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第42話
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それから、セシルは日中、何も手につかない状態となった。
体中にエドガーの痕跡が残っているような変な気分で、何もしても頭の中がふわふわしたような状態で、庭園の散策に出る気にもなれない。
胸がいっぱいで息苦しく、国で一番の料理人がセシルのためだけに手掛けているという昼食も、夕食も、ほとんど手つかずで残してしまった。
アビーをはじめ、離宮の女官たちは、ため息ばかりのセシルを心配そうにしていながらも、内心微笑ましく思っていた。
そして夕食後……。
夜着に着替えようとしたセシルは、寝台の横の小さなテーブルに手紙が置かれていることに気づいた。
――エドガー様から? さきほどまではなかったのに。
真っ白な封筒を裏返すと『ベアトリス』の署名があった。
以前に、ベアトリスから先王の形見の指輪をもらったときと全く同じ字体だった。
セシルは封をあけ、便箋を取り出した。
『セシル様
とても大切なお話があります。深夜に庭園北の門でお待ちしています
ベアトリス』
ベアトリスはおそらくまだ発情期のはずだ。外に出られるような状況なのだろうか?
それに北の門は、ほとんど出入りがなく、現在は封鎖されていると聞いている。
だから、そんなところに、王宮で過ごしているはずのベアトリスが、深夜来るはずがない……。
――ないとはわかっていたが……。
あの時に受け取った先王の形見の指輪。あれはたしかにジャック王が生前つけていたものだ。
あの指輪をセシルに贈ったもの……、ベアトリスではないにしても、それが誰なのか、セシルは知りたかった。
セシルは、深夜になり離宮の明かりが落とされたころを見計らって、外套を羽織り、部屋の外に出た。
深夜の離宮は門衛がいるだけで、離宮内部の警備はそこまで厳重ではない。
セシルは部屋から、庭園の北門まで誰にも見つからずに行くことができた。
北門はやはり封鎖されており、そこから人が出入りできる気配はなかった。
――悪戯なのか?
引き返そうとしたセシルの手を、誰かが引いた。
「セシル!!!」
「お、お母様っ!?」
そこにいたのは黒い外套を羽織った義母、エメラインだった。
「よかった、無事だったのね!」
「お母様、どうしてここに?」
派手好きだったエメラインだったが、今やその面影はなく、簡素な洋服に身を包んでいる。
目の下には隈ができ、かなり痩せた印象だった。
「ハザム様が、手引きしてくださったの。よかったわ。これで家族みんな、一緒に国外へ出られる!」
「国外へ?」
「すぐにここから、逃げましょう。このままでは私たち一家は殺され、あなたは他国へ男娼として売られることになるのよ!」
「他国へ……、男娼…‥として?」
セシルは眉を顰める。
エメラインは興奮した様子でセシルの両手を握った。
「本当にエドガー王は恐ろしいお方だわ。あなたをこんな離宮に閉じ込めて…‥。
私も、ハザム様から聞いたときは信じられなかったわ! まさか先王が愛したあなたを、他国の王族に売り飛ばす計画だなんて!」
「エドガー、様が……?」
エメラインの言葉が、今のセシルにはよく理解できない。
「東方の幻燈という国と秘密裡で取引をしていたそうよ。貿易で有利な条件を得るために、あなたを王族の公娼として差し出すの。
ああ、なんて恐ろしい! 一度は自分が娶った正妃を……。本当に、人間の血が流れているとは思えない所業だわ……。
さ、早く。こんなところから逃げるのよ。
大丈夫。ハザム様がすべて導いてくださるわ!」
幻燈は、ファリンの祖国だ。
エメラインによると、セシルはその幻燈に売られる計画なのだという。
まさかそんなことが……?
昨晩のエドガーの瞳がセシルの脳裏によぎる。
『――愛しい人……』
あの口づけ、あの愛撫……、セシルを包んだあの熱が……、セシルを陥れるためのものだとは、セシルには思えなかった。
「お母様、私はここに残ります。お母様たちだけで行ってください」
「セシル……? いったい何を言うの!?」
エメラインの顔が歪む。
「私は心を決めたのです。生涯をかけてエドガー王への償いをすると。
だから、私はどんな処遇も受け入れます」
「なんですって?」
「私のせいで、エイルマー家の皆をこんな目に遭わせて本当に申し訳ありません。
でも生きていてくださって本当によかった。
今日ここでお会いしたことは、絶対に誰にも言いません。どうか……、どうかご無事で!」
セシルはエメラインの手をきつく握り返した。
「駄目! 駄目よ、そんな……! あなたも行くの!」
エメラインはかぶりを振る。
「長くいては、誰かに見つかります。どうか、早く……!」
そこまで言ったところで、セシルは後ろから誰かに羽交い絞めにされた。
「セシル様……、おとなしく我々に従ってもらわねば困ります……」
低くくぐもった声……。
「ネイト、様っ!?」
ネイト・ハザム。先王ジャックスの腹心で、秘書官を務めていた男……。
「貴方は我々の計画に必要なのです。一緒に来ていただきますよ」
口元に布のようなものを当てられる。息を吸い込むと、甘ったるい匂いがセシルの脳天をついた。
「……んっ、くっ……」
視界が歪み、足元が揺らぐ。
「そうです……、ゆっくり吸い込んで……。さあ、我々と共に行きましょう。
きっとこれから、もっと楽しいことが起こりますよ」
――含み笑い。
その声はとても不吉な響きだった。
セシルの意識はそこで途絶えた。
体中にエドガーの痕跡が残っているような変な気分で、何もしても頭の中がふわふわしたような状態で、庭園の散策に出る気にもなれない。
胸がいっぱいで息苦しく、国で一番の料理人がセシルのためだけに手掛けているという昼食も、夕食も、ほとんど手つかずで残してしまった。
アビーをはじめ、離宮の女官たちは、ため息ばかりのセシルを心配そうにしていながらも、内心微笑ましく思っていた。
そして夕食後……。
夜着に着替えようとしたセシルは、寝台の横の小さなテーブルに手紙が置かれていることに気づいた。
――エドガー様から? さきほどまではなかったのに。
真っ白な封筒を裏返すと『ベアトリス』の署名があった。
以前に、ベアトリスから先王の形見の指輪をもらったときと全く同じ字体だった。
セシルは封をあけ、便箋を取り出した。
『セシル様
とても大切なお話があります。深夜に庭園北の門でお待ちしています
ベアトリス』
ベアトリスはおそらくまだ発情期のはずだ。外に出られるような状況なのだろうか?
