「異世界転生したらギルドで笑われたけど、負けヒロインにはならない!」

ぐれおねP

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第一章 空腹で世界と出会う

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「……ん、んん……」

まぶたの裏に、さっきまでの光の破片がちらついている。目を開けると、空はやけに青くて、校舎の窓から見ていた空よりも近い。草の先端が光って鼻先をくすぐり、耳の奥でロビーの電子音が、遠ざかる電車みたいに細くほどけて消えた。

頬に触れるのは、柔らかな草と冷たい土。指でつまむと、湿った粒が爪の間に残る。膝の裏には朝露のひんやりが張りついて、短いスカートの裾が風にさわ、と鳴った。鳥が二羽、空の端を横切る。匂いは土と草、それから見えない樹液の甘さ。体育館の埃っぽい匂いとも、VRロビーの金属めいた冷気とも違う、やけに“生き物っぽい”空気だ。

「……ここ、どこ? え、夢? いや、痛っ……」

頬をつねると、本当に痛い。身につけているのは、左肩が大きく見える白いフリルの短いシャツ。おへそが出る丈で、風が直接肌を撫でてぞくりとする。オレンジ色のミニスカートは太腿の真ん中まで。白いベルトが光を拾い、足にはショートソックスと、オレンジと緑のハーフブーツ。見慣れた制服ではなく、出かける時にふざけて選んだみたいな普段着――そんな格好のまま、見知らぬ場所に放り出された。

右のサイドテールに差した星の髪飾りが、太陽の粒を跳ね返すみたいにまたたく。指でつまむと金属が少し温かい。現実の温度だ。

(……これ、ほんとに異世界転生ってやつ? いやいや、そんなバカな。……でも)

立ち上がると、膝についた土埃がふわりと舞った。少し離れたところに、石積みの塀と赤茶の瓦屋根が見える。窓は木枠で、小さなガラスが格子みたいに並んでいた。絵本で見た“古い町”の景色が、そのまま目の前にある。風が運んでくる気配は、確かに“人”。木箱を下ろす重い音、誰かが笑う声、遠くで一度だけ鳴る鐘。喉がからからなのに唾は味がなく、代わりに、胃の底が空洞みたいにきゅうと鳴った。

――おなかがすいた。

「うぅ……ぐぅぅぅ……。お腹すいたぁぁぁ……!」

自分の声が、情けないくらい素直に出る。両腕で腹を抱えて、石畳の端にぺたりと座り込んだ。スカートの裾が石の冷たさを遮りきれず、ぞくりとする。立たなきゃ。分かってるのに、足が鉛みたいに重い。息を吸っても、吸っても、胃袋が文句を言ってくる。

その時、風向きが変わった。

ふっと、甘く香ばしい匂いが鼻の奥に落ちる。小麦が焼ける匂い。溶けたバターのきらめき。表面のこんがりが中のふわふわを包み、ほんの少し砂糖が焦げたみたいな甘苦さ――給食の“当たり日”のコッペパンを思い出す。トレイを持って列に並んで、友達と「今日は当たりだね」って目配せした、あの瞬間。それから、耳のどこかで“お母さん”の声がした気がした。「冷めないうちに食べなさいよ」。胸の真ん中が小さく疼く。帰りたい、って気持ちと、今すぐ食べたい、が同時に押し寄せる。

「た、食べ物……!」

ほとんど反射で立ち上がって、匂いの方へふらふら歩く。土道はやがて石畳に変わり、木組みの家々が肩を寄せ合う通りに出た。看板には見たことのない文字が彫られているけれど、描かれた絵は分かる。葡萄、靴、そして――楕円のパン。通りの両側には露店が連なっていた。赤や黄色の果物を高く積んだ台、焼き串を売る屋台から漂う肉の匂い、花束を抱えた少女、壺を肩にのせる少年。人々の呼び声が重なり合い、言葉は分からないのに活気だけが身体へ伝わる。さらに近くでは、旅人風の男が革袋を掲げて値段を交渉している声、楽器を抱えた少女が路上で爪弾く音も混じっていた。陽の光が屋根瓦で跳ね返り、白い石畳に光の模様を描く。ここは、間違いなく“異世界の町”だった。

