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2.優しさ
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目が覚めて、寝ていたことに気が付いた。
布団も敷かず床の上で寝ていたせいか、体が痛くて起き上がるのが億劫だ。
いつもなら隣にいる駿がそばにいない。
いつもなら起こしてくれる駿がいない。
さっきのことを思い出して、初めて駿とケンカしたことを思い出して、嫌われたことを思い出して、目頭が熱くなる。
苦しい。
時間を知りたくてスマートフォンを手にすれば、通知のポップアップが目に入る。
今日はごめんねと、体調を心配する言葉と、住所。
何事かと思ってから、送り主が吉野さんであることを見て理解した。
本当に、教えてくれるんだ。
酷く安心した。
胸が痛くて仕方なかったのに、少しだけ、楽になった気がした。
今にもこの家から出て、あの優しい困った笑顔に受け入れられたいという欲望をなんとか押さえつける。
どれだけ優しくたって、どれだけ心配してくれたって、本当に家に行ってしまえば迷惑に決まっている。
何より、もしも、本当に苦しくてどうしようもなくなった時の逃げ場があるという安心感に繋げたかった。本当に行くことはできなかったとしても、ここに逃げられると思えるだけで、苦しさがまぎれる。
「…駿」
泣きたくないのに涙がこぼれて、どうしようもないまま。
起き上がる気力もないし、力もない。
俺一人なら、布団だって敷く必要はない。
このまま寝てしまおう。
結局そうして、またあの夢の中に戻っていく。
起きて、時間を見て、寝て、起きて。
次の日もバイトをして、その次の日は学校に行ってバイトをして、家に帰って勉強をして。
いつもと同じ日常を繰り返す。
駿がいないことだけが違う日常の中で、ずっと何かが欠けたまま。
もう、体調が悪いだとか、あの日の夢を見るだとか、それどころじゃない。
俺のたった一つの守りたいものが手から零れ落ちたことが苦しくて辛くて、もう全部どうでもよくなった。
吉野さんは、シフトがなかなか被らなくなって、あの日から5日、会っていない。
会って、あの笑顔を向けられたいという願望と、会えなくてよかったという安堵が襲う。
駿は、小林家の兄妹と一緒に寝ているようだった。
正直、食事は共にしないし、俺はバイトでそもそも家にいない。
駿と一緒にいられる時間なんて、寝る時間と登校中くらいだった。だから、会えなくたってそれほど変わらない。それが一番辛かった。
今日も疲れたバイト帰り。食欲なんてこれっぽっちもなくて、店長に半ば無理やり食べさせられた雑炊に胃がむかむかする。雨は降らないくせに天気はあまり良くなくて、低気圧とむしむしとした重さに体調はすこぶる悪い。
あぁ、帰りたくない。
駿がいないのなら、俺はあの家に帰る必要も、意味もない。
なぜなら俺があそこに帰ることを、誰も求めていないのだから。俺を求めてくれているのは、駿だけだったから。
憂鬱な気分になりながら帰路をたどる。
大丈夫。会わなければいい。
過去に叔母さんに言われた言葉が頭に反響する。
お母さんを壊したのは俺だと、はっきりと言われたときは、さすがに泣いたなと思い出す。あぁ、帰りたくないな。
小さく、音をたてないように扉を開く。
リビングから聞こえてくる楽しそうな声に気づかないふりをして通り過ぎようとした。
「駿君。叔母さん沢山考えたんだけどね…」
駿に話しかける叔母さんの声に、思わず足が止まった。
楽しそうな声の響く先には、駿もいたのか。
別に立ち止まる必要なんてない。ここに俺がおらず駿がいることも、楽しそうな声が響くことも珍しいことではない。
こんなところで立ち止まって盗み聞きなんてしてはいけない。ばれたらきっと怒られてしまう。
