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第十七章 頂へ続く階段の一歩
アグリスの問題
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――深夜・用意された寝室
沈黙が家も人も、運命を回す歯車をも闇に取り込んだ頃、私は明日の会談に向けて予想される基本的なやり取りを想定し、それらを書面にまとめていた。
そこへノックの音が響く。それに答える。
「入ってくれ」
「失礼します」
ノックの響きと共に現れたのは……親父だった。
「どうした、親父さん?」
「……旦那は、このアグリスをどう思いましたか?」
「唐突な質問だな。まぁいい。そうだな……街全体を見たわけではないのではっきりとは言えないが、他の村や町とは比べ物にならないくらい豊かだ」
「他には、ありますか?」
「支配階級は傲慢と見える。力を誇示することに酔い、あからさまに他者を見下す。確かにそれだけの力を持っているが、あれでは他種族と良き交流は持てまい」
「ええ、アグリスはその傲慢な態度と人間族こそ頂に立つ存在という馬鹿げた教えのせいで、大陸に広がる種族と対立していますから」
「その反面、半島内とはそこそこの交流がある……」
「はい、さすがに都市の背後まで敵を作るのは避けているようで」
「ふむ……フッ」
思わず、鼻から笑いが漏れ出てしまった。
それはムキの件と同様に、私の中に潜む闇が形作ろうとし始めたからだ。
そう、私に『利』をもたらす闇……。
親父は今の笑いを疑問に思ったようで問いかけてくる。
「ん、どうされました?」
「いや、何でもない。私からも質問をいいか?」
「どうぞ……」
「アグリスの領主はオキサ=ミド=ライシ。だが、実質の支配者はルヒネ派。導者フィコンと二十二議会。そうだな?」
「はい、そうです」
「彼らの間柄は?」
「オキサは完全に傀儡。歯向かう気など全くはありません」
「そうか。ルヒネ派の勢力図は? 二十二議会やフィコンの関係は?」
「まだ、十四の少女であるフィコンもまた神輿のようなもの。アグリスは二十二議会によって支配されていると言っても過言ではありません」
「なるほど。しかし、ルヒネ派の導者フィコンを軽んじる者ばかりではないだろう?」
「常勝不敗の獅子将軍エムト=リシタ」
「なに?」
「アグリス及びビュール大陸に於いて最強の将軍『エムト=リシタ』がフィコンを支え、二十二議会に対抗しております」
「ほう、そうか。その、エムト=リシタ将軍はどのような人物だ?」
「フィコンに忠誠を誓い、謹厳実直。戦場を駆ければ獅子とも龍ともなぞらえられます。勇猛果敢でありますが、部下には優しく、民衆にも人望厚い御仁です」
「御仁? アグリスを嫌っている親父さんにしては妙な表現だ」
そう、問うと、親父は一瞬だけ瞳を惑わせた。
だがすぐに、視線をこちらへまっすぐと向けて答えを返す。
「アグリスでは珍しく、身分差に対してあまり厳しい態度を取りませんから」
「それが親父と何の関係が?」
「…………」
「沈黙か。君との付き合いはまだ三か月程度。とはいえ、もう少し、心を開いても良いと思うが?」
「申し訳ございません」
「ふふ、私を何かに利用しようとするのは良いが、あまり無茶はするなよ」
「そのような心遣い、俺にはもったいのうございます」
「心遣い? 今のはそういった意味での無茶では、おや?」
再びノック。
「入ってくれ」
「すみません、夜分遅く」
入ってきたのは青いパジャマ姿のエクアだった。
「どうした?」
「いえ、あの……お邪魔でしたか?」
エクアはちらりと親父に視線を振って、私に戻す。
「いや、大丈夫だ。何かあったのか?」
「その、今日のことで少し」
「今日のこと?」
「馬車で移動している最中、男の子が棒でぶたれていたのを見て、何にもできなかったのが……それを思い出すと寝付けなくて。それで、どうしたらいいかわからなくて……すみません。こんなこと話しに来られても困りますよね?」
「いいや、君がそう感じるのは当然だ。私とて、あの光景を見た時は腹に据えかねそうになった」
「ならば旦那は彼らを救おうとする意志があるのですかっ?」
突然、親父が口調を強め、会話に割り込んできた。
そして、私を問い詰めるように言葉を出し続ける。
「エクアの嬢ちゃんもフィナの嬢ちゃんも、旦那も、皆があの光景に腹を立てたはず。旦那なら、彼らを救ってやれるのではないのですか?」
彼の言葉にエクアが続く。
「もし、ケント様に救える力があるのなら助けてあげてほしいですっ。棒でぶたれてるのに誰も助けることなく、しかも笑っているなんて!」
少年はカリスという身分であるだけで、忌避され、理不尽に暴力を振るわれても抵抗することも許されない。
彼らより身分の高い者は、少年が泣き叫ぶさまを喜び見ている。
――このような理不尽がまかり通るなどあってはならない!
