き立ての匂いが鼻孔を満たし、意識がふっと軽くなる。
「よし。……で、腹は」
「まだ、すいて……ます」
「だろうな」
男はため息をひとつだけ落として、奥から小さな切れ端のパンを持ってきた。端っこは固いが、中はまだ温かい。
「落とさず動けたら、ちぎって口に入れろ。仕事は続けろ。食いながら喋るな」
「……! ありがとう、ございます!」
歯を立てると、塩と小麦の甘さが舌に広がった。思わず目が熱くなる。味がする。私の中に、確かな重みで入ってくる。
(生きてる。――ここで、生きてる)
その実感が胸の奥に広がったとき、奥の扉が開いて、小さな少年が顔を覗かせた。
「旦那、広場の鐘、二回鳴りましたー!」
「よし。配達は昼過ぎだ。……リサ、午前は店内。午後は裏の掃除。できるか」
「や、やってみます!」
「やれ」
短い言葉に、妙に勇気が乗っていた。
客が二人入ってくる。男はすでに表情を切り替えている。私は袋を広げ、パンを受け取り、差し出す。手元はまだぎこちないけれど、順番は掴めてきた。ふと、カウンターの端に置かれた小さな木札が目に入る。焼きたての時刻や、今日のおすすめが墨で書かれている。こういう細やかさが、店の“温度”になるのだと、なんとなく分かった。
「リサ。声」「あ、いらっしゃいませ……!」「もう少し笑う。だが騒ぐな」「はい……!」
笑うって難しい。けれど、星の髪飾りを指でつまみ、そっと深呼吸すると、自然と口角が上がった。お母さんが写真を撮るときに「はい、笑って」と言った声が、耳の奥でやさしく反響する。
(お母さん。……私、やれてる?)
返事はない。それでも、窯の火がぱちっと鳴いて、代わりに頷いてくれた気がした。
昼前、男がふいに言った。
「――お前、どこから来た」「え」「言葉は通じる。だが金は違う。それに、その靴。見ねぇ造りだ」
胸が一瞬だけ冷たくなる。けれど、嘘をつくのが下手なのは自分が一番知っている。
「……遠くから、来ました」「だろうな」
それ以上、男は何も聞かなかった。代わりに、トングをひとつ差し出す。
「余計なことを喋らないのも、客商売のうちだ。――持て」「はい」
金属の冷たさが手のひらに移る。重さが、居場所みたいに感じられる。
午後の陽が傾き始めた頃、客足が少し落ち着いた。男は窯の火加減を見に行き、私は裏口で水を撒いた。白い布が風に揺れる音、遠くの市場の呼び声、鐘が一回。世界は続いている。私が知らないままでも、続いていく。だからこそ、今立っている場所を掴まなきゃいけない。
「おーい、リサ。今日の分はここまでだ」
振り返ると、男が湯気の立つスープの入った器を持っていた。卓上に置かれると、野菜と骨のだしの匂いが立ちのぼる。
「まかない、だ。冷めないうちに食え」
「……!」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んで、そして温かくなった。スプーンはない。器を両手で抱え、ふうふう息を吹きかけて一口。舌の先が少しだけ熱に負け、同時に幸福に痺れる。
「おいしい……」
思わず零れた声に、男は腕を組んで鼻を鳴らした。
「明日も来るなら、朝は早いぞ」「来ます! ぜったい!」「なら、さっさと休め。二階の屋根裏は空いてる。寝床に使え」「えっ、そこまで……!」「代わりに、明日の朝一番で床を磨け。静かにな」「はいっ!」
空腹はようやく引いて、代わりに体じゅうに心地よい疲れが広がっていく。器の底が見えたとき、頬を撫でる風が少しだけ優しくなった気がした。
星の髪飾りをそっと撫でる。金属はさっきより温かく、現実の温度を確かに伝えてくる。
(鈴芙美、ノエル。……大丈夫。私、ここで生きるから。絶対に、見つけるから)
心の中でそう告げて、私は小さく頷いた。
こうして神咲舞愛梨沙は、異世界での最初の仕事――パン屋のアルバイトを始めることになった。
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そして今日も残業の帰り道、脳内で転生したら、あーしよ、こーしよと現実逃避よろしくで想像しながら歩いていた。
物語はまさに、その時に起きる!
横断歩道を歩き目的他のアパートまで、もうすぐ、、、だったのに居眠り運転のトラックに轢かれ、意識を失った。
そして再び意識を取り戻した時、目の前に女神がいた。
◇
5年前の作品の改稿板になります。
少し(?)年数があって文章がおかしい所があるかもですが、素人の作品。
生暖かい目で見て下されば幸いです。
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例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
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※小説家になろう様にも掲載しています。
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(追記.2018.06.24)
物語を書く上で、特に知識不足なところはネットで調べて書いております。
もし違っていた場合は修正しますので、遠慮なくお伝えください。
(追記2018.07.02)
お気に入り400超え、驚きで声が出なくなっています。
どんどん上がる順位に不審者になりそうで怖いです。
(追記2018.07.24)
お気に入りが最高634まできましたが、600超えた今も嬉しく思います。
今更ですが1日1エピソードは書きたいと思ってますが、かなりマイペースで進行しています。
ちなみに不審者は通り越しました。
(追記2018.07.26)
完結しました。要らないとタイトルに書いておきながらかなり使っていたので、サブタイトルを要りませんから持ってます、に変更しました。
お気に入りしてくださった方、見てくださった方、ありがとうございました!
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