わかっているのに、嫌な汗がにじんで、ダメなのに、足が動かない。
「どうしたんですか?」
最近聞かなくなっていた、駿のかわいい声が耳に届く。
人当たりがよく、誰にでも好かれる、優しい声。
叔母さんが次の言葉を紡ぐのを待つ間。
心臓の音がうるさい。
次の言葉なんて想像もできないのに、嫌な予感がして動けない。
「駿君さ、家の子にならない?」
「え?」
「養子縁組、しない?」
「え…!」
駿のはっきりとした答えは待てなかった。
怖くて聞けなかった。
そんなの、だって、あんなに嬉しそうな反応を聞いたら、あんなに素敵な家族を見たら、わかるじゃないか。
いいことだ、いいことのはずだ。
駿にとって、こんなに不安定な暮らしを続けるよりもよっぽど、幸せになれるはずだ。駿の幸せを願うなら、おめでとうとともに喜ぶべきだ。
気づいたら、雨が降っていて、自分が外で歩いていた。
どうやって家から出たのか、いつから雨は降りだしたのか。
時間を確かめようとスマートフォンを開こうとするも、充電切れで開かない。
あぁ、帰れない。
帰ってしまえば、俺は本当に一人ぼっちになってしまう。
駿がいない世界での生き方を、俺は知らない。
駿の幸せを誰よりも願っているのに、俺の元からいなくなってしまう現実が、あまりに残酷で、受け入れきれない。
呼吸の方法も分からなくなって、苦しくて、ついには涙があふれだす。
止まらない。分からない。苦しい。気持ち悪い。
肌にひっつく白いTシャツが気持ち悪くて、顔を流れる雫が雨なのか、涙なのか、汗なのかもわからない。
ここがどこなのかもわからないまま、ふと見つけた公園の中に入ってみる。
こんな天気になって、公園には人っ子一人見当たらない。
丁度よかった。
誰にも気づかれないから、泣く権利すらない俺の涙を誰かに気づかれることもない。
このまま雨に溶けてしまえないだろうか。
疲れた。本当に疲れてしまった。
学校帰りにバイトに行ったその帰り。スクールバッグに入れていた、大切にしていた制服だってもうびちゃびちゃだろう。
でももういい。買えない制服も、いつか駿が同じ学校に通うことになったら、を想定して大切にしてきたのだ。駿がお金に困らなくなるなら、こんなものだっていらない。
俺だって、いらない。
駿に必要ないのなら、俺なんてもう、いらない。
「…新谷君?」
雨音が耳に響く中、優しい声音が聞こえた。
少し聞きなれた、優しくて、暖かい声。
こんなときですら、この人は俺に気づくのか。
無視すればいいのに、見るからに面倒なのはわかるのに、どうして声をかけてしまうんだろう。
無視してあげようと静かにしていれば、顔に影が差して、雨が止む。
もう一度名前を呼ばれて、ゆっくり、本当にゆっくり、顔をあげてみた。
今まで見た中で一番困った顔。でも、笑っていない。
眉を下げて、心の底から俺を心配するような、そんな顔。
優しくて、縋り付きたくて、でも、できなくて。
今一番会いたくて、会いたくなかった。
会ってしまえば弱音を吐いてしまう。助けを求めてしまう。
この人は、俺を助けようとしてしまう。助けてもらえるような人間じゃないのに。
「こんばんは」
ようやく困ったように笑ったその人は、俺に視線を合わせて、声をかけてしまう。
可哀想だ。
優しい人は、こんなことに自分から巻き込まれてしまうのか。
人を見捨てることができないのか。
俺は挨拶を返すこともできないで、ただぼうっと、その人を見た。
「最近会えてなかったね。体調はどう?」
体調。どうだろう。どうって、なんだ。
答え方が分からなくて、自分の体調も分からなくて、答えに困る。
困っている間に、玲也と、彼を呼ぶ声が聞こえる。
「ごめん、俺ここで解散!!」
吉野さんの声を聴いて、誰かといたのかと納得した。
