どうやら私、動くみたいです

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第五章 人間と妖怪

第十話 どうやら私、動くみたいです

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 どうしたんだろうーー。私は自分の体に何が起きているのかを確認します。そして理解しました。ーーなんと私に着物には、火が燃え移っていたんです。

「しまった……」

 しかし気付くのが遅過ぎました。炎は瞬く間に燃え上がり、私の体をすっぽりと覆い隠します。熱さで全身が痛みました。声を上げたい、だけど声を発しようにも口の中に炎が入ってきて出来ません。加えて目の前の女の子の姿ですら、私の目には歪んで蜃気楼のように消えていきました。

 何が必ず助けてあげる、だ。変に彼女をぬか喜びさせて、単に自己満足に浸っていただけじゃないかーー。私は燃えていく実感をしながら、自身の無力さに自己嫌悪しました。
 自分一人では何も出来ないのに、加胡川さんの言葉に浮かれ、自分が妖怪の中で唯一の存在であると錯覚し、ついには何も出来ぬまま消えていく。元が死んでいるので死ぬと言う言葉は間違っていると思いますが、取り敢えず馬鹿な私の死に様としては、お似合いの最後と言えるでしょう。

 でも私が消えれば、目の前の女の子はどうなるのかなーー。頭に不安が過ぎりました。無責任に風呂場から連れ出されて、頼るものが無くなった彼女は、これからどうすればよいのでしょうか。
 私は苦悩しました。どうしても、彼女の命だけは救わなくてはーー。その考えの元、消える前に私は必死で思考を巡らせました。そして体の感覚が徐々に無くなっていく中で、天狐さんのある言葉を思い出したのです。

『破壊ごときで魂の定着は解けん。一層の事、燃やして消滅させるぐらいの勢いじゃないとのう』

 初めは映画館に行きたいが為にしようとしていた幽体離脱、及び他者への憑依。あの時は単に私の自己満足でしかなかったけれど、今ならばその目的が私の中で明確に定まっていました。

 彼女を助けたいーー。

 過去に言われた幽体離脱のコツを思い返してみます。体から魂を脱皮させるような感覚じゃーー。この場に天狐さんは居ませんでしたが、彼女の声は鮮明に私の脳内で再生されきました。
 今ならいける気がする。私は背中から自分の着ている物を脱ぐ感じで、幽体離脱を試みました。

 あっーー。

 不思議な感じでした。何故なら自分の体が自分の物じゃないみたいに、宙に浮いて廊下に漂っているんです。それに目の前にはわんわんと泣いている女の子、どうやら私の姿は見えていないみたいですね。これが実態の無い体、霊体と言うやつなんでしょうか。
ーーって、こんな事している暇なんてありません。早速私は女の子が口を開けた瞬間に、そこから彼女の体へと飛び込みました。憑依の仕方がこれであってるのかはわからないけれど、取り敢えずそれっぽい事は試さなきゃ!

 瞑っていた目を開けると、そこにはまだ火を灯している何かが転がっていました。何か鼻をつんざくような刺激臭を放ちながら、メラメラと燃えていく謎の物体。それがさっきまでの私の姿だと気付くには、少々時間が掛かりました。

 今でも過去の自分、もとい光江みつえ花子はなこが何故、お婆ちゃんの市松人形に取り憑いたのかはわかりません。けれどこの体を得たおかげで、私は色々な体を得る事が出来たのもまた、紛れも無い事実です。
 お婆ちゃんとの繋がりが、こうして断ち切れちゃうのは悲しいですよ。けれどクヨクヨしている時間なんて無いのです。私にはまだ、やるべき事が残ってますからね。

 私は亡骸とも言える市松人形の体に、軽く手を合わせました。

 ありがとう、そしてさようならーー。

 髪の毛の無くなった白い頭は、何処か私を勇気付けてくれている。そんな気がしました。

 憑依したばかりの体がしっかりと動くのを確認すると、まず私は風呂場へ行って水を被ろうと考えました。だって轆轤首さんも家を脱出する時に水を被っていましたからね。多分暑さ対策としても十分に効果があるのでしょうから。
 すぐに風呂場の扉を開けて、捻った事のない蛇口を捻りました。こうして水を被った私でしたが、ふとそこの鏡に映る自分の姿を見て声を漏らします。「ほんとになっちゃってるなぁ、人間に」

 髪の毛は短めのショートヘア、ピンク色の長袖プリントシャツに青い短めのスカート。見ただけでわかる頬っぺたの柔らかさは、これまでの私には無かった違和感でした。
 あかく血走った目と腫らした目元も、さっきまでこの子が泣き叫んでいた証です。故にそれらへかかる冷たい水は、季節が秋にも関わらず気持ちいいものでした。ーーまぁ家が燃えてる事もあり、気温が上がっているせいもあるんてしょうけど。