「お姉ちゃん、その服かわいい!」「おへそ、出てる……」

小さな子ども二人が手をつないで見上げてくる。思わずスカートの裾を押さえると、母親らしい人が苦笑して会釈した。

「旅の方? 市場はそっち。パンのいい匂いでしょ」

指さされた先から、いよいよ濃い小麦の香りが押し寄せてきた。

「ありがとう……!」

オレンジのハーフブーツの先で石が小さく鳴った。視線を感じる。私の肩やおへそへ向かう、好奇と驚きの混ざった視線。ひそひそと囁く声も耳の端に引っかかった。けれど、それ以上にパンの匂いが強烈に私を引き寄せる。

角を曲がると、小さなパン屋があった。木の扉、飾り彫りの入った楕円の看板、窓の向こうに並ぶ籠。丸いパン、ねじれたパン、長いバゲット。表面に入った切り込みから白い柔らかさがのぞいて、粉砂糖をまとった白もある。窓に顔を寄せれば、湯気でガラスが曇る。胃袋が、期待でぐうっと縮んだ。

ドアを押す。鈴がちりん、と転がるみたいに鳴く。店の中は外より少し暖かく、粉と木の台と焼けた皮の匂いが層になってたゆたう。窯の口が赤く、奥で火がぱち、ぱち、と小さくはぜた。棚には丸パンが積み上げられ、上段には香辛料を練り込んだ黒パン、下段には蜂蜜を塗った甘いパンが並んでいた。レジ代わりの秤、粉で白くなった床、壁に掛けられた木べらや刷毛。誰かの仕事の息が、まだ空気の中で温かい。

カウンターの脇に立った瞬間、体の奥が震えるほど、お腹が鳴る。

「おい嬢ちゃん、その格好はなんだ? 見ねぇ顔だな」

奥から現れたのは、白い帽子をかぶった大柄の男。腕まくりした前腕は小麦粉で白く、熱でほんのり赤い。眉は太いが、目は意外に丸く、じっと観察する魚みたいに動かない。視線が、私のフリルのシャツ、出ているおへそ、オレンジのスカート、白いベルト、ブーツを順に撫でていく。異国の町でこんな服は珍しいに決まっている。

「えっ? あ、あの……ご飯、ください!」

言ってから、“ご飯”じゃなくて“パン”だと気づく。けれど、もう遅い。男は片眉を上げ、カウンター越しにこちらをじろりと見た。その間に、私の腹がここぞとばかりに鳴る。静かな店内に響き、恥ずかしさで顔が熱くなった。

「金はあるのか?」

「……に、日本円なら……」

震える手で財布を取り出す。千円札、五百円玉。こっちでも通じますように、と祈るみたいに差し出す。男は紙幣を透かして眺め、硬貨を弾いて音を聞き、それからしばらく黙り込んだ。重い沈黙が、パンの香りを余計に濃くする。やがて、男は肩をすくめた。

「なんだそりゃ。絵は描いてあるが、ここじゃ通用しねぇ」

「そ、そんなぁぁ! でもお腹が……!」

声が震える。目の奥がじわっと熱い。泣きたくないのに、涙腺が勝手に準備を始める。深呼吸、深呼吸――そう言い聞かせても、焼きたての匂いが胸いっぱいに広がって、余計にお腹が鳴った。

ふっと、朝の台所の気配が脳裏に差し込む。食卓の皿の上で湯気を立てるトースト。半分寝ぼけた私に「ほら、冷めないうちに」と言って笑うお母さん。焦げ目がちょっと苦いなんて文句を言ったくせに、本当は大好きだった味。その記憶は、帰りたいを引き寄せるフックになって、同時に目の前の匂いをさらに鮮明にした。

