2 / 10
第一章 空腹で世界と出会う
しおりを挟む
「……ん、んん……」
まぶたの裏に、さっきまでの光の破片がちらついている。目を開けると、空はやけに青くて、校舎の窓から見ていた空よりも近い。草の先端が光って鼻先をくすぐり、耳の奥でロビーの電子音が、遠ざかる電車みたいに細くほどけて消えた。
頬に触れるのは、柔らかな草と冷たい土。指でつまむと、湿った粒が爪の間に残る。膝の裏には朝露のひんやりが張りついて、短いスカートの裾が風にさわ、と鳴った。鳥が二羽、空の端を横切る。匂いは土と草、それから見えない樹液の甘さ。体育館の埃っぽい匂いとも、VRロビーの金属めいた冷気とも違う、やけに“生き物っぽい”空気だ。
「……ここ、どこ? え、夢? いや、痛っ……」
頬をつねると、本当に痛い。身につけているのは、左肩が大きく見える白いフリルの短いシャツ。おへそが出る丈で、風が直接肌を撫でてぞくりとする。オレンジ色のミニスカートは太腿の真ん中まで。白いベルトが光を拾い、足にはショートソックスと、オレンジと緑のハーフブーツ。見慣れた制服ではなく、出かける時にふざけて選んだみたいな普段着――そんな格好のまま、見知らぬ場所に放り出された。
右のサイドテールに差した星の髪飾りが、太陽の粒を跳ね返すみたいにまたたく。指でつまむと金属が少し温かい。現実の温度だ。
(……これ、ほんとに異世界転生ってやつ? いやいや、そんなバカな。……でも)
立ち上がると、膝についた土埃がふわりと舞った。少し離れたところに、石積みの塀と赤茶の瓦屋根が見える。窓は木枠で、小さなガラスが格子みたいに並んでいた。絵本で見た“古い町”の景色が、そのまま目の前にある。風が運んでくる気配は、確かに“人”。木箱を下ろす重い音、誰かが笑う声、遠くで一度だけ鳴る鐘。喉がからからなのに唾は味がなく、代わりに、胃の底が空洞みたいにきゅうと鳴った。
――おなかがすいた。
「うぅ……ぐぅぅぅ……。お腹すいたぁぁぁ……!」
自分の声が、情けないくらい素直に出る。両腕で腹を抱えて、石畳の端にぺたりと座り込んだ。スカートの裾が石の冷たさを遮りきれず、ぞくりとする。立たなきゃ。分かってるのに、足が鉛みたいに重い。息を吸っても、吸っても、胃袋が文句を言ってくる。
その時、風向きが変わった。
ふっと、甘く香ばしい匂いが鼻の奥に落ちる。小麦が焼ける匂い。溶けたバターのきらめき。表面のこんがりが中のふわふわを包み、ほんの少し砂糖が焦げたみたいな甘苦さ――給食の“当たり日”のコッペパンを思い出す。トレイを持って列に並んで、友達と「今日は当たりだね」って目配せした、あの瞬間。それから、耳のどこかで“お母さん”の声がした気がした。「冷めないうちに食べなさいよ」。胸の真ん中が小さく疼く。帰りたい、って気持ちと、今すぐ食べたい、が同時に押し寄せる。
「た、食べ物……!」
ほとんど反射で立ち上がって、匂いの方へふらふら歩く。土道はやがて石畳に変わり、木組みの家々が肩を寄せ合う通りに出た。看板には見たことのない文字が彫られているけれど、描かれた絵は分かる。葡萄、靴、そして――楕円のパン。通りの両側には露店が連なっていた。赤や黄色の果物を高く積んだ台、焼き串を売る屋台から漂う肉の匂い、花束を抱えた少女、壺を肩にのせる少年。人々の呼び声が重なり合い、言葉は分からないのに活気だけが身体へ伝わる。さらに近くでは、旅人風の男が革袋を掲げて値段を交渉している声、楽器を抱えた少女が路上で爪弾く音も混じっていた。陽の光が屋根瓦で跳ね返り、白い石畳に光の模様を描く。ここは、間違いなく“異世界の町”だった。
「お姉ちゃん、その服かわいい!」「おへそ、出てる……」
小さな子ども二人が手をつないで見上げてくる。思わずスカートの裾を押さえると、母親らしい人が苦笑して会釈した。
「旅の方? 市場はそっち。パンのいい匂いでしょ」
指さされた先から、いよいよ濃い小麦の香りが押し寄せてきた。
「ありがとう……!」