 髪の先までしっかり濡らすと、私は体を拭く事を一切考えずに扉を開けました。再び炎燃え盛る外界へと直面して、改めて自分がか弱い存在であるかを痛感します。
 今の私はこの子に取り憑いただけで、結局はただの浮遊霊です。なので全てを打開するには、またあの声に頼るしかありません。
 早く喋ってーー。そう思った私でしたが、いくら炎を見ても、あの声が聴こえてくる事はありませんでした。

「なんで……。これじゃあ私、この子を助けられないじゃない」私は両手で顔を覆い隠します。

 ですがこの時、ある物が視界にチラつきました。すぐさま両手を離してその物の正体を探ってみると、それはあっさり正体を現しました。私の右人差し指には、炎へと真っ直ぐ突き進む赤い糸のようなものが結ばれていたのです。

 当然、謎の声との関連性を疑わない訳がありませんでした。私は自身の指先へと繋がる赤い糸を、まじまじと見つめます。

「もしかしてこの糸って、あの炎の抜け道を指し示しているの?」返答の無い質問が、私の口から漏れ出ました。

 仮にもし、これがあの声の代わりとして機能するのであれば、正直頼りたいです。しかし全く違う代物で、この子の体を破滅へと導く為の道しるべだったらーー。私にはどう責任を取っていいのかわかりません。

「……でも、少しでも可能性があるのなら」

 迷った末に、私は糸を信じる事にしました。そして歩き出します。迷っている時間なんて無いーー。もはや私には、一刻の猶予も残されていないのです。ここで立ち止まっていては、いけないのです。

 幸いにも、糸の指す道は正しいものでした。糸を手繰り寄せ、ゆっくりと前へ進んでいく。そうすると片道と同じように、炎は体スレスレを通り過ぎて引き下がっていきました。しかも予め水を被っていたので、その火種が服に引火して全身に燃え移ると言う事もありませんでした。
 ですがそれも時間の問題です。服が炎で乾いてしまえば、引火する可能性も格段に上がってしまうのですから。心に焦りを感じながらも、私はゆっくりと動作するように心掛けました。

 歩いている内に、徐々に景観として見えてくる表ベランダのある部屋。小さな廊下を通ると、轆轤首さんの家の寝室や、お婆ちゃんの家の私が置いてあった部屋と全く同じ作りの部屋に、私はドアを開けて入りました。

 部屋に入ってまず飛び込んできたのは、火を体に住まわせた木造のタンスです。更にその上にはまだ火が着いていない熊のぬいぐるみが、あたかも死期を悟ったかのように座り込んでいます。
 彼がもし心を持っているのなら、一体何を思っているのでしょうか。
 所々焼け焦げて黒くはなっていましたが、この部屋にはピンク色の物が多いです。ここはこの子の部屋だったんじゃないのかなーー。炎が揺らめく木材剥き出しの床を見て、私は虚しさを覚えました。

 そして私は、ついにゴールへと辿り着きました。
 外の状況がどうなっているのかを確認しようと、表ベランダの窓を開けてみます。まだベランダ全体で見れば火は着いていましたが、その火の上に足を置かないよう慎重に、柵の方へと近寄りました。ふと気付いたんですが、濡れた靴下はしばらく炎に晒されていたからか、少しばかり温かくなっていました。もうちょっと歩くのが遅ければーー。考えただけでもゾッとしますね。
 そして周りの炎で熱を帯びた柵に、少し身を乗り出しながら私は、下の景色を見下ろしました。

 そこには大っきな布団のようなものが設置してあり、更には老若男女の野次馬達がこちらを見上げていました。人間とはつくづくおかしなものです。こんな火事なんて見て何が楽しいんでしょうか。中には銀色の被り物をした方々もチラホラと見えています。あれが消防士って人なのかな。ーーと言うかそれよりもまず目を向かせなきゃいけないのはあの布団ですよ。何なんですか、あの大っきな布団は。

 すると消防士らしき男性の一人が、何やら駐車場とかに置いてあるコーンの裏っ側みたいなものを片手に、こちらを向いて言いました。

「カエデちゃん! ここに空気のクッションが敷いてある! 少し怖いかも知れないけど、そこから飛び降りられるかな!?」

 ようやく加胡川さんが言っていた事の意味がわかりました。人間は人間で助ける力があるーー。それはつまり、ここまで来れば妖怪が手を貸さずとも、人間達が力を合わせてカエデちゃんを救い出せる事を意味していたんですね。

「カエデェ! お父さんはここだぞぉ!」

 カエデちゃんのお父さんも、この子の帰りを待っているみたいです。ここは早いところ、感動の再会と言うものをさせてあげようじゃありませんか。

 普段のこの子であれば、ここから飛び降りる事は難しかったと思います。勿論それは、普段のこの子であればの話ですけどね。何せ今のこの子には私が取り憑います。故にそんな事、造作も無い事なんですよ。それに飛び降りる事への恐怖心なんて、弔いの祠で加胡川さんにされた事のせいで薄れてますし。ーー無論、これが無責任な心境なのは自負していますが。

 私は、迷わず体を柵に乗り出して足を掛けました。ここで、カエデちゃんに降りかかった火の粉を振り払うーー。その一心で。
 ですが飛び降りようとした途端に、私の脳内でとある考えが過ってしまいました。