だが……。
「二人とも、私にはどうしようもできない。これは、アグリスの問題だ」
「ケント様……」
「お待ちください、旦那」
「どうした、親父?」
「旦那はアーガメイトの者。その名を使えば、現状よりは彼らの扱いが改善されるやも」
「親父、それも無理だ。私はアーガメイトの名を捨てた。今は後ろに何の背景もないハドリーだ」
「っ!」
親父は口を強く閉じて目を伏せた。
代わりに、エクアが口を開く。
「ケント様はムキ=シアンから私を救ってくださいました! あの時と同じように、あの男の子を!」
「エクア。人にはやれることとやれぬことがある。彼を助けるということは、アグリスと対立するということだ。ムキは所詮、一地方のギルドに屋根を借りた悪党に過ぎない。百万の軍勢と億万の資金を持つアグリスでは比べ物にならないんだ」
「そ、そんな……」
「少年一人のために、トーワを危険に晒すわけにはいかない。そのトーワも以前とは違い、少なからず守るべき者たちがいる。無茶はできない。トーワや仲間に危険が及ばぬ限りな」
そう唱え、私は話を打ち切った。
これ以上、争っても答えが出ないから……。
エクアは理解を示したが、心は納得がいかずと顔をしかめることで歯痒さを表して去っていった。
親父はというと、大きく息を吐き、無言で扉を閉めた。
その際、何かを呟いた気がしたが、私の耳には届かなかった。
――
扉を閉める直前、親父はケントの耳に届かぬ小さな声で、こう呟いていた。
「仲間に危険が及ばない限り、か……」
沈黙が家も人も、運命を回す歯車をも闇に取り込んだ頃、私は明日の会談に向けて予想される基本的なやり取りを想定し、それらを書面にまとめていた。
そこへノックの音が響く。それに答える。
「入ってくれ」
「失礼します」
ノックの響きと共に現れたのは……親父だった。
「どうした、親父さん?」
「……旦那は、このアグリスをどう思いましたか?」
「唐突な質問だな。まぁいい。そうだな……街全体を見たわけではないのではっきりとは言えないが、他の村や町とは比べ物にならないくらい豊かだ」
「他には、ありますか?」
「支配階級は傲慢と見える。力を誇示することに酔い、あからさまに他者を見下す。確かにそれだけの力を持っているが、あれでは他種族と良き交流は持てまい」
「ええ、アグリスはその傲慢な態度と人間族こそ頂に立つ存在という馬鹿げた教えのせいで、大陸に広がる種族と対立していますから」
「その反面、半島内とはそこそこの交流がある……」
「はい、さすがに都市の背後まで敵を作るのは避けているようで」
「ふむ……フッ」
思わず、鼻から笑いが漏れ出てしまった。
それはムキの件と同様に、私の中に潜む闇が形作ろうとし始めたからだ。
そう、私に『利』をもたらす闇……。
親父は今の笑いを疑問に思ったようで問いかけてくる。
「ん、どうされました?」
「いや、何でもない。私からも質問をいいか?」
「どうぞ……」
「アグリスの領主はオキサ=ミド=ライシ。だが、実質の支配者はルヒネ派。導者フィコンと二十二議会。そうだな?」
「はい、そうです」
「彼らの間柄は?」
「オキサは完全に傀儡。歯向かう気など全くはありません」
「そうか。ルヒネ派の勢力図は? 二十二議会やフィコンの関係は?」
「まだ、十四の少女であるフィコンもまた神輿のようなもの。アグリスは二十二議会によって支配されていると言っても過言ではありません」
「なるほど。しかし、ルヒネ派の導者フィコンを軽んじる者ばかりではないだろう?」
「常勝不敗の獅子将軍エムト=リシタ」
「なに?」
「アグリス及びビュール大陸に於いて最強の将軍『エムト=リシタ』がフィコンを支え、二十二議会に対抗しております」
「ほう、そうか。その、エムト=リシタ将軍はどのような人物だ?」
「フィコンに忠誠を誓い、謹厳実直。戦場を駆ければ獅子とも龍ともなぞらえられます。勇猛果敢でありますが、部下には優しく、民衆にも人望厚い御仁です」