オレンジのハーフブーツの先で石が小さく鳴った。視線を感じる。私の肩やおへそへ向かう、好奇と驚きの混ざった視線。ひそひそと囁く声も耳の端に引っかかった。けれど、それ以上にパンの匂いが強烈に私を引き寄せる。
角を曲がると、小さなパン屋があった。木の扉、飾り彫りの入った楕円の看板、窓の向こうに並ぶ籠。丸いパン、ねじれたパン、長いバゲット。表面に入った切り込みから白い柔らかさがのぞいて、粉砂糖をまとった白もある。窓に顔を寄せれば、湯気でガラスが曇る。胃袋が、期待でぐうっと縮んだ。
ドアを押す。鈴がちりん、と転がるみたいに鳴く。店の中は外より少し暖かく、粉と木の台と焼けた皮の匂いが層になってたゆたう。窯の口が赤く、奥で火がぱち、ぱち、と小さくはぜた。棚には丸パンが積み上げられ、上段には香辛料を練り込んだ黒パン、下段には蜂蜜を塗った甘いパンが並んでいた。レジ代わりの秤、粉で白くなった床、壁に掛けられた木べらや刷毛。誰かの仕事の息が、まだ空気の中で温かい。
カウンターの脇に立った瞬間、体の奥が震えるほど、お腹が鳴る。
「おい嬢ちゃん、その格好はなんだ? 見ねぇ顔だな」
奥から現れたのは、白い帽子をかぶった大柄の男。腕まくりした前腕は小麦粉で白く、熱でほんのり赤い。眉は太いが、目は意外に丸く、じっと観察する魚みたいに動かない。視線が、私のフリルのシャツ、出ているおへそ、オレンジのスカート、白いベルト、ブーツを順に撫でていく。異国の町でこんな服は珍しいに決まっている。
「えっ? あ、あの……ご飯、ください!」
言ってから、“ご飯”じゃなくて“パン”だと気づく。けれど、もう遅い。男は片眉を上げ、カウンター越しにこちらをじろりと見た。その間に、私の腹がここぞとばかりに鳴る。静かな店内に響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「金はあるのか?」
「……に、日本円なら……」
震える手で財布を取り出す。千円札、五百円玉。こっちでも通じますように、と祈るみたいに差し出す。男は紙幣を透かして眺め、硬貨を弾いて音を聞き、それからしばらく黙り込んだ。重い沈黙が、パンの香りを余計に濃くする。やがて、男は肩をすくめた。
「なんだそりゃ。絵は描いてあるが、ここじゃ通用しねぇ」
「そ、そんなぁぁ! でもお腹が……!」
声が震える。目の奥がじわっと熱い。泣きたくないのに、涙腺が勝手に準備を始める。深呼吸、深呼吸――そう言い聞かせても、焼きたての匂いが胸いっぱいに広がって、余計にお腹が鳴った。
ふっと、朝の台所の気配が脳裏に差し込む。食卓の皿の上で湯気を立てるトースト。半分寝ぼけた私に「ほら、冷めないうちに」と言って笑うお母さん。焦げ目がちょっと苦いなんて文句を言ったくせに、本当は大好きだった味。その記憶は、帰りたいを引き寄せるフックになって、同時に目の前の匂いをさらに鮮明にした。
男が掌をひとつ、軽く上げた。顎で奥を指す。窯の前には布をかけられた皿があり、中の生地がふっくら膨らみ始めている。もう一度、私を見る目は厳しいが、冷たいというよりは“見定める目”だった。
「……仕方ねぇ。特別だ。ただし条件がある」
「えっ……?」
「働けば食わせてやる。掃除でも、パンを並べるでもいい。やる気があるなら置いてやるさ」
「は、働くって……」
思わず繰り返すと、男は鼻で笑った。
「当たり前だろ。タダで食わせる奴がどこにいる」
「で、でも、私……その……」
「できねぇか? なら帰んな」
男の言葉は突き放すようで、同時に試すようでもあった。ここで逃げたら、本当に道が閉じる気がした。
「ま、待って! やります。やるから、やらせてください!」
「口は元気だな。手はどうだ」
男はカウンターの下から木製のトレイと、粗い麻布のエプロンを取り出した。
「まず、手を洗え。爪の中までだ。水は奥の桶、石鹸はそこ。髪はまとめろ。――名前は」
「か、神咲舞愛梨沙です」
