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第二怪談「夜行衆」
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山を下り、男は門沢橋駅で下車した。
冷たい風が頬を撫で、田畑を渡る湿った土の匂いが鼻を掠める。
なぜここで降りたのか、自分でも分からない。
ただ――呼ばれた。
その声なき呼び声が、足を鎌倉の方角へと向かわせていた。
瞬きをした瞬間、男は昼から夜に逆転したことに目を細めた。
道の先には霞が立ち込め、遠くで鈴の音が聞こえる。
それは祈りのようであり、嘆きのようでもあった。
歩を進めるうち、霧の向こうに影が現れる。
長い――果ての見えぬほどの行列。
顔のない人々が、ゆっくりと一方向へ歩いている。
その足元には灰のような道が敷かれ、
踏みしめるたびに鈍い青光を放っていた。
倒れている者たちがいた。
老人、子供、若者。誰もが仄白く冷たい。
男は膝をつき、懐から木箱を取り出した。
中の赤い実を一粒ずつ口へ含ませると、
やがて血の気が戻る。
「瘴気に当てられたか……」
男は安堵の息を漏らし、静かに立ち上がった。
両袖から黒鉄の棒がするりと伸びる。
握ると先端が鈴へと変化し、神楽鈴となった。
音が鳴る。
――シャラン。
霧が揺れ、行列の先頭がゆっくりと振り返る。
額から顎へ金の線、中央にひとつの眼。
僧衣を纏い、灰を纏うその姿。
「……灰堂坊。」
僧の声は千の声が重なったようだった。
「我らは灰堂坊――焼かれた祈りの残滓なり。」
亡者が一斉に跪き、灰が舞う。
空が鈍く染まり、掌に魂の火が灯る。
「魂は彷徨い、形を求め、灰に宿る。」
炎が弾け、稲妻が地を裂く。
灰堂坊の読経に応じ、亡者たちが地より這い出す。
焦げた肌、空ろな瞳、歪んだ笑み。
男は神楽鈴を構えた。
――第一段階、祈りの舞。
神楽鈴を振るい、棍のように打ち据える。
亡者に直撃するたびに音が鳴り、光の粒に崩れていく。
しかし灰堂坊の声が届くたび、
灰が逆流し、亡者は再び立ち上がる。
「我らを焼いたのは誰だ!? 誰が祈りを踏みにじった!」
声と共に炎が広がり、男を包む。
だが、男は動かない。
掌を掲げると、札が輪を描いて浮かび、
光の壁を作る。
轟音。爆炎。灰の嵐。
炎が収まり、男は立っていた。
衣の端が焦げ、髪が風に揺れる。
その表情は静かで、どこまでも穏やかだった。
「……祈りは届かぬものではない。
だが、届くまでに千年かかることもある。」
灰堂坊の目が紅に染まり、亡者が再び咆哮する。
「貴様も我らと同じだ! 誰の許しで裁く!?」
その言葉に、男の動きが一瞬止まる。
灰堂坊がその隙を逃さず、錫杖を構える。
雷鳴のような衝撃がぶつかり、地面が裂けた。
煙の中、灰堂坊が姿を現す。
「救いを語る者ほど、本当の地獄を知らん!」
その声には、怒りではなく、
どこか悲しみのような響きが混じっていた。
男は傷だらけの手で、再び神楽鈴を握りしめる。
一部が砕けた神楽鈴が光となり、錫杖へと変わる。
男の体が淡く光を放つ。
衣が舞い、長い髪が金色に揺れる。
灰堂坊は、男と同じく錫杖を構えた。
その動きに迷いはない。
まるで、これが永劫に繰り返されてきた儀式であるかのように。
「魂は彷徨い続け、やがて我らと同じ“形”を成す。」
灰堂坊が左手を掲げる。
次の瞬間、空が灰色の雲に覆われた。
風が止み、世界が静止する。
――閃光。
不気味な青緑の稲妻が、雲の裂け目を這うように走った。
轟音が大地を裂き、焼けた土から黒煙が上がる。
そこから這い出るようにして、亡者たちが現れた。
皮膚は剥がれ、瞳は虚ろ。