「御仁? アグリスを嫌っている親父さんにしては妙な表現だ」
そう、問うと、親父は一瞬だけ瞳を惑わせた。
だがすぐに、視線をこちらへまっすぐと向けて答えを返す。
「アグリスでは珍しく、身分差に対してあまり厳しい態度を取りませんから」
「それが親父と何の関係が?」
「…………」
「沈黙か。君との付き合いはまだ三か月程度。とはいえ、もう少し、心を開いても良いと思うが?」
「申し訳ございません」
「ふふ、私を何かに利用しようとするのは良いが、あまり無茶はするなよ」
「そのような心遣い、俺にはもったいのうございます」
「心遣い? 今のはそういった意味での無茶では、おや?」
再びノック。
「入ってくれ」
「すみません、夜分遅く」
入ってきたのは青いパジャマ姿のエクアだった。
「どうした?」
「いえ、あの……お邪魔でしたか?」
エクアはちらりと親父に視線を振って、私に戻す。
「いや、大丈夫だ。何かあったのか?」
「その、今日のことで少し」
「今日のこと?」
「馬車で移動している最中、男の子が棒でぶたれていたのを見て、何にもできなかったのが……それを思い出すと寝付けなくて。それで、どうしたらいいかわからなくて……すみません。こんなこと話しに来られても困りますよね?」
「いいや、君がそう感じるのは当然だ。私とて、あの光景を見た時は腹に据えかねそうになった」
「ならば旦那は彼らを救おうとする意志があるのですかっ?」
突然、親父が口調を強め、会話に割り込んできた。
そして、私を問い詰めるように言葉を出し続ける。
「エクアの嬢ちゃんもフィナの嬢ちゃんも、旦那も、皆があの光景に腹を立てたはず。旦那なら、彼らを救ってやれるのではないのですか?」
彼の言葉にエクアが続く。
「もし、ケント様に救える力があるのなら助けてあげてほしいですっ。棒でぶたれてるのに誰も助けることなく、しかも笑っているなんて!」
少年はカリスという身分であるだけで、忌避され、理不尽に暴力を振るわれても抵抗することも許されない。
彼らより身分の高い者は、少年が泣き叫ぶさまを喜び見ている。
――このような理不尽がまかり通るなどあってはならない!
だが……。
「二人とも、私にはどうしようもできない。これは、アグリスの問題だ」
「ケント様……」
「お待ちください、旦那」
「どうした、親父?」
「旦那はアーガメイトの者。その名を使えば、現状よりは彼らの扱いが改善されるやも」
「親父、それも無理だ。私はアーガメイトの名を捨てた。今は後ろに何の背景もないハドリーだ」
「っ!」
親父は口を強く閉じて目を伏せた。
代わりに、エクアが口を開く。
「ケント様はムキ=シアンから私を救ってくださいました! あの時と同じように、あの男の子を!」
「エクア。人にはやれることとやれぬことがある。彼を助けるということは、アグリスと対立するということだ。ムキは所詮、一地方のギルドに屋根を借りた悪党に過ぎない。百万の軍勢と億万の資金を持つアグリスでは比べ物にならないんだ」
「そ、そんな……」
「少年一人のために、トーワを危険に晒すわけにはいかない。そのトーワも以前とは違い、少なからず守るべき者たちがいる。無茶はできない。トーワや仲間に危険が及ばぬ限りな」
そう唱え、私は話を打ち切った。
これ以上、争っても答えが出ないから……。
エクアは理解を示したが、心は納得がいかずと顔をしかめることで歯痒さを表して去っていった。
親父はというと、大きく息を吐き、無言で扉を閉めた。
その際、何かを呟いた気がしたが、私の耳には届かなかった。
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扉を閉める直前、親父はケントの耳に届かぬ小さな声で、こう呟いていた。
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