 もしこのままこの子の体に憑依してると、私は人間として生きていけるのかなーー。

 とうに捨てたと思い込んでいた、人間としての生への執着。しかしこうしてカエデちゃんの体を動かしていく内に、その意識は次第に形を持ち始めていた事を、私は心の中で気付いていました。

 確かに私は、カエデちゃんの体でもうしばらく、身長の高い世界を過ごしてみたいのは紛れも無い事実です。そりゃあだって、平然と人間社会に飛び込み、ごくごく自然に生活へと溶け込んでみたいですからね。

 でもそれじゃあいけないーー。私の中の彼女は、その願望を律しました。
 わかってるよ、過去の私ーー。私もそれに受け答えします。

 カエデちゃんの人生は、カエデちゃん一人の人生です。なので部外者である私が操作して、彼女のゲームにちょっかいを出すのは、良くないですよね。
 あなたの言う通りだよ、過去の私ーー。少しでもそんな事思っちゃった私が悪かった。

 私は柵から足を離しました。そしてまだ馴染んでいない少女の肉体から、市松人形の時と全く同じ要領で、私は体と魂とを分離させます。途端に、とてつもない脱力感が襲い掛かってきました。

 これでよかったんだよねーー。

 落下していく意識の無いカエデちゃんの体を見ながら、私は宙に上がっていきました。それから訪れたのは、まるで走馬灯のようにゆっくりとした時の流れでした。

 次に憑依する肉体が無い以上、私には浮遊霊になる以外の道は残されていません。それに、今の私の魂が二回の幽体離脱で摩耗してきている事も、薄々感じ取っていました。おそらく私が浮遊霊として漂っていられる時間は、ほんのわずかしか残されていないでしょう。
 でもこれってある意味、成仏と言っても過言じゃない状態じゃないのかなーー。全てをやり終えた達成感から、私はそんな心情すら湧いてきていました。
 だって何も出来なかった私が、こうして一人の女の子の命を助ける事が出来たんですよ。過去の私の無念、晴らせたも同然です。

 けれどふと地上で彼らの姿を見た時、その考えにも若干陰りが見えました。
 地上で私の事を見つけたのか、轆轤首さん、天狐さん、加胡川さんが目を大きくして私の方を見ていたのです。まぁ彼らは妖怪ですので、浮遊霊である私を目視するのは造作も無い事なのかも知れません。
 出来るのであれば、私をあなた達の元へ連れ戻して欲しいなーー。密かな願望が、私の精神を揺さぶりました。

 よくよく思い返してみると、彼らにお別れの挨拶をするのを忘れていましたね。こうなるのであれば、初めから加胡川さんに遺言でも頼んでおくべきでしたよ。
 私の体は既にコントロールが利かず、フワフワと宙に浮かび始めていました。これじゃあ下にいる彼らに会いに行く事は困難です。ーーせめて私の為に命まで張ってくれた天狐さんには、ちゃんと面を向かってお礼が言いたかったなぁ。

 天狐さん、加胡川さん、轆轤首さん、今までありがとうございました。ーーそして轆轤首さん、勝手な事してごめんなさい。

「さようなら……」

 彼らの耳に届いてはいないだろうけど、私はポツリと呟きました。そして彼らの顔をこれ以上見ないように、そっと瞼を閉じました。

 *

「カッカッカッ! もうこんなところまで漂って来たのかい」

 独特な笑い声のおかげで、ふと私は我に返りました。今は霊体なので少しおかしな言い方かも知れませんが、心身共に異常とかはありません。どうやら私の体は、まだ霊としての実態を保っているようです。
 目の前には大きな黒いトランクを隣に置いたぬらりひょんさんが、何やら背の高い建物の屋上に腰掛けていました。下に視線を落としてみると仰天! 私達が住んでいた建物よりもかなり高い場所に私は浮いていたんです。

「……ッ!?」
「おやツクモノちゃん、ようやくお目覚めか。ここは雛形区の街中、県営住宅地より少し離れた場所さ」

 辺りを見回すと、街の灯りが夜の闇を和らげている、何とも幻想的な世界がそこに広がっていました。今と言う今まで、私は雛形区の事はGoogleのストリートビューで調べ尽くしていたと思っていました。けれどこうしてみるとそんな見栄も、ちっぽけなものだと痛感してしまいます。都会故に少ないと思い込んでいた自然も、高い場所から見てみれば結構見受けられるのが良い例です。私って雛形区の事、何もわかってなかったんだなぁ。

「ぬらりひょんさんはどうしてここに」瞬間、私はある違和感を覚えました。「……ってあれ?」

 これは自分の声じゃないーー。私の声はこれまで市松人形に取り憑いていた時とも違う、知らない女性の声になっていたのです。

「どうしたんだい、ツクモノちゃん」不思議そうに私の顔を見てくるぬらりひょんさん。
 私は変な心配を仰がないように、首を左右に振りました。「いえ、何でもありません」