それなのに、俺を見つけたせいで、友人との時間を邪魔してしまったのか。
「行ってください。俺、大丈夫なんで。友達といたのに、構われる方が、困る、っす」
本当は、ここにいてほしかった。
離れないでほしかった。
なぜかわからない。こんなに欲張りな自分が怖い。
でも、この人の傍は安心できて、心地よくて、ずっとここにいたくなる。
ようやく口を開いた俺の言葉に、吉野さんはまた困ったように笑った。
「俺がここにいたら、迷惑?」
迷惑だと突っぱねれば、この人は俺から逃げられるはずなのに、その一言を言えばいいのに、言えない。
迷惑なんかじゃなくて、本当はここにいてほしくて、いてくれないかなって淡い期待が、喉をしめる。
「…どこにも行かないよ。ここにいる。…寒くない?一緒にうちこない?」
行ってはいけない。
逃げられる場所が、安心できる住所の羅列がなくなってしまう。
行ってはいけない。
行かないって、言わなくちゃ。言って、どこか、遠い所に。
安心させるように、柔らかい声で、背中をなでながら話しかけてくれる。
その優しさが痛くて、嬉しくて、止まりかけていた涙が零れ落ちそうで、ぐっと我慢して、でも最後には縁にたまったそれらが静かに顎に向かって行く。
「あぁ、泣かないで。大丈夫。大丈夫だよ。俺ここにいるよ」
違うんだ。
いちゃいけないんだ。
あなたがここにいるから、安心して、だめなのに、涙が止まらなくなってしまう。
結局、言われるがまま肩を抱かれて歩かされ、向かったのは吉野さんの家だった。
本当に、角1つで我が家につくような位置で、それなのに吉野さんの住むアパートに連れて行ってくれる。
まるで全部わかっているとでもいうような言動に、また苦しくなった。
拒まないといけないのに、拒むこともできないまま、誘われるように吉野さんの家について行った。
鍵を開いて、玄関に入る。
いつも吉野さんから香る優しい香りがふんわりと、少しだけ鼻を通る。
ちょっと待っててと中に入っていく吉野さんに言われた通りその場に立ちすくんでから、少しだけ冷静になる。
帰るべきだ。
ここに入ってしまえば、俺はきっと甘えてしまう。
帰るなら、今しかない。
…どこに?
帰る場所なんて、どこにある?
最初から、ないのに。どこに行くんだ。
誰にも迷惑をかけないように死ぬには、どうしたらいいんだ。
分かるのは、ここにいては死ぬどころか、どこかに行くことすら俺はできなくなってしまう。
甘えてしまう。
行かなくちゃと、足を一歩退けようとしたとき、吉野さんの足が視界に入って、柔らかいタオルが、俺を包んだ。
自分でできるのに、わしゃわしゃとタオルで頭を拭かれる。
強くもない、優しすぎない強さで、ふわふわと頭をなでるように。
「新谷君、最近体調はどう?」
「…別に、いつも通りです」
「じゃあ悪いんだね」
吉野さんの言葉に、次は返さなかった。
良いかと聞かれれば、良くはないだろう。しかし、素直に体調が悪いですと今更俺が伝えられるわけもない。そんなことすら理解している吉野さんは、ふっと笑って知ったように俺に応える。
「この間、新谷君のこと学校で見たよ」
頭が多少乾いて、次は体を拭けとタオルを渡される。
気まずさを隠すためか、話を始める吉野さんに耳を傾けながら、肩や腕を軽く拭いていく。
「この前のことがあってからあんまり会えてなかったから、どうしてるかなって思ってたんだよね。それで、新谷君見かけて、驚いちゃった。この間よりもしんどそうで、びっくりした」
驚いたのは俺の方だった。
どんな時でも、そうやって気づいてくれるのはこの人だ。
小森すら深く聞いてこないし、そもそも気づいてもいないだろう。
それなのに、この人は遠目に俺を見るだけで、何かに気づいてしまうのか。
思わず手が止まって、吉野さんを見る。