「かみ……なんだって?」
「……愛梨沙、で」
「長ぇ。仕事中は短い名で呼ぶ。『リサ』でいいか」
「え、えっと……はい」
ほんの一瞬、胸がちくりとした。お母さんが呼んでくれた“神咲舞愛梨沙”が、ここでは長すぎる。けれど、今は飲み込む。生きるための、短い音。
「言っとくが、泣いても容赦しねぇぞ。粉で汚れても、熱で顔が赤くなっても、文句言うな。メシは出すが、金は出さねぇ。――手は早く、声は静かに」
「了解……です!」
声がうわずった。けれど、決意は喉をまっすぐ通った。
エプロンを結び、星の髪飾りを触ってから、言われた桶のところへ向かう。水は冷たく、指を差し込むと爪の中に土がひやりと浮いた。石鹸は動物の脂の匂いがして、泡は思ったよりも粗い。手の甲、指の間、爪。念入りにこすり、布で拭う。
店内の裏口は小さな中庭に面していて、物干しに白い布が揺れていた。壁際には空になった粉袋、積み上がった木箱。どれも仕事の痕跡で、見ているだけで背筋が伸びる。
戻ると、男は私の手を一瞥して、うなるように言った。
「よし。……じゃあ、まずはこの焼き網を持って、並べ台まで運べ」
「はい!」
思ったより重い。腕がぷるぷる震える。落としたら終わりだ、と自分に言い聞かせて歩く。台の上には既にいくつかのパンが胸を張っていて、焼き色のついた皮が「ピキッ」と小さく鳴った。
「次。紙袋を十枚、開いて待機。指の腹で端を押して、空気を含ませるように」
「こ、こう……ですか?」
「そうだ。――それと、声は抑えろ。さっきから腹の音が鳴りすぎだ」
「す、すみません……!」
思わず腹を押さえる。空腹は続いているのに、胸の奥は別の熱で満ちていた。仕事の手順が、頭の中の不安を追い出してくれる。
「おい、旦那! さっきの変な子、雇ったのかい?」
客席側から年配の女の声が飛んだ。男は面倒くさそうに返す。
「見りゃわかるだろ。人手がいるんだよ」
「その格好で働けるのかい?」
「働かせる」
短いやり取りの間に、私は紙袋を開き終えた。袋の口が小さく並び、戦列みたいに整っているのがちょっと嬉しい。
男はわざとらしく咳払いをして、顎で窯を示した。
「リサ。焼き上がりを運ぶぞ。熱い。落とすな。走るな。焦るな。――いいな」
「はい!」
窯の口が開く。熱が顔にぶつかって、瞬きが増える。焼き網に乗った丸パンを受け取り、慎重に、慎重に台へ移す。焼き立ての匂いが鼻孔を満たし、意識がふっと軽くなる。
「よし。……で、腹は」
「まだ、すいて……ます」
「だろうな」
男はため息をひとつだけ落として、奥から小さな切れ端のパンを持ってきた。端っこは固いが、中はまだ温かい。
「落とさず動けたら、ちぎって口に入れろ。仕事は続けろ。食いながら喋るな」
「……! ありがとう、ございます!」
歯を立てると、塩と小麦の甘さが舌に広がった。思わず目が熱くなる。味がする。私の中に、確かな重みで入ってくる。
(生きてる。――ここで、生きてる)
その実感が胸の奥に広がったとき、奥の扉が開いて、小さな少年が顔を覗かせた。
「旦那、広場の鐘、二回鳴りましたー!」
「よし。配達は昼過ぎだ。……リサ、午前は店内。午後は裏の掃除。できるか」
「や、やってみます!」
「やれ」
短い言葉に、妙に勇気が乗っていた。
客が二人入ってくる。男はすでに表情を切り替えている。私は袋を広げ、パンを受け取り、差し出す。手元はまだぎこちないけれど、順番は掴めてきた。ふと、カウンターの端に置かれた小さな木札が目に入る。焼きたての時刻や、今日のおすすめが墨で書かれている。こういう細やかさが、店の“温度”になるのだと、なんとなく分かった。
「リサ。声」「あ、いらっしゃいませ……!」「もう少し笑う。だが騒ぐな」「はい……!」
笑うって難しい。けれど、星の髪飾りを指でつまみ、そっと深呼吸すると、自然と口角が上がった。お母さんが写真を撮るときに「はい、笑って」と言った声が、耳の奥でやさしく反響する。
(お母さん。……私、やれてる?)