 しかし全く聞いた事の無いと言えば、少し意味合いが違います。何故ならそれは、何処かで聞いた事のある声だったからです。そしてその声の主を記憶の中から探して、ハッとしました。
 そうだーー。私をカエデちゃんの居る場所まで導いてくれたあの、謎の声と同じ声なんです。そう考えると、色々な謎の答えが、未解明と言う鎖が外れて飛び出してきました。

 多分今のこの声、そして姿は、過去の私である光江花子のものなんだと思います。
 彼女は自分と同じ境遇に陥ってしまったカエデちゃんを、助けようと言う一心から私の記憶の奥底から這い上がって来た。そしてカエデちゃんが自分と同じ運命を辿らないようにと、光江花子は私に助言してくれたんです。

 すると疑問に思ってくるのはやはり、私がカエデちゃんの体に憑依して以降、光江花子の声は聴こえてこなくなったのは何故かと言う事でしょう。
 私が思うにそれは、おそらく魂の摩耗、魂の劣化が一番の原因だと思います。火事の時に培った記憶が幽体離脱の際、魂そのものの摩耗により消滅してしまった。そう考えるのが、今の私の想像力では限界でした。

 だとすればあの時、私の指に現れた赤い糸は何だったんだろうーー。解決したとばかり思っていた疑問は、更なる疑問を連れて来てしまったみたいです。

「それよりぬらりひょんさん……」

「そうだった」ぬらりひょんさんは頭を掻いて言いました。「何故ワタシがここに居るかだったね」

 違う考え事で頭がいっぱいいっぱいでしたので、すっかり質問をした事を忘れてましたよ。悪いのは彼だけではありませんので、私は「すいません」と宙に浮いて居る体を縦にして、軽く頭を下げました。ーー意外とこの体勢、キープするのが難しいんですよ。

「君に是非会わせたい人が居るんだ」
「私に会わせたい人?」

 返答の意味が全くわかりませんでした。彼が私に会わせたい人なんて、轆轤首さん達以外思いつきません。
 でも彼女達にもう一度だけ会えるのだとしたら、今度こそさよならの挨拶をしようーー。決してそうと決まったわけでもないのに、私は勝手に握り拳を作りました。ーーけれど私の予想は大きく外れました。

「久しぶりね、お人形さん。いいえ、今はツクモノちゃんだったわね」

 明らかに聴き覚えのある、優しく抱擁してくれるような声が聴こえてきました。それが七年間聴き続けたあの人の声だと気付くのに、そう長くは掛かりませんでした。

「お……お婆ちゃん……?」

 声のする夜空の方向を見上げた私は、更なる感動により声が震えました。未だ聞き慣れない自分の声も、この時だけはとてもしっくりきたような気がします。それは多分光江花子としての感動も、少なからずあったからでしょう。

 率直に言います。そこに居たのは私の大好きな、由美子お婆ちゃんでした。
 私が市松人形だった時の持ち主であり、光江花子だった時も何かしらの関係があった人物。外出中にわずらっていた病によって亡くなった彼女が、何故こんなところにいるのだろうーー。私は半透明な彼女に疑いの目を向けました。

 けれど年相応の真っ白な髪の毛に、ほうれい線が深くて皺の多い顔。彼女はどっからどう見ても、あのお婆ちゃんの姿をしていました。
 本物だーー。未だ驚きと感動のあまりお婆ちゃんの姿を凝視していると、背後から笑い声と共にぬらりひょんさんの声が聞こえてきます。

「彼女には過去に一度、君の事について聞かせて貰ってたんだ。今回は閻魔様の許可も貰って、特別に浮遊霊としてこの世に連れて来たってわけさ。いやぁ、閻魔様の許可を得るのは大変だったよ、カッカッカッ!」

 それに合わせてお婆ちゃんも、頬に寄っている皺の溝を一層深くして笑みを浮かべました。

「フフフ。だってこの人、私をあの世から連れ出す理由を『市松人形の為です』とか言っちゃったのよ。そりゃあエンマ様も困惑するわよねぇ」

 エンマ様とか言うワードが飛び交う彼らの会話には、とても着いて行けそうにはありません。故に私は、苦笑いの表情を保って聞き流しました。ーーだってわかんないんですもん。
「それにしても」さっきまでの表情から一変、お婆ちゃんが真面目なトーンで言います。「よく頑張ったねぇツクモノちゃん」

「えっ?」
「ぬらりひょんさんから全部聞いたわ。私が死んだ後、凄い辛い思いをしたんだってね……。ごめんなさい、さよならも言えずに逝ってしまって……」

 さよならも言えずにーー。その言葉の辛さは私にも十分に理解出来ました。私も轆轤首さん達にお別れの挨拶をしそびれてしまっている。だからこそ、私は彼女を責める事は出来ませんでした。

「そんな事……」その気持ちを何とかして伝えるべく、私は次の言葉を繋げようとします。
 ですが、気持ちが募るばかりで言葉がちっとも繋がらない。いざ彼女の気持ちを汲み取ろうとすると、喉の奥に言葉が詰まって声が出なかったんです。