それに北の門は、ほとんど出入りがなく、現在は封鎖されていると聞いている。
だから、そんなところに、王宮で過ごしているはずのベアトリスが、深夜来るはずがない……。
――ないとはわかっていたが……。
あの時に受け取った先王の形見の指輪。あれはたしかにジャック王が生前つけていたものだ。
あの指輪をセシルに贈ったもの……、ベアトリスではないにしても、それが誰なのか、セシルは知りたかった。
セシルは、深夜になり離宮の明かりが落とされたころを見計らって、外套を羽織り、部屋の外に出た。
深夜の離宮は門衛がいるだけで、離宮内部の警備はそこまで厳重ではない。
セシルは部屋から、庭園の北門まで誰にも見つからずに行くことができた。
北門はやはり封鎖されており、そこから人が出入りできる気配はなかった。
――悪戯なのか?
引き返そうとしたセシルの手を、誰かが引いた。
「セシル!!!」
「お、お母様っ!?」
そこにいたのは黒い外套を羽織った義母、エメラインだった。
「よかった、無事だったのね!」
「お母様、どうしてここに?」
派手好きだったエメラインだったが、今やその面影はなく、簡素な洋服に身を包んでいる。
目の下には隈ができ、かなり痩せた印象だった。
「ハザム様が、手引きしてくださったの。よかったわ。これで家族みんな、一緒に国外へ出られる!」
「国外へ?」
「すぐにここから、逃げましょう。このままでは私たち一家は殺され、あなたは他国へ男娼として売られることになるのよ!」
「他国へ……、男娼…‥として?」
セシルは眉を顰める。
エメラインは興奮した様子でセシルの両手を握った。
「本当にエドガー王は恐ろしいお方だわ。あなたをこんな離宮に閉じ込めて…‥。
私も、ハザム様から聞いたときは信じられなかったわ! まさか先王が愛したあなたを、他国の王族に売り飛ばす計画だなんて!」
「エドガー、様が……?」
エメラインの言葉が、今のセシルにはよく理解できない。
「東方の幻燈という国と秘密裡で取引をしていたそうよ。貿易で有利な条件を得るために、あなたを王族の公娼として差し出すの。
ああ、なんて恐ろしい! 一度は自分が娶った正妃を……。本当に、人間の血が流れているとは思えない所業だわ……。
さ、早く。こんなところから逃げるのよ。
大丈夫。ハザム様がすべて導いてくださるわ!」
幻燈は、ファリンの祖国だ。
エメラインによると、セシルはその幻燈に売られる計画なのだという。
まさかそんなことが……?
昨晩のエドガーの瞳がセシルの脳裏によぎる。
『――愛しい人……』
あの口づけ、あの愛撫……、セシルを包んだあの熱が……、セシルを陥れるためのものだとは、セシルには思えなかった。
「お母様、私はここに残ります。お母様たちだけで行ってください」
「セシル……? いったい何を言うの!?」
エメラインの顔が歪む。
「私は心を決めたのです。生涯をかけてエドガー王への償いをすると。
だから、私はどんな処遇も受け入れます」
「なんですって?」
「私のせいで、エイルマー家の皆をこんな目に遭わせて本当に申し訳ありません。
でも生きていてくださって本当によかった。
今日ここでお会いしたことは、絶対に誰にも言いません。どうか……、どうかご無事で!」
セシルはエメラインの手をきつく握り返した。
「駄目! 駄目よ、そんな……! あなたも行くの!」
エメラインはかぶりを振る。
「長くいては、誰かに見つかります。どうか、早く……!」
そこまで言ったところで、セシルは後ろから誰かに羽交い絞めにされた。
「セシル様……、おとなしく我々に従ってもらわねば困ります……」
低くくぐもった声……。
「ネイト、様っ!?」
ネイト・ハザム。先王ジャックスの腹心で、秘書官を務めていた男……。
「貴方は我々の計画に必要なのです。一緒に来ていただきますよ」
口元に布のようなものを当てられる。息を吸い込むと、甘ったるい匂いがセシルの脳天をついた。
「……んっ、くっ……」
視界が歪み、足元が揺らぐ。
「そうです……、ゆっくり吸い込んで……。さあ、我々と共に行きましょう。
きっとこれから、もっと楽しいことが起こりますよ」
――含み笑い。
その声はとても不吉な響きだった。
セシルの意識はそこで途絶えた。
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