ふんわりと、俺を見て笑う。
「だから、今日、見つけられてよかった」
どこまでも優しいその言葉が、胸を締め付けて、痛くて、また泣きそうになった。
今日初めてしっかりと見た吉野さんが、俺を心配するばかりでびちゃびちゃに濡れていることに気が付いて、焦ってタオルを吉野さんにかけた。
「あんた、俺ばっか拭いて、自分が風邪ひいたらどうするんすか」
「ははっ、俺風邪とか引いたことないから大丈夫」
「だからって…っ俺、そんな…優しくされる価値、ない、のに」
タオルで吉野さんを拭いて言葉を紡いでいけば、少しずつ語尾が弱くなっていく。
一度俺を拭いてしまっているタオルだから、タオルもすぐに濡れて使い物にならなくなる。
それでも相手を拭く手を止められないのは、泣いていることに気づかれてしまうから。今目をあわせてしまったら、もっと泣いてしまう気がするから。
ふふ、と、優しい笑い声が聞こえて、ぐっと体を抱き寄せられた。
力が入っているはずなのに、まるで割れ物に触れるかのような優しい力に、苦しくなった。
「なっ…」
「いいよ。泣けばいい。泣くことは悪いことじゃないし、恥ずかしいことでもないよ」
「や、さしく、しないで下さ…っ。俺、こんな、こんなの、もらえな…」
「もらってよ。俺はもらってほしい」
とん、とんと背中をなでられて、もう後ほんの少し堪えていたものが、ぼろぼろとあふれ出す。
濡れているタオルを頭にかけたまま俺を抱き寄せてくれるのは、これもまた、吉野さんの優しさだろう。
もらってはいけないのに。
こんなに優しくされる価値なんてないのに、この人は当たり前のように優しさをくれるから、もらいたくなくても受け取ってしまう。
こんなに苦しいのに暖かくて、あぁもう、戻れなくなる。
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目が覚めて、寝ていたことに気が付いた。
布団も敷かず床の上で寝ていたせいか、体が痛くて起き上がるのが億劫だ。
いつもなら隣にいる駿がそばにいない。
いつもなら起こしてくれる駿がいない。
さっきのことを思い出して、初めて駿とケンカしたことを思い出して、嫌われたことを思い出して、目頭が熱くなる。
苦しい。
時間を知りたくてスマートフォンを手にすれば、通知のポップアップが目に入る。
今日はごめんねと、体調を心配する言葉と、住所。
何事かと思ってから、送り主が吉野さんであることを見て理解した。
本当に、教えてくれるんだ。
酷く安心した。
胸が痛くて仕方なかったのに、少しだけ、楽になった気がした。
今にもこの家から出て、あの優しい困った笑顔に受け入れられたいという欲望をなんとか押さえつける。
どれだけ優しくたって、どれだけ心配してくれたって、本当に家に行ってしまえば迷惑に決まっている。
何より、もしも、本当に苦しくてどうしようもなくなった時の逃げ場があるという安心感に繋げたかった。本当に行くことはできなかったとしても、ここに逃げられると思えるだけで、苦しさがまぎれる。
「…駿」
泣きたくないのに涙がこぼれて、どうしようもないまま。
起き上がる気力もないし、力もない。
俺一人なら、布団だって敷く必要はない。
このまま寝てしまおう。
結局そうして、またあの夢の中に戻っていく。
起きて、時間を見て、寝て、起きて。
次の日もバイトをして、その次の日は学校に行ってバイトをして、家に帰って勉強をして。
いつもと同じ日常を繰り返す。
駿がいないことだけが違う日常の中で、ずっと何かが欠けたまま。
もう、体調が悪いだとか、あの日の夢を見るだとか、それどころじゃない。
俺のたった一つの守りたいものが手から零れ落ちたことが苦しくて辛くて、もう全部どうでもよくなった。
吉野さんは、シフトがなかなか被らなくなって、あの日から5日、会っていない。