 私は自身が喋るとわかった時から、お婆ちゃんとお話をしてみたいと強く願っていました。けれどお婆ちゃんが亡くなってしまったと知った途端、それが叶わぬ願いとなった。その時の絶望感は、今でも鮮明に覚えています。
 でもこうして今、念願のお婆ちゃんとの会話をしてみると、思っていた以上に会話が弾みません。それは緊張しているからか、はたまた本当に言葉が出ないからなのか、私にはわかりませんでした。

「私も……お婆ちゃんの家にお子さんが来て部屋を荒らし回った時、何も出来なかったから……」

 必死になって言葉を絞り出しました。「だからその……お互い様だよ!」

 初対面の相手ではないけれど、こんなに会話に気を使うのは疲れます。
 お婆ちゃんの心の負担を少しでも減らしてあげたいーー。私は発言の後に精一杯の笑顔を作りました。

「ありがとう」お婆ちゃんも優しい笑顔を返してくれました。

「ツクモノちゃん、あなたは昔とちっとも変わらないわね」

 変わらないってどう言う事だろうーー。私は頭にクエスチョンマークを浮かべましたが、瞬時に事が理解出来ました。だってあの人の話題は、私の中で散々上がっていましたからね。

「昔って……。もしかして私が光江花子だった時の事?」

 何処で私が、過去の自分である光江花子の存在を知ったのか。それはぬらりひょんさんが帰られた後の事です。
 地縛霊だった時の自分の話を聞いた私は、インターネットでその事故についての全貌を調べました。八年前の火事、自宅で亡くなった若い女性ーー。これらの情報から人物像を割り出されたのが、他でもない光江花子だったと言う訳です。

 残念な事に彼女がどう言った人物だったのか、彼女の家族関係はどうだったのかは、その後いくら検索しても出てくる事はありませんでした。所詮インターネットと言っても、民間人の個人情報をくまなくチェックする事は出来ませんからね。当たり前です。

「あなたは既に、自身が何者なのかってのは知っているのね」
「まぁ名前だけはね……。でも、その人の深い事は全く知らないんだ」

 嘘は吐いていません。現に私が過去の自分、光江花子の姿を知らないのは紛れも無い事実ですし。彼女が生前、何処で育ち、誰と話し、何を思ったかなんて、記憶が摩耗してしまっている私には、知る術なんてありませんよ。
 故に私はずっと、お婆ちゃんに訊ねてみたかったんです。彼女は光江花子と何らかの関係がある人物だと言うのは、ぬらりひょんさんの話から聞かされていましたから。

「だから教えて、お婆ちゃん。昔の私がどんな人だったのか、そしてお婆ちゃんと、どんな関係だったのかを」

 お婆ちゃんは何も言わず、私の顔をジッと見つめてきました。それもよくぞここまで辿り着いたとでも、言わんばかりの迫力です。しばらくして今度は、ぬらりひょんさんともアイコンタクトを取ってました。ーー駄目なのかな。

「わかった」よかった、ほっとしました。

「過去のあなた……光江花子ちゃんと初めて出会ったのは、街灯しか光が存在しない、暗い夜道だった。いつものように私は健康の為のウォーキングをしていると、花子ちゃんはフラフラと覚束おぼつかない足取りで前から歩いてきたの。私は日中に歩いて、熱中症やら脱水症状やらで倒れるのが嫌だったからその時間帯を選んでたんだけど、明らかに彼女は違ってた。あんな時間帯に若い女性が一人歩いてるなんて、誰だっておかしいと思うじゃない。だから私は、すれ違いざまに問い掛けたわ。『お嬢さん、どうしたんですか』ってね」
「それで、光江花子は何と?」

 お婆ちゃんは目を瞑りました。「お家の人に外へ出なさいと言われたんですって」

「えっ?」
「話を聞くとね、花子ちゃんは普通科の大学に通ってたらしいんだけど、周りの環境が合わなくて不登校になったらしいのよ。そして家で引き篭もりの生活を続けてしまって、この時間帯になら外に出てみてはどうだと言う話になったそうなの。お父様も苦肉の策だったと思うわよ。何せ自分の娘を、こんな深夜に一人で出歩かせるんだから」

 まさか過去の私が引き篭もりだったなんて、正直思いもしませんでした。あの時、天狐さんと加胡川さんが私達の家に残ると聞かされた途端、謎の嫌悪感が訪れていたのは、単なる偶然ではなかったんですね。
 環境に合わなかったから通っていた大学を立て続けに休んだ。これに関しては言えば、今の私ならそんな事はしませんけどね。ーー何せこのツクモノは、人見知りでもなんでもないんですから。

 けれど私を深夜に、それも一人で出歩かせるなんて、お父さん以外の家族は反対しなかったんでしょうか。
 私はその事をお婆ちゃんに問い掛けました。「他の家の人は反対しなかったの?」