それでも確かに“生”を求めるように動いている。
男は静かに目を細め、錫杖を構えた。
その表情には怒りも恐れもない。
ただ、深い慈悲と覚悟が宿っていた。
亡者たちは一斉に叫びながら男に襲いかかる。
その波は人の群れではなく、怨嗟の渦そのもの。
やがて、男を中心に円を描くようにして囲み、
一つの巨大な塊と化した。
灰堂坊は首を傾げ、不満げに言葉を吐いた。
「もう終わりか……? それが“弔い”の限界なのか。」
その瞬間だった。
――鈴の音が響いた。
柔らかく、しかし確かに全てを貫くような音。
続いて、男の口から読経の声が静かに流れ出す。
「南無……般若波羅蜜多……」
亡者の塊が震えた。
音もなく空気が歪み、光が内側から漏れ出していく。
そして――。
「還れ。」
男の声とともに、塊が弾けた。
無数の虹の粒子が舞い上がり、夜空へと昇っていく。
その光の中には、僅かに微笑む人々の影が見えた。
男はそのまま上空へと飛び上がる。
風も、重力も、彼を止められない。
空中に静止したその姿は、まるで光明を背にした神のようだった。
手に握られているのは、もはや錫杖ではない。
――矛。
白銀の矛が光を放ち、空を裂く。
灰堂坊はその光に目を細めながら、再び錫杖を構えた。
「我らにも……やらねばならぬことがある!」
二人の間に張り詰めた沈黙。
次の瞬間、男が矛を投げた。
閃光が走る。
矛が風を切り、一直線に灰堂坊へと突き進む。
灰堂坊は咄嗟に錫杖を振り上げ、軌道を弾いた。
火花が散った――
いや、それは火花ではない。
宙に舞ったのは、無数の光の欠片。
それはまるで紙吹雪のように、静かに夜空を漂った。
二人の間に、何も言葉はなかった。
ただ、鈴の音と光だけが、この戦いを語っていた。
灰堂坊の怒号が夜空を震わせた。
その掌に集まる魂の光が、ゆらりと揺らめきながら、
次第に恨みの炎へと変わっていく。
青白く燃えていた光が、濁った赤黒い色へと変わる。
怨念の声が炎の中で呻き、無数の影が渦を巻いた。
怒号。雷鳴。
灰堂坊が錫杖を構えた。
男の矛が光の粒子となって砕けた。
その粒子が男を包む。
淡く金色の光が溢れ、武器は再び錫杖へと変化した。
――第二段階、供養の対話。
二人の間に閃光が走る。
錫杖と錫杖が激突し、
金属の音が読経のように響き渡る。
空が灰に覆われ、不気味な閃光が雲を這う。
亡者が群れとなって蠢き、地を覆い尽くす。
男の瞳に宿るのは怒りではない――慈悲。
「どうした? 避けぬのか?」
灰堂坊の炎が迫る。
男はその場に立ち、静かに掌を向けた。
炎が爆ぜる。
札が再び現れ、結界が形成される。
灰堂坊の瞳が揺らぐ。
「貴様……我らを哀れんでいるのか?」
男はゆっくりと首を振る。
「哀れみではない――祈りだ。」
灰堂坊の中で、焼けた寺院の記憶が蘇る。
泣く子供、燃える経典、読経の声。
「貴様は……我らの何を見ている!!」
灰堂坊が絶叫する。
再び掌に炎が集まり、黒い閃光が地を走る。
男はその全てを正面から受け止めるように歩み出した。
鈴の音が響き、錫杖の先に光が集まる。
「穢れを祓いて――」
雷鳴。
灰堂坊の炎が爆ぜ、夜が昼のように光り輝く。
「業を斬り鎮め――」
風が止まる。
灰堂坊の目が細められる。
「體と魂を赦し――」
男の姿が光に包まれる。
灰堂坊が最後の叫びを上げる。
「我らの祈りは……どこへ行く!?」
その問いに、男は一言だけ答えた。
「――弔う。」
男は静かに錫杖を灰堂坊の頭に当てて呟く。
「滅。」
灰堂坊が光に包まれ穏やかな表情を見せ、虹色の粒子となって爆ぜた。
無数の僧たちの影が夜空に溶けていく。
その声は、読経のように静かで、温かく――
『……南無……』
光が散り、灰堂坊は消えた。