男が掌をひとつ、軽く上げた。顎で奥を指す。窯の前には布をかけられた皿があり、中の生地がふっくら膨らみ始めている。もう一度、私を見る目は厳しいが、冷たいというよりは“見定める目”だった。

「……仕方ねぇ。特別だ。ただし条件がある」

「えっ……?」

「働けば食わせてやる。掃除でも、パンを並べるでもいい。やる気があるなら置いてやるさ」

「は、働くって……」

思わず繰り返すと、男は鼻で笑った。

「当たり前だろ。タダで食わせる奴がどこにいる」

「で、でも、私……その……」

「できねぇか? なら帰んな」

男の言葉は突き放すようで、同時に試すようでもあった。ここで逃げたら、本当に道が閉じる気がした。

「ま、待って! やります。やるから、やらせてください!」

「口は元気だな。手はどうだ」

男はカウンターの下から木製のトレイと、粗い麻布のエプロンを取り出した。

「まず、手を洗え。爪の中までだ。水は奥の桶、石鹸はそこ。髪はまとめろ。――名前は」

「か、神咲舞愛梨沙です」

「かみ……なんだって?」

「……愛梨沙、で」

「長ぇ。仕事中は短い名で呼ぶ。『リサ』でいいか」

「え、えっと……はい」

ほんの一瞬、胸がちくりとした。お母さんが呼んでくれた“神咲舞愛梨沙”が、ここでは長すぎる。けれど、今は飲み込む。生きるための、短い音。

「言っとくが、泣いても容赦しねぇぞ。粉で汚れても、熱で顔が赤くなっても、文句言うな。メシは出すが、金は出さねぇ。――手は早く、声は静かに」

「了解……です!」

声がうわずった。けれど、決意は喉をまっすぐ通った。

エプロンを結び、星の髪飾りを触ってから、言われた桶のところへ向かう。水は冷たく、指を差し込むと爪の中に土がひやりと浮いた。石鹸は動物の脂の匂いがして、泡は思ったよりも粗い。手の甲、指の間、爪。念入りにこすり、布で拭う。

店内の裏口は小さな中庭に面していて、物干しに白い布が揺れていた。壁際には空になった粉袋、積み上がった木箱。どれも仕事の痕跡で、見ているだけで背筋が伸びる。

戻ると、男は私の手を一瞥して、うなるように言った。

「よし。……じゃあ、まずはこの焼き網を持って、並べ台まで運べ」

「はい!」

思ったより重い。腕がぷるぷる震える。落としたら終わりだ、と自分に言い聞かせて歩く。台の上には既にいくつかのパンが胸を張っていて、焼き色のついた皮が「ピキッ」と小さく鳴った。

「次。紙袋を十枚、開いて待機。指の腹で端を押して、空気を含ませるように」

「こ、こう……ですか?」

「そうだ。――それと、声は抑えろ。さっきから腹の音が鳴りすぎだ」

「す、すみません……!」

思わず腹を押さえる。空腹は続いているのに、胸の奥は別の熱で満ちていた。仕事の手順が、頭の中の不安を追い出してくれる。

「おい、旦那! さっきの変な子、雇ったのかい?」

客席側から年配の女の声が飛んだ。男は面倒くさそうに返す。

「見りゃわかるだろ。人手がいるんだよ」

「その格好で働けるのかい?」

「働かせる」

短いやり取りの間に、私は紙袋を開き終えた。袋の口が小さく並び、戦列みたいに整っているのがちょっと嬉しい。

男はわざとらしく咳払いをして、顎で窯を示した。

「リサ。焼き上がりを運ぶぞ。熱い。落とすな。走るな。焦るな。――いいな」

「はい!」

窯の口が開く。熱が顔にぶつかって、瞬きが増える。焼き網に乗った丸パンを受け取り、慎重に、慎重に台へ移す。焼き立ての匂いが鼻孔を満たし、意識がふっと軽くなる。

「よし。……で、腹は」

「まだ、すいて……ます」

「だろうな」

男はため息をひとつだけ落として、奥から小さな切れ端のパンを持ってきた。端っこは固いが、中はまだ温かい。

「落とさず動けたら、ちぎって口に入れろ。仕事は続けろ。食いながら喋るな」

「……! ありがとう、ございます!」

歯を立てると、塩と小麦の甘さが舌に広がった。思わず目が熱くなる。味がする。私の中に、確かな重みで入ってくる。

(生きてる。――ここで、生きてる)

その実感が胸の奥に広がったとき、奥の扉が開いて、小さな少年が顔を覗かせた。

「旦那、広場の鐘、二回鳴りましたー!」

「よし。配達は昼過ぎだ。……リサ、午前は店内。午後は裏の掃除。できるか」

「や、やってみます!」

「やれ」

短い言葉に、妙に勇気が乗っていた。

客が二人入ってくる。男はすでに表情を切り替えている。私は袋を広げ、パンを受け取り、差し出す。手元はまだぎこちないけれど、順番は掴めてきた。ふと、カウンターの端に置かれた小さな木札が目に入る。焼きたての時刻や、今日のおすすめが墨で書かれている。こういう細やかさが、店の“温度”になるのだと、なんとなく分かった。

「リサ。声」「あ、いらっしゃいませ……!」「もう少し笑う。だが騒ぐな」「はい……!」

笑うって難しい。けれど、星の髪飾りを指でつまみ、そっと深呼吸すると、自然と口角が上がった。お母さんが写真を撮るときに「はい、笑って」と言った声が、耳の奥でやさしく反響する。

(お母さん。……私、やれてる?)

返事はない。それでも、窯の火がぱちっと鳴いて、代わりに頷いてくれた気がした。

昼前、男がふいに言った。

「――お前、どこから来た」「え」「言葉は通じる。だが金は違う。それに、その靴。見ねぇ造りだ」

胸が一瞬だけ冷たくなる。けれど、嘘をつくのが下手なのは自分が一番知っている。

「……遠くから、来ました」「だろうな」

それ以上、男は何も聞かなかった。代わりに、トングをひとつ差し出す。

「余計なことを喋らないのも、客商売のうちだ。――持て」「はい」

金属の冷たさが手のひらに移る。重さが、居場所みたいに感じられる。

午後の陽が傾き始めた頃、客足が少し落ち着いた。男は窯の火加減を見に行き、私は裏口で水を撒いた。白い布が風に揺れる音、遠くの市場の呼び声、鐘が一回。世界は続いている。私が知らないままでも、続いていく。だからこそ、今立っている場所を掴まなきゃいけない。

「おーい、リサ。今日の分はここまでだ」

振り返ると、男が湯気の立つスープの入った器を持っていた。卓上に置かれると、野菜と骨のだしの匂いが立ちのぼる。

「まかない、だ。冷めないうちに食え」

「……!」

その言葉に、胸の奥がちくりと痛んで、そして温かくなった。スプーンはない。器を両手で抱え、ふうふう息を吹きかけて一口。舌の先が少しだけ熱に負け、同時に幸福に痺れる。

「おいしい……」

思わず零れた声に、男は腕を組んで鼻を鳴らした。

「明日も来るなら、朝は早いぞ」「来ます! ぜったい!」「なら、さっさと休め。二階の屋根裏は空いてる。寝床に使え」「えっ、そこまで……!」「代わりに、明日の朝一番で床を磨け。静かにな」「はいっ!」

空腹はようやく引いて、代わりに体じゅうに心地よい疲れが広がっていく。器の底が見えたとき、頬を撫でる風が少しだけ優しくなった気がした。

星の髪飾りをそっと撫でる。金属はさっきより温かく、現実の温度を確かに伝えてくる。

(鈴芙美、ノエル。……大丈夫。私、ここで生きるから。絶対に、見つけるから)

心の中でそう告げて、私は小さく頷いた。

こうして神咲舞愛梨沙は、異世界での最初の仕事――パン屋のアルバイトを始めることになった。
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