返事はない。それでも、窯の火がぱちっと鳴いて、代わりに頷いてくれた気がした。
昼前、男がふいに言った。
「――お前、どこから来た」「え」「言葉は通じる。だが金は違う。それに、その靴。見ねぇ造りだ」
胸が一瞬だけ冷たくなる。けれど、嘘をつくのが下手なのは自分が一番知っている。
「……遠くから、来ました」「だろうな」
それ以上、男は何も聞かなかった。代わりに、トングをひとつ差し出す。
「余計なことを喋らないのも、客商売のうちだ。――持て」「はい」
金属の冷たさが手のひらに移る。重さが、居場所みたいに感じられる。
午後の陽が傾き始めた頃、客足が少し落ち着いた。男は窯の火加減を見に行き、私は裏口で水を撒いた。白い布が風に揺れる音、遠くの市場の呼び声、鐘が一回。世界は続いている。私が知らないままでも、続いていく。だからこそ、今立っている場所を掴まなきゃいけない。
「おーい、リサ。今日の分はここまでだ」
振り返ると、男が湯気の立つスープの入った器を持っていた。卓上に置かれると、野菜と骨のだしの匂いが立ちのぼる。
「まかない、だ。冷めないうちに食え」
「……!」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んで、そして温かくなった。スプーンはない。器を両手で抱え、ふうふう息を吹きかけて一口。舌の先が少しだけ熱に負け、同時に幸福に痺れる。
「おいしい……」
思わず零れた声に、男は腕を組んで鼻を鳴らした。
「明日も来るなら、朝は早いぞ」「来ます! ぜったい!」「なら、さっさと休め。二階の屋根裏は空いてる。寝床に使え」「えっ、そこまで……!」「代わりに、明日の朝一番で床を磨け。静かにな」「はいっ!」
空腹はようやく引いて、代わりに体じゅうに心地よい疲れが広がっていく。器の底が見えたとき、頬を撫でる風が少しだけ優しくなった気がした。
星の髪飾りをそっと撫でる。金属はさっきより温かく、現実の温度を確かに伝えてくる。
(鈴芙美、ノエル。……大丈夫。私、ここで生きるから。絶対に、見つけるから)
心の中でそう告げて、私は小さく頷いた。
こうして神咲舞愛梨沙は、異世界での最初の仕事――パン屋のアルバイトを始めることになった。
まぶたの裏に、さっきまでの光の破片がちらついている。目を開けると、空はやけに青くて、校舎の窓から見ていた空よりも近い。草の先端が光って鼻先をくすぐり、耳の奥でロビーの電子音が、遠ざかる電車みたいに細くほどけて消えた。
頬に触れるのは、柔らかな草と冷たい土。指でつまむと、湿った粒が爪の間に残る。膝の裏には朝露のひんやりが張りついて、短いスカートの裾が風にさわ、と鳴った。鳥が二羽、空の端を横切る。匂いは土と草、それから見えない樹液の甘さ。体育館の埃っぽい匂いとも、VRロビーの金属めいた冷気とも違う、やけに“生き物っぽい”空気だ。
「……ここ、どこ? え、夢? いや、痛っ……」
頬をつねると、本当に痛い。身につけているのは、左肩が大きく見える白いフリルの短いシャツ。おへそが出る丈で、風が直接肌を撫でてぞくりとする。オレンジ色のミニスカートは太腿の真ん中まで。白いベルトが光を拾い、足にはショートソックスと、オレンジと緑のハーフブーツ。見慣れた制服ではなく、出かける時にふざけて選んだみたいな普段着――そんな格好のまま、見知らぬ場所に放り出された。
右のサイドテールに差した星の髪飾りが、太陽の粒を跳ね返すみたいにまたたく。指でつまむと金属が少し温かい。現実の温度だ。
(……これ、ほんとに異世界転生ってやつ? いやいや、そんなバカな。……でも)
立ち上がると、膝についた土埃がふわりと舞った。少し離れたところに、石積みの塀と赤茶の瓦屋根が見える。窓は木枠で、小さなガラスが格子みたいに並んでいた。絵本で見た“古い町”の景色が、そのまま目の前にある。風が運んでくる気配は、確かに“人”。木箱を下ろす重い音、誰かが笑う声、遠くで一度だけ鳴る鐘。喉がからからなのに唾は味がなく、代わりに、胃の底が空洞みたいにきゅうと鳴った。
――おなかがすいた。
「うぅ……ぐぅぅぅ……。お腹すいたぁぁぁ……!」
自分の声が、情けないくらい素直に出る。両腕で腹を抱えて、石畳の端にぺたりと座り込んだ。スカートの裾が石の冷たさを遮りきれず、ぞくりとする。立たなきゃ。分かってるのに、足が鉛みたいに重い。息を吸っても、吸っても、胃袋が文句を言ってくる。
その時、風向きが変わった。