会って、あの笑顔を向けられたいという願望と、会えなくてよかったという安堵が襲う。
駿は、小林家の兄妹と一緒に寝ているようだった。
正直、食事は共にしないし、俺はバイトでそもそも家にいない。
駿と一緒にいられる時間なんて、寝る時間と登校中くらいだった。だから、会えなくたってそれほど変わらない。それが一番辛かった。
今日も疲れたバイト帰り。食欲なんてこれっぽっちもなくて、店長に半ば無理やり食べさせられた雑炊に胃がむかむかする。雨は降らないくせに天気はあまり良くなくて、低気圧とむしむしとした重さに体調はすこぶる悪い。
あぁ、帰りたくない。
駿がいないのなら、俺はあの家に帰る必要も、意味もない。
なぜなら俺があそこに帰ることを、誰も求めていないのだから。俺を求めてくれているのは、駿だけだったから。
憂鬱な気分になりながら帰路をたどる。
大丈夫。会わなければいい。
過去に叔母さんに言われた言葉が頭に反響する。
お母さんを壊したのは俺だと、はっきりと言われたときは、さすがに泣いたなと思い出す。あぁ、帰りたくないな。
小さく、音をたてないように扉を開く。
リビングから聞こえてくる楽しそうな声に気づかないふりをして通り過ぎようとした。
「駿君。叔母さん沢山考えたんだけどね…」
駿に話しかける叔母さんの声に、思わず足が止まった。
楽しそうな声の響く先には、駿もいたのか。
別に立ち止まる必要なんてない。ここに俺がおらず駿がいることも、楽しそうな声が響くことも珍しいことではない。
こんなところで立ち止まって盗み聞きなんてしてはいけない。ばれたらきっと怒られてしまう。
わかっているのに、嫌な汗がにじんで、ダメなのに、足が動かない。
「どうしたんですか?」
最近聞かなくなっていた、駿のかわいい声が耳に届く。
人当たりがよく、誰にでも好かれる、優しい声。
叔母さんが次の言葉を紡ぐのを待つ間。
心臓の音がうるさい。
次の言葉なんて想像もできないのに、嫌な予感がして動けない。
「駿君さ、家の子にならない?」
「え?」
「養子縁組、しない?」
「え…!」
駿のはっきりとした答えは待てなかった。
怖くて聞けなかった。
そんなの、だって、あんなに嬉しそうな反応を聞いたら、あんなに素敵な家族を見たら、わかるじゃないか。
いいことだ、いいことのはずだ。
駿にとって、こんなに不安定な暮らしを続けるよりもよっぽど、幸せになれるはずだ。駿の幸せを願うなら、おめでとうとともに喜ぶべきだ。
気づいたら、雨が降っていて、自分が外で歩いていた。
どうやって家から出たのか、いつから雨は降りだしたのか。
時間を確かめようとスマートフォンを開こうとするも、充電切れで開かない。
あぁ、帰れない。
帰ってしまえば、俺は本当に一人ぼっちになってしまう。
駿がいない世界での生き方を、俺は知らない。
駿の幸せを誰よりも願っているのに、俺の元からいなくなってしまう現実が、あまりに残酷で、受け入れきれない。
呼吸の方法も分からなくなって、苦しくて、ついには涙があふれだす。
止まらない。分からない。苦しい。気持ち悪い。
肌にひっつく白いTシャツが気持ち悪くて、顔を流れる雫が雨なのか、涙なのか、汗なのかもわからない。
ここがどこなのかもわからないまま、ふと見つけた公園の中に入ってみる。
こんな天気になって、公園には人っ子一人見当たらない。
丁度よかった。
誰にも気づかれないから、泣く権利すらない俺の涙を誰かに気づかれることもない。
このまま雨に溶けてしまえないだろうか。
疲れた。本当に疲れてしまった。
学校帰りにバイトに行ったその帰り。スクールバッグに入れていた、大切にしていた制服だってもうびちゃびちゃだろう。