「お兄さんは反対したみたいねぇ。けどあなたはムキになって外に出たみたいだったわ」
「お母さんの方は?」

 瞬間、お婆ちゃんは表情を曇らせました。
 何かまずい事でも聞いちゃったのかなーー。でも私自身の事だから、そこから先の話が気になるのは当たり前。例えそれがお婆ちゃんの口からは言い辛い事だとしても、過去の自分を知る為であれば尚更です。
 なので私は、お婆ちゃんに頬を緩めながら伝えました。

「大丈夫、隠さず話して」

「由美子さん」ぬらりひょんさんがお婆ちゃんの方を見つめます。「話してやって下さい」
 それに応えるが如く、お婆ちゃんも私の目を合わせて言いました。

「あなたの……いえ、花子ちゃんのお母さんは……。花子ちゃんを産んだ後すぐに亡くなっているの。だから、花子ちゃんのお父様は他の親御さん以上に、自分の子供達を大切にしていたそうよ」

 でもそのお父さんがそこまで深刻になるレベルで、私は心が病んでいたんだ。やはり話を聞いているだけでは記憶は戻って来ませんが、それでもその情景は容易に想像出来ました。
 狭い、家の中で一人、話す友達も無くただただ時間を空費していく日々。そんな毎日を過ごすのは、苦痛でしかなかったのでしょう。更にはそんな日を繰り返す度に、病んでいく娘を見ていたお父さんも、また似たような苦しみを味わっていたんだと思います。

 だから妻の形見とも言える娘に、もう一度だけ外の世界を見せてあげたかった。でも彼女のそばに自分が居れば、彼女の視野の広がりを狭めてしまうかも知れない。故に彼は、苦渋の決断ながらも娘一人で行かせた。そして光江花子の方も、家族にこれ以上の心配を掛けないようにと外の世界へ臨んだに違いありません。ーー引き篭もり生活で弱りきった、筋肉を無理矢理動かしてまで。

「私は花子ちゃんともっとお話ししたくて、あの子を家へ招き入れたの。そして花子ちゃんについての事、全部聞かせてもらったわ。初めはどうしてクラスに馴染めなくなったのかと言う暗い話題からスタートしたんだけど、次第に話はズレてきちゃってねぇ。趣味の話とかをメインに会話が弾んじゃったのよ」

 家に人を招き入れちゃう辺り、お婆ちゃんらしいなと思っちゃいました。お婆ちゃんの家には結構な頻度で、お客さんが訪れていましたからね。

「花子ちゃん、昔から物語を書く事が好きだったみたい。それも『その参考にする為だ』なんて言って、よく映画にも行ってた程らしいのよ。でもある日、思い付きを纏めていたメモをクラスメイトに見られちゃってね。……バカにされたんですって。だから花子ちゃん、それ以来学校には行かなくなったそうなの。『人の趣味を笑うあんな人間達と、同じ空気を吸いたくない』そんな事を言ってたわ」

 映画館で感じた記憶の断片も、ここから来ていたんですね。物語を書く為の参考にするーー。何処まで私は物語の制作にのめり込んでいたんでしょうか。
 でもだからこそ、自身の趣味を否定されるのは誰よりも嫌だった。その為に彼女は、学校と言う大きなコミュニティから抜け出して引き篭った。ーー彼女なりの、貫きたい信念があった為に。

「それ以来、私達はよく一緒に会う事が多くなった。一緒に交換日記を書いたり、映画を観に行ったり、時たま花子ちゃんの書いた小説も見せてもらったわねぇ。文章はあまり上手とは言えなかったけど、上手く構想が練られた素晴らしいものが多かったわ。そしてその小説を見せてくれる度、花子ちゃんの表情を見せてくれた」

「多分ね」お婆ちゃんが続けます。

「花子ちゃんは人一倍、他人思いな子だったんだと思うの。だからあの夜、花子ちゃんはお父様に心配かけまいと家から出たんでしょうね。まぁ結局のところ、お兄さんには心配は掛けちゃってたみたいだけどねぇ。その事についても、花子ちゃんは気に病んでたわ」

 しかしその時の光江花子の選択は、間違っていなかったと思います。もしあの時家を出ていなかったら、きっと光江花子はお婆ちゃんとも顔を合わす事が無かったでしょうし。
 おそらくあのまま家に引き篭もり続けていたのなら、いずれ彼女も自ら死を選んでいました。断定は出来ませんけどなんとなくそんな気がするんです。他人との関わりを失った者が行き着く先は、人間も妖怪も同じなんですから。

 きっと他人思いなところも幸いしたんだろうなぁーー。ちょっとその辺は過去の自分でも、正直誇りに思っちゃいました。

「でもその半年後、事故が起きた。『火元は不明。火災の現場ではその家に住む光江花子さんが、遺体として発見されました』あの時のニュースの断片は、今でも鮮明に記憶しているわ」

 私は何も言えませんでした。
 光江花子が火事で死んだ事は、天狐さんの神通力やぬらりひょんさんの話で知っていました。けれどいくらその話題を私に振られても、やはり記憶が無い事に変わりは無いので、実感がわかないのです。