ふっと、甘く香ばしい匂いが鼻の奥に落ちる。小麦が焼ける匂い。溶けたバターのきらめき。表面のこんがりが中のふわふわを包み、ほんの少し砂糖が焦げたみたいな甘苦さ――給食の“当たり日”のコッペパンを思い出す。トレイを持って列に並んで、友達と「今日は当たりだね」って目配せした、あの瞬間。それから、耳のどこかで“お母さん”の声がした気がした。「冷めないうちに食べなさいよ」。胸の真ん中が小さく疼く。帰りたい、って気持ちと、今すぐ食べたい、が同時に押し寄せる。
「た、食べ物……!」
ほとんど反射で立ち上がって、匂いの方へふらふら歩く。土道はやがて石畳に変わり、木組みの家々が肩を寄せ合う通りに出た。看板には見たことのない文字が彫られているけれど、描かれた絵は分かる。葡萄、靴、そして――楕円のパン。通りの両側には露店が連なっていた。赤や黄色の果物を高く積んだ台、焼き串を売る屋台から漂う肉の匂い、花束を抱えた少女、壺を肩にのせる少年。人々の呼び声が重なり合い、言葉は分からないのに活気だけが身体へ伝わる。さらに近くでは、旅人風の男が革袋を掲げて値段を交渉している声、楽器を抱えた少女が路上で爪弾く音も混じっていた。陽の光が屋根瓦で跳ね返り、白い石畳に光の模様を描く。ここは、間違いなく“異世界の町”だった。
「お姉ちゃん、その服かわいい!」「おへそ、出てる……」
小さな子ども二人が手をつないで見上げてくる。思わずスカートの裾を押さえると、母親らしい人が苦笑して会釈した。
「旅の方? 市場はそっち。パンのいい匂いでしょ」
指さされた先から、いよいよ濃い小麦の香りが押し寄せてきた。
「ありがとう……!」
オレンジのハーフブーツの先で石が小さく鳴った。視線を感じる。私の肩やおへそへ向かう、好奇と驚きの混ざった視線。ひそひそと囁く声も耳の端に引っかかった。けれど、それ以上にパンの匂いが強烈に私を引き寄せる。
角を曲がると、小さなパン屋があった。木の扉、飾り彫りの入った楕円の看板、窓の向こうに並ぶ籠。丸いパン、ねじれたパン、長いバゲット。表面に入った切り込みから白い柔らかさがのぞいて、粉砂糖をまとった白もある。窓に顔を寄せれば、湯気でガラスが曇る。胃袋が、期待でぐうっと縮んだ。
ドアを押す。鈴がちりん、と転がるみたいに鳴く。店の中は外より少し暖かく、粉と木の台と焼けた皮の匂いが層になってたゆたう。窯の口が赤く、奥で火がぱち、ぱち、と小さくはぜた。棚には丸パンが積み上げられ、上段には香辛料を練り込んだ黒パン、下段には蜂蜜を塗った甘いパンが並んでいた。レジ代わりの秤、粉で白くなった床、壁に掛けられた木べらや刷毛。誰かの仕事の息が、まだ空気の中で温かい。
カウンターの脇に立った瞬間、体の奥が震えるほど、お腹が鳴る。
「おい嬢ちゃん、その格好はなんだ? 見ねぇ顔だな」
奥から現れたのは、白い帽子をかぶった大柄の男。腕まくりした前腕は小麦粉で白く、熱でほんのり赤い。眉は太いが、目は意外に丸く、じっと観察する魚みたいに動かない。視線が、私のフリルのシャツ、出ているおへそ、オレンジのスカート、白いベルト、ブーツを順に撫でていく。異国の町でこんな服は珍しいに決まっている。
「えっ? あ、あの……ご飯、ください!」
言ってから、“ご飯”じゃなくて“パン”だと気づく。けれど、もう遅い。男は片眉を上げ、カウンター越しにこちらをじろりと見た。その間に、私の腹がここぞとばかりに鳴る。静かな店内に響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。
「金はあるのか?」
「……に、日本円なら……」
震える手で財布を取り出す。千円札、五百円玉。こっちでも通じますように、と祈るみたいに差し出す。男は紙幣を透かして眺め、硬貨を弾いて音を聞き、それからしばらく黙り込んだ。重い沈黙が、パンの香りを余計に濃くする。やがて、男は肩をすくめた。
「なんだそりゃ。絵は描いてあるが、ここじゃ通用しねぇ」
「そ、そんなぁぁ! でもお腹が……!」
声が震える。目の奥がじわっと熱い。泣きたくないのに、涙腺が勝手に準備を始める。深呼吸、深呼吸――そう言い聞かせても、焼きたての匂いが胸いっぱいに広がって、余計にお腹が鳴った。
ふっと、朝の台所の気配が脳裏に差し込む。食卓の皿の上で湯気を立てるトースト。半分寝ぼけた私に「ほら、冷めないうちに」と言って笑うお母さん。焦げ目がちょっと苦いなんて文句を言ったくせに、本当は大好きだった味。その記憶は、帰りたいを引き寄せるフックになって、同時に目の前の匂いをさらに鮮明にした。
男が掌をひとつ、軽く上げた。顎で奥を指す。窯の前には布をかけられた皿があり、中の生地がふっくら膨らみ始めている。もう一度、私を見る目は厳しいが、冷たいというよりは“見定める目”だった。
「……仕方ねぇ。特別だ。ただし条件がある」
「えっ……?」