でももういい。買えない制服も、いつか駿が同じ学校に通うことになったら、を想定して大切にしてきたのだ。駿がお金に困らなくなるなら、こんなものだっていらない。
俺だって、いらない。
駿に必要ないのなら、俺なんてもう、いらない。
「…新谷君?」
雨音が耳に響く中、優しい声音が聞こえた。
少し聞きなれた、優しくて、暖かい声。
こんなときですら、この人は俺に気づくのか。
無視すればいいのに、見るからに面倒なのはわかるのに、どうして声をかけてしまうんだろう。
無視してあげようと静かにしていれば、顔に影が差して、雨が止む。
もう一度名前を呼ばれて、ゆっくり、本当にゆっくり、顔をあげてみた。
今まで見た中で一番困った顔。でも、笑っていない。
眉を下げて、心の底から俺を心配するような、そんな顔。
優しくて、縋り付きたくて、でも、できなくて。
今一番会いたくて、会いたくなかった。
会ってしまえば弱音を吐いてしまう。助けを求めてしまう。
この人は、俺を助けようとしてしまう。助けてもらえるような人間じゃないのに。
「こんばんは」
ようやく困ったように笑ったその人は、俺に視線を合わせて、声をかけてしまう。
可哀想だ。
優しい人は、こんなことに自分から巻き込まれてしまうのか。
人を見捨てることができないのか。
俺は挨拶を返すこともできないで、ただぼうっと、その人を見た。
「最近会えてなかったね。体調はどう?」
体調。どうだろう。どうって、なんだ。
答え方が分からなくて、自分の体調も分からなくて、答えに困る。
困っている間に、玲也と、彼を呼ぶ声が聞こえる。
「ごめん、俺ここで解散!!」
吉野さんの声を聴いて、誰かといたのかと納得した。
それなのに、俺を見つけたせいで、友人との時間を邪魔してしまったのか。
「行ってください。俺、大丈夫なんで。友達といたのに、構われる方が、困る、っす」
本当は、ここにいてほしかった。
離れないでほしかった。
なぜかわからない。こんなに欲張りな自分が怖い。
でも、この人の傍は安心できて、心地よくて、ずっとここにいたくなる。
ようやく口を開いた俺の言葉に、吉野さんはまた困ったように笑った。
「俺がここにいたら、迷惑?」
迷惑だと突っぱねれば、この人は俺から逃げられるはずなのに、その一言を言えばいいのに、言えない。
迷惑なんかじゃなくて、本当はここにいてほしくて、いてくれないかなって淡い期待が、喉をしめる。
「…どこにも行かないよ。ここにいる。…寒くない?一緒にうちこない?」
行ってはいけない。
逃げられる場所が、安心できる住所の羅列がなくなってしまう。
行ってはいけない。
行かないって、言わなくちゃ。言って、どこか、遠い所に。
安心させるように、柔らかい声で、背中をなでながら話しかけてくれる。
その優しさが痛くて、嬉しくて、止まりかけていた涙が零れ落ちそうで、ぐっと我慢して、でも最後には縁にたまったそれらが静かに顎に向かって行く。
「あぁ、泣かないで。大丈夫。大丈夫だよ。俺ここにいるよ」
違うんだ。
いちゃいけないんだ。
あなたがここにいるから、安心して、だめなのに、涙が止まらなくなってしまう。
結局、言われるがまま肩を抱かれて歩かされ、向かったのは吉野さんの家だった。
本当に、角1つで我が家につくような位置で、それなのに吉野さんの住むアパートに連れて行ってくれる。
まるで全部わかっているとでもいうような言動に、また苦しくなった。
拒まないといけないのに、拒むこともできないまま、誘われるように吉野さんの家について行った。
鍵を開いて、玄関に入る。
いつも吉野さんから香る優しい香りがふんわりと、少しだけ鼻を通る。
ちょっと待っててと中に入っていく吉野さんに言われた通りその場に立ちすくんでから、少しだけ冷静になる。
帰るべきだ。
ここに入ってしまえば、俺はきっと甘えてしまう。
帰るなら、今しかない。
…どこに?