 けれどそれを心に受け止める精神の余裕も、私には必要なのかも知れません。
 過去の自分だからと言って、あくまでも他人の人生としてしか見られなかった光江花子の人生。ですがもう時期魂の摩耗から消えてしまいそうな今、私を一瞬でも人の役に立たせてくれた彼女を、光江花子を受け入れないなんて失礼にも程がありますよ。
 どうせなら最後ぐらい、二人で笑って消滅したいですしね。

 故に私は、お婆ちゃんの話にしっかりと耳を傾けました。もう他人を知る為なんかじゃない、自分と向き合う為に光江花子の話を聞くんだーー。その一心で。

「私が現場に花を添えに行った時に一度だけ、お兄さんと会った事があるの。その時のお兄さん、凄く険しい表情でこう言ってたわ。『多分今回の火事の原因は、夜中に僕が煙草の吸殻をリビングに放置してたからなんです。だからその部屋のソファで寝ていた花子のタオルケットに引火して……僕は妹を殺害してしまったんだ』ってね」

「私のお兄さんが!?」思わず声を荒げてしまいました。
 わざとではないにしろ、私の実の兄であった人物が私の死因を作った張本人だったのですから無理もありません。しかしすぐ後に、お婆ちゃんは私の興奮を宥めるように言いました。

「けれど彼はこうも言ったの。『初めは自首しようとも思いました。ですが母の形見でもある娘を失って、精神的に不安定になってしまった父を見ていると、とてもそんな事は出来なかった。僕は卑怯な人間です』とね。私は彼を責められなかったわ。彼の言葉にも一理あったからねぇ」

 まさかーー。私はある事に気が付きました。何故過去の私が残留思念が無いのにも関わらず、地縛霊としてあの場所に留まっていたのか。それはおそらく、光江花子の性格が他人思いだったからじゃないんでしょうか。
 光江花子は自身の兄が抱いていた罪悪感を払拭する為、成仏せずに地縛霊としてその場に残り続けた。しかしながら、彼女は地縛霊なので人間に言葉を伝える事は出来ない。だから一年もの間、彼女は同じ場所でただただ待ち続けた。ーー自分の記憶を失いながらも、兄との会話を待ち望んで。

「その日からよ、私は自分のノートに物語を書く事にしたの。昔の花子ちゃんもしていたように物語を書いていれば、亡き彼女を感じられるかも知れない。そんな気がしたわ。内容は確か……花子ちゃんをモチーフにした主人公のファンタジーものだったっけ。まぁ結局それも、私が死んだ後どうなったのかはわからないけどねぇ」

 多分お婆ちゃんが言っていたノートとは、日々何かを書き記していたノートの事を言っているのでしょう。まさかあのノートにそんな意味が隠されていたなんて、当時の私には全く想像もつきませんでしたよ。

 しかしノートがその後にどうなったのかも、私は知っています。何せあの日の出来事は私にとっても、絶対に忘れる事は無い出来事でしたからね。ーーお婆ちゃんの子供さん達が押し掛けてきて、お婆ちゃんの所持品を散々物色しては捨て去っていったあの日を。

「ノートはその……。お婆ちゃんのお子さん達に捨てられちゃったよ」
「そう……」

 お婆ちゃんは暗い顔をしたままで、視線をビルの谷間に落としました。それも既に返答を察していた、そんな雰囲気でした。
 確かにお婆ちゃんは一人暮らしだったので、その遺品をどうするのか決めるのはその子供達である二人です。当然不要な物は捨てられ、使える物は持ち帰られる。これも人間の習性と言えば片付いてしまう事なんでしょう。

 けれどそれをお婆ちゃんは、聞きたくなかったんじゃないのかなーー。だって逆の立場で考えてみても、大切にしていたものが捨てられるのは悲しいですからね。ーーまた私、悪い事言っちゃったな。

 すると急に改まった顔をして、お婆ちゃんは私を見つめてきました。

「ツクモノちゃん。お願いがあるの」
「何?」
「花子ちゃんの分まで……妖怪としての生涯を貫き通してくれないかしら」
「……はい?」

 全く予想外な問い掛けに、私はつい口を開けたまま返事をしてしまいました。
 勿論私だって、出来る事ならこの世界に留まっていたいです。もっと轆轤首さんや天狐さん、加胡川さんと言った妖怪の皆さんと、お話ししたりしたいんです。けれどそれもまた、私には叶わぬ願い。何せ私にはこの世界に留まっていられる時間が、もう残り僅かなのだからーー。

「私にはお婆ちゃんのお願い……叶えられないよ。だって私は、もうすぐ消えちゃうんだから」
「カッカッカッ!」

 背後からぬらりひょんさんの例の笑い声が聞こえてきました。ほんと、急にそれが聴こえてくるとびっくりしちゃうのでやめてほしいです。

「それなら心配しなくてもいい。何せその為に、私がここにいるんだからね」

 そう言うとぬらりひょんさんは、隣に置いていた大きなトランクのロックを外しました。そして中から取り出した物の梱包を外すと、予想だにしない代物が顔を覗かせました。

「そ……それって!」
「ああ、君の前の体と全く同じ型番さ。この街は人形の街として盛んだったからねぇ。手に入れるのは他の県とかに比べて容易だったよ」

 茶色い髪の毛に大きめの赤いリボン、見覚えのある菊の刺繍の入った赤い着物に、真っ白な体。それはこれまでの私の体が、あたかも特別でない事を比喩しているかのようでした。
 視線の市松人形の体を閉じたトランクの上に置くと、ぬらりひょんさんはそれに目を置いたままで言いました。