「働けば食わせてやる。掃除でも、パンを並べるでもいい。やる気があるなら置いてやるさ」
「は、働くって……」
思わず繰り返すと、男は鼻で笑った。
「当たり前だろ。タダで食わせる奴がどこにいる」
「で、でも、私……その……」
「できねぇか? なら帰んな」
男の言葉は突き放すようで、同時に試すようでもあった。ここで逃げたら、本当に道が閉じる気がした。
「ま、待って! やります。やるから、やらせてください!」
「口は元気だな。手はどうだ」
男はカウンターの下から木製のトレイと、粗い麻布のエプロンを取り出した。
「まず、手を洗え。爪の中までだ。水は奥の桶、石鹸はそこ。髪はまとめろ。――名前は」
「か、神咲舞愛梨沙です」
「かみ……なんだって?」
「……愛梨沙、で」
「長ぇ。仕事中は短い名で呼ぶ。『リサ』でいいか」
「え、えっと……はい」
ほんの一瞬、胸がちくりとした。お母さんが呼んでくれた“神咲舞愛梨沙”が、ここでは長すぎる。けれど、今は飲み込む。生きるための、短い音。
「言っとくが、泣いても容赦しねぇぞ。粉で汚れても、熱で顔が赤くなっても、文句言うな。メシは出すが、金は出さねぇ。――手は早く、声は静かに」
「了解……です!」
声がうわずった。けれど、決意は喉をまっすぐ通った。
エプロンを結び、星の髪飾りを触ってから、言われた桶のところへ向かう。水は冷たく、指を差し込むと爪の中に土がひやりと浮いた。石鹸は動物の脂の匂いがして、泡は思ったよりも粗い。手の甲、指の間、爪。念入りにこすり、布で拭う。
店内の裏口は小さな中庭に面していて、物干しに白い布が揺れていた。壁際には空になった粉袋、積み上がった木箱。どれも仕事の痕跡で、見ているだけで背筋が伸びる。
戻ると、男は私の手を一瞥して、うなるように言った。
「よし。……じゃあ、まずはこの焼き網を持って、並べ台まで運べ」
「はい!」
思ったより重い。腕がぷるぷる震える。落としたら終わりだ、と自分に言い聞かせて歩く。台の上には既にいくつかのパンが胸を張っていて、焼き色のついた皮が「ピキッ」と小さく鳴った。
「次。紙袋を十枚、開いて待機。指の腹で端を押して、空気を含ませるように」
「こ、こう……ですか?」
「そうだ。――それと、声は抑えろ。さっきから腹の音が鳴りすぎだ」
「す、すみません……!」
思わず腹を押さえる。空腹は続いているのに、胸の奥は別の熱で満ちていた。仕事の手順が、頭の中の不安を追い出してくれる。
「おい、旦那! さっきの変な子、雇ったのかい?」
客席側から年配の女の声が飛んだ。男は面倒くさそうに返す。
「見りゃわかるだろ。人手がいるんだよ」
「その格好で働けるのかい?」
「働かせる」
短いやり取りの間に、私は紙袋を開き終えた。袋の口が小さく並び、戦列みたいに整っているのがちょっと嬉しい。
男はわざとらしく咳払いをして、顎で窯を示した。
「リサ。焼き上がりを運ぶぞ。熱い。落とすな。走るな。焦るな。――いいな」
「はい!」
窯の口が開く。熱が顔にぶつかって、瞬きが増える。焼き網に乗った丸パンを受け取り、慎重に、慎重に台へ移す。焼き立ての匂いが鼻孔を満たし、意識がふっと軽くなる。
「よし。……で、腹は」
「まだ、すいて……ます」
「だろうな」
男はため息をひとつだけ落として、奥から小さな切れ端のパンを持ってきた。端っこは固いが、中はまだ温かい。
「落とさず動けたら、ちぎって口に入れろ。仕事は続けろ。食いながら喋るな」
「……! ありがとう、ございます!」
歯を立てると、塩と小麦の甘さが舌に広がった。思わず目が熱くなる。味がする。私の中に、確かな重みで入ってくる。
(生きてる。――ここで、生きてる)
その実感が胸の奥に広がったとき、奥の扉が開いて、小さな少年が顔を覗かせた。
「旦那、広場の鐘、二回鳴りましたー!」
「よし。配達は昼過ぎだ。……リサ、午前は店内。午後は裏の掃除。できるか」
「や、やってみます!」
「やれ」
短い言葉に、妙に勇気が乗っていた。
客が二人入ってくる。男はすでに表情を切り替えている。私は袋を広げ、パンを受け取り、差し出す。手元はまだぎこちないけれど、順番は掴めてきた。ふと、カウンターの端に置かれた小さな木札が目に入る。焼きたての時刻や、今日のおすすめが墨で書かれている。こういう細やかさが、店の“温度”になるのだと、なんとなく分かった。
「リサ。声」「あ、いらっしゃいませ……!」「もう少し笑う。だが騒ぐな」「はい……!」
笑うって難しい。けれど、星の髪飾りを指でつまみ、そっと深呼吸すると、自然と口角が上がった。お母さんが写真を撮るときに「はい、笑って」と言った声が、耳の奥でやさしく反響する。
(お母さん。……私、やれてる?)