帰る場所なんて、どこにある?
最初から、ないのに。どこに行くんだ。
誰にも迷惑をかけないように死ぬには、どうしたらいいんだ。
分かるのは、ここにいては死ぬどころか、どこかに行くことすら俺はできなくなってしまう。
甘えてしまう。
行かなくちゃと、足を一歩退けようとしたとき、吉野さんの足が視界に入って、柔らかいタオルが、俺を包んだ。
自分でできるのに、わしゃわしゃとタオルで頭を拭かれる。
強くもない、優しすぎない強さで、ふわふわと頭をなでるように。
「新谷君、最近体調はどう?」
「…別に、いつも通りです」
「じゃあ悪いんだね」
吉野さんの言葉に、次は返さなかった。
良いかと聞かれれば、良くはないだろう。しかし、素直に体調が悪いですと今更俺が伝えられるわけもない。そんなことすら理解している吉野さんは、ふっと笑って知ったように俺に応える。
「この間、新谷君のこと学校で見たよ」
頭が多少乾いて、次は体を拭けとタオルを渡される。
気まずさを隠すためか、話を始める吉野さんに耳を傾けながら、肩や腕を軽く拭いていく。
「この前のことがあってからあんまり会えてなかったから、どうしてるかなって思ってたんだよね。それで、新谷君見かけて、驚いちゃった。この間よりもしんどそうで、びっくりした」
驚いたのは俺の方だった。
どんな時でも、そうやって気づいてくれるのはこの人だ。
小森すら深く聞いてこないし、そもそも気づいてもいないだろう。
それなのに、この人は遠目に俺を見るだけで、何かに気づいてしまうのか。
思わず手が止まって、吉野さんを見る。
ふんわりと、俺を見て笑う。
「だから、今日、見つけられてよかった」
どこまでも優しいその言葉が、胸を締め付けて、痛くて、また泣きそうになった。
今日初めてしっかりと見た吉野さんが、俺を心配するばかりでびちゃびちゃに濡れていることに気が付いて、焦ってタオルを吉野さんにかけた。
「あんた、俺ばっか拭いて、自分が風邪ひいたらどうするんすか」
「ははっ、俺風邪とか引いたことないから大丈夫」
「だからって…っ俺、そんな…優しくされる価値、ない、のに」
タオルで吉野さんを拭いて言葉を紡いでいけば、少しずつ語尾が弱くなっていく。
一度俺を拭いてしまっているタオルだから、タオルもすぐに濡れて使い物にならなくなる。
それでも相手を拭く手を止められないのは、泣いていることに気づかれてしまうから。今目をあわせてしまったら、もっと泣いてしまう気がするから。
ふふ、と、優しい笑い声が聞こえて、ぐっと体を抱き寄せられた。
力が入っているはずなのに、まるで割れ物に触れるかのような優しい力に、苦しくなった。
「なっ…」
「いいよ。泣けばいい。泣くことは悪いことじゃないし、恥ずかしいことでもないよ」
「や、さしく、しないで下さ…っ。俺、こんな、こんなの、もらえな…」
「もらってよ。俺はもらってほしい」
とん、とんと背中をなでられて、もう後ほんの少し堪えていたものが、ぼろぼろとあふれ出す。
濡れているタオルを頭にかけたまま俺を抱き寄せてくれるのは、これもまた、吉野さんの優しさだろう。
もらってはいけないのに。
こんなに優しくされる価値なんてないのに、この人は当たり前のように優しさをくれるから、もらいたくなくても受け取ってしまう。
こんなに苦しいのに暖かくて、あぁもう、戻れなくなる。
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