「これで肉体の方は準備出来たわけだが、まだ肝心な事が片付いていない」

 ぬらりひょんさんが私を見上げます。「摩耗した魂の修繕さ」
 次の瞬間、私の不安定な体に、途轍もないエネルギーが流れ込んでくるのを実感しました。この感覚何処かでーー。理解するのに時間は掛からなかったです。そう、私はこの感覚を知っている。ーー轆轤首さんさんと初めて手を触れた瞬間、私は同じものを味わったんだ。

「君の魂の劣化を止めた。これなら由美子さんの願いが叶えられるよ」

「どうして」私は湧き上がってくる力を他所に疑問をぶつけました。

「妖怪は人間と関わらないんじゃなかったんですか」

 ぬらりひょんさんはお婆ちゃんの方を見てから言いました。

「その掟を作ったのはつい最近さ。それに今の君はもう、立派な妖怪だよ」
「へぇ……って、作った!? ぬらりひょんさんがですか!?」
「ああ」

 どんなお偉いさんがあの掟を作ったのかと思っていましたが、まさかそれがぬらりひょんさんだったとは予想外です。確かにぬらりひょんさんは、多くの人間が知っている有名妖怪ですからね。故にそれだけの影響力も、妖怪側にもあったんでしょうね。ーー次第に私は、彼の真意が知りたくなってきました。

「なんでまたそんな掟を?」
「近年人間達も発展し過ぎててね。もしかすれば近々妖怪の存在も、解明されるのではと思ったんだ。だからワタシは、妖怪が人前で力を使わないようにする掟を作った。無論、そのせいでまた多くの妖怪が命を絶ったのもまた、紛れも無い事実なんだけどね」

 けれど彼の言う事にも一理あります。妖怪の存在が現代社会で解明されてしまったら、結局人間達の多くは妖怪を拒絶するでしょう。どちらに転んでも結末は既に同じなのです。
 やはり今の世の中は、妖怪にとって暮らし辛い世界なんだなぁーー。難しい命題故に、私は空中で体育座りをしました。

「ではぬらりひょんさん。私達もそろそろおいとましますかねぇ」
「ですね、由美子さん」

「ええっ!」思わず愕然としました。「二人共、もう帰っちゃうんですか!?」
 だってこの世界に留まるだけの力と体を私に与えて、この人達は去ろうと言うんですよ。いくら忙しい方とは言え、お礼も出来ずにいなくなられてはきまりが悪いに決まってます。
 何とかお礼だけでも言わなければーー。しかしそんな私を見たお婆ちゃんは、私の半透明な右手を取って語りかけてきました。

「ツクモノちゃん、恩返しなんて深く考えないで」
「えっ」
「あなた自分の物語を紡いでくれる。それだけで、私達は十分よ」

 感覚は霊体故に無かったけれど、その手はとても暖かいように感じられました。お婆ちゃんと初めてこうして触れ合えた。その事に、私は心がキュッとなりました。
 そして気が付くと、私の人差し指にはあの赤い糸の切れ端が結ばれていました。「お婆ちゃん、これってもしかして」

「私なんて居なくても、あなたには沢山の仲間が居るでしょう。さぁ、行きなさい」

 市松人形の方へ目線を戻すと、もうその隣にはぬらりひょんさんの姿はありません。本当にあの人は神出鬼没だなぁーー。心の中で笑みを浮かべた私は、お婆ちゃんに結んでもらった赤い糸を見ました。

 私は、いつでもあの人と繋がっているーー。
 心で紡いだ糸は、決して切れないもんねーー。

「ありがとう。お婆ちゃん」

 私はお婆ちゃんの方を振り向かず、市松人形の口元目掛けて突っ込みました。

 *

「ツクモノ!」

 時刻はわかりませんが、次第に空は明るさを取り戻してきていた現在。屋上のドアが力強く開いたと同時に、轆轤首さんの大声が屋上全体に響き渡りました。
 足音からし人数はて三人程。おそらく轆轤首さんだけでなく、天狐さんと加胡川さんも一緒にいるのでしょう。

 コツンコツンーー。迫り寄ってくる足音は、私のすぐ後ろでパタリと鳴り止みました。
 多分ここまでの道のりは、天狐さんの千里眼が示してくれたんだと思います。よくもまぁ私の為にここまで来てくれましたよ。感謝感謝です。

「轆轤首さん、天狐さん、加胡川さん……」

 座っていた新しい体を起こして、私は満面の笑みで彼女達の方を振り向きました。

「ーーどうやら私、動くみたいです」
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