返事はない。それでも、窯の火がぱちっと鳴いて、代わりに頷いてくれた気がした。
昼前、男がふいに言った。
「――お前、どこから来た」「え」「言葉は通じる。だが金は違う。それに、その靴。見ねぇ造りだ」
胸が一瞬だけ冷たくなる。けれど、嘘をつくのが下手なのは自分が一番知っている。
「……遠くから、来ました」「だろうな」
それ以上、男は何も聞かなかった。代わりに、トングをひとつ差し出す。
「余計なことを喋らないのも、客商売のうちだ。――持て」「はい」
金属の冷たさが手のひらに移る。重さが、居場所みたいに感じられる。
午後の陽が傾き始めた頃、客足が少し落ち着いた。男は窯の火加減を見に行き、私は裏口で水を撒いた。白い布が風に揺れる音、遠くの市場の呼び声、鐘が一回。世界は続いている。私が知らないままでも、続いていく。だからこそ、今立っている場所を掴まなきゃいけない。
「おーい、リサ。今日の分はここまでだ」
振り返ると、男が湯気の立つスープの入った器を持っていた。卓上に置かれると、野菜と骨のだしの匂いが立ちのぼる。
「まかない、だ。冷めないうちに食え」
「……!」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んで、そして温かくなった。スプーンはない。器を両手で抱え、ふうふう息を吹きかけて一口。舌の先が少しだけ熱に負け、同時に幸福に痺れる。
「おいしい……」
思わず零れた声に、男は腕を組んで鼻を鳴らした。
「明日も来るなら、朝は早いぞ」「来ます! ぜったい!」「なら、さっさと休め。二階の屋根裏は空いてる。寝床に使え」「えっ、そこまで……!」「代わりに、明日の朝一番で床を磨け。静かにな」「はいっ!」
空腹はようやく引いて、代わりに体じゅうに心地よい疲れが広がっていく。器の底が見えたとき、頬を撫でる風が少しだけ優しくなった気がした。
星の髪飾りをそっと撫でる。金属はさっきより温かく、現実の温度を確かに伝えてくる。
(鈴芙美、ノエル。……大丈夫。私、ここで生きるから。絶対に、見つけるから)
心の中でそう告げて、私は小さく頷いた。
こうして神咲舞愛梨沙は、異世界での最初の仕事――パン屋のアルバイトを始めることになった。
0
あなたにおすすめの小説
没落ルートの悪役貴族に転生した俺が【鑑定】と【人心掌握】のWスキルで順風満帆な勝ち組ハーレムルートを歩むまで
六志麻あさ
ファンタジー
才能Sランクの逸材たちよ、俺のもとに集え――。
乙女ゲーム『花乙女の誓約』の悪役令息ディオンに転生した俺。
ゲーム内では必ず没落する運命のディオンだが、俺はゲーム知識に加え二つのスキル【鑑定】と【人心掌握】を駆使して領地改革に乗り出す。
有能な人材を発掘・登用し、ヒロインたちとの絆を深めてハーレムを築きつつ領主としても有能ムーブを連発して、領地をみるみる発展させていく。
前世ではロクな思い出がない俺だけど、これからは全てが報われる勝ち組人生が待っている――。
転生してチートを手に入れました!!生まれた時から精霊王に囲まれてます…やだ
如月花恋
ファンタジー
…目の前がめっちゃ明るくなったと思ったら今度は…真っ白?
「え~…大丈夫?」
…大丈夫じゃないです
というかあなた誰?
「神。ごめんね~?合コンしてたら死んじゃってた~」
…合…コン
私の死因…神様の合コン…
…かない
「てことで…好きな所に転生していいよ!!」
好きな所…転生
じゃ異世界で
「異世界ってそんな子供みたいな…」
子供だし
小2
「まっいっか。分かった。知り合いのところ送るね」
よろです
魔法使えるところがいいな
「更に注文!?」
…神様のせいで死んだのに…
「あぁ!!分かりました!!」
やたね
「君…結構策士だな」
そう?
作戦とかは楽しいけど…
「う~ん…だったらあそこでも大丈夫かな。ちょうど人が足りないって言ってたし」
…あそこ?
「…うん。君ならやれるよ。頑張って」
…んな他人事みたいな…
「あ。爵位は結構高めだからね」
しゃくい…?
「じゃ!!」
え?
ちょ…しゃくいの説明ぃぃぃぃ!!
高校生の俺、異世界転移していきなり追放されるが、じつは最強魔法使い。可愛い看板娘がいる宿屋に拾われたのでもう戻りません
下昴しん
ファンタジー
高校生のタクトは部活帰りに突然異世界へ転移してしまう。
横柄な態度の王から、魔法使いはいらんわ、城から出ていけと言われ、いきなり無職になったタクト。
偶然会った宿屋の店長トロに仕事をもらい、看板娘のマロンと一緒に宿と食堂を手伝うことに。
すると突然、客の兵士が暴れだし宿はメチャクチャになる。
兵士に殴り飛ばされるトロとマロン。
この世界の魔法は、生活で利用する程度の威力しかなく、とても弱い。
しかし──タクトの魔法は人並み外れて、無法者も脳筋男もひれ伏すほど強かった。
【完結】転生したら最強の魔法使いでした~元ブラック企業OLの異世界無双~
きゅちゃん
ファンタジー
過労死寸前のブラック企業OL・田中美咲(28歳)が、残業中に倒れて異世界に転生。転生先では「セリア・アルクライト」という名前で、なんと世界最強クラスの魔法使いとして生まれ変わる。
前世で我慢し続けた鬱憤を晴らすかのように、理不尽な権力者たちを魔法でバッサバッサと成敗し、困っている人々を助けていく。持ち前の社会人経験と常識、そして圧倒的な魔法力で、この世界の様々な問題を解決していく痛快ストーリー。
異世界に召喚されたが勇者ではなかったために放り出された夫婦は拾った赤ちゃんを守り育てる。そして3人の孤児を弟子にする。
お小遣い月3万
ファンタジー
異世界に召喚された夫婦。だけど2人は勇者の資質を持っていなかった。ステータス画面を出現させることはできなかったのだ。ステータス画面が出現できない2人はレベルが上がらなかった。
夫の淳は初級魔法は使えるけど、それ以上の魔法は使えなかった。
妻の美子は魔法すら使えなかった。だけど、のちにユニークスキルを持っていることがわかる。彼女が作った料理を食べるとHPが回復するというユニークスキルである。
勇者になれなかった夫婦は城から放り出され、見知らぬ土地である異世界で暮らし始めた。
ある日、妻は川に洗濯に、夫はゴブリンの討伐に森に出かけた。
夫は竹のような植物が光っているのを見つける。光の正体を確認するために植物を切ると、そこに現れたのは赤ちゃんだった。
夫婦は赤ちゃんを育てることになった。赤ちゃんは女の子だった。
その子を大切に育てる。
女の子が5歳の時に、彼女がステータス画面を発現させることができるのに気づいてしまう。
2人は王様に子どもが奪われないようにステータス画面が発現することを隠した。
だけど子どもはどんどんと強くなって行く。
大切な我が子が魔王討伐に向かうまでの物語。世界で一番大切なモノを守るために夫婦は奮闘する。世界で一番愛しているモノの幸せのために夫婦は奮闘する。
収納魔法を極めた魔術師ですが、勇者パーティを追放されました。ところで俺の追放理由って “どれ” ですか?
木塚麻弥
ファンタジー
収納魔法を活かして勇者パーティーの荷物持ちをしていたケイトはある日、パーティーを追放されてしまった。
追放される理由はよく分からなかった。
彼はパーティーを追放されても文句の言えない理由を無数に抱えていたからだ。
結局どれが本当の追放理由なのかはよく分からなかったが、勇者から追放すると強く言われたのでケイトはそれに従う。
しかし彼は、追放されてもなお仲間たちのことが好きだった。
たった四人で強大な魔王軍に立ち向かおうとするかつての仲間たち。
ケイトは彼らを失いたくなかった。
勇者たちとまた一緒に食事がしたかった。
しばらくひとりで悩んでいたケイトは気づいてしまう。
「追放されたってことは、俺の行動を制限する奴もいないってことだよな?」
これは収納魔法しか使えない魔術師が、仲間のために陰で奮闘する物語。
異世界転生したらたくさんスキルもらったけど今まで選ばれなかったものだった~魔王討伐は無理な気がする~
宝者来価
ファンタジー
俺は異世界転生者カドマツ。
転生理由は幼い少女を交通事故からかばったこと。
良いとこなしの日々を送っていたが女神様から異世界に転生すると説明された時にはアニメやゲームのような展開を期待したりもした。
例えばモンスターを倒して国を救いヒロインと結ばれるなど。
けれど与えられた【今まで選ばれなかったスキルが使える】 戦闘はおろか日常の役にも立つ気がしない余りものばかり。
同じ転生者でイケメン王子のレイニーに出迎えられ歓迎される。
彼は【スキル:水】を使う最強で理想的な異世界転生者に思えたのだが―――!?
※小説家になろう様にも掲載しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる