たとえば、俺が幸せになってもいいのなら

夜月るな

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2.優しさ

2‐2

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「おかえり」


あれから泣いて泣いて、涙も枯れた俺を、落ち着くまで撫で続けてくれた吉野さんは、俺に風呂を勧めた。
さすがに家主よりも先に入るのは申し訳なくて、吉野さんに先に入ってもらった。

何度か出て行ってやろうかと思ったけれど、5分に1回吉野さんが俺を呼んでくれたおかげで、俺は雨の中この家を出ていくことはなかった。

あったまった?とにこにこ聞いてくれるその人に、俺は静かに頷いた。



「なんかご飯食べた?作る?」

「いや、大丈夫…」

「…それは、食べれないから?食べたから?」

「今日はバイトで、店長が…」


俺の言葉に、あぁ、と吉野さんは納得したように笑った。
店長も新谷君のこと心配してるもんね、って、笑った。


「逆に大丈夫?苦しくない?」

「大丈夫、っす」

「ならよーし」


おいでとソファーに俺を誘って、吉野さんは立ち上がり、かけてある俺の制服を見に行く。

明日までに乾くかなぁと心配しているのを見ながら、俺は吉野さんの服を着た自分を見た。

ぶかぶかだ。
たしかに、吉野さんのほうが背が高いし、空手をやっていたらしいだけあって、ガタイもいいほうなのだろう。あまりそうは見えないけれど。
何より、そんな吉野さんの服を着ると、自分がいかにほっそりと醜い体をしているのかが分かりやすい。

男なのに、骨ばったからだに、薄い皮。
みすぼらしいなぁ。


「さて新谷君よ。俺は君の事情とかあんまり分かってないから、嫌だと思ったら答えないでね」


ドライヤーを使うのは申し訳なくて、必死にタオルドライした頭は未だに湿っている。
それに気が付いた吉野さんが、先ほどと同じようにタオルで俺の頭を拭きながら話を始めた。

正直、どこまで話していいのかはまだ悩んでいるところだった。

助けてくれる人がいなくなるとか、そんなやましい理由だけじゃなく、単純に、この人に嫌われたくないと、そう思った。
だけど、こんなに助けてくれる人をだますのも、この人に嘘をつくのも嫌だった。いや、きっと、本当は、俺のすべてを受け止めてほしいだなんていうそんなわがままが、どこかに芽生えている。

全て言ってしまえば、この人も俺を嫌ってしまうだろうか。人殺しだと、冷たい目を向けられてしまうのだろうか。
俺はこの人にそんな風に言われて、耐えられるのだろうか。


「今日はここに泊まっていくのでいいよね?雨もひどいし。親御さんとか、この間の、駿君?には伝えた方がいいい?」


充電がないことを知り、すぐにスマートフォンを充電してくれた吉野さんは、既に充電がたまり始めているであろう俺のスマートフォンをちらりと見てそう聞いた。

駿に伝えるかどうか、ほんの少しだけ迷って、ゆっくりと首を横に振った。

もしかしたら小林家の息子になるかもしれない駿にとって、声を掛けられる可能性すらない、まして喧嘩をしたまま何もできない俺からの連絡なんて必要ないに決まっている。

何より、


「親はいないっす。あそこ、叔母さん家族の家なんで」

「…そっか。大丈夫ならいいけど、心配しない?」

「…誰も。別に」


言ってて悲しくなることはなかった。今更だからだ。こんなことで、今更悲しさなんてない。

そっかって、吉野さんは優しく、また困ったように笑う。

家族はあの日俺が壊した。
だから叔母さんは俺が嫌いだし、みんな俺から離れていった。

親どころか、兄ちゃんも、大事な大事な弟も、もういない。



「律くん」


いつの間にか力の入っていた体を、吉野さんは、トントンとほぐす。
触れられたところから、筋肉が弛緩していくような、そんな気がする。

名前を呼ばれて、ほんの少し後ろを向けば、フッと軽い吐息が浮いた。


「この時期どんな症状があるのか教えてよ」

「症状…」

「そう。頭が痛いとか、おなかが痛いとか、そういうの」

「…夢」

「うん」

「怖い夢、で、何回、も起きる、のは?」

「立派な症状ですね」

「夢、の後、息しにくくて、頭痛いし、気持ち悪い、し」

「うん」

「飯、あんま食えなくて」

「うん」

「ずっと、そんなんで」


うん、って、吉野さんは優しく相槌を繰り返してくれた。
肩を擦るのが、大丈夫って言われてるみたいで、酷く安心した。

ずっと感じてこなかった優しい空気が俺を包んでくれて、泣きそうになった。

優しくされちゃダメだなんていう俺の理性も、吉野さんの作り出す空気によってとっくに崩れていっていて、零れるみたいに言葉が出てしまった。


「そんなしんどいの、1人で我慢してきたの?誰にも、言えなかった?」

「…ん」

「辛かったね」


うんって、答えようとしたのに、喉がぐっと絞まって、視界がぼやけて、何も言えなかった。

こんな風に優しく受け止められたのはいつぶりだろう。
最後に優しい言葉をかけられて、俺の言葉を聞いてくれたのは、誰だっただろう。


「ごめ…っ」


泣いてしまったことの恥ずかしさと、思っていた以上に吉野さんに寄りかかってしまっていたことに焦って思わず体を動かして謝った。
吉野さんは、離れた俺をもう一回引き寄せて、大丈夫って、答えてくれた。


このままここにいられたらいいのに。
このままここで、ずっとこの人に包まれて、この優しさに浸っていたくなる。
全部忘れて、自分の罪もなかったことにして、ここにいられたらいいのに。


「だーいじょうぶ。偉いよ、律くんはずっと偉い。しんどいのに、毎日頑張ったね」


いつの間にか新谷君から律くんになっていたことも、別に気にならないまま、暖かい吉野さんの胸の中で、こらえきれなかった涙が流れるのをただ感じていた。


この日、吉野さんは俺の境遇を細かく聞いてくることはなかった。

どうしてこの時期なのかとか、何が原因なのかとか、踏み入ったことは何も聞いてこなかった。
聞かれるかもしれない、答えられるか分からない、そんな風に身構えていた自分が馬鹿らしくなるくらい、吉野さんは何も聞いてこなかった。

暖かい胸の中、トクントクンとゆったり流れる鼓動の音が、気づけば俺の呼吸を落ち着かせていて、いつまでもゆったりと揺れる腕の中で、今はこの人だけが俺の味方でいてくれていることをジワジワと実感できた。


だからこそ、俺はこのままこの人に本当のことを言える日は来ないのだろうと悟った。

誰もいなくなった俺の世界に、ただ1人。
親でも、兄弟でも、友達でもない、ただバイト先が同じだけの、ただ同じ学校に通っているだけの他人であるこの人だけが、肩を寄せて座ってくれていた。

こんなこと言ってしまったら、重いと避けられてしまうだろうか。
俺の世界に今、あなたしかいないと知ったら、きっと逃げられてしまうから、もう少しだけここにいてもらえるように、絶対にこんなこと言わないけれど。

狭くて息苦しい俺の世界で、俺に酸素を送ってくれるこの人が、俺にとって大切で、特別な存在になってしまうのは、ちょろくて、失礼で、最低な事だろうか。


ソファーの上。
どれくらいの間、吉野さんの膝の間で揺れていただろうか。

涙は引いて、呼吸も落ち着いて、少しだけ眠くなってくる、そんな時間。


「落ち着いた?」

「ん。すんません」


子供のように泣いてしまった自分が、恥ずかしい。

恥ずかしいけど、申し訳なくて、ちらりと相手を見て謝罪すれば、吉野さんは、にっこりと笑った。
思わず、驚いた顔をしてしまったと思う。長い前髪で、その顔が本人にばれているかは謎だけれど、驚いてしまった。

いつも、この人は俺に困った笑顔ばかりを見せてきたから、いや、俺がそんな顔ばかりさせてしまっていたから、その笑顔が自身に向けられているのだと理解するのに、ほんの少し時間がかかってしまった。

見たことはあった。
この人は基本こうやって人に向けて笑う。困ったように笑わせてしまっていただけで、俺以外の人にはこんな風に笑っていた。

ぱっちりとした瞳を細めて、キュッと目の端に皺が寄る。くいっと分かりやすく、その整った唇を持ち上げて、爽やかに笑う。
その優しくてうれしそうな笑顔が、俺に向けられていて、その瞳にただ俺だけが写るのが、酷く嬉しい。


思わずだった。無意識だった。
気づいたのは、俺を支えているはずの吉野さんの両手ではない誰かの手が、吉野さんの頬に添えられているのが見えた時。その手が俺のものだと気づいたとき。

次に驚いた顔をしたのは吉野さんだった。

払いのけられるかな、と思ったけど、俺はその手を離せなかったし、吉野さんは俺の手をどかそうとはしなかった。
ん?って、少し驚いたまま、でも笑顔で小首を傾げる表情も、初めて見た。


「そんな風に、俺に笑ってるの、初めてみたっす」

「え゛っ?!俺そんなに笑ってない?!ごめん怖かった?」


焦ったような、慌てたような顔。
これはこの前も見たけど、ちょっと違う。

慌てる吉野さんがまたおかしくて、この前みたいに、思わず笑ってしまった。


「あ、笑ってる。ごめんね、律くん、怖かった?」

「ふっ、ふふっ、怖くないす。だいじょーぶ」


吉野さんが俺に言ってくれたようにそう返せば、ならよかったって、吉野さんも笑った。


「あ、そーだ。ちょっと待っててね」


何か思い出したように吉野さんが俺をソファーに転がして立ち上がる。ほんの少しだけ、残念だった。
ここで離れてしまえば、もうあんな風にくっつくことはできないだろう。なんて、何考えてるんだろう。

転がされたまま白い天井を見つめて吉野さんの帰りを待っていれば、パタパタとキッチンの方から戻ってきた吉野さんが天井と俺の間に割り込んでくる。
起き上がろうとする俺の首筋にひんやりと何かが触れて、思わず飛び起きた。


「なっ?!」

「ははっ、ごめんごめん。アイス、半分こしよ」


これなら食べれる?って凍らせた甘いジュースをパッキンとする。
食べられなかったら、1人で食べるんだろうか。
思わず頷けば、はいって、片方を渡される。

シャリっと音を立てて口の中で溶けていくそれが、気持ちいい。

咀嚼をしなく多って食べられるアイスも、勝手に冷蔵庫なんて空けられない俺にはかなり懐かしいものだった。


「うま」

「美味しいよねぇ。俺これ好きすぎて毎年夏になるたびに買い溜めて頑張って冬超すんだよね」

「年中アイス食ってんすか?」

「え、アイスって夏しか食べないの?」

「いや、俺あんま食わねんでわかんないっす」

「半分食べてる間に片方溶けちゃうから、いつも困ってたの。これからは半分もらいに来てね」


些細な言葉だったんだと思う。
きっと、これまでの言葉も、この言葉も。

そんな些細な言葉が、俺の心を絆していって、支えていく。

ここはたった一つ、逃げられる場所で。でも一度来てしまえば、有効期限ができるから、簡単に来られなくなるから、だから大切に使おうと思っていたのに。
この人は簡単に俺をここに連れてきて、簡単に、次を期待させてくれる。

優しすぎて怖い。
怖いのに、離れ難い。
なんて厄介な人だろう。

食べ終わってしまえば、そろそろ寝ようかと言う。

ほんの少し寂しいけれど、そんなことは口にはしない。

もそもそとソファーを降りて床に寝転ぼうとすれば、なーにしてんの、なんて、脇の下に手を添える。
ギョッとする俺をよそに、軽すぎて怖いなんて顔を青くする吉野さんは、俺を引き連れてソファーの裏にあるベッドに俺を放り投げるのだ。

乱暴なのに、どこも痛くない、優しいそれに、また思わず笑ってしまった。


「ちょい狭いけど、律くん細いし我慢してー。ちゃんとお布団で寝てね」


電気のリモコンをもって、暗くしても大丈夫か俺なんかにわざわざ確認して、電気が消える。

暗闇の中、吉野さんが布団を調節して、薄手の布団が俺の顎までかけられる。


「苦しくない?」

「大丈夫です」

「…寝るの怖い?」


どう答えればいいか分からないまま黙ってしまえば、吉野さんはまたその優しい手で、俺の腹をトントンと叩く。
この人は、音にならない俺の言葉も、聞こえているのだろうか。


「大丈夫だよ。怖い夢見ても俺がいる。苦しくなっても俺がいる。起こして。大丈夫だから」


頼りないとか言うなよ?って笑う吉野さんに、俺も笑い返す。

泣いたからか、甘やかされたからか、人の体温に触れたからか、優しい手が俺に触れるからか。
眠気はすぐにやってくる。

ほんの少しの恐怖と、安心感。
それがあるだけで、なんだか少し、無敵になれる。


「吉野さんがいれば、怖く、ない、す」


恥ずかしいことを、口走ってしまったか、心でそう思っただけか。
そんなことを確認する余裕もないまま、ゆっくり、スムーズに俺は眠った。


あぁ、こんな日が続けばいいのに。

兄ちゃんやお父さんみたいに優しい人。こんな人の傍にずっといられればいいのに。
でも、そうしたら、俺は幸せになってしまう。

それは、だめか。





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