空には虹色の蓮華が咲き、
亡者の魂たちがゆっくりとそこへ昇っていった。
男は静かに目を閉じ、錫杖で地面をトンッと叩いた。
風が再び吹き抜け、夜が静けさを取り戻す。
灰の匂いは、もうどこにもない。
虹の粒子が夜空に溶けていく。
その中に、男は確かに――祈りを感じていた。
静寂。
音のない空間の奥で、かすかな読経が聞こえる。
瞼を閉じると、光が赤に染まった。
――熱い。
風が燃え、空が焼けている。
立ち込める煙の向こうに、かつての寺院が見えた。
見事な木造の伽藍。
山の静寂に包まれ、人々の祈りを受けていた寺。
だが今――そのすべてが炎に包まれていた。
鐘楼が崩れ、屋根が落ちる。
僧たちが必死に孤児を庇って走っている。
火の粉が雨のように降り注ぎ、瓦が砕け散る中、声が響いた。
「子らを――外へ!」
「早く! 観音堂の裏手だ!」
叫びは炎にかき消されていく。
背に炎を浴びても、誰一人、後退しようとはしなかった。
だが――薄々に皆、気づいていた。
逃げ場など、もうどこにもない。
外の階段は崩れ、裏手の道は火の海。
門も、橋も、音を立てて燃え落ちていた。
若い僧が呟く。
「……もう、誰も……出られぬ。」
その言葉に、皆が沈黙した。
炎の轟音だけが世界を満たす。
だが、不思議と誰も恐怖の声を上げなかった。
長老が、焦げた経本を拾い上げた。
炎に包まれながらも、文字の一部がまだ読めた。
「……一切衆生、悉有仏性……」
その一節を口にすると、他の僧たちも次々に声を重ねた。
「南無……観世音菩薩……」
焼ける音とともに、読経が広がる。
恐怖が消え、静寂が訪れた。
それは諦めではなく――悟りだった。
若い僧が震える声で問う。
「……師よ、祈りは届くでしょうか。」
老僧は、微笑んだ。
「届かずともよい。
それでも祈る。それが我らの生き方だ。」
炎が柱を飲み込み、天井が落ちた。
光が白くなり、世界が音を失う。
火の粉が雪のように舞い降り、僧たちの肩に積もる。
誰も動かない。誰も逃げない。
合掌。
その姿は、まるで一枚の絵のように静止した。
炎の向こう、幼子を抱いた僧が最後に微笑んだ。
「怖れるな。
我らの祈りは、灰となって風に還る。」
轟音。光。熱。
全てが一瞬にして混ざり合う。
――そして、鈴の音が鳴った。
どこからともなく、確かに響いた。
それは炎の中に溶け、灰となって舞い上がった。
……
男は目を開けた。
風が頬を撫でる。
目の前にはもう、灰堂坊の姿はない。
ただ、地面には灰が積もり、その中に黒く焦げた数珠が埋もれていた。
男はゆっくりと膝をつき、灰の中に指を差し入れる。
焼け焦げた数珠を拾い上げ、掌に包み込む。
暫し、何も言わなかった。
風が吹き抜け、灰が舞い上がる。
男は低く、静かに呟いた。
「……お前達の未練、無念、怒り、悲しみを……
すべて、ここに置いていけ。」
その声は風よりも穏やかで、しかし揺るぎなかった。
次の瞬間――
男の掌の中で、数珠が淡く光り、
やがて火が灯った。
それは炎ではない。
温もりのある、柔らかな光。
ゆっくりと、数珠が燃え尽きていく。
灰が風に溶け、夜空へと舞い上がる。
その一粒一粒が、まるで蓮の花びらのように光を放ちながら散っていった。
男は立ち上がり、空を見上げる。
瞳に映るのは――静かに揺らめく灰の光。
「……これで、ようやく眠れるだろう。」
錫杖を地に突き、鈴の音がひとつ、優しく鳴った。
風が止み、夜が静寂に包まれる。
灰の匂いは、もうどこにもない。
男は元の昼の世界に戻ったことに気付くと、鎌倉方面へと向かう電車を待っていた。
次回…主人公が向かった鎌倉は隔離されていた
魑魅魍魎が跳梁跋扈する"鎌倉"
全国から鎌倉の異変を感じ取った"狩人"が集結する!
冷たい風が頬を撫で、田畑を渡る湿った土の匂いが鼻を掠める。
なぜここで降りたのか、自分でも分からない。
ただ――呼ばれた。
その声なき呼び声が、足を鎌倉の方角へと向かわせていた。
瞬きをした瞬間、男は昼から夜に逆転したことに目を細めた。
道の先には霞が立ち込め、遠くで鈴の音が聞こえる。
それは祈りのようであり、嘆きのようでもあった。
歩を進めるうち、霧の向こうに影が現れる。
長い――果ての見えぬほどの行列。
顔のない人々が、ゆっくりと一方向へ歩いている。
その足元には灰のような道が敷かれ、
踏みしめるたびに鈍い青光を放っていた。
倒れている者たちがいた。
老人、子供、若者。誰もが仄白く冷たい。
男は膝をつき、懐から木箱を取り出した。
中の赤い実を一粒ずつ口へ含ませると、
やがて血の気が戻る。
「瘴気に当てられたか……」
男は安堵の息を漏らし、静かに立ち上がった。
両袖から黒鉄の棒がするりと伸びる。
握ると先端が鈴へと変化し、神楽鈴となった。
音が鳴る。
――シャラン。
霧が揺れ、行列の先頭がゆっくりと振り返る。
額から顎へ金の線、中央にひとつの眼。
僧衣を纏い、灰を纏うその姿。
「……灰堂坊。」
僧の声は千の声が重なったようだった。
「我らは灰堂坊――焼かれた祈りの残滓なり。」
亡者が一斉に跪き、灰が舞う。
空が鈍く染まり、掌に魂の火が灯る。
「魂は彷徨い、形を求め、灰に宿る。」
炎が弾け、稲妻が地を裂く。
灰堂坊の読経に応じ、亡者たちが地より這い出す。
焦げた肌、空ろな瞳、歪んだ笑み。
男は神楽鈴を構えた。
――第一段階、祈りの舞。
神楽鈴を振るい、棍のように打ち据える。
亡者に直撃するたびに音が鳴り、光の粒に崩れていく。
しかし灰堂坊の声が届くたび、
灰が逆流し、亡者は再び立ち上がる。
「我らを焼いたのは誰だ!? 誰が祈りを踏みにじった!」
声と共に炎が広がり、男を包む。
だが、男は動かない。
掌を掲げると、札が輪を描いて浮かび、
光の壁を作る。
轟音。爆炎。灰の嵐。
炎が収まり、男は立っていた。
衣の端が焦げ、髪が風に揺れる。
その表情は静かで、どこまでも穏やかだった。
「……祈りは届かぬものではない。
だが、届くまでに千年かかることもある。」
灰堂坊の目が紅に染まり、亡者が再び咆哮する。
「貴様も我らと同じだ! 誰の許しで裁く!?」
その言葉に、男の動きが一瞬止まる。
灰堂坊がその隙を逃さず、錫杖を構える。
雷鳴のような衝撃がぶつかり、地面が裂けた。
煙の中、灰堂坊が姿を現す。
「救いを語る者ほど、本当の地獄を知らん!」
その声には、怒りではなく、
どこか悲しみのような響きが混じっていた。
男は傷だらけの手で、再び神楽鈴を握りしめる。
一部が砕けた神楽鈴が光となり、錫杖へと変わる。
男の体が淡く光を放つ。
衣が舞い、長い髪が金色に揺れる。
灰堂坊は、男と同じく錫杖を構えた。
その動きに迷いはない。
まるで、これが永劫に繰り返されてきた儀式であるかのように。
「魂は彷徨い続け、やがて我らと同じ“形”を成す。」
灰堂坊が左手を掲げる。
次の瞬間、空が灰色の雲に覆われた。
風が止み、世界が静止する。
――閃光。
不気味な青緑の稲妻が、雲の裂け目を這うように走った。
轟音が大地を裂き、焼けた土から黒煙が上がる。
そこから這い出るようにして、亡者たちが現れた。
皮膚は剥がれ、瞳は虚ろ。
それでも確かに“生”を求めるように動いている。
男は静かに目を細め、錫杖を構えた。
その表情には怒りも恐れもない。
ただ、深い慈悲と覚悟が宿っていた。
亡者たちは一斉に叫びながら男に襲いかかる。
その波は人の群れではなく、怨嗟の渦そのもの。
やがて、男を中心に円を描くようにして囲み、
一つの巨大な塊と化した。
灰堂坊は首を傾げ、不満げに言葉を吐いた。
「もう終わりか……? それが“弔い”の限界なのか。」
その瞬間だった。
――鈴の音が響いた。
柔らかく、しかし確かに全てを貫くような音。
続いて、男の口から読経の声が静かに流れ出す。
「南無……般若波羅蜜多……」
亡者の塊が震えた。
音もなく空気が歪み、光が内側から漏れ出していく。
そして――。
「還れ。」
男の声とともに、塊が弾けた。
無数の虹の粒子が舞い上がり、夜空へと昇っていく。
その光の中には、僅かに微笑む人々の影が見えた。
男はそのまま上空へと飛び上がる。
風も、重力も、彼を止められない。
空中に静止したその姿は、まるで光明を背にした神のようだった。
手に握られているのは、もはや錫杖ではない。
――矛。
白銀の矛が光を放ち、空を裂く。
灰堂坊はその光に目を細めながら、再び錫杖を構えた。
「我らにも……やらねばならぬことがある!」
二人の間に張り詰めた沈黙。
次の瞬間、男が矛を投げた。
閃光が走る。
矛が風を切り、一直線に灰堂坊へと突き進む。
灰堂坊は咄嗟に錫杖を振り上げ、軌道を弾いた。
火花が散った――
いや、それは火花ではない。
宙に舞ったのは、無数の光の欠片。
それはまるで紙吹雪のように、静かに夜空を漂った。
二人の間に、何も言葉はなかった。
ただ、鈴の音と光だけが、この戦いを語っていた。
灰堂坊の怒号が夜空を震わせた。
その掌に集まる魂の光が、ゆらりと揺らめきながら、
次第に恨みの炎へと変わっていく。
青白く燃えていた光が、濁った赤黒い色へと変わる。
怨念の声が炎の中で呻き、無数の影が渦を巻いた。
怒号。雷鳴。
灰堂坊が錫杖を構えた。
男の矛が光の粒子となって砕けた。
その粒子が男を包む。
淡く金色の光が溢れ、武器は再び錫杖へと変化した。
――第二段階、供養の対話。
二人の間に閃光が走る。
錫杖と錫杖が激突し、
金属の音が読経のように響き渡る。
空が灰に覆われ、不気味な閃光が雲を這う。
亡者が群れとなって蠢き、地を覆い尽くす。
男の瞳に宿るのは怒りではない――慈悲。
「どうした? 避けぬのか?」
灰堂坊の炎が迫る。
男はその場に立ち、静かに掌を向けた。
炎が爆ぜる。
札が再び現れ、結界が形成される。
灰堂坊の瞳が揺らぐ。
「貴様……我らを哀れんでいるのか?」
男はゆっくりと首を振る。
「哀れみではない――祈りだ。」
灰堂坊の中で、焼けた寺院の記憶が蘇る。
泣く子供、燃える経典、読経の声。
「貴様は……我らの何を見ている!!」
灰堂坊が絶叫する。
再び掌に炎が集まり、黒い閃光が地を走る。
男はその全てを正面から受け止めるように歩み出した。
鈴の音が響き、錫杖の先に光が集まる。
「穢れを祓いて――」
雷鳴。
灰堂坊の炎が爆ぜ、夜が昼のように光り輝く。
「業を斬り鎮め――」
風が止まる。
灰堂坊の目が細められる。
「體と魂を赦し――」
男の姿が光に包まれる。
灰堂坊が最後の叫びを上げる。
「我らの祈りは……どこへ行く!?」
その問いに、男は一言だけ答えた。
「――弔う。」
男は静かに錫杖を灰堂坊の頭に当てて呟く。
「滅。」
灰堂坊が光に包まれ穏やかな表情を見せ、虹色の粒子となって爆ぜた。
無数の僧たちの影が夜空に溶けていく。
その声は、読経のように静かで、温かく――
『……南無……』
光が散り、灰堂坊は消えた。
空には虹色の蓮華が咲き、
亡者の魂たちがゆっくりとそこへ昇っていった。
男は静かに目を閉じ、錫杖で地面をトンッと叩いた。
風が再び吹き抜け、夜が静けさを取り戻す。
灰の匂いは、もうどこにもない。
虹の粒子が夜空に溶けていく。
その中に、男は確かに――祈りを感じていた。
静寂。
音のない空間の奥で、かすかな読経が聞こえる。
瞼を閉じると、光が赤に染まった。
――熱い。
風が燃え、空が焼けている。
立ち込める煙の向こうに、かつての寺院が見えた。
見事な木造の伽藍。
山の静寂に包まれ、人々の祈りを受けていた寺。
だが今――そのすべてが炎に包まれていた。
鐘楼が崩れ、屋根が落ちる。
僧たちが必死に孤児を庇って走っている。
火の粉が雨のように降り注ぎ、瓦が砕け散る中、声が響いた。
「子らを――外へ!」
「早く! 観音堂の裏手だ!」
叫びは炎にかき消されていく。
背に炎を浴びても、誰一人、後退しようとはしなかった。
だが――薄々に皆、気づいていた。
逃げ場など、もうどこにもない。
外の階段は崩れ、裏手の道は火の海。
門も、橋も、音を立てて燃え落ちていた。
若い僧が呟く。
「……もう、誰も……出られぬ。」
その言葉に、皆が沈黙した。
炎の轟音だけが世界を満たす。
だが、不思議と誰も恐怖の声を上げなかった。
長老が、焦げた経本を拾い上げた。
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その一節を口にすると、他の僧たちも次々に声を重ねた。
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それは諦めではなく――悟りだった。
若い僧が震える声で問う。
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老僧は、微笑んだ。
「届かずともよい。
それでも祈る。それが我らの生き方だ。」
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誰も動かない。誰も逃げない。
合掌。
その姿は、まるで一枚の絵のように静止した。
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「怖れるな。
我らの祈りは、灰となって風に還る。」
轟音。光。熱。
全てが一瞬にして混ざり合う。
――そして、鈴の音が鳴った。
どこからともなく、確かに響いた。
それは炎の中に溶け、灰となって舞い上がった。
……
男は目を開けた。
風が頬を撫でる。
目の前にはもう、灰堂坊の姿はない。
ただ、地面には灰が積もり、その中に黒く焦げた数珠が埋もれていた。
男はゆっくりと膝をつき、灰の中に指を差し入れる。
焼け焦げた数珠を拾い上げ、掌に包み込む。
暫し、何も言わなかった。
風が吹き抜け、灰が舞い上がる。
男は低く、静かに呟いた。
「……お前達の未練、無念、怒り、悲しみを……
すべて、ここに置いていけ。」
その声は風よりも穏やかで、しかし揺るぎなかった。
次の瞬間――
男の掌の中で、数珠が淡く光り、
やがて火が灯った。
それは炎ではない。
温もりのある、柔らかな光。
ゆっくりと、数珠が燃え尽きていく。
灰が風に溶け、夜空へと舞い上がる。
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瞳に映るのは――静かに揺らめく灰の光。
「……これで、ようやく眠れるだろう。」
錫杖を地に突き、鈴の音がひとつ、優しく